<歴史的存在としての革共同>を否定した大原議案

(2007年6月)

目次
[はじめに]議長・清水氏が大原議案を推進
[T]関西地方委を封殺・排斥する革共同中央
 ・党内粛清を正当化
 ・レーニン『なにをなすべきか』を歪曲して党内民主主義を圧殺
 ・『なにをなすべきか』における党内民主主義
 ・党員に「沼地派」になれと強制
 ・「党とは別の意見や著作を読んではならない」!
 ・党内での粛清と党外への思想弾圧は一体
[U]4周遅れの黒田イズムが浮き彫りに
 ・「ブルジョア支配から自由な空間をつくる」?
 ・党はプロレタリアート独裁をかちとるためのテコ
 ・カクマル黒田の「前衛党組織論」と比べてみると
[V]改憲阻止決戦から敵前逃亡し、経済主義を総路線に祭りあげ
 ・体制内労働運動路線に踏み切り
 ・経済主義の古典的な全特徴がある
 ・経済主義とはどういうものか
 ・「体制内労働運動との激突」が唯一の実践方針
 ・実は職場闘争をやらない「階級的労働運動路線」
 ・“1000人プラス1000人の観念論者をつくれ”
 ・“中野洋氏崇拝者集団をつくれ”
 ・黒田カクマルの「本来の戦線」論と瓜二つの構造
[W]諸戦線解体はプロレタリア革命運動の自殺行為
 ・7・7路線=血債の思想を清算するのか
 ・諸戦線解体の手口とは
 ・プロレタリア自己解放の根本思想について
 ・反スターリン主義・革命的共産主義運動と7・7自己批判
 ・労働者階級解放と普遍的解放の構造を破壊
 ・労働者階級への絶対的確信を失った大原議案
[おわりに]清水氏は党内民主主義の破壊者になるのか

●はじめに:議長・清水氏が大原議案を推進

革共同中央は、昨年「3・14」以降、とりわけ秋の第22回拡大全国委員会総会以降、中央批判の意見や疑問が湧き起こっていることに対して、まったく許せないことに、ことごとく門前払いの対応をとっている。そればかりか、中央への批判や意見を党への敵対と決めつけ、排斥する官僚主義的・強権的なやり方を強めている。
 とくに今、関西地方委員会の内部から、07年新年号論文や木崎冴子論文(『共産主義者』第152号)や3・18集会路線(「労働運動で革命やろう」)に対する痛切な批判が出されていることに対して、しゃにむに、力ずくで圧伏しようとしている。それが、5・20大原武史議案(「3月大行動―4月闘争の革命的勝利に踏まえ、階級的労働運動路線の全国的実践に突入しよう! MWL1000名、MSL1000名建設を水路に11月1万人結集を実現し日本革命の大道を押し開こう!」革共同中央労働者組織委員会署名)である。
 5・20大原議案は、以下に見るように、これが革命的労働者党の言うことか! これが左翼のやることか! というような、異様でデタラメな内容である。これまでの革共同の思想、組織論、路線、綱領的立場からして、とうてい考えられない異質なものである。<歴史的存在としての革共同>を全否定するものなのだ。

 だが一層深刻な問題は、その大原議案を、議長である清水丈夫氏その人が支持し、党内への貫徹のために大原議案を補完したり、賛同者を組織するなど、自らの「権威」を行使していることである。清水氏は、中野氏、天田氏、大原氏ら中央とともに、いやその軸となって、関西地方委との分裂を強行しつつあるとしか考えられない言動をしている。  清水氏のそうした態度は、06年「3・14」を“自分を始めとする中央そのものが打倒されたものと受けとめ、全面自己批判する”と表明した時の態度と、一体どうつながっているのだろうか。大原議案をどう考えるかということ以上に、そうした清水氏への疑問と不信の方が大きいとしても、あまりにも当然ではないか。
 いずれにせよ、<大原議案の問題性は清水問題にほかならない>ということについて、冒頭で、読者の注意を喚起しておきたい。

[T]関西地方委を封殺・排斥する革共同中央

●党内粛清を正当化

「全指導的同志には、本会議を期して全国全同志に対しこの議案書を基に、この内容で徹底討議して意思統一する党員としての義務がある。」(冒頭のただし書き)

 大原議案は全党討議のための「議案」ではないのか。中央の新路線である「階級的労働運動路線」をめぐって関西地方委の中からかなり根本的な次元での反対意見が出された以上、中央と、関西地方委および意見書を出した当該者とが徹底討論し、議論を止揚した内容で一致し、それを全党に提起すること、もし一致しないテーマがあるなら、中央の意見Aに対して関西のBという意見があるが全党の同志はどう考えるかと問題提起することが、およそ革命的労働者党のとるべき組織論的あり方ではないのか。
 にもかかわらず、「大原議案の内容で意思統一することが党員としての義務である」とは、一体全体どういうことか。大原議案を無条件に支持せよ、それが指導部および全党員の義務である――こう言っているのだ。何ということを言うのだ。党中央は100%正しく完璧であり、下部は100%間違っていて歪んでいると言っているのだ。そんなことが、あるだろうか。ありはしない。革共同の歴史上、いや広く左翼運動の中で、ここまで露骨に絶対的な命令と服従を謳った「議案」はなかったであろう。だが、それが、大原議案の一切であり、本質であると言っていい。
 それは、党中央への批判・異論の封殺であり、党内討議の事実上の禁止である。  そのことが、関西地方委の中から出されているいくつもの意見に向かって投げつけられたということは、尋常なことではない。同じ党の中でやるようなことではない。中央批判をした者にとっては、自らの存在抹殺であり、この党にいる場所はないという党員としての追放通告を受けたようなものである。そんな党内権力支配の暴挙が、06年「3・14」以後、繰り返しなされてきたのである。今や、レーニン主義的な党内民主主義と組織原則はすべて、中央自らによって死刑宣告されたに等しい事態となった。この一点で、大原議案は壊滅的に批判しつくされなければならない。
 実際、大原議案は言う。 

「もっと鮮明にするならば新たな私党化が生まれてきているということだ。」(第1章@)
「あえてはっきり言えば、あくまでもこれ(注:「党の革命反対派=5月テーゼ反対派=私党化グループ」のこと)に同調するということならば、曖昧にせずに党に敵対する道を歩むのか否かをはっきりさせるべきなのだ。」(第2章G)

 大原議案は、関西地方委の特定の機関の決議、集団的な連名の意見書が出されたことをもって、「私党化」と決めつけ、それだけで断罪している。まるで思想検事のような言動である。
 加えて、旧九州地方委の名を挙げて、“九州に同調することは党に敵対する道をえらぶということだ、わかっているのか”と恫喝している。中央批判の中身を問う以前に、中央批判したことをもって、反党行為だと言うのであるから、それは、明白に党内テロルである。そこには、明らかに党内粛清の論理が働いていると言わなければならない。
 だが、党内で路線論争も思想闘争もできない党中央、批判の自由と行動の統一の組織原則も踏み破る党中央とは、それだけで自ら党を破壊しているということだ。中央指導部であり続ける資格を自分で放棄したということである。

●レーニン『なにをなすべきか』を歪曲して党内民主主義を圧殺

 大原議案は、関西地方委に対する粛清策動を正当化するのに、こともあろうにレーニン『なにをなすべきか』を持ち出している。ひどい歪曲をして!

