7・7路線を清算した革共同7月テーゼ
動労千葉型労働運動は排外主義・差別主義と闘わない路線
2007年9月

〈目次〉
序 章:議長・清水氏は率先して7・7自己批判を破棄した
  ●革命運動史における最悪の汚点
  ●踏まえるふりして踏みにじる
  ●7月テーゼにはペテンがある
第1章:被抑圧民族・被差別人民に「プロレタリア性を強制する」のか
  ●「並列的に扱うな」「革命は両者の合流ではない」>
  ●連帯ではなく排斥を路線化
  ●帝国主義の世界支配の問題を消去
  ●沖縄奪還綱領と現実の沖縄闘争を追放
  ●階級支配とその柱である差別=分断支配と闘わない労働組合運動
  ●労働者階級と被差別人民はプロレタリア革命の同盟軍
第2章:労働者階級には〈階級形成〉という課題はないのか
  ●「資本と闘えば自らの汚物を自ら払いのけられる」「他者から学ぶ必要はない」
  ●階級形成論を否定して反スターリン主義を反古に
  ●マルクスの階級形成論を全否定
  ●日本階級闘争の敗北の責任にほおかむり
第3章:抑圧・差別からの解放をめざす大衆運動に敵対するのか
  ●「被抑圧民族・被差別人民の利益を捨てよ」「部落民的自覚を自己否定せよ」
  ●労働者の利益を盾にして党内差別を組織化
  ●>諸戦線解消論は日共スターリン主義と同じ反革命の道
第4章:抑圧・差別と闘わない労働運動を美化するのか
  ●指導的階級としての労働者階級の使命と任務を解体
  ●差別糾弾に恐怖する政治局員た
  ●7月テーゼ批判を新たな闘いの共同綱領に

序章:議長・清水氏は率先して7・7自己批判を破棄した

●革命運動史における最悪の汚点

 革共同は『前進』第2306号紙上で「2007年7月テーゼ」と銘うって「階級的労働運動路線のもと7・7思想の革命的再確立を」という論文を発表した。それは政治局署名を付した最重要論文とされており、第23回全国委員総会では正式に採択する決議がされている。内容を吟味すればすぐさま明らかになるが、それは、革共同議長・清水丈夫氏によるこの間のメモや口頭発言を整理して論文化したものにほかならない。
 周知のように、革共同は、1970年7・7問題を〈第二のハンガリー革命的衝撃〉と位置づけ返し、「われわれの共産主義を根底的に問い返し、われわれの革命戦略を決定的に前進させなくてはならなかった」(本多延嘉書記長「偉大な勝利の道」著作選第5巻所収))と確認した。そういうものとして、7・7自己批判路線を自らの党的な立脚点として闘ってきた。70年代以来の20年間にわたる内戦の中にあっても、党的・思想的・路線的に絶対的に重要なものとして、7・7路線を堅持し、貫いてきた。革共同が7・7路線を実践し続けている真摯さとその思想性が、広範な闘う労働者人民や諸党派から党派を超えた信頼を得るものとなってきたことは明らかであった。
 しかるに、この7・7自己批判路線を破壊し、清算することを内外に宣言したものが、この7月テーゼである。
 何ということだろうか! 革共同政治局は、イラク侵略戦争と世界戦争情勢の深まり、ムスリム人民を先頭とする9・11情勢のより一層激しい発展、帝国主義の破滅的・爛熟的で凶暴な展開、9条改憲攻撃の正念場への突入、参院選に示される日帝権力・ブルジョアジーへの階級的怒りの噴出という、今日ここにいたって7・7自己批判路線を清算するという暴挙をなしたのである。
 それは革命運動史上にまさに最悪の汚点をしるすものと言わなければならない。7・7自己批判路線に最後まで拒否反応を示すことしかできなかった中野洋氏や大原武史氏。その彼らに迎合してすりよる清水氏の思想性のなさ。それが如実にさらけ出されている。そのことを、心からの怒りと侮蔑、そして痛恨の思いをもって、ここに弾劾する。

