革共同中央の「新路線」を批判する  2007年3月3日

(T)2007年決戦を攻勢的に闘い抜こう

 2007年の世界と日本の階級闘争は、決戦的激突を昨年以上に一段と攻勢的に強めなければならない段階に入った。逆に、労働者階級人民の陣営がもし守勢に回るようなことがあったならたちまちせん滅されてしまう。
 何と言っても、米帝がイラク・アフガニスタン侵略戦争の歴史的大敗北に陥ったことが時代局面の決定的な転機をもたらしている。そしてそうでありながら、米帝は、むしろ戦線を拡大してイランへの侵略戦争突入へとのめり込んでいる。これらのことは、帝国主義のむごたらしい世界戦争=核戦争が必然であることだけでなく、帝国主義の世界史的破滅とプロレタリア世界革命の勝利が必然であることを告げ知らせるものである。  米帝の戦場での敗北は、同時に、米帝が双子の赤字を抱えたまま唯一の世界帝国の地位を使って延命に延命を重ねてきたことがついに破綻し、一挙にドル安―ドル恐慌、世界大恐慌に転化するものへと必ずなっていく。
 レーガン、サッチャー以来の新自由主義とグローバリズムの名のもとに、一方では、徹底的な弱肉強食の資本の論理が吹き荒れ、労働者階級への工場法以前的な暴力的襲撃が激化している。他方では、石油資源と資本市場・商品市場と労働力を争奪しあう帝国主義間争闘戦が激化している。そこにロシアと中国を巻き込んでいる。大独占資本間の死闘戦が不正義の帝国主義的侵略戦争をますます激化・拡大させ、石油資源と産油国の占領と虐殺の侵略戦争のまっただなかで諸帝国主義の大資本がしのぎを削って争っている。そうした排他的なブロック化の政治的・軍事的衝突がまた、国内での一大資本攻勢の激化をもたらしている。
 それに対して、アメリカ、フランス、イタリアなど欧米の帝国主義諸国では、基幹産業の労働者の不屈の闘いと結び合って、あるいはそれを越えて非正規雇用労働者・移民労働者の反乱が巻き起こっている。韓国では、米帝・日帝による北朝鮮侵略戦争切迫情勢の下で、民族分断と侵略戦争と労働監獄への怒りがますます高まり、ストライキと武装街頭闘争が激化している。中国では、全国の都市と農村で、労働者・農民の激しい実力決起がスターリン主義専制の血の弾圧を蹴って次から次へと激発している。南米諸国では、反米の労働者人民決起がなだれのように進んでいる。
 何よりも、イラク、アフガニスタン、パレスチナ、レバノン、サウジアラビアなど中東で、東南アジアで、アフリカで、ムスリム人民が自爆決起を始めとする決死の武装解放闘争を闘い抜き、9・11情勢をますます鋭く進化させている。闘うムスリム人民は、帝国主義打倒の世界革命のいま一方の牽引車として登場している。

 こうした世界史的情勢の中で、日帝は、小泉=奥田体制をより反動的にエスカレートさせた安倍=御手洗体制をつくり上げ、新たな階級戦争に進み出てきた。日帝支配階級は、「戦後レジームからの脱却」や「新保守主義(日本版ネオコン)」を公然と唱え、憲法破棄=新憲法制定を頂点に、対イラク・対北朝鮮・対中国の侵略戦争遂行とアジア勢力圏化、強行的資本蓄積と労働ビッグバン、労働運動撲滅と戦時型治安国家化、排外主義・差別主義と愛国主義・国家主義の大攻撃をいよいよ貫徹せんものと躍起になっている。

 われわれの任務は明らかである。
 「反帝国主義・反スターリン主義世界革命の勝利へ万国の労働者階級と被抑圧民族は団結しよう!」の旗の下に闘い抜くことである。プロレタリア世界革命とその一環としての日帝打倒の日本革命へ日帝・安倍=御手洗体制を打倒するために全力を挙げることである。