「レーニンは、党の闘いを経済主義に引き降ろそうとする『ラボーチェエ・デーロ』派のイスクラ派に対する『批判の自由』や『反民主主義的傾向』という批判に対し『公開制』や『選挙制』を行うなどというのは革命的組織においてあり得ないことであり、空虚で有害な遊び事であると主張した。……(『なにをなすべきか』第4章(e)から『真の革命家の組織は不適当な成員を取り除くためには、どんな手段をも辞さないであろう』の部分を強調する引用が続く)……問題はレーニンがなぜこうした直接的には『非民主的』とも思えることを、唯一の組織原則としたのかということである。教条的に理解するのではなく、これを貫いている原理の把握こそが重要なのである。」(第4章B)

 レーニンが、公開性や選挙制について、「革命的組織においてあり得ないこと」「空虚で有害な遊び事」と主張したのか? 否、意図的な歪曲である。レーニンが「非民主的とも思えること」を「唯一の組織原則」としたのか? 否、はっきり言って、大原氏一流の政治的詐欺である。

 レーニンは、「反民主主義的傾向」という批判に対して、まず「広範な民主主義的原則」には「二つの必要条件が含まれる」として、「完全な公開性」「すべての職務の選挙制」を挙げている。そして、その「二つの標識」が「わが国の専制の枠」にはめこめるものかどうかやってみるがいい、「専制の闇の中で」実行できるとでも言うのかと、問題を突きだしている。そして、ツアーリズムのもとでの「党組織の『広範な民主主義』が、空虚で有害な遊びごとでしかない」と反駁している。
 つまり、レーニンは、「反民主主義的傾向」という異議に対して、ツアーリズムの専制支配との死闘戦を闘っているロシアの革命党は、一体どう自らの組織を建設していけると思っているのか、われわれは真剣勝負をやっている、遊びごとではないのだと問題を突きだしているのである。

●『なにをなすべきか』における党内民主主義

 すなわち、一つには、当時の「反動の最も強力な砦」であるロシアにおける革命運動の特定の発展段階、ツアーリズムの専制支配の特定のありようのもとで、具体的な革命的リアリズムをもって『なにをなすべきか』をつかむのでなければならないということである。
 大原氏が、具体的・実体的な諸条件を抜きにした超一般論として、レーニンが公開性と選挙制を否定したかのように言うのは、明らかな歪曲である。レーニンはあくまでも「広範な民主主義的原則」は「完全な公開性」と「すべての職務の選挙制」(および民主主義的な全般的監督)にあるとしている。にもかかわらず、当時のツアー権力の苛烈な弾圧下にあるロシア的現実のもとでは「完全な公開性」「すべての職務の選挙制」はできない、「どんなにそうしたくても、実行できない」と言って、それに代わる方法を、例外的で臨時的な措置として「革命家たちのあいだの完全な同志的信頼」を提起しているのである。

 二つには、したがってレーニンは、当時の厳しいロシア的現実の中にあっても、いかにして組織の民主主義的中央集権制を保障するのかを懸命に追求していたのである。「『民主主義』以上のあるもの」「完全に信頼しあっている同志たちの緊密な中核内部の民主主義」「遊びごと風の民主主義ではない真の民主主義」と繰り返し押さえていることを見れば、それは明白である(注:ここでレーニンは最初の「民主主義」にカッコをつけているが、その後の二つにはカッコをつけていない)。
 大原氏は、レーニンがまるで「非民主的でよし」としていたかのように描くのであるが、
それは白を黒と言いなすたぐいである。許されない手法である。

 三つには、レーニンは、党内民主主義一般ではなく、指導者・幹部の選出と解任、指導と被指導関係のあり方がポイントをなすことを踏まえているということである。  レーニンは、あえてイェ・セレブリャコーフの論文「労働者自己解放団の檄について」の中の「指導者等の知力、精力、献身に対して周囲の同志たちが信頼を寄せている」という部分を引く。それに続けて、有名な「われわれの運動の活動家にとって唯一の真剣な組織原則は、最も厳格な秘密活動、成員の最も厳格な選択、職業革命家の訓練である」という展開が続く。それを「民主主義的な全般的監督(注:統制とも訳される)」や「有効な『民主主義的監督』」に対置して言っているのである。
 レーニンは、重ねて、「不適当な成員を取りのぞくためにはどんな手段をも辞さない」「同志関係の義務にすこしでもはずれる者を容赦なく厳罰に処している」と言って、「革命的組織の成員はなんの監督も受けないことになると考えるなら、大きなまちがいであろう」という確信を表明している。「取りのぞく」「厳罰に処す」ということを、あくまでも“民主主義的な全般的監督以上の真の民主主義”という脈絡で言っているのである。  幹部の厳格な選出や解任、党員の厳正な選択(党員資格)などの鉄の規律は、ただ党内民主主義の生き生きとした実現のための闘いによって、はじめてえることができる。われわれ自身が、20年間にわたる内戦の中での軍令主義的な指導・被指導のあり方を組織論的に反省し、総括し、それをのりこえた党のあり方を創造するとしてきたのではなかったのか。

 繰り返すが、レーニンは、ツアーリズムの専制支配とその政治警察による革命党絶滅攻撃との対峙という困難きわまる条件のもとであっても、党における「真の民主主義」は、「革命家たちのあいだの完全な同志的信頼」という「この同志関係の概念に含まれているではないか」と言ったのである。
 本多書記長は、この箇所について、「レーニンは、そもそも広範な民主主義とはなんだと思っているんだ、今のロシアの現実の中で党における完全な民主主義をやることが可能だとでも言うのかと、開き直っているんだよ」と学習会でよく語っていた。
 ところが、大原議案は、「レーニンは直接的には『非民主的』と思われることを唯一の真剣な組織原則とした」と断言してはばからない。それが大原流詐欺であることはもう明らかである。大原氏らは、“与田や旧九州地方委を取りのぞき、厳罰に処したのを非民主的と言うなら非民主的でいいのだ。レーニンこそ非民主的なものの元祖だ。だから、関西地方委(主流派)を取りのぞき、厳罰に処してもいいのだ”とすごんでいるのである。  それがレーニン『なにをなすべきか』とそれを軸とするレーニン主義組織論をいかにねじ曲げるものかは、明らかであろう。大原氏たちが、『なにをなすべきか』をそのようにしか読めないということは、彼らが国際プロレタリアートの革命運動の苦闘の歴史と現実にいかに背を向けた存在であるか、革命的プロレタリアートの階級的感性とはいかに反する人びとなのかを証明するだけである。
 レーニンの怒りの声が聞こえてくるようではないか。いや本多書記長こそ最も激怒しているにちがいない。

●党員に「沼地派になれ」と強制

 大原議案は、以上のようなレーニン主義組織論の許しがたい歪曲の上に立って、革共同における党内民主主義に死刑判決を下す役割と意味をもって出されたと言わなければならない。次の文章が端的にそれを示している。

「『党の革命』(注:「06年3・14」を指す)は正に『真の革命家の組織は、不適当な成員を取り除くためにはどんな手段も辞さない』というプロレタリア革命の暴力性と激しさを正に『経験』としてはっきりさせたことに最大の革命性があるのだ。」(第4章E) 「与田の超弩級の腐敗や党内支配、そこから生み出された権力問題の深刻さ故に、『党の革命』は党内民主主義を求めた蜂起であって思想や路線の問題ではないとする意見が関西の常任『指導部』の一部から出されている。……民主化され『批判の自由』が確保されれば、平田等の主張は正しいとでも言うのか。……『5月テーゼ』『6回大会』『新指導路線』によって引き出されてきたプロレタリア自己解放の力を土台とした党内闘争の貫徹こそが、私党化グループを追いつめ反動性を引き出し、『党の革命』を号砲として決定的に引きずり出され打倒されたのである。そのように総括できずに『党内民主主義』や『意見の自由』が対置されるならば、『党の革命』の革命的地平はレーニン主義に反対する『沼地派』の道に転落してしまうのである。」(第4章F)

大原議案はここで、まず第一に、06年「3・14」は暴力性と激しさをもった非民主的な手段を行使したものだが、それこそ党の革命であるとする。そこでのペテンは、「3・14」を肯定し支持するかのように装いながら、「3・14」それ自体ではなく、その手段性だけを「最大の革命性」と意義づけていることである。
 第二に、大原議案は、“党の革命とは、党内民主主義を実現するかどうかの問題ではない”、“民主化し「批判の自由」を確保するなどというのはプロレタリア革命をめざす運動体であることがわかっていないものだ”、“「党内民主主義」や「意見の自由」を対置することは反レーニン主義であって、「党の革命」を「沼地派」の道に引きずり込むものだ”と言って、党内民主主義の要求、その実現のための闘いを全面的に禁止すると宣言している。
 大原議案全体の基本精神がここにはっきりと表出しているのだ。おそるべき党内粛清の宣言である。もうここまでくると<プロレタリア階級闘争とその党の内部から発生した反革命>と弾劾しなければならないし、ぎゃくに、そうしないことは党と階級への裏切りとなるのではないのか。
第三に、同じことであるが、大原議案は、革共同の全党員に対して「沼地派になれ」と強制しているのである。この点を少し説明しておきたい。
 大原氏は、「沼地派」という用語について、はたして分かっているのか。一体それをどういう意味で理解し使っているのか。それがレーニンに発するというなら、レーニンは次のように言っているのをわかっているのか。

 「ロシア社会民主労働党第2回大会で大きな役割を演じた政治的色あい―自主性(注:独自性とも訳される)のないこと、卑小さ(注:俗物的なこととも訳される)、自身の方針のないこと、他人がどう言うだろうと気づかうこと、二つのはっきりした陣営のあいだで永久に動揺すること、自分の信条を公然と述べるのをおそれること、一言で言えば『沼地根性』を特徴とする政治的色合い……。」
「内部闘争を経てきた政党で、闘士たちのあいだを動揺する浮動分子をつねに意味するこの用言……。」
      (『一歩前進、二歩後退』(ハ))

 つまり、この間、関西地方委の多くの人びとがとっている態度は、「沼地派」ではなく、反対に「沼地派」たることを拒否した態度であることは明らかである。
 浮動分子となることを潔しとせず、自主性・独自性を発揮せんとし、党中央の顔つきをうかがうようなことをせず、自分の信条を公然と述べることの、どこが反党的なのか。こうした党員が存在することに革命党の意義があり、こうした党員なしには革命党たりえないのではないのか。
 こう見てくると明らかなように、大原議案は、党員に中央とちがう意見を言うな、ものを考えるなと、「沼地根性」を強制し、その一方で中央を自己絶対化するものである。それほどまでに、党中央と細胞との同志的・組織的関係を中央の側から破壊することが、革共同の歴史上かつてあっただろうか!