●踏まえるふりして踏みにじる

7月テーゼの核心中の核心は次の言説にある。

「7・7思想の一面的な、誤った理解をきっぱりとのりこえ、克服して進むことがきわめて重要である。第一に、被差別・被抑圧人民も労働者階級と同様に『革命の主体』であるとして、被差別・被抑圧人民の闘いと労働者階級の自己解放闘争を並列的に扱う傾向の問題である。……逆に労働者階級の闘いは、むしろすべてのものにプロレタリア性を刻印し、強制していくことを求める。……」
「第二に、現実の労働者は差別と排外主義にまみれており、これを徹底的に糾弾して正さないと革命の主体として目覚めることはできないという考え方がある。この糾弾主義の誤りをはっきりさせることである。……7・7思想から『学ぶ』という契機のみを独立させて取り出し、それなしにプロレタリアートは階級性を獲得できないとしていくならば、それはマルクス主義とはまったく別のものに転化する。」
「第三に、したがって、差別・抑圧と闘う諸戦線における共産主義者の任務は、党と革命運動の内部において各戦線の利益代表者のようにふるまうことでは断じてない。……」(以上は第Y章)

上記のことを革共同の全党に強制するために、7月テーゼは出されたと言ってもいい。

 そこでは、前段において、「日本の労働者階級の負の歴史と現実」とか「闘うアジア人民・在日アジア人民との真の同志的連帯」とか「入管体制粉砕の闘いを日常的闘争課題としていく」とか「抑圧民族のプロレタリアートが被抑圧民族に対して『償う』という思想と立場に立つ」などということが、さもさものように語られている。しかしそれらの言辞はすべて、第Y章の上記引用部分によって、「踏まえるふりをして実は踏みにじる」ものとされている。
 以下で詳しく検討するが、7月テーゼは、第一に、プロレタリア世界革命と共産主義社会樹立をめざす闘いの革命主体から被抑圧民族および被差別人民を排斥する思想である。「プロレタリア性」の名で党のセクト的利害を被抑圧民族と被差別人民に強制する路線である。
 第二に、帝国主義足下にあり、抑圧民族内部にある労働者階級が排外主義・差別主義をどううち破っていくのか、すなわち自らの階級形成を現実にどうなしとげていくのかという戦略的かつ思想的テーマの追求=実践を投げ捨てるものである。それは、世界とアジアと日本の革命運動の歴史的経験から提起されている幾多の血の教訓をことごとく踏みにじるものである。
 第三に、被抑圧民族出身・被差別人民出身の党員に対して「グルジア人出身でありながらロシア内被抑圧諸民族を圧殺したスターリン」や「在日の金斗鎔(キムドヨン)」となることを強制し、それがいやなら追放するという党組織論へと逆行するものである。それゆえ同時に、あらゆる民族解放の闘い、あらゆる差別撤廃の闘いとその大衆運動に敵対する路線へと逆転換するものである。
 注:金斗鎔は、戦後直後の日共民族対策部副部長。第3章で後述するように、「階級的利益のためには民族的利益をすてよ」「在日朝鮮人は日本の運動の方を向け」という路線を敷いた。
 第四に、総じて、それは、「階級性基軸」論、「階級性への内在化」論をふりかざして、こともあろうに70年7・7差別事件を引き起こしたのと同じ思想的・組織的体質へと日本の労働者階級および党組織を導こうとする恐るべき路線である。
 「労働運動の力で革命を」「体制内労働運動と決別せよ」「労働者に権力をよこせ」と繰り返すだけの「階級的労働運動路線」なるもの。それは革共同がめざしてきた戦闘的・階級的労働運動ではないし、当たり前の労働運動でもない。それは動労千葉崇拝運動とそのカルト集団化である。
 その路線は、革共同の7・7自己批判路線と両立しない。それは7・7路線の破棄を必要としている。ぎゃくにまた、7・7路線清算の立場ゆえに動労千葉崇拝運動に行き着いている。そしてそこでは、政治権力奪取と武装闘争、革命戦争、一斉武装蜂起が完全に投げ捨てられているのである。