 そのために、改憲=国民投票法案、イラク・北朝鮮・中国侵略戦争、米軍再編・沖縄基地増強、教員免許更新制度を始めとする新教基法体制づくり、「日の丸・君が代」強制、アジアEPA(経済提携協定)・FTA(自由貿易協定)締結、労働法制改悪、労働強化と低賃金の強制、民営化とパート・派遣・請負・契約労働・臨職・非常勤の国家的な野放し、外国人労働者の植民地主義的酷使、社会保障制度解体、「障害者」自立支援法、少子化対策の名による女性の戦時型動員、企業減税と消費税増税、そして共謀罪新設、国民保護法体制の発動、労働組合運動そのものの圧殺、部落解放運動つぶしの差別襲撃、など階級攻防のすべての火点で死力を尽くして闘い抜くことである。

 これらすべてを貫くものとして、レーニンの言う革命党の3つの義務――@世界戦争か世界革命かの革命的情勢が接近してきたことの暴露と決起への宣伝・扇動、A国際的・国内的なプロレタリアートの革命的大衆行動への着手・移行・促進、B戦時下・内乱期に対応した非合法・非公然の党の建設――を貫徹するために今こそ闘うことである。
 ここにおいては、全戦線にわたってありとあらゆる形態で立ち上がっているすべての人々と積極的かつ柔軟に統一戦線を形成して闘っていくことが不可欠である。革命的情勢には、労働者階級の陣営が絶滅攻撃にさらされるだけではなく、革命党に先駆けて、あるいはのりこえて、あるいは党派やイデオロギーを異にしつつ、戦闘的な労働者人民の決起が激発してくる。われわれは、こうした決起に学び、それに続いて、立ち上がり、そのすべての運動の階級的利益を代表するものとして、自己変革をかけて情勢を大いに牽引することが大切である。この中でこそ、自らを革命党として鍛え上げ、3つの義務を貫徹していくことができるのである。
 われわれの任務について、ここでの提起は以上にとどめるが、2007年の闘いの決戦性を熱烈に確認し、自らの道に不動の確信をもって進んでいこう。

(U)革共同中央の「新路線」とは何か

(1)革共同の戦略的総路線を新指導路線に置き換え

 2007年決戦、ひいては21世紀革命の使命を貫くことが問われている時、06年「3・14」の党的集約以来、変質に変質を重ねる革共同中央はどうしているのか。変質した彼らの「新路線」は、『前進』新年号やその後の『前進』主要論文、全国労組交流センター総会議案などにはっきりとあらわされている。
 その「新路線」を検討し、明確な批判を加えることは、闘う労働者人民とその党がけっして選択してはならない道がどのようなものかを浮き彫りにすると考える。  以下では、その「新路線」の中心である「階級的労働運動路線」についてみていく。

