前進「07年政治局1・1アピール」について    2007・1・1

(1) およそまともに読めるようなものではない。いわゆる論文ではなく、「論の無い文」である。言葉が羅列されているだけである。「概念のないところに言葉が入り込む」とはゲーテの『ファウスト』でメフィストフェレスが言っていることであるが、まさにその通りである。言葉そのものもデタラメである。
 従って、全文を詳細に検討するのはやめて、重要なところを詳細に検討し、後は推して知るべしということとしたい。

(2) まずいえることは、06年3.14反革命Uに対して真っ正面から論じることを避けている。まったく自信がないのである。さらに、杉並区議会議員選挙(今年4月)の立候補者を発表できなかったことである。大敗北を現している。

(3) 第一章、総括に関して。総括すべき核心が外れている。
 11.5集会を軸にして総括しているが、昨年のそれは3国の連帯集会が3年目を迎え、これを具体的に闘いの発展を土台、媒介としてさらなる発展をかちとる集会としてどうであったのか、という観点から総括することが先ず問われた。しかし、こうした問題意識はまったくなし。韓国の労働者が動労千葉に学んだとか、三里塚と交流した(これ自身は重要であるが)ということを特徴とするものでしかなく、何ら発展性をもった集会としては位置づけられるものが存在しない。
 実際には、教基法決戦のど真ん中で、これとどう闘うかではなく「11月集会に結集することが教基法決戦」などと教基法闘争から逃亡し、カンパニア闘争に逃げ込んだのである。
 そして、この構造を「階級的労働運動」の名をもって合理化しているのが、この「07年政治局1・1アピール」なのである。

(4) この「論文」の一つのポイントは第一章の「(3)革命をめざす労働運動へ向けて突破すべき課題」というところにある。ここのところを詳細に検討していく。

a) 「階級的労働運動路線とは何か。それは帝国主義の危機がもたらす革命的情勢への突入の中で、帝国主義打倒のプロレタリア革命を全力でたぐりよせる唯一無二の道として、階級的労働運動と階級的団結の前進・拡大をかちとり、同時に階級に深々と根を張った労働者細胞建設に、党的組織的精力の一切を注ぎこむ闘いである」
 「革命的情勢への突入の中で」党は、「労働者細胞建設に、党的組織的精力の一切を注ぎこむ」ことを路線とする、というのだ。
 レーニンの革命的情勢下における三つの義務は完全に投げ捨てられている。労働者細胞建設に一切の党的精力を注ぎこむ、というのだから三つの義務を実践している余裕などない。三つの義務のために頑張っていると「不一致」と批判され、問題とされる、ということだ。しかも「たぐりよせる」ためにそうする、といっているのだからレーニンの三つの義務は原理としても否定されている。

b) もともと03年以来の新指導路線は労働運動路線などと規定されるものではなかった。労働運動、労働組合運動に党が傾斜的にその力量、精力を投入することを新指導路線として表現したのであり、労働運動路線などと労働運動、労働組合運動それ自身に路線としての位置づけを与えてはいなかった。それを革共同政治局は、「階級的労働運動路線」などとかってに路線的位置づけを与え、右翼的転向の準備をしているのである。

c) しかも、その「階級的労働運動」なるものは「それは動労千葉労働運動の地平の高さ、大きさ、波及力、階級的な獲得力を実践的指標として学び、それを防衛・発展させつつ6000万労働者の中に広げ、根づかせていくことを呼びかけるものであった」というのである。噴飯ものという以外ない。実践することではなく「呼びかける」、彼らが実際にやっていることからいえば宣伝する、ということなのだ。要するに、「動労千葉はすばらしい」と宣伝することが階級的労働運動路線なるものなのだ。
 革共同政治局は正直にも「階級的労働運動を、労働組合論を基軸にして革命論的に発展させていかなければならない」と言っている。これは概念的把握がまったくできないという政治局の無理論、低水準のなせる業だけではなく本心の表明である。「革命論的に発展させる」というのだから、実践するのではなく「論」の世界で発展させればいいのである。自分たちが実践する問題ではないのだ。

d) さらに、「階級的労働運動路線の核心問題は何か」と題して次のように述べている。
 「帝国主義打倒のプロレタリア革命は何を軸に達成されるのかということだ。その唯一かつ普遍的な推進軸は、プロレタリア自己解放とその発露としての階級的労働運動、労働組合の階級的団結の強化の発展にある。これとは別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない。『共産党宣言』で言うように、共産主義者はプロレタリア階級全体の利益から離れた利益は持っていない。プロレタリア自己解放闘争と階級的労働運動の強化を基軸に、その普遍性のもとですべての闘いを一体化していくのだ」