●「党とは別の意見や著作を読んではならない」!

 大原議案では直接に触れていないが、大庭伸介氏のパンフレット『今、労働運動はキミに何を求めているか――非正規雇用と地域合同労組運動の可能性』をめぐる革共同中央の常軌を逸した対応は、大原議案と一体の重大問題である(注:大庭伸介氏は、元総評オルグ。1926年の浜松・日本楽器大争議の研究で知られる)。
 中野氏や大原氏は、大庭パンフを批判するというレベルではなく、何とその存在そのものを抹殺する対応をしている。
 彼らは、動労千葉労働学校での大庭氏の講義を、恒例通りパンフ化することを取りやめ、大庭氏にパンフ化をやめるよう圧力をかけ、「その忠告を無視して自主発行した」などと非難している。
 彼らは、動労千葉として自ら講師として招きながら、「革共同と違う思想と路線を党内に持ち込もうとしている」と、誰が聞いてもびっくりするような本末転倒の難癖をつけた。しかも、「読めば怒りに耐えられず、破り捨てて当然」(大原氏)とさえ公言している。まさにナチスの焚書のような、左翼にあるまじき禁書扱いをしているのである。  その理由がまたひどい。“民同であり体制内労働運動派だ”、“ブルジョア思想に屈服している”、“労働者階級を救済の対象と見て侮蔑している”と罵倒し、とどのつまりは“動労千葉労働運動から学ぼうとしていない”と言って切り捨てているのだ。要するに、動労千葉労働運動いや中野洋氏をあがめないのはみんな反動派だと言っているに等しいのである。
 だが、大庭氏がこのパンフの基本テーマとして、「非正規労働者に対する賃金その他の差別を撤廃し正規化をかちとることこそ、労働運動の最重要の戦略課題」と提起している問題について、革共同中央はまったく答えていない。この問題を不問にふして今日の戦闘的・階級的労働運動を進められるなどと、本当に考えているのだろうか。ここには、「階級的労働運動路線」なるもの、「労働運動で革命をやろう」路線の致命的な誤りと裏切り性があるのだ。
 また、労働組合が100あれば、100の労働運動の実例があり、運動の100の性格と100の教訓がある。それを認め合い、学び合い、団結して共同の敵と闘い、それを通してこそ階級形成を進めていくことができる――これが革共同の労働運動における基本姿勢ではなかったのか。動労千葉自身が、これまでは、最も戦闘的・原則的に血を流して闘ってきたからだけでなく、そういう姿勢で闘ってきたからこそ、他の労働組合や労働運動家から尊敬され、新しい潮流運動の軸になりえてきたのではないのか。
 党とちがう思想と路線であるという理由で、一労働運動家のパンフを“読むな、売るな、買うな”というのは、党の名による労働運動への思想弾圧以外の何だというのか。それは動労千葉とその労働運動をも党の名でじゅうりんするものでなくて何であろうか。

●党内での粛清と党外への思想弾圧は一体

 大庭パンフ禁圧の先頭に立つ中野氏、天田氏、大原氏、それを援護する清水氏は、次のエンゲルスのことばを思い出してはどうだろうか。

「今日、存在している社会主義的労働者党のどれ一つをとっても、自分の胎内に育った反対派をデンマーク流に処分(注:デンマーク社会民主労働党における反対派処分問題)しようと思う党は、たぶんどこにもないでしょう。ひとつの党の内部に穏健派と過激派の傾向が生まれ、あい争うのは、その党が生き、大きく成長するために必要なことです。そして、過激派をたちどころに排除する者は、そうすることで、彼らの成長を促すだけです。労働運動は現存の社会にたいする最も鋭利な批判に根ざしていますし、批判はこの運動になくてはならぬ生命の糧です。労働運動は、みずから批判をおさえようとか、討論を禁じようとか、そのようなことができるでしょうか? いったい私どもが、他人にたいして私どもの発言の自由を要求するのは、それをわが党の戦列でふたたび廃止する、そのためだけなのでしょうか?」(下線は原文)
(「トリエルあての手紙の草稿」1889年12月18日、『全集』第37巻284ページ)

エンゲルスのこのような実践的態度を、革共同は、スターリン主義の歪曲をうち破って復活させ、引き継いできたはずではなかったのか。党内民主主義を絞殺し、中央批判の自由を抑圧し、相互批判と自己批判の党風を一掃する党。そのような党は、労働者階級の運動に対して、同じように排他的で官僚主義的・セクト主義的な政策をとり、闘う統一戦線に背を向け、党と労働組合の関係、党と大衆運動の関係のすべてを破壊する党でもあるのだ。それはもう労働者階級の党とは呼べない閉鎖的で独善的な組織でしかない。  革共同中央は、党内での粛清と党外への思想弾圧をこととする集団になりさがったのである。

[U]4周遅れの黒田イズムが浮き彫りに

●「ブルジョア支配から自由な空間に党をつくる」?

 大原氏は、前出の引用で見たように、「レーニンは『なにをなすべきか』で非民主的とも思えることを唯一の真剣な組織原則とした」とし、「これを貫いている原理の把握こそが重要なのである」(第4章B)と言っている。
 それを受けて次のように言う。

「一言で言えばブルジョア社会における、思想的物質的(イデオロギー、政治、暴力、賃労働等の)支配と闘い抜き、ここから自由なところにプロレタリア革命党は建設されなければならないということである。………
 ブルジョアジーの全的支配に対して、労働者階級の思想的政治的自由を意識的に奪還・拡大し、一斉蜂起にまとめ上げていくことに革命党の本質的任務があるのである。だから革命党は、ブルジョア支配と意識的に闘い、ここから自由なところに打ち立てられていかなければ、プロレタリアートの根源的戦闘性を引き出し、その解放を実現できないし、この原理に基づいて指導できないのだということである。
 それ故ここにこそ党建設上の最大の意識性が置かれ、『なになす』の全編がこの意識性に貫かれているのである。
 『左翼空論主義』における党の団結と規律の問題も、ブルジョア社会に生きる人間の真の自由への第一歩として、すなわち自己解放の第一歩として押さえられていることも想起されなければならない。……」(第4章C)

 大原議案には上記のフレーズが繰り返し呪文のように出てくる。“ブルジョア支配下あるいはブルジョア社会の中において自由な空間がある、そこに党をつくる”、“これこそが党建設と党指導の原理=意識性である”と大原議案は言っている。そうとしか読めない。
 だが、大原氏に聞くが、そこで言う「自由なところ」とは何だと言うのか。「階級的自由」とも言っている。
 また聞くが、レーニンの『共産主義における「左翼」空論主義』のどこに、「党の団結と規律の問題はブルジョア社会に生きる人間の真の自由への第一歩、自己解放の第一歩だ」と書いてあるのか。
 さらに聞く。大原議案のこれらの部分は、“ブルジョア社会にあって党建設の意識性を貫けば真の自由や自己解放が実現する”と言っているのか。そうとしか読めないがどうなのか。
 大原氏の答えを聞きたいものだ。いずれにせよ、大原議案によれば、ブルジョア独裁権力のもとでも党的意識性があるところにこつぜんと共産主義的な自由の空間が現出するということなのであろう。それが、大原議案が描くプロレタリア革命党なのであろう。
実践的唯物論者=共産主義者にはとうてい理解できない珍論、迷論、謬論である。