 まず、革共同中央は、破廉恥きわまる政治的ペテンをやった。03年以来の新指導路線を「階級的労働運動路線」と言い換え、しかもそれを「プロレタリア革命の唯一無二の道」とか「革命的情勢の成熟を革命に転じるための戦略的総路線」とまで公言した。それは、新指導路線の驚くべきすり替えであって、かつ「階級的労働運動の再生」と言ってきたことの内容自体を歪めるものである(資料1のA、2のイを参照)。
 だが、新指導路線とは何か。革命的情勢に対応する革命党の3つの義務を貫徹する闘い、そのレーニン的オーソドキシーの実現において、情勢から要請される党の任務と現実の党の力量・実体の乖離をみすえ、かつこれまでの労働組合運動への革命論的位置づけと取り組みの弱さを反省して、党の精力を労働運動の実践と労働者細胞の建設に傾斜生産的に投入するのが、新指導路線である。そのためには、党自体が革命的自己変革をかちとるものとして、労働者階級の現実に全身全霊を投げ込み、労働者的感性を学び、労働者の生きた血叫びに自らを一体化させること、根本的にはマルクス主義のプロレタリア自己解放の思想、その原点・原則を理論的・実践的に蘇らせ、学び尽くす闘いをわがものとすることを、全党を挙げてやり抜く闘いである。
 これは、革命党の任務体系の全一体的推進という点で均衡を欠いているが、その点を自覚つつ、レーニン的オーソドキシーの実現に何としても接近しようとする闘いである。もちろん、労働組合運動の実践と労働者細胞建設の闘いは一時的な迂回的な闘い方であるのではない。プロレタリア革命の勝利まで遂行すべき闘いである。
 ところが、この新指導路線をプロレタリア革命の「ただ一つの戦略的総路線(これしか言っていない!)」であるとか、「唯一無二の道」であるとかしてしまったら、どうなるのか。
 それは、革命党の3つの義務を解体し、投げ捨てるということだ。
 それは、革共同の戦略的総路線――「反帝国主義・反スターリン主義世界革命の勝利へ万国の労働者階級と被抑圧民族は団結しよう」「闘うアジア人民と連帯し日帝のアジア侵略を内乱に転化しよう」「米軍基地撤去=沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」「改憲粉砕=戦争国家化阻止・日帝打倒」――の一切を否定しさるということだ。
要するに、何の総括も、まともな説明もなしに、戦略的総路線をすっかり入れ替えたということは、革共同ではなくなったということだ。いやマルクス主義・レーニン主義の党ではなくなったということだ。
 もし革共同中央が、これまでの戦略的総路線はまちがっていた、その総括はかくかくである、よってこれからは階級的労働運動路線を戦略的総路線とすると、党内外に声明し、論議を呼びかけるなら、そのこと自体は非難されることではない。むしろそうした討議を大いに活発にやるべきである。だが、そうではないのである。にもかかわらず、依然として革共同のままであると称することは、大変な政治的詐欺行為以外の何ものでもない。

(2)“団結の拡大でプロレタリア革命ができる”

 今回の革共同中央による「新路線」は、これまでの反スターリン主義・革命的共産主義運動の立脚点からの、また武装し戦う革共同からの、あまりにも対極的な様変わりである。とてつもない大変質である。そのため、その変貌ぶりはいたるところであらわになっている。
 革共同中央は、いろいろと言葉を飾り、回りくどい言い方をしているが、主張していることは明白である。
 いわく。「プロレタリア革命を達成する唯一かつ普遍的な推進軸は、労働組合の階級的団結強化の拡大にある」(1のB)、
 「労働組合の階級的団結を拡大していく闘いでプロレタリア独裁を樹立する」(1のC)、
 「労働組合の団結を拡大し、安倍・御手洗路線を粉砕することによって、帝国主義打倒のプロレタリア革命の展望を切り開くことができる」(2のロ)、
 「労働組合の団結を強化・拡大し、労働組合権力を獲得し、第2,第3の動労千葉を無数につくり出す。このことが、朝鮮侵略戦争の切迫情勢下でプロレタリア革命に勝利する道である」(2のハ)。

 そこには、プロレタリア革命をどう達成するのか、プロレタリア独裁をどうやって樹立するのか、帝国主義をどうやって打倒するのかについて、上記のこと以外何も書いていないのである。もちろんプロレタリア世界革命という言葉自体が出てこない。
 問題は、何のための団結の強化なのか、労働組合の団結を拡大してどう闘っていくかなのではないのか。それがなくて、どうやって団結が強化・拡大するだろうか。
 そこには、プロレタリアートの革命的大衆行動への着手・移行・促進の闘いは何もない。政治権力奪取の闘いはすっかり放逐されている。内乱・内戦―蜂起の闘いなど、そもそも見向きもしていない。ましてや、非合法・非公然の党の建設も路線的に否定されてしまっている。プロレタリア暴力革命の思想と路線は、彼らによって心の底から忌避されている。
 あるのは、「団結の拡大でプロレタリア革命ができる」という、社民的な空論と政治的詐欺だけである。だから、この間の『前進』にはいたるところに 「労働組合運動で革命をやろう」とか「団結の力で革命をやろう」という文章や見出しが並べ立てられている。
 それでは、マルクス・エンゲルスとパリ・コミューンの苦闘以来の、レーニン・トロツキー・ボルシェビキの歴史的経験以来の、1930年代階級闘争の血の教訓以来の、戦後日本革命の敗北の総括以来の、プロレタリア階級闘争の真理は、革共同中央にとってまったく何の関心もないということだ。
 よくぞそこまで変わり果てたものである。それが今日の革共同中央の偽らぬ姿である。それはもうすっかり社民路線に変貌した姿である。