●7月テーゼにはペテンがある

 7月テーゼはきわめてペテン的な手法を取っている。そのペテンの特徴は、一つには、党内における偏向をただすと称して、わら人形をでっち上げて、そのわら人形を断罪していることである。もっとも、そのことで7・7自己批判路線を清算するという本音をあからさまにしてしまっているのだが。
 二つには、アジア、中東など全世界の被抑圧民族およびアイヌ民族、沖縄・在本土沖縄人民と、部落民や「障害者」、被爆者・被爆2世・3世、プロレタリア女性・女性大衆を始めとする被差別人民とを「被差別・被抑圧人民」とひとくくりにして論じていることである。それはもとより大きな誤りであるが、あえてそれをやるところに卑劣な政治的詐欺行為がある。
 三つには、「階級的労働運動路線」=動労千葉崇拝運動を正当化する政治・組織目的のために打ち出されたということである。動労千葉崇拝運動とは「労働運動の力で革命を」「職場の団結の究極的拡大が革命だ」「労働者に権力をよこせ」「体制内労働運動と決別せよ」というスローガンで表現されるものだが、まさしく労働運動ならざる労働運動である。その正体が何かということが、7月テーゼには隠しようもなく示されている。
これらの点を念頭において本文を検討していこう。

第1章:被抑圧民族・被差別人民に「プロレタリア性を強制する」のか

●「並列的に扱うな」「革命は両者の合流ではない」

 次の文章には誤りがぎっしりと詰まっている。

「一面的な誤った理解は、第一に、被差別・被抑圧人民も労働者階級と同様に『革命の主体』であるとして、被差別・被抑圧人民の闘いと労働者階級の自己解放闘争を並列的に扱う傾向の問題である。
 差別・抑圧からの解放闘争を考えていく時に最も重要なことは、プロレタリア革命によってこそ初めて、その根本的解決の諸条件が与えられるということである。帝国主義のもとで差別・抑圧されている人民も、そこからの解放を求めて闘うという意味においては解放闘争の主体である。しかしそれは、プロレタリア革命の主体が労働者階級であるということと、同じ次元でとらえることはできない。
 プロレタリア革命とは、労働者階級の特殊的解放をとおして全人間の普遍的解放を実現する革命である。被差別・被抑圧人民の闘いが発展すればおのずからプロレタリア革命になるということではけっしてない。それがプロレタリアートによる階級支配の転覆と思想的路線的に固く結びつくものとして闘われた時に、その闘いが実際に革命の一翼を担うものとなっていくのだ。
 したがって、被差別・被抑圧人民の存在と闘いを労働者階級の闘いと並列して、両者の『合流』として革命を考えることは間違いである。逆に労働者階級の闘いは、むしろすべてのものにプロレタリア性を刻印し、強制していくことを求める。それは、プロレタリアートの解放は全人間の解放であり、労働者階級だけが唯一、階級社会を止揚した新たな社会を生み出すことができるという、プロレタリア自己解放闘争の本質にもとづいている。」(7月テーゼ第Y章)