●党はプロレタリアート独裁をかちとるためのテコ

 大原議案が描く党とは、もちろん共産主義とは大違いの、労働者階級の現実やその苦闘とも無縁なところにつくられるカルト集団以外の何ものでもない。
 なぜなら、大原議案では革命党、労働者党についてくどくどと述べているかのようだが、実は肝心なことを何も言っていない。革命党の基本的任務=世界史的使命は何かが、大原議案にはまったくないのだ。
 革命党は、賃金奴隷制の廃止、私有財産制の廃絶、階級の廃止、すなわち共産主義社会の全世界的樹立を究極目標とし、そこにむかって政治権力を奪取し、プロレタリアート独裁を実現することを当面の戦略的目標とする。プロレタリアート独裁権力の決定的なテコとして革命党は建設され、この闘いの前衛として自らの世界史的使命を果たさなければならない。このことを抜きにして語られるどのような党組織論も、欺瞞であり、空論であり、階級闘争に害をなすだけである。
 大原議案は、このプロレタリアート独裁の実現のための闘いとその準備という実践的立場がまるでない。現実の生きた、血が流れる内乱・内戦―蜂起の階級闘争およびその中での党の活動とはまったく切り離されたところで、党をうんぬんしているのが、大原議案である。

 しかも、大原議案は、(a)党は意識性である、(b)ブルジョア支配のもとでもそこから自由な空間がある、(c)意識性を貫けばその自由な空間に真に自由な党を打ち立てられると言っているのである。非常に鮮明であるが、その自由な空間とは何かと言うと、観念世界なのである。意識性をもった党の観念世界にはブルジョア支配もおよばない、そこには真の自由があると言っているのである。
 そうすると、ブルジョア独裁の打倒も、資本主義社会の転覆も、政治警察との絶滅戦に勝利する闘いも、戦闘的・階級的労働運動を推し進める闘いも、関係ないことになっても当然というものだ。 党=観念世界なのだから、大原議案は、現実の闘いと無縁なところで「ブルジョア支配から自由な空間に党をつくる」などと平然と言えるのだ。
 このように、大原議案とそこでの「党=自由な観念世界」論は、革共同が、ブルジョア独裁打倒を放棄し、プロレタリアート独裁の実現とその準備のための現実の階級闘争から召還し、敵前逃亡することの表明なのである。内乱・内戦―蜂起の路線をきれいさっぱり捨て去り、武装し戦う党であることをやめる、カルト集団でやっていくと言ったのだ。ここに大原議案の最大の犯罪性がある。

●カクマル黒田の「前衛党組織論」と比べてみると

 ところで、「党=自由な観念世界」論はどこかで聞いたことがあるではないか。

「現代におけるプロレタリア革命運動の問題は、プロレタリア的人間とそれを構成実体とする前衛組織の問題として、とらえかえされる。」
「共産主義的人間の前衛組織としてのプロレタリア革命党は、まさにかかるものとして同時に、実現されるべきコムミューンの母胎を場所的に創造するもの………。共産主義社会の組織的母胎を場所的に創造してゆくことこそが、現代におけるプロレタリア党の眼目である。」
                  (カクマル黒田寛一『組織論序説』310〜311n)

 カクマル黒田は、前衛党の営為を「永遠の今」と称した。
 それは、第一に、「プロレタリア革命運動の問題」を「前衛組織の問題」と完全に等置し、前者を後者にすべて解消するものであった。つまり、現実の生きた階級闘争と切断したところに「プロレタリア革命党」をつくるとしたのである。黒田は、階級的現実あるいは対象的世界との生きた弁証法を拒絶したところ=観念世界に「プロレタリア革命党」を夢想したのであった。
 第二に、党は自己目的ではないと言いつつ、党、それも黒田を崇拝する党を自己目的化し、自己絶対化したのであった。
 第三に、「プロレタリア革命党」は「共産主義社会の組織的母胎」とし、あたかもブルジョア独裁下あるいは資本主義社会の中でも「党」という空間に共産主義が生み出されるかのようにデッチ上げたのである。黒田の言う「プロレタリア的人間」「共産主義的人間」とは、闘う共産主義者というのではなく、共産主義社会の人間というニュアンスなのである。

大原議案の「党=自由な観念世界」論は、このように、黒田の「永遠の今」論と何と似通っていることか。まさに今ひとつのカルト集団化でなくて何だろうか。革共同中央は、ますます閉鎖的な同心円的党づくりとその自己目的化をこととする集団に堕落しきった。

 1967年10・8羽田闘争に致命的な打撃を受け、70年安保・沖縄決戦の大衆的・武装的発展に心臓を射抜かれたカクマル黒田が、逃げ込み、ますます純化していったかの「永遠の今」論。黒田イズムの本質をなす、その「永遠の今」論を、4周遅れでまことしやかにのたまっているのが、大原議案なのである。
 恥を知れ――この一語を投げつければ決着がつく。

[V]改憲阻止決戦から敵前逃亡し、経済主義を総路線に祭り上げ

●体制内労働運動路線に踏み切り

「党=自由な観念世界」論は、ブルジョア独裁打倒、政治権力奪取、資本主義社会転覆の闘いからの敵前逃亡路線であることは、先に指摘した。大原議案は、その敵前逃亡路線を次のように正当化している。

「これ(注:動労千葉の地平のこと)はブルジョア支配に労働者階級を従属させようとする『経済主義的』あるいは『労働組合主義的改良主義』(いわゆる体制内労働運動)の支配に対して『賃金奴隷制』下の労働者階級の思想的政治的自由をいかに切り開いていくかという党指導の決定的勝利として、マルクス・レーニン主義に基づく労働組合を通じた階級指導の勝利として総括されなければならないのである。」(第5章B)

いやはや、「賃金奴隷制下で、ブルジョア支配からも体制内労働運動の支配からも思想的政治的な自由を切り開ける」「それが党が指導した動労千葉労働運動だ」というのである。ブルジョア支配から自由な党が指導したから、同じくブルジョア支配からも体制内労働運動の支配からも自由な労働組合・労働者階級=動労千葉が生み出されたと言っているのである。
 体制内にあっても自由を切り開けると言うのだから、これほど明白な体制内労働運動路線の表明はない。しかもである。一般論ではなく、現実に日帝の改憲=新憲法制定攻撃、新自由主義的一大資本攻勢が吹きつのっている中で、思想的政治的自由を切り開けるというのだから、改憲阻止決戦からの逃亡、戦闘的・階級的労働運動の創造の放棄を表明したということではないか。
 動労千葉を階級的労働組合ではなく、体制内労働組合にしてしまった大原議案――動労千葉組合員へのこれ以上の冒涜があろうか。
 今日の革共同中央が、まさに社会ファシズム論者になったごとくに、「体制内労働運動との決別」を叫んでいるのは、なぜなのか。よくあることだが、自分が体制内労働運動路線で行くと踏み切ったからこそ、その煙幕としてペテン的な体制内労働運動批判をやっているということなのである。

●経済主義の古典的な全特徴がある

 大原議案は、閉鎖的な党づくりの自己目的化と表裏一体で、総路線を経済主義へと純化させた。改憲阻止決戦の突入にはっきりと背を向ける形で! 次の展開は、疑問の余地なく経済主義を表明している。重要なところなので、長くなるが引用する(注:(イ)(ロ)(ハ)は引用者がつけた)。

「この様な改憲決戦―安倍政権との激突に際し、職場攻防と国会闘争等の街頭闘争を分けて、あたかも後者が優先することが戦闘的であるかの様な傾向(イ)、あるいはこれと裏腹に自己の職場を階級的激突点として措定しない傾向(ハ)と根本的に決別しなければならない。
 賃金奴隷制そのものとの自己解放的激突を抜きに、労働者階級の政治的自由が成り立ち自己解放があるなどというのは、ブルジョア的幻想なのだ。改憲攻撃と8時間労働制の解体は、正に労働者階級の政治的自由の強制的物質的完全剥奪の攻撃としてひとつなのである。これはマルクス主義のイロハである(イ)。
 職場における資本との闘い―労働者の怒りを体制内的職場内的に押しとどめようとすることは、賃金奴隷制の廃止―プロレタリア革命を彼岸化する経済主義であり、敗北に追いやることにしかならない。その延長に階級の解放など無いのだ。したがって、職場攻防で資本とその擁護者である体制内労働運動の支配と激突することと政治的決起―街頭闘争は、プロレタリア自己解放闘争として一体不可分なのだということをはっきりさせなければならない(ハ)。
 自己解放とは、ブルジョアの物質的イデオロギー的支配から自由になるということであり、だからこそ人間の根源的力を解き放っていくということなのである。繰り返すが、日帝安倍政権は、労働者階級から職場における階級的団結=階級的自由と街頭における政治的自由の一切を剥奪しようとしているのだ。党は、このブルジョア支配からの階級的自由を意識的に形成しなければならないのである(ロ)。
 したがって、ストレートに言えばMWLのように闘うということであり、3・18で切り開かれたMWL―MSLを軸とする青年・学生の決起とこれに対する反動に勝利し抜くことが改憲決戦の核心なのだということである。この革共同的到達地平を土台に4大産別攻防を軸に労働者階級の組織化に切り込んで行くということである(ハ)。」(第3章B)