(3)政治権力奪取を綱領的に否定

 革共同中央がプロレタリア革命を<団結の拡大運動>に落とし込めたということは、政治権力奪取を放棄するということにほかならない。
 いわく。「労働組合の団結強化の発展とは別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない。」(1のB)
 「政治闘争について言えば、連合支配のもとにある体制内労働運動と決別し、11月集会のような3労組共闘の形式による政治経済闘争への総決起をかちとることこそが、その実践的・現実的前進を切り開くのだ。」(2のニ)

 だが、19世紀の『共産党宣言』以来の世界革命運動の血の教訓は何か。それは、「共産主義者の当面の目的は、階級へのプロレタリアートの形成、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である」(『共産党宣言』)、「とりわけパリ・コミューンは『労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま手に入れて、自分たちの目的のために使うことはできない』ということを証明した」(同1872年版への序文)ということに集約されると言っていい。だから、階級闘争の3大形態は理論闘争、政治闘争、経済闘争であると、エンゲルスは総括的に規定したのである。
 政治闘争とは、政治的課題をめぐる闘いということではない。政治闘争とは、プロレタリアートの政治権力奪取=プロレタリアート独裁戦取の闘いであり、そこに向かって、ブルジョア独裁の強化・再編あるいは動揺をめぐってプロレタリアートに対して繰り出される攻撃との対決を推し進める闘いである。われわれが、たとえば「改憲粉砕=戦争国家化阻止・日帝打倒」という闘争論的意義づけをして闘うのも、改憲をめぐる階級攻防を日帝打倒の政治権力奪取のための闘いとして発展させていこうとしているからである。  これに対して、革共同中央のように、“団結拡大に政治闘争を対置するな、並列的に位置づけるな”などと強弁することは、綱領的次元で政治闘争そのものを否定するための言動であることは明らかである。それは、ブルジョアジーとプロレタリアートが倒すか倒されるかの死闘を闘う階級闘争の現実をまったく無視するものである。
 したがってまたそれは、独特に重要な政治闘争である革命的議会主義の闘いを低め、どうでもいい課題にしてしまうことでもある。ブルジョア独裁の国家と国家機構を粉砕するために、議会の演壇をプロレタリア革命の宣伝・扇動の場に転化する闘い、選挙闘争と議会闘争を通してプロレタリアートが政治能力を獲得する闘いを、現在の革共同中央は、投げ捨ててはばからないのである。