 「軸」ではなく労働者階級自身の事業としてプロレタリア革命は行うのである。  「階級的労働運動、労働組合の階級的団結の強化」は、「これとは別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない」などと言っているようでは、実は階級的団結を形成することも強化することもできない。政治闘争をも全力で闘うことによって階級的団結も形成、維持、強化が勝ち取れるのである。
 マルクスは『賃金、価格及び利潤』の最後に次のように言っている。

 「労働組合は、資本の侵略にたいする抗争の中心としては、りっぱに作用する。それは、その力の使用がよろしきをえなければ、部分的に失敗する。それは、現行制度の結果にたいするゲリラ戦に専念して、それと同時に現行制度を変化させようとしないならばと、その組織された力を労働者階級の究極的解放すなわち賃金制度の究極的廃止のためのテコとして使用しないならば、一般的に失敗する」

 「賃金制度の究極的廃止のためのテコとして使用」するとは政治闘争を闘うことを言っているのである。そうしなければ「失敗する」と断言している。ところが、我が革共同政治局は、階級的労働運動は、「政治決戦一般を対置」してはいけない、といってこれを否定しているのである。別のところでは「ゲリラ戦」などと引用しながら肝心なことは伏せているのである。

e) ここで重要なことは、「団結」と政治闘争を対立的に描き、政治闘争を否定することによって実は敵(帝国主義)と闘う側面が否定されていることである。だから、「団結」といいながら資本と闘うことを通して形成しようとしているのか、といえば実はそれもないのである。敵(帝国主義国家や資本)と闘うことを全面的に否定して「団結」、組織建設が言われているのである。経済闘争を一見、強調しているようにみえるが、経済闘争の内実はまったく提起できないし、実践しえていないのである。政治闘争であれ、経済闘争であれ、敵と闘うこと、闘いを通して「団結」を強化するのであり、それのない「団結」の強調はどこに行くか? 階級的労働運動に関連して組合権力を取ることが自己目的的に強調されているが、これらの行き着く先はどこか? 動労カクマルが充分に示してくれた。

f) 『共産党宣言』が引き合いに出されているので、『共産党宣言』の提起を正確に確認することからはじめたい。
 「共産主義者が他のプロレタリア党と違う点は、一つは、プロレタリアのさまざまの国民的な闘争において、国籍と無関係な、プロレタリア階級全体の共通の利益を強調し貫徹すること、もう一つは、プロレタリアアートとブルジョアジーのたたかいが経過していくさまざまな発展段階で、つねに運動全体の利益を代表すること、以上の点だけである」

 「07年政治局1・1アピール」では、「国籍に無関係」ということと「もう一つは、……」として提起されていることが割愛されている。長くなることを避ける配慮が必要であることは言うまでもない。だが、マルクス、エンゲルスが「もう一つは」として挙げたことはそう簡単に割愛することはできない問題である。「もう一つは」として提起していることは、別言すればプロレタリアートの究極的目的の観点をもって、ということであり、さらにいえば、目的意識性ということだ。「07年政治局1・1アピール」は、階級的労働運動の提起でも明らかであるが、実はこの目的意識性を否定し、「団結」の名のもとに自然発生性を全面賛美するものでしかなく、マルクス、エンゲルスのこの提起が都合が悪いので引用しなかったのである。

g) 「プロレタリア自己解放闘争と階級的労働運動の強化を基軸に、その普遍性のもとですべてのたたかいを一体化していく」とはどういうことか? わかりにくい表現であるが、平易にいえば、労働者階級のたたかいは普遍的なのだからすべての人民(非労働者)は労働者の運動の普遍性を理解して、労働者のたたかいと一体となる必要がある、それ以外はだめ、ということである。

 そのことは、これに続く「このようなプロレタリア自己解放の共産主義的普遍性の内部に、民族解放など被抑圧民族人民の闘いとの連帯・結合・一体化の論理を内包していく」と7.7路線否定のお粗末な論理に連なっている。