 一つは、(イ)の部分が示すように、日本階級闘争が歴史的な改憲阻止決戦に突入したことを百も承知で、職場闘争優先論をふりかざし、“職場闘争抜きの政治闘争―改憲阻止決戦などありえない”と主張している。まさに2段階論である。そのペテンは、どこまでいっても優先順位第2段階目にあるはずの「国会闘争・街頭闘争・政治的決起・労働者階級の政治的自由のための闘い・改憲決戦」をどう闘うかがまったく出てこないことである。政治闘争――とりわけ改憲阻止決戦、その広範な闘う大統一戦線――は永遠の彼岸に追いやられた。
 二つは、(ロ)の部分に明らかだが、“職場闘争によってブルジョアの物質的イデオロギー的支配から自由になることができ、自己解放できる”、“だから資本との闘いである職場闘争こそ、階級的自由実現のための第一義的意義をもつ闘いである”とするのである。そうするとここでも政治権力奪取の闘いは無用とされてしまう。
 三つは、(ハ)の部分だが、職場闘争に最大級の政治的意味付与をしている。職場闘争それ自体がそのまま政治闘争であるかのように言いつのる。いわく。“職場闘争は、賃金奴隷制との自己解放的激突である”、“職場闘争は体制内職場内に押しとどめるものでなく賃金奴隷制を廃止するものである”、“職場闘争は政治的決起と一体不可分である”、“青年・学生が闘っているように職場闘争を闘うことが改憲決戦の核心である、11月労働者集会が最高の改憲阻止決戦である”……。
 そうなると、全面的政治暴露をやらなくてもいいことになり、政治闘争―改憲阻止決戦を取り組む必要もなくなってしまう。

 さらに付け加えるなら、今は動労千葉以外に労働組合の拠点がない、今は理論闘争・政治闘争・経済闘争を全面的に展開する能力がない、今は党的一致がないという、「3ない」論を持ち出して、100lの全力を労働組合運動に投入するしかないとしているのである。それでは、いつまでたっても経済主義の所をぐるぐる回っているだけではないのか。

 かくして、それは、「職場闘争=経済闘争=労働組合運動が一切」主義だということである。そういうのを経済主義、それも古典的な経済主義というのではないのか。  そしてその丸出しの経済主義が「労働運動で革命をやろう」路線の中身なのである。約90枚におよぶ長大な大原議案書には、「労働運動で革命をやろう」を直接に積極的に意義づける展開はない。大原氏その人は、「労働運動で革命をやろう」というスローガンにいたって淡白というか冷淡なのである。それもそのはずである。その「革命」が空文句であり、政治的詐欺であることを、経済主義者・大原氏が一番よく知っているからである。

●経済主義とはどういうものか

 レーニンは『なにをなすべきか』で経済主義の実例として、『ラボーチェエ・デーロ』の論文から次の引用をしている。

(イ)「政治的要求は、その性質上全ロシアに共通であるが、しかし、はじめは当該の労働者層が経済闘争からひきだした経験に合致するものでなければならない。この経験にもとづいてのみ、政治的扇動に着手することができるし、また着手しなければならない。」(同ペ・クリチェフスキー論文)
(ロ)「マルクスとエンゲルスの学説によれば、個々の階級の経済的利益が歴史上決定的な役割を演じるのであり、したがって、とくに自己の経済的利益のためのプロレタリアートの闘争が、プロレタリアートの階級的発展と階級闘争とにとって第一義的な意義をもたなければならないということを、いやしくも社会民主主義者で知らない者があろうか?」(同論文)
(ハ)「いま社会民主主義者が当面している任務は、どうやって経済闘争そのものにできるだけ政治性をあたえるか、ということである。」(同マルトィノフ論文)

 (イ)について、レーニンは「政治闘争における段階論」「“おずおずとジグザグ進んで”の理論」と批判したのである。
 (ロ)について、レーニンは「プロレタリアートの基本的な経済的利益は、ブルジョアジーの独裁をプロレタリアートの独裁とおきかえる政治革命によってはじめて満足させることができる」として、「経済闘争(=労働組合闘争)が第一義的な意義をもつという結論には決してならない」と批判を加えた。
 (ハ)については、「警察の圧制や専制の暴虐」「農村司政長や農民の体罰、役員の収賄や都市『庶民』にたいする警察の扱い方、飢えた人びとに対する闘争や知識と学問を求める人民の渇望にたいする迫害、税金のむごい取り立てや異宗派の迫害、兵士の厳しい訓練や学生と自由主義的インテリゲンツィアの兵籍編入」を挙げ、「労働者が日常生活で無権利や専横や暴力に苦しめられる場合全体のなかで、まさに労働組合闘争で警察の圧制をこうむる場合がほんの一小部分を占めるにすぎないことは、疑いがない」とし、経済主義者が「経済闘争そのものに政治性を付与する」と主張することを、「あらかじめ政治的扇動の規模をせばめること」と厳しく批判した。
            (『なにをなすべきか』第2章(b)、第3章(a))

 こうしてみると、大原議案の経済主義(イ)(ロ)(ハ)は、古典的な経済主義の全特徴(イ)(ロ)(ハ)をかねそなえた、まさに古くて新しい、絵に描いたような経済主義そのものだということが、この上なくはっきりした。
 同時に、はっきりさせられたことは、07年新年号で打ち出された「階級的労働運動路線」とは、革共同のこれまでの綱領的立脚点と戦略的総路線を完全に破棄し、それに代えて、体制内のずぶずぶの経済主義を総路線に祭り上げたのだということである。  それはなぜか。日本階級闘争が、日帝・安倍=御手洗路線とその核心をなす「戦後レジームからの脱却」、憲法改悪=新憲法制定の大攻撃との死活をかけた歴史的大決戦に突入したがゆえに、そこから敵前逃亡するためでなくて、他にどういう理由があるだろうか。

 その大原議案が、関西地方委から出されている諸意見に対して「経済主義だ」などと罵詈雑言をあびせることは、お笑いにもならない。

●「体制内労働運動との激突」が唯一の実践方針

 では、大原議案の経済主義を今日の激動する階級情勢に対応して実践すると、どういうことになるのか。

「正にいつどの様な形で大破局―革命的激動が到来するか分からないのだ。……レーニン主義的オーソドキシーを貫徹し『帝国主義論』(「秋月論文」など)で徹底武装し『労働者階級の組織された闘争』を決定的意識的に対置しなければならないのである。全党は、その革命的組織者としての指導部をこの中で猛然と育成していかなければならないのである。」(第1章H)
「07年の日本階級闘争の大地にMWL1000名、MSL1000名の日本革命の主力突撃部隊・革命家集団を登場させることがどれ程決定的なことかがはっきりするのである。正に日本革命の展望は、ここにあるのであり、それ故にここをめぐって激しい反動が襲いかかっているのである。」(第2章@)
「その最も重要な核心はこの様な青年・学生の部隊は、階級の桎梏である体制内労働運動・勢力の思想との不退転の激突・決別として生み出されてきたということなのである。」(第2章A)

 そこで言う「労働者階級の組織された闘争を対置せよ」が、職場闘争=経済闘争=労働組合運動を意味することは、これまで述べてきたことから明らかである。ところが、では一体何をどう実践するのかという方針が、大原議案や毎号の機関紙上には、1点をのぞいてまったくないのである。その1点というのが「体制内労働運動との激突・決別」なのである。しかしそれは、今日の戦闘的・階級的労働運動をつくり出し推し進めるものではない。

●実は職場闘争をやらない「階級的労働運動路線」

 「体制内労働運動との激突」方針は、1928年から1930年代のスターリン主義コミンテルンによる社会ファシズム論・社民主要打撃論とほとんどそっくりである。
 なぜなら、一つには、敵階級=資本の攻撃および労働者階級の状態を全面的に対象化しようとしておらず、現実の生きた階級情勢を具体的につかもうとしていないからである。