(4)改憲阻止闘争から逃亡

 しかも、“11月集会が政治経済闘争であり、それこそが政治闘争の実践的・現実的形態である”と言い出したのが、現在の革共同中央である。先の引用部分を素直に読めば、そう言っているのである。
 「改憲阻止闘争としての改憲阻止闘争を歴史的政治決戦として展開しよう」というのが、06年1・1アピールでの共同の決意であり、共同の決定方針であった。いやそれ以上に、これは、広範な労働者人民の地の底からの要求であり、主張であり、行動なのではないのか。それに対して、革共同中央は、07年の改憲阻止闘争は11月集会を成功させることだという方針を出したということである。実際、07年1・1アピールは、第V章の任務・方針の中に改憲阻止闘争の項目がそもそもないのだ。これほどまであからさまな態度表明はない。
 しかもである。労組交流センターの総会議案では、“改憲の法案が成立しても団結が拡大すればいい”とまで言ったのである。改憲阻止としての改憲阻止という実践的立場など何もないのである(3のγ)。
 改憲粉砕=戦争国家化阻止・日帝打倒の必死の宣伝・扇動、職場・街頭・地域での階級的組織化、国会闘争の展開の闘いのないところでは、闘う労働組合の再生も、労働者の団結もできるはずがない。何よりも、これまでの常識を破るような大統一戦線のために闘うことなしに、改憲阻止も、労働者・労働組合の底の底からの組織化もありえない。  革共同中央は、改憲阻止闘争を放棄し、この闘いから逃亡した。とてつもない裏切りである。それは、政治課題の一つを欠落させたというレベルの問題ではない。綱領・戦略路線のレベルで日本プロレタリア革命の生命線をなす改憲阻止闘争を放棄したということである。革共同中央は、政治権力奪取の闘いを一切やりませんと内外に声明するにいたったのだ。

(5)動労千葉崇拝運動が一切

 そこまで社民路線に変質したとなると、「階級的労働運動路線」の「階級的」とは何かが問題になる。今までの引用でも明らかだが、「新路線」は“動労千葉労働運動が一切”という路線である。そこには、自らのありとあらゆる変質、裏切りを、動労千葉の名をもって合理化し、党内の疑問や批判をすべて封じ込めようという意図がありありである。  『前進』紙上でもそうだが、2月の労組交流センター全国総会でも「階級的労働運動路線=動労千葉労働運動」「11月集会=階級的労働運動」という確認を押しつけている。そして、「動労千葉の労働者観と労働組合思想を全国的に貫徹し日本労働運動―地域労働運動の根底的転換を実現することが、交流センターの基本路線そのものなのです」とまでエスカレートさせている(3のβ)。

 要するに、“動労千葉を崇拝する運動を全国でやれ、年間のすべての組織的活動は11月集会の成功に従属させよ、それが階級的労働運動路線だ”ということなのである。現実の生きた階級情勢がどう動こうと、敵味方の攻防がどうなっていこうと、戦争と革命の時代がどう発展しあるいはどう暗転しようと、お構いなしに、11月集会のカンパニア主義を徹底し、11月に向かってひたすら動労千葉崇拝運動を繰り広げれば、それがプロレタリア革命運動だということなのである。

 だが、動労千葉崇拝運動で、今日の労働者階級の過酷な状態にわが身を置くこと、嵐のような一大資本攻勢に立ち向かうことが、できるのか。それでは決してできない。  レーガノミクス、サッチャーリズム、95年日経連プロジェクト報告をもって、国際競争力強化と総人件費削減のスローガンのもと、一大資本攻勢が全世界的に展開されている。日帝の安倍=御手洗体制では、「労働ビッグバン」などと称して、ますますそれをエスカレートさせようとしている。それは不安定雇用労働者を未曾有の規模(全労働者の3分の1超)で創出するものとなっている。すさまじい民営化、アウトソーシングの推進を通して、厖大な失業・半失業がつくり出され、過酷な労働条件を強いられるパート・派遣・請負・契約労働、非常勤・臨職が一挙に増大し、移民労働者・外国人労働者が殺人的な労働環境に投げ込まれている。労働者は悲惨な労災、過労死、自殺を強制されている。労働者家庭は低賃金と種々の増税にあえいでいる。
現代帝国主義が、危機に瀕した大独占資本の生き残りをかけて、1930年代以来の歴史的あり方を大転換させ、文字通り工場法以前的な労資関係を労働者階級に強制してきているのである。それは、マルクス・エンゲルスの時代にはなかったような独特の労働者階級の状態、就労形態をも突き出している。
 だが、そうした労働市場の歴史的大変容は、資本が、相対的過剰労働者人口ないし産業予備軍を無際限に生み出し、それを「利用可能な人間材料」(『資本論』)として自由勝手に吸収したり、放出したりして、あくなき資本蓄積を強行的に推し進めるという本質をもって展開されているものである。