●連帯ではなく排斥を路線化

 7月テーゼは、そこで、まず被抑圧民族について、労働者階級と「並列的に扱うな」「主体と言っても同じ次元でとらえるな」「合流する相手ではない」と言っている。つまり被抑圧民族はプロレタリア世界革命の革命主体ではないと言って、そこから排斥するのである。「階級的労働運動路線」は被抑圧民族と連帯しないというのである。とんでもないことだ。
 20世紀におけるレーニン・ボルシェビキの勝利とコミンテルンの結成は、国際労働運動の苦難の経験の中から結実した地平であった。第1次世界大戦に際して第2インターは祖国防衛主義のおぞましい堕落をとげた。帝国主義諸国の階級対立の激化、労働運動の革命的高揚、帝国主義戦争への突入のもとでの血の敗北、労働運動の帝国主義的労働運動化という重い現実の構造化。そうした帝国主義諸国の階級闘争の現実を直視し、それを教訓化し、のりこえるための苦闘がレーニンの指導の下に強力に積み重ねられた。  そして、コミンテルンは、帝国主義諸国の労働者階級の闘いと対等の位置と役割をもつものとして、被抑圧民族の民族解放・革命戦争を意義づけた。「万国の労働者と被抑圧民族は団結せよ」というスローガンが、1920年のコミンテルン第2回大会と東方諸民族会議の討議の後から、掲げられた。そのことで、プロレタリア世界革命の実体的主体と勝利の現実性が明らかにされた。
 レーニン時代のコミンテルンでは、
(1)帝国主義とは世界戦争と世界革命の時代であるという時代認識を鮮明にさせた。
(2)帝国主義を打倒する世界革命の最後の結着は帝国主義諸国労働者階級の決起によって以外ないこと、第2インター的な帝国主義的労働運動を打破しなければならないこと、そしてそれは被抑圧民族の民族解放闘争の援助なしには勝利しえないことが、熱烈に語られていた。
(3)抑圧民族の労働者階級は、被抑圧民族に対して民族自決権を完全に支持し、「譲歩と償い」の立場に立たなければならないことが、共同の確認となっていた。
(4)闘う被抑圧民族人民は、労働者階級に対して自らのきょうだいとして相対しなければならないこと、被抑圧民族の共産主義者は被抑圧民族の労働者と抑圧民族の労働者との完全な統一(組織的統一を含めて)のために闘うべきことが、真剣に論じられていた。
(5)後進国・半植民地における革命は、プロレタリア世界革命の一翼としてかちとられるなら、それ自体がプロレタリア革命として、資本主義社会を一気に飛び越して、社会主義・共産主義に移行することが可能だという展望が確信されつつあった。
(6)全世界の闘う労働者と被抑圧民族が結集する多様なコミンテルン(議長ジノビエフは「コミンテルンは10人10色だ」と語った)を、共産主義の全世界的実現をめざす世界党(世界革命党)として建設し、そのもとに世界革命と各国革命闘争を闘うことを宣言した。  プロレタリア自己解放の思想が、20世紀現代において、このように〈万国の労働者と被抑圧民族との団結によるプロレタリア世界革命〉という生きた実体となったのである。思想が現実的な物質力を得たのである。このことを、プロレタリア革命論の決定的な深化=豊富化としてとらえ返すことができる。
 繰り返すが、帝国主義打倒の世界革命において労働者階級と被抑圧民族は対等なのである。21世紀革命は、このことをより力強く発展させる時である。
 革共同政治局に問う。世界革命以外のプロレタリア革命があるのか。諸君らには、せいぜい一国での革命のイメージしかなく、世界革命の立場、世界革命の戦略がまったくないではないか。
 帝国主義と民族・植民地問題を対象化しない世界革命=プロレタリア革命があるとでもいうのか。被抑圧民族の民族解放・革命戦争が発展することを欠いたところに、世界革命=プロレタリア革命があるというのか。そんなものは現実にありえない。01年9・11反米ゲリラ戦争以後の9・11情勢の中で、このことはますます明らかである。21世紀革命の火ぶたを切り、帝国主義の最凶悪の牙城・米帝に攻めかかり、打ちのめしているのは、アルカイーダ、タリバン、ハマスを始めとする13億6000万人のムスリム人民である。世界革命運動のひのき舞台は大きく転回したのだ。この闘いを援軍として、励まされ、ともに米帝打倒、日帝打倒、世界革命勝利へと、帝国主義下の労働者階級は先陣に躍り出る時なのである。
 帝国主義諸国の労働者階級人民は、被抑圧民族と連帯して闘うこと、その連帯をもって帝国主義を全世界的に打倒すること、そこにおいて最後の結着力として闘うことを自己の世界史的使命としているのではないのか。

 

●帝国主義の世界支配の問題を消去

7月テーゼの誤りの根拠には、帝国主義論の歪曲と言うより欠如がある。
 帝国主義は、世界支配という現実あるいは概念をつくりだした。すなわち、帝国主義は、世界を抑圧民族(抑圧諸国家)と被抑圧民族(被抑圧諸国家)とに分裂させた。階級矛盾とからみ合って、あるいは階級矛盾と重なり合って、民族矛盾がいま一つ現代世界を規定するものとなっている。
 本多書記長の論文「レーニン主義の継承かレーニン主義の解体か」は、この帝国主義の世界支配の問題をレーニン死後はじめて理論的=実践的に突き出したのであった。
 帝国主義を打倒するとは、帝国主義の世界支配および階級支配を転覆するということなのである。それは一体であって、帝国主義の世界支配と切り離して、ある一国の階級支配だけを、しかもプロレタリアートだけで、転覆するプロレタリア革命などありえない。万国の労働者と被抑圧民族が団結してこそ世界革命の勝利をわがものとできるのである。  ところが、7月テーゼには、帝国主義の階級支配と表裏一体である世界支配の対象化も、それを打倒する戦略的観点すなわち連帯戦略と内乱戦略も、何もない。打倒対象である帝国主義とは何かがまったくわかっていない。
 そこからどういう問題が起きるか。
 かつて革共同以外の諸党派において自国帝国主義との対決なき、つまり革命的祖国敗北主義の闘いなき安易な合流論が横行したことがあった。被抑圧民族の闘いへの無責任な乗り移りであった。だから、そこでは被抑圧民族の民族自決への支持があいまいにされていた。
 だが、帝国主義による民族差別の撤廃、民族的民主的権利の獲得、民族自決権の行使、すなわち民族解放は、プロレタリア革命の現代史的な戦略的課題である。帝国主義的抑圧民族内の労働者階級は、被抑圧民族の民族自決権を断固支持し、世界革命の一環としての民族解放闘争をともに連帯して闘うのである。
 にもかかわらず7月テーゼは、「すべてのものにプロレタリア性を刻印し、プロレタリア性を強制する」などと言う。被抑圧民族に対してよくもそんな言葉を吐けたものだ。それは、民族自決権を支持しないという以外に何を意味するのか。
そこでは、朝鮮・中国―アジア人民との連帯、ムスリム人民を始めとする世界の被抑圧民族との連帯そのものを否定しているのである。