 1975年世界同時恐慌とその後の80年代・90年代不況を転機として、帝国主義は、世界史的危機を深め、帝国主義ブロック形成へ突き進んでいる。米帝がその先頭に立って、資源と市場と労働力を争奪する争闘戦を激化させ、資本市場・金融市場での資本の野放図な移動を通して巨大資本間の死闘戦を展開するとともに、大規模な植民地主義的侵略を拡大している。帝国主義の国家財政は例外なく破綻してしまっている。
 01年9・11反米ゲリラ戦を突破口に全世界的に階級闘争・民族解放闘争の激化が切り開かれていることに対して、対アフガニスタン・対イラクを基軸とする新しい残虐な帝国主義的侵略戦争の時代が引き寄せられた。今や、イラン、北朝鮮への侵略戦争への拡大が超切迫している。
 それらに規定され、日本でも、帝国主義下の労資関係の反革命的転覆の攻撃が極限的に進められている。労働者階級の労働と生活と権利への破壊が強まっている。闘う労組・労働者へのデッチあげの治安弾圧が著しく激化している。新自由主義(ネオリベラリズム)という形で、民営化・規制緩和・民間開放―生産性向上の攻撃がエスカレートしている。職場を改憲勢力化・愛国心攻撃が覆わんばかりである。

 こうした中で、日本の労働者にとって、端的に言って、韓国・民主労総から提起された日韓FTA(現在的にはEPA)締結阻止の闘い、中国やインドネシアやインドなどの当該国労働運動禁圧を水路とする植民地主義的侵略を阻止する闘いは、自らの労働と生活と権利のための闘いと不可分一体ではないのか。これ自体が、労働者国際主義をかけた必須の連帯闘争ではないのか。この課題のネグレクトをいつまで続けるというのか。
 1800万人におよぶ不安定雇用の非正規労働者への低賃金、深夜労働、残業、解雇自由、労災適用外などの労働苦、生活の不安を一つ一つ改善させる闘いは、今日の労働運動の最大のテーマの一つではないのか。
 ほかならぬ4大産別において厖大な非正規労働者群が構造的に抱え込まれてきているではないか。4大産別の本務労働者こそが、非正規労働者の賃上げや使い捨て反対など労働条件改善のための闘いを真っ向から掲げないでおいて、これらの闘いを抜きに自らの賃闘・反合闘争、労働条件と権利のための闘いを進めることができるというのだろうか。  その他、深刻かつ切迫した課題は数限りない。そうした中で、大原議案を始めとする革共同の「指導」は、あまりに狭く、内向きで、独善的であり、日本と世界の労働者階級の状態にあまりに無関心・無知というほかない。

 二つには、現場に混乱をもちこむだけであり、職場闘争の基本的・基軸的な方向性を破壊するだけだからである。それは、帝国主義的労働運動の既成指導部やスターリン主義的指導部を真にうち破っていくものとは決してならないからである。
 そもそも聞きたいが、「体制内労働運動との激突・決別、打破」とは何のことか。連合や全労連、全労協と激突するということなのか、それともそれらのダラ幹・労働貴族と激突するということなのか。体制内労働運動と決別してどうしていくというのか。
 また他方では、「63年3全総へのラセン的回帰」と言っているが、3全総で「戦闘的労働運動の防衛と反幹部闘争」を提起したこととの関係では、どういうことなのか。3全総当時の総評も体制内労働運動ではなかったのか。
 さらに、「国労・全逓・自治労・教労の4大産別決戦」「4大産別の改憲勢力化阻止」と言うが、4大産別は体制内労働運動なのか、ちがうのか。4大産別決戦とは、体制内化した4大産別のそれぞれの既成労組と決別する決戦なのか。
 加えて、11月労働者集会へのカンパニア主義的動員戦を最大の方針にし続けることは、日常の職場闘争をそっちのけにすることしか実際には意味しないではないか。
 いわば職場闘争の垂直的対決方向が何もなくて、水平的関係の打破だけを押し出すようなことを、大原議案を始めとする革共同中央の「指導」は、やっているのである。
 だが、3全総は、労働運動の戦闘化のための闘いを推し進めることなしに社・共をリアルにのりこえることはできないこと、当時の党の内部にあった極左空論主義と組織的セクト主義を克服することなしに職場労働者の内部へ定着化していくことはできないことを提起したのであった。それは、そのまま現革共同中央に投げつけられているのではないのか。
 かつてのスターリン主義コミンテルンの社会ファシズム論がそうであったように、現場の党員は、正面の階級敵と対決するものでないために、垂直的対決方向を見失って大混乱し、一種ファナティックになるだけである。それでは、帝国主義的労働運動、その既成労組幹部、その制度・政策要求路線、その改憲勢力化と大政翼賛や愛国主義・排外主義・差別主義とはけっして闘うことができない。

●“1000人プラス1000人の観念論者をつくれ”

 三つには、結局のところ「革命的組織者=指導部=1000人プラス1000人の青年・学生」を体制内労働運動との激突を通して登場させること、それが到来する大破局に向かって、07年に実践すべき党的対応だというからである。今は革命情勢にあるなどと言いながら、その中で一切を党づくりに集中するというのである。
 だめ押し的にあと二つ引用する。

「革命情勢の接近に対する党の最大の課題と任務は何か。ブルジョアジーの支配と意識的に闘い、自由を切り開いた革命的階級的指導者―職業革命家の育成にこそある。」(第5章C)
「……そのために、党自身がブルジョア支配とその自然発生的現れと意識的徹底的に闘い、一層自由にならなければならないのである。ここに党の最大の意識性が置かれなければならない。」(第8章@)

 大原議案は、“革命的階級的指導者づくりが革命運動だ”と言ったのである。ここまで徹底した党づくりのための党づくりを、全編いたるところで呪文のように繰り返しつぶやいているのである。<党のための闘いと党としての闘いの統一>という、革共同の優位性であった理論と実践はなんら顧みられていない。観念世界の中での党づくりの自己目的化こそ、大原議案の最大の狙いなのだ。
 革共同創成以来のかけがえのない同志たち、60年代世代や70年世代の活動家を「古い者は若い者の肥やしになれ」と、お払い箱にして、1000人プラス1000人の青年・学生をブルジョア支配から自由となった観念論者にしようという運動が、大原議案から出てくる実践活動なのである。
 現代の青年・学生をまさにカルト運動に駆り立てようとは、これほど闘う青年労働者運動・学生運動を冒涜するものがあろうか。

●“中野洋氏崇拝者集団をつくれ”

 大原議案のきわめつけは、このカルト運動には崇拝対象がいると明言したことである。

「階級的労働運動路線は、階級的革命的指導者の全国的形成によってプロレタリア革命の道を切り開いていくという路線である。すでに職場実践に突入したマル青労同の同志たちはそのように主体的に向き合い、自己を革命的指導者として打ち立てようとしているのである。安田同志を崇拝しているのではなく、安田同志のようになろうとしているのである。この接近の仕方・読み方が正しいのだ。」(第5章D)

07年新年号で打ち出した「階級的労働運動路線」なるものは、実は<中野洋氏崇拝運動>であるというのである。革共同のもとに組織した青年労働者・学生を中野氏崇拝者集団にするというのである。何とあけすけなことか! 何と破廉恥なことか!
 しかし、このことが明言されることで、「階級的労働運動路線」の体系は自己完結したのである。中野毛沢東のもとに新しいカルト的紅衛兵運動を起こすものであることが、ついに明らかにされたのだからである。

●黒田カクマルの「本来の戦線」論と瓜二つの構造

大原議案は、以上述べたすべてのことから、そして読者がすでに十分に感じ取っているように、<4周遅れの黒田イズム>そのものであることを、心底からの怒りを込めて断罪されなければならない。
 革共同中央が唱える「階級的労働運動路線」とは、まさしく黒田カクマルのかの「本来の戦線」論と瓜二つの構造を取っているのだ。
 黒田カクマルは何と言ったのか。

(α)「中核派は武装蜂起妄動主義者である。それは“はみ出し”にすぎない。
(β)「既成の労働組合運動の中での体制内左翼として社・共とせりあっていくのがわれわれカクマルの本来の戦線である。」
(γ)「大衆運動と革命運動は区別されなければならない。」
(δ)「革命闘争とは、場所的現在においては党づくりである。」
(ε)「党派闘争の論理と倫理にのっとって他党派解体に決起する。」