●資本の蓄積と労働者の状態の悪化
 労働者階級が全世界で、このような強行的資本蓄積と対峙する状況は、まさにマルクスが次のように怒りを込めて「資本主義的蓄積の敵対的性格」を弾劾したのと本質的に同じ状況である。(『資本論』第1巻第7篇 第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」第4節「相対的過剰人口の種々の存在形態資本主義的蓄積の一般的法則」)

 「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための方法はすべて個々の労働者の犠牲において行われる。生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を健康破壊して部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体するにつれて労働過程の精神的諸力を彼から疎外する。これらの手段は彼が労働するための諸条件を歪め、労働過程では彼を狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げ込む。……
 資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払いがどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえない。……
 相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、もっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。
 だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」

 労働市場の歴史的大変容としてある不安定雇用労働者の問題は、当該労働者自身の生き死にのかかった問題であるだけではない。正規雇用労働者自身の問題、いや全労働者階級の生存にかかわる共同の問題である。この問題への労働運動の取り組みなしに、4大産別の闘いもありえない。国鉄、教労、自治体、郵政の内部および周辺に厖大な不安定雇用労働者がつくり出されているではないか。戦闘的階級的労働運動の再生の闘いは、ここに最大の戦略的な環の一つがある。
 これは、危機にあえぐ大独占資本の立ち直りを許し、資本の専制を完成させるのか、それとも賃金奴隷制の廃止をめざす戦闘的階級的労働運動の飛躍をかちとるのかという闘いなのである。
 なぜなら「相対的過剰労働者人口は、資本主義的蓄積の槓杆に、じつに資本主義的生産様式の一つの存在条件に、なるのである」からである。「この基礎の上で行われる労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制を完成する」からである(『資本論』第23章)。

 ところが動労千葉崇拝運動、そしてその11月集会オンリー路線は、戦闘的階級的労働運動に問われているこうした命がけの飛躍にあらかじめ背を向けたものでしかない。  加えて、そこには、安倍=御手洗体制のもとで資本が中国・インド・東南アジア市場に殺到し、アジア勢力圏化に踏み切り、それをもって大独占資本の法外な資本蓄積による生き残りのための生存条件としようとしていることを直視する立場もない。安倍と御手洗がしゃかりきになっているEPA戦略やFTA戦略によってむきだしの植民地主義的侵略=労働運動圧殺攻撃を受けようとしているアジアの労働者階級と連帯する立場もない。  戦時下の国民保護法体制が官民すべての労働者階級を組み敷こうとしていることへの闘いの意思もない。戦時型治安国家づくりのもとで、戦争協力拒否の闘いが全産別で正念場を迎えていることへの危機感も燃えるような決意もない。
 それでは、連合や全労連の唱える「労働者にも正当な分配を要求する」路線を粉砕して、戦闘的な職場闘争を展開し、現下の切実な経済闘争を爆発させることもできない。  このように、革共同中央の「新路線」、そして「4大産別論」はもう閉鎖的で独善的な宗教運動と言うしかない。

(V)革共同中央の階級的裏切りを粉砕し07年決戦に勝利しよう

革共同中央の「新路線」は、闘う労働者階級人民にとって一つの反面教師ではある。世界と日本の労働者階級の現実は、革共同中央が描くようなものではなく、もっと豊かであり、ダイナミックである。われわれ自身がいやおうなしに変革を問われ、どんどん積極的かつ柔軟に活動していかなければならない。同時に、マルクス主義・レーニン主義の原点にたえず立ち戻って、そこから現実と対決していくことが求められる。
 いったん階級的裏切りに走った革共同中央は、これからどんどん階級決戦への敵対を深めていく。そうした革共同中央の階級的裏切りと全面的に対峙し、それを粉砕するわれわれの闘いは、これからのプロレタリア革命運動を切り開く新たな価値創造性をもっていくと確信できる。
 3・11集会の闘いを新たな突破口に、戦線を思い切って拡大させ、決戦に次ぐ決戦へと身を躍らせていこう。