●沖縄奪還綱領を踏みにじるのか

 7月テーゼが連帯戦略・内乱戦略を否定し去ったことは、直接にも沖縄闘争の追放となっている。
 革共同のこの間の沖縄闘争の諸論文では、「沖縄と本土の労働者階級が自らの職場生産点で資本および国家権力と闘う中で団結し、それを通して分断をのりこえ一つのプロレタリアートとなっていくことが、日帝の沖縄差別の歴史と現実を廃絶していくことである」とされている(『共産主義者』第152号、沖縄県委員会論文など)。
 そこでは、日帝の沖縄差別が空語化され、沖縄問題とは本土労働者と沖縄労働者の分断であると客観主義化されている。そして沖縄の労働者が本土労働者それも動労千葉に学んで職場闘争を起こせば、分断は打破されるとして、職場闘争が万能の解決策とされる。それで終わりである。沖縄米軍基地撤去、日米安保体制粉砕の課題はことごとく追放されてしまっている。
 言うまでもなく、沖縄問題は、戦前・戦後をとおして日帝における独特の民族問題である。今日の日帝において、日米安保体制は沖縄差別を構造化することで成り立っており、戦後憲法体制は沖縄排除・沖縄差別の体制にほかならない。そこでは、歴史的・伝統的な日本―沖縄関係が形態を変えつつも貫かれている。
 沖縄奪還綱領は、日帝と本土―沖縄をめぐる独特の民族的契機を日本革命―世界革命の綱領の中で現実的に解決していく展望をこめたものなのである。沖縄奪還の闘い(沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒の闘い)は、沖縄人民の自決=自己決定権の貫徹の闘いであり、同時に本土労働者階級人民の日帝の沖縄差別・抑圧政策粉砕、沖縄差別の根底的一掃の闘いへの決起なのである。
 70年安保・沖縄決戦以来、知花昌一氏の「日の丸」焼き捨て決起以来、95年の総反乱以来、そして今日の辺野古闘争や今次沖縄参院選闘争など、沖縄人民の自決=自己決定権の貫徹をかけた不退転の決起によって、本土の労働者人民がどれだけ励まされてきたか。このことを革命的衝撃として受けとめないのは、労働者階級とは言えない。
 このようなものとして、革共同は、本土の労働者階級人民と沖縄・在本土沖縄人民との連帯を、闘うアジア人民との連帯とならぶ〈二つの連帯戦略〉として位置づけてきた。
 沖縄闘争においては、レーニン時代のコミンテルンの確認と確信[前記した(1)〜(5)]を踏まえ、それに照らして、日本―沖縄関係の根底的変革を本土・沖縄においてどのように具体的に構築するのか(基地、経済、権利、文化、ソビエトなどにわたって)が問われている。
 ところが、7月テーゼは、沖縄闘争にかんしては、もう一つの連帯戦略としての奪還綱領を否定し去り、沖縄の労働者の職場闘争にすべてを還元してしまっている。要するに沖縄闘争の完全放棄、それと裏腹の沖縄利用主義なのである。

●階級支配とその柱である差別=分断支配と闘わない労働組合運動

 7月テーゼは帝国主義の階級支配をどううち破るのかという視点も立場もない。それもそのはずである。帝国主義の世界支配の問題を没却するならば、帝国主義の階級支配の問題がまったくわからなくなるからである。端的には、帝国主義の階級支配の極致である帝国主義戦争と対決することができなくなる。
レーニンは帝国主義戦争について実践的な規定=階級的批判を加えているが、「この戦争が三重の意味で奴隷制度を強めるための奴隷所有者どもの戦争であるという真実を語らなければならない」と言っている。続けて次のように言う。