 黒田カクマルは、一方では、体制内左翼として、既成労働運動に寄生し、依存し、没入する経済主義・組合主義を展開しながら、それを「左翼的・革命的のりこえの論理」あるいは「体制内にありながら体制をのりこえていく弁証法」などというペテンで正当化していた。
 他方では、「革命闘争とは、場所的現在においては党づくりである」として、黒田崇拝の党建設を自己目的化した。内部に向かっては白色テロルの粛清をくりかえした。
 そして、その両者から「党派闘争の論理と倫理」と称して、「他党派解体」の白色テロルを必然的に押し出してきた。75年3・14本多書記長虐殺の反革命をもってファシスト白色テロル集団として完成した。そしてそれゆえに党的に大分裂し破産をとげた。
 中野氏、天田氏、大原氏、そして清水氏らが、こともあろうに、その黒田カクマルの後塵を拝するとは、恐るべき裏切りであり、とうてい許される所業ではない。本多書記長とそれに連なる者すべての存在と誇りにかけて、徹底的に弾劾する。

[W]諸戦線解体はプロレタリア革命運動の自殺行為

●7・7路線=血債の思想を清算するのか

 革共同中央が、大原議案をもって、経済主義(しかも闘わない経済主義!)を総路線としたこと、および閉鎖的・独善的なカルト集団の道へと転落したことは、帝国主義的排外主義・差別主義と闘わない組織となることと表裏一体である。
 それは、党の諸戦線(差別・抑圧と闘う諸戦線の闘争委員会・組織委員会)を解体し、地区党に再編(移行)する組織方針として具体化されている。
 革共同中央が「階級的労働運動路線」で行くためには、諸戦線があってはならないのである。諸戦線は、党が7・7自己批判路線=血債の思想を貫徹し発展させていく上での組織的保障である(もちろん諸戦線だけが組織的に保障するのではない)。このことは新規約にも明記されたところである[第3条(2)項]。この諸戦線を解体しなければ成り立たないのが、階級的労働運動路線なのである。革共同中央は、まさに、階級的労働運動路線をとるのか、諸戦線をとるのかと、全党に絶対的な二者択一を迫り、恫喝している。その諸戦線解体が、大原議案のいま一つの重大な政治目的となっている。
 大原議案は、関西地方委から出されている痛切な異議・異論をすべて「糾弾主義」とまとめ上げ、それに対して露骨な経済主義(経済主義・組合主義・合法主義)の居直りで攻撃している。その経済主義の前に諸戦線は屈服せよと恫喝している。本当に乱暴で強引な議論の仕方である。
 同時に、大原議案は、経済主義と糾弾主義の対立という不毛きまわる議論の土俵に、全党を引き込み、経済主義が力まかせに糾弾主義を組み伏せる様を演出しているのである。

したがってそこでは、7・7路線=血債の思想を清算するという意図がはっきりと語られている(大原議案では「7・7自己批判」「7・7路線」「血債の思想」という表現自体がまったく出てこない)。
 さらに党のあり方として、ここでも異様なまでの排斥・粛清の論理がとられている。諸戦線は、党中央とその階級的労働運動路線に対してたえず異議を申し立てる組織的温床となっている、ならば諸戦線を解体せよという論理である。それは、もう党内民主主義の破壊運動だと言わなければならない。

 諸戦線を解体し、7・7路線=血債の思想を放逐して成り立つ階級的労働運動路線とは一体何なのか。
 そんな路線を総路線にする党が、プロレタリア自己解放、共産主義を語る資格があるのか。そんな党を、闘う被抑圧民族・在日被抑圧民族人民が信頼するだろうか。部落大衆、沖縄・在本土労働者人民、「障害者」、被爆者、プロレタリア女性・女性大衆、アイヌ民族が信頼するだろうか。
 革共同中央は、今、自分たちがやっていることは、プロレタリア革命運動の自殺行為であることを知らなければならない。

●諸戦線解体の手口とは

 大原議案は、ここでも、非常に卑劣な政治的詐欺の手口を使っている。
(@)諸戦線を解体すること、差別糾弾闘争を否定し去ることを目的にし、さらに7・7路線=血債の思想を党内外から放逐することをも目的にしている。
(A)そのために、まず06年「3・14」を政治主義的に利用している。95年の仁村和義論文および革命的部落解放闘争の現実の闘いに対して、そしてまた党内での具体的な差別をめぐる思想闘争に対して、そこにはらまれている限界性や過渡性をもって路線的誤りであると決めつけ、罵倒している。
(B)いわば狭い労働者主義ではないことをアピールしている。
(C)プロレタリア革命運動および党として、差別に対して意識性をもつことを強調している。
(D)プロレタリア革命の中には差別との闘いが内在していると強調している。だから職場闘争をやれば自動的に差別との闘いになると強弁し、そのことを疑うのか、と切り返している。
(E)そのプロレタリア革命が勝利することなしに差別からの解放はないと言い、プロレタリアートへの絶対的確信をもてとやる。
(F)労働運動をめぐる攻防が、差別問題を含めて、一切を決めるのだから、諸戦線の活動家は4大産別決戦を始めとする労働運動の利益のためにすべて地区党に移行せよとやる。
(G)以上のような論立てと組織方針に反対することは、糾弾主義である、労働者階級への絶対的不信である、プロレタリア自己解放の思想がわかっていない、と恫喝する。

つまり、プロレタリア革命の基軸性・普遍性、あるいはプロレタリア自己解放が狭い特殊的利害のための闘いではないことを強調することで、革共同の党員なら、とても反論できない状況をつくり出しつつ、その強調をもって、差別・抑圧との闘いの解消、諸戦線の解体を押し切っているのである。
 それは、本当にとんでもない政治的詐欺である。それは、革共同が継承し発展させてきたはずのマルクス主義・レーニン主義の共産主義の思想、反帝国主義・反スターリン主義の綱領的立脚点、7・7路線=血債の思想を改ざんし、決定的なところで清算をはかるものなのだ。とくに、前記の(B)(C)(D)(E)にかんして、それがある。

●プロレタリア自己解放の根本思想について

 「党はマルクス・レーニン主義に徹底的に基づきプロレタリア革命路線を全人民解放路線として統一的に形成しなければならないのである。諸戦線は、プロレタリア革命との切断ではなく、意識的な統一の形成によってはじめて自己解放への路線的展望が生み出されるのであり、革命党の諸戦線として維持され発展していくのである。」(第7章B)

 この部分は正しいだろうか。まさしく大きな歪曲と誤りがある。
 同じような趣旨、トーンの文章は他にも出てくる。
「階級が自己解放的に立ち上がり、ブルジョア支配を打ち倒さずに、すべての人民が差別から解放されることなどあり得ない。」(同章B)、「根底的解放への道を閉ざしてはならない」(同章A)、「全人民解放を実現する」(同章C)

労働者階級の特殊的解放は、同時にあらゆる人間の抑圧・差別からの解放、すなわち普遍的・全面的解放として実現される(革共同の新規約前文)ということを、そこでは言おうとしていると、受け取っておこう。では、特殊的階級的解放を普遍的解放として実現するためにはどうするのか。
 そうするには、労働者階級自身が、党を媒介としつつ、あらゆる人間の普遍的解放を課題・使命として闘うことが求められているのである。党だけが意識的・自覚的に普遍的解放の闘いを進めるのではない。党を最高の団結形態とする労働者階級自身の事業として、この闘いを進めるのである。労働者階級はそれができる階級なのである。
 言うまでもなく、この核心点は『共産党宣言』の思想である。

「搾取され抑圧されている階級(プロレタリアート)が、彼らを搾取し抑圧する階級(ブルジョアジー)から自分自身を解放するためには、同時に全社会を、搾取、抑圧、階級闘争から永遠に解放する以外にない……。こうした根本思想は、マルクスただ一人に属するものである。」
(エンゲルス『共産党宣言』1883年ドイツ語第3版への序文)

エンゲルスのこの文章は、「……同時に全社会を、……永遠に解放することなしにはもはや不可能である」というかなり強いニュアンスがある。いずれにせよ、マルクス・エンゲルスは、プロレタリアートが自らを解放すると同時に、全社会を、搾取、抑圧、階級闘争から永遠に解放するという世界史的使命と確信を高らかに表明しているのである。  また言うまでもなく、「今日、ブルジョアジーに対立しているすべての階級の中で、プロレタリアートだけが真に革命的階級である」(『共産党宣言』第1章)という確信に立つがゆえに、労働者階級は人間の全人間的解放を自らの事業として闘えるのである。