以上

●資料1:『前進』新年号の1・1アピール

A、「03年以来の階級的労働運動路線(新指導路線)とは何か。それは帝国主義の危機がもたらす革命的情勢への突入の中で、帝国主義打倒のプロレタリア革命を全力でたぐりよせる唯一無二の道として、階級的労働運動と階級的団結の前進・拡大をかちとり、同時に階級に深々と根を張った労働者細胞建設に、党的組織的精力の一切を注ぎ込む闘いである。
 それは動労千葉労働運動の地平の高さ、大きさ、波及力、階級的な獲得力を実践的指標として学び、それを防衛・発展させつつ6000万労働者の中に広げ、根づかせていくことを呼びかけるものであった。」[第T章(3)]

B、「帝国主義打倒のプロレタリア革命は何を軸に達成されるのか。その唯一かつ普遍的な推進軸は、プロレタリア自己解放とその発露としての階級的労働運動、労働組合の階級的団結強化の発展にある。これとは別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない。」[第T章(3)]

C、「階級的労働運動とは、こうした立場から労働組合を革命論的に位置づけ、プロレタリア独裁の樹立へ向けて、労働組合の階級的団結を拡大していく闘いなのである。動労千葉は、そうした労働運動を実際に実践してきたのだ。」[第T章(3)]

●資料2:『前進』第2281号の巻頭中央労働者組織委員会論文

イ、「革命的労働者党は、この階級の感性と実践、団結への希求に結びつき、『革命的情勢の成熟』を現実の革命に転じる闘いの最先頭に立たなければならない。そのための戦略的総路線こそ『革命をめざす労働運動』を実践する階級的労働運動路線である。」[第1章]

ロ、「攻撃の最大の矛先は労働組合とその団結の解体に向いている。だが、労働者が圧倒的に団結し総決起すれば日帝に破綻と危機を強いることは絶対にできる。労働組合の団結を拡大し、安倍・御手洗路線を粉砕することによって、帝国主義打倒のプロレタリア革命の展望を切り開くことができるのだ。この闘いの有効性と勝利性を示すものこそ階級的労働運動路線である。」[第1章]

ハ、「階級的労働運動路線とは、プロレタリア革命をかちとる立場から、職場闘争を基軸に労働者・労働組合の団結を強化・拡大し、労働組合権力を獲得して、第2、第3の動労千葉を無数につくり出すことである。このことが、朝鮮侵略戦争の切迫情勢下でプロレタリア革命に勝利する道である。」[第2章]

ニ、「政治闘争について言えば、連合支配のもとにある体制内労働運動と決別し、11月集会のような3労組共闘の形式による政治経済闘争への総決起をかちとることこそが、その実践的・現実的前進を切り開くのだ。」[第2章]

●資料3:全国労組交流センター全国総会の07年度運動方針案

α、「交流センター運動が、11月労働者集会を軸としてつくり出そうとしている階級的労働運動路線=動労千葉労働運動について根本的不一致があると言わねばなりません。」[「総括と課題」]

β、「動労千葉の労働者観と労働組合思想こそが戦後体制内労働運動の限界と破産を突き破り、日本労働者階級の戦闘性と勝利性を開示するのであり、これを全国的に貫徹し日本労働運動―地域労働運動の根底的転換を実現することが、交流センターの基本路線そのものなのです。」([とりまく情勢])

γ、「確かに署名だけで改憲を阻止することはできないのは事実です。……しかし、法案成立を阻止する闘いにどれだけの労働者・民衆を組織できたか、どれだけ闘われたかによって、法案成立後の闘いの展望を切り開くことができるのです。……これらの改憲攻撃を改憲攻撃としてしっかりと捉え、これをうち破る闘いに決起しなければなりません。その核心は、闘う労働組合の再生です。労働者が団結し、労働組合が本気で闘う時、改憲を阻止し、戦争を食い止めることができます。」[「総括と課題」]

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