「この戦争は、第一に、植民地の分配をいっそう『公平』にし、今後いっそう『仲よく』植民地を搾取することにより、植民地の奴隷制を強めようとする戦争である。第二に、これは『大』国自身の国内での他民族に対する圧制を強めるための戦争である。なぜなら、オーストリアもロシアも戦争によって国内の異民族に対する圧制を強めながら、もっぱらこの圧制によって支えられているからである。第三に、それは、賃金奴隷制を強化し長びかせるための戦争である。なぜなら、プロレタリアートは分裂させられ、おさえつけられているのに、資本家は、戦争で金をもうけたり、民族的偏見をかきたてたり、反動を強めたりすることによって、得をしているからである。」
                  (レーニン「社会主義と戦争」第1章)

 レーニンがあげる第一の点は、帝国主義の外への侵略戦争ということである。ここで注目したいのは、第二と第三の点が、@帝国主義戦争とA国内の異民族への圧制およびB賃金奴隷制の強化のからみあいを突き出していることである。帝国主義は、自国内において異民族への民族抑圧や被差別人民への差別と労働者階級への民族排外主義・差別主義による分断、賃金奴隷制の強化を相互に結びつけつつ、階級支配を貫徹していること、その極致として内への階級戦争が強行されるということである。
 排外主義は、日常的にもまた危機に際しても、階級支配の最後の武器なのである。
 それと結びついて社会的差別は、帝国主義による労働者階級への部落差別、沖縄・在本土沖縄差別、「障害者」差別、被爆者差別、女性差別への動員、差別=分断支配として日常的・体制的に組み込まれている。差別=人民分断支配は、階級支配の不可欠の柱とされている。階級闘争の長い歴史の中で、帝国主義支配下の労働者階級は、その労働と生活と人間関係と意識のすべての中に差別への無知・無自覚、差別への加担・共犯者化という差別主義的腐敗が染みついてきていることをあいまいにしてはならない。
 つまり、資本と賃労働との階級関係は、排外主義・差別主義と無関係なところで純粋な形であるのではないということである。
 したがって、7月テーゼが、被抑圧民族・被差別人民を排除して、労働者階級だけが階級支配を転覆するとか、労働者階級だけが階級支配を止揚すると言いつのるのは、帝国主義の階級支配がもっている抑圧・差別=人民分断支配の構造を意図的にぬり隠すものと言うほかない。それでは、資本との対決、賃金奴隷制廃止の闘いは、空語でしかない。労働運動論として実際には成り立たないものなのだ。
 関連して、動労千葉型労働運動は、非正規雇用労働者への低賃金と劣悪な労働条件などの差別の撤廃、非正規雇用の正規雇用化、非正規雇用労働者との職場・地域を超えた連帯を、労働組合運動の決定的に重要な課題としてけっして掲げない。外国人労働者への常軌を逸した植民地主義的な奴隷化の強要をともにうち破る闘いを、まったく無視し続けている。それは、今日の労働組合運動のあり方に対する時代遅れもはなはだしい。あまりにも腐敗した感性である。だが、それをむしろ美化しているのが、7月テーゼなのである。