●反スターリン主義・革命的共産主義運動と7・7自己批判

 反スターリン主義・革命的共産主義運動は、プロレタリアート自己解放のこの根本思想を、スターリン主義による歪曲と破壊をうち破って、継承・復権してきた。そういうものとして、7・7自己批判を<第2のハンガリー革命的衝撃>と受けとめ、この苦闘をテコにして、7・7路線=血債の思想をプロレタリアート自己解放の根本思想の深化・進化として位置づけてきた。
 そして、血債の思想と革共同が呼んでいる立場が、レーニン主義とロシア革命およびコミンテルンの闘いにおいて、すでに実践の中で提起されていたことも、つかみなおした(レーニンの「遺書」、コミンテルン第2回大会後の東方諸民族会議など)。
特殊的階級的解放は、同時に普遍的・全面的解放として実現される――このことは、理論的確認にとどまるものではなく、実体的な生きた階級的諸関係として明確にされなければならない。このことを、革共同は、7・7自己批判を始めとする反スターリン主義・革命的共産主義運動の歴史的経験と、労働者階級を始め被抑圧民族、被差別人民の現実の闘いから学ぶことによって、つかんできた。

●労働者階級解放と普遍的解放の構造を破壊

大原議案にもどるなら、「プロレタリア革命路線を全人民解放の路線として統一する」ためにはどうするのか。大原議案では、非常に露骨に、「諸戦線が意識的な統一を形成する」とだけ言っている。労働者階級は統一の努力はしないのである。つまり、統一ではなく、労働者階級の傘下に諸戦線(その背後には厖大な被抑圧民族、被差別人民がいる)は入れということを、言っているのである。労働者階級が全人民解放の闘い、差別・抑圧との闘いをまったくしないでおいて、労働者階級のもとに結集せよというのだから、それはほとんど従属を強制するものである。
だが、それでは、労働者階級が本当に基軸になることはできない。

革共同の7・7路線=血債の思想の実践的立場からすれば明らかだが、大原議案のエセ「統一」論には、<援助される>という措定がまるでない。
 プロレタリア世界革命を実現するための闘いにおいて、帝国主義を打倒する基軸的・最後的な決着をつけるのは労働者階級をおいてほかにはない。この闘いにおいて、労働者階級は、被抑圧民族とその民族解放戦争による援助を必要としているのである。それなしには最後の勝利はえられない。レーニン・コミンテルンの時代には、この認識は明確にさせられていた。今、9・11情勢以後の国際的な階級情勢においては、この認識は一層強められなければならない。
 ところが、大原議案は、プロレタリア革命=プロレタリア世界革命において、基軸たる労働者階級は、被抑圧民族の民族蜂起を自らへの援助として受けとめ、ともに一つの軍勢となって闘うのだという、現実的な実践的立場がまるでない。驚くべきことだ。
 それぞれの国における労働者階級と被差別人民の関係も同じような論理があり、労働者階級は被差別人民の援助を受け、ともにプロレタリアート独裁権力を樹立するのである。

 いま一つ、大原議案のエセ「統一」論では、<連帯>の規定が完全に否定されている。

 労働者階級は、他民族を抑圧する民族は自由ではありえないという古くて新しい国際主義の立場、血債の思想に立ち、とりわけ自国帝国主義に対する民族解放闘争を支持し、連帯し、ともにその勝利のために闘うのである。ここには、被抑圧民族の決起は自らの決起を求める告発であると受けとめて学ぶという契機、償うという契機、民族解放闘争を自らの課題として闘い支援・防衛するという契機が含まれている。
 大原議案には、どこをどうひっくり返しても、労働者階級は戦争を不可避とする帝国主義の最後の武器である排外主義・差別主義と闘うという表明が出てこない。闘う被抑圧民族人民と連帯するという確認が出てこない。被差別人民の解放のための闘いをともに闘うという表明が出てこない。それでいて、“諸戦線は4大産別決戦の配置につけ”ということだけくり返しているのである。連帯するか連帯しないかという次元ですらない。被抑圧民族人民、被差別人民の存在も闘いもまるで視野にないのである。

 労働者階級は、共産主義社会の樹立、人間の全人間的解放の達成のための闘いにおいて指導的階級である。それは、資本主義社会を根底から転覆できる唯一の階級=墓堀人だからである。同時に、他の諸階級・諸階層、他民族の闘いを自らへの<援助>として措定でき、その闘いへの<連帯>に立ち上がることができ、それを通して根本的なところでの<信頼>をかちえることができ、プロレタリア革命が基軸的であることを<説得>できるからである。そうした時、プロレタリア革命、プロレタリアート独裁がすべての人びとにとって画然たる魅力あるものとなり、すばらしい求心力を持つものとなるのだ。
 ここに労働者階級の特殊的階級的解放が同時に普遍的・全面的解放となる生きた弁証法的構造があるのである。
 大原議案がイメージする唯我独尊の労働者階級、自らへの従属を強制する労働者階級などというのが、プロレタリア革命・プロレタリア自己解放闘争とはまったく正反対のものであることは、あまりにも明らかである。

●労働者階級への絶対的確信を失った大原議案

 ほかにも多くの問題があるが、指摘に止める。 1,労働者が資本と闘う職場闘争をやれば自動的に排外主義・差別主義から自由であるとするのだが、そんなことはない。

2,大原議案は、集中的な攻撃対象を部落解放戦線と「障害者」解放戦線においている。

 労働者階級の方が部落民や「障害者」より格が上だという態度がふんぷんと匂ってくる。
 部落差別とは何か、部落解放闘争とは何か、「障害者」差別とは何か、「障害者」解放闘争とは何か、がまったくゼロである。

3,差別を、帝国主義の差別=人民分断支配としてではなく、労働者が部落民を差別する、「障害者」を差別するという関係でのみ、とらえている。つまり差別を差別意識にすりかえている。
 それは糾弾主義の裏返しである。労働者が差別糾弾で追及されることへの恐怖、自己批判の拒否が、そこにはある。

4,差別問題、差別との闘いの問題をテーマにしているはずなのに、民族差別すなわち帝国主義と民族・植民地問題、抑圧民族と被抑圧民族の分裂の問題、新たな帝国主義的侵略戦争の時代の問題、在日・滞日アジア人民の存在と闘いの問題、民族解放・革命戦争の問題、労働者国際主義の問題、日帝における独特の民族問題である沖縄問題、歴史的な日本―沖縄関係の問題、沖縄奪還綱領の問題……について一切ふれていない。

5,労働者階級として、かつ党として、帝国主義の最後の武器である排外主義・差別主義をうち破って闘う任務も、差別=人民分断支配と闘い、差別撤廃を実現するという表明も全然出てこない。

6,労働者階級とその根底的決起への確信がない。
 長きにわたるブルジョア社会と帝国主義の世界支配・階級支配のもとで、かつスターリン主義や社会民主主義の裏切りによって、排外主義・差別主義に汚染されていても、侵略戦争と虐殺に動員されても、差別に加担しても、労働者階級は、必ず脱却して、労働者階級解放=人間の普遍的解放の闘いに決起することができる。この不動の確信が実はまったくない。
 7・7自己批判、血債と言うと、労働者は十字架を背負っているのかと反発する、とんでもない反労働者的・反階級的感性が、その底流に横たわっている。
 それは、左翼的粉飾をとった自虐史観反対論に近いものである。
 大原議案を貫くなら、それは労働者階級の名による同化主義・融和主義に転化する。

おわりに:清水氏は党内民主主義の破壊者になるのか

 大原議案のとてつもない誤りは、それをそのまま進めるなら、歴史的な一個の階級的犯罪となる。
 「党内民主主義を要求するのは反レーニン主義である」、「党は自由な観念世界につくられる」、「職場闘争をやることが最大の改憲阻止闘争となる」、「中野洋氏崇拝運動が革命運動の課題だ」、「被抑圧民族・被差別人民は労働者階級に従え」、「労働運動・職場闘争を階級的にやれば自動的に差別からの解放となる」………。本当にそんなことを、革共同は新しい戦略的総路線にするのか。清水氏の責任は決定的に大きい。
 ある意味で、綱領問題や戦略路線や政治=組織方針にかかわる提案や意見はさまざまにあっていい。だが、その討議を保障する党内民主主義が意識的・政策的につくり出されていなければ、決して同志的な討議にならず、革命的リアリズムとマルクス主義的・レーニン主義的な原理にのっとった正しい方向が生み出されるわけがない。党内粛清を次から次へと重ねていくだけだ。
 この確認は、20年におよぶ内戦を闘い抜き勝利した地平からの、共同の痛切な組織論的反省だったのではないのか。
 清水氏には、党内民主主義の破壊者となって、<歴史的存在としての革共同>を自ら葬り去るのかどうかが問われている。
 われわれは、われわれの責任で、現在の党と階級闘争をめぐる深刻な事態への実践的回答を出さなければならないし、必ず出していくであろう。

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