 マルクスは「労働組合は、その諸努力が、狭量かつ利己的なものでは決してなく、踏みにじられた万人の解放を目的とするものであることを、全世界に納得させねばならぬ」(国際労働者協会の決議)と述べている。「納得させねばならぬ」とは、決して理屈で「納得させる」ことを言っているのではなく、労働組合の実践を通してそのことを実際に示すことを通して獲得されるそれのことである。それは帝国主義段階をへると「血債の思想」として定式化してとらえることが必要なのである。

「一体化」論はまったく違う、7.7の血債の思想の否定論なのである。

h) 「職場闘争や経済闘争とは、そこにプロレタリア独裁が内包され、階級的団結を強化していくたたかいとしてかち取られてこそ前進する」
 これは、政治闘争を否定し、経済闘争を万能のものとして描くための苦肉の論理でしかない。先に、引用したようにマルクスは「ゲリラ戦に専念したら失敗する」と言っているのであり、それにどういう意味付与しようとダメなのであって「現行制度の廃止」を求めるたたかい=政治闘争のテコとして使用しなければダメなのだ。それにしても「経済闘争にプロ独が内包されている」とは経済主義者が、形を変えて歴史上何度も行ってきた主張であり、それを革共同政治局は臆面もなく押し出してきた破廉恥さ。これは純粋に無知のなせる業である。

(5) 情勢論は、驚くべき低水準である。
a) 「起きたことの核心は何か」として「アメリカ帝国主義の支配階級自身が混迷をきわめ、分裂するに至った」としている。
 「分裂するに至った」とは何をもってそう主張するのか? 「民主党政権になったら撤退する」という考えがあってはじめて成立する見解である。果たしてそうか?   現実問題として民主党は「撤退」について明確な態度をとっているわけではない。「朝日新聞」などがイラク研究グループに思いいれして「撤退」の雰囲気をつくり出そうとしているが、ブッシュはアメリカ帝国主義という土俵の上でイラク戦争について民主党を論議に引きずり込めば、民主党も「撤退」という選択肢がないことがわかるとたかをくくっている面がある。また、民主党も引き込まれつつあるのが実情である。「撤退のための増強」論はその典型である。(かつての日本帝国主義が中国侵略戦争を泥沼的に拡大していった戦争の論理はこれではなかったのか!)

 問題の核心は「07年政治局1・1アピール」の主張するところにあるのではない。イラク戦争に米帝が敗北し、米国内でイラク問題、反戦問題が重大問題となり、ブッシュは戦場で敗北し、国内でも敗北したということである。そして、それはイラク派兵兵士の厭戦主義を生み出し、イラク前線の崩壊、米軍の崩壊というとてつもない事態を生み出すということにある。増派とは、米国内の反戦気分を戦場に持ち込むものでしかなくなる。それは、選挙という形態でブッシュが否定されるだけではなく軍隊の反乱(労働者人民の反乱を伴う)という形態−革命として結着される段階に突入している、ということなのだ。問題はこのようにたてられなければならない。

b) 「米帝は中東石油の独占的支配・再分割を狙ってイラク侵略戦争に突入した」と言っているが「再分割」とは何をどう分割することを言っているのか? まったく不明である。フセインが石油取引をユーロで行おうとしたことは米帝にとっては絶対に許せないことであった。それを粉砕することは「再分割」という表現では不適切である。

c) イラク戦争分析はったくデタラメというほかない。
 「米帝は、シーア派とクルド人勢力を巻き込んでスンニ派に打撃を集中する戦略をとってきた。ファルージャへの二度の総攻撃に見るように、シーア派などの『支持』を背景にした、スンニ派の反米・反帝国主義のゲリラ勢力に対する徹底した大虐殺、せん滅戦争として行われた」。
 つまり米帝はシーア派と組んでスンニ派攻撃に集中し、内戦化してしまった、という論理構造でもって一貫して展開するのであるが、一体なにをもってそう主張するのか? 米軍は、7月末からの作戦、9〜10月の作戦においてシーア派・サドル派のマフディ軍への攻撃を集中していた事実、昨年2月のアリ廟爆破を契機として一挙に激化した宗派対立などまるで存在しないのである。イラク人民の存在、その苦しみ、怒り、解放をかけた決起などを具体的に措定していく態度などまるでなく、得て勝手に論じていく態度は抑圧民族の傲慢さそのものである。

 情勢分析(だけでなく「07年政治局1・1アピール」全体がそうであるが)はほとんどこうしたレベルをこえるものではなく、およそ詳細に検討するに値しない。以上でそのデタラメさは異論の余地なく明らかだと思うので以後省略します。

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