●労働者階級と被差別人民はプロレタリア革命の同盟軍

民族抑圧をめぐる闘いと社会的差別をめぐる闘いは、ともに通底する論理があるが、また位相を異にしている。7月テーゼがそれをいっしょくたにしていることは、大きな誤りである。
 7・7問題は、帝国主義的抑圧民族内の労働者階級が在日アジア人民との連帯関係をどう考えているのか、どう形成していくのかという実践的で思想的な問題をわれわれに突きつけた。同時に、日帝下で帝国主義の差別=分断支配と対決して闘い抜いてきた多くの被差別人民の戦列と労働者階級の闘いはどういう関係を形成していかなければならないのかという問題をきわめて切迫した具体的問題として突きつけた。
労働者階級は、部落大衆、「障害者」、被爆者、プロレタリア女性・女性大衆にどう向き合うのか。それは、彼らをプロレタリア革命の主体に獲得すべく闘うことではないのか。「あなたたちはプロレタリア革命の主体ではない。労働者階級と同じ次元にいてはならない」と、7月テーゼのように突き放すことなのか。
 プロレタリア革命の勝利にむかっては、労農同盟があるように、労働者と被差別人民の同盟がなければならない。7月テーゼは、この戦略的テーマを否定したのである。
 さらに、部落解放同盟全国連合会が掲げる「労働者の解放なしに部落の解放なし。部落の解放なしに労働者の解放なし」という宣言的スローガンはまちがいなのか。“両者を並列して扱い、両者の合流としてプロレタリア革命を考えているからまちがい”なのか。否、まちがいであるわけがない。
 これは、部落大衆の側から労働者階級との闘う同盟を結ぼうという熱烈なアピールではないか。労働者階級の側からは、日帝の部落差別を撤廃し、部落民の解放をかちとる闘いは共同の戦略的課題であることを熱烈なアピールとして返さなければならない。  だが、7月テーゼは、“部落解放闘争にプロレタリア性を強制する”と公然と表明している。部落解放を否定したのである。
 7月テーゼとはまったく反対に、部落解放をプロレタリア革命の戦略的課題として闘うことは、共産主義運動を豊かにし強力にする。「部落民はもとより、すべての労働者人民の革命的なめざめにとって、部落解放の闘いが、きわめて重大な革命的水路を形づくっている。」「部落解放の闘いと、共産主義的解放の闘いとは、同時にまた、部落民を先頭とするすべての労働者人民が、自らの奴隷状態を見つめ、その革命的打開のために決起していく上で、相互にはげましあう弁証法的な関係をも形づくっているのである。」(本多書記長「狭山闘争の歴史的な勝利のために」著作選第3巻所収)
 さらにまた、「障害者」解放、被爆者解放、女性解放は、プロレタリア革命の戦略的課題である。これらのことは、党が勝手に否定したりできるものではないのである。ところが、7月テーゼは、抑圧・差別との闘いを日本革命の戦略的課題から引き下げ、放棄した。そうすることによって、日本革命への道を閉ざす役割を果たしているのである。

第2章:労働者階級には〈階級形成〉という課題はないのか

 階級闘争の敗北と腐敗を居直るためのペテンとは、次のような文章のことである。

「第二に、現実の労働者は差別と排外主義にまみれており、これを徹底的に糾弾して正さないと革命の主体として目覚めることはできないという考え方がある。この糾弾主義の誤りをはっきりさせることである。
 資本主義社会のもとでは、労働者階級の階級的な闘いが存在しないところでは、『労働者が最も差別する』という現実も生まれてくる。労働者が侵略戦争に動員されてその手先となることも起こる。しかし労働者階級は、まさに労働者階級であることによって本質的に階級意識に目覚め、自己を変革し、革命に向かって進むことができる力を自己の内側にもっているのだ。そして労働者階級は、賃金奴隷制の転覆を求めて資本との闘いに階級として立ち上がっていった瞬間に、自分自身の中にある汚物をも自ら払いのけつつ闘っていくことが必ずできる階級なのである。
 革共同が70年7・7自己批判をやりぬくことができたのは、労働者階級のこの革命的階級としての本質を確信し、そこに絶対の信頼を置くというマルクス主義の立場に立ち切っていたからである。
 われわれは、スターリン主義者やカクマルとは違い、『労働者は差別しない』とか『革命をやれば差別は自動的に解消される』などという論には断じて立たない。だからこそ被差別・被抑圧人民の存在と闘いに『学ぶ』という契機を決定的に重視する。だがしかし、7・7思想から『学ぶ』という契機のみを独立させて取り出し、それなしにプロレタリアートは階級性を獲得できないとしていくならば、それはマルクス主義とはまったく別のものに転化する。
 〈差別への糾弾と自己批判〉を労働者階級の階級的団結形成と切り離して自己目的化していく運動は、労働者階級の本質的な革命性を否定し、労働者階級への絶望を組織していく運動となるしかない。それは7・7思想を根本から歪めるものである。そうした糾弾主義の実践的帰結は、結局はプロレタリアートの革命運動を解体して、資本制社会の転覆と切り離されたところでの『差別なき社会の建設』という、空想を追い求めるものでしかなくなるのだ。」(7月テーゼ第Y章)

●階級形成論を否定して反スターリン主義を反古に

 上記引用にある「労働者階級(注:あるいは労働組合)であることによって本質的に階級意識に目覚め、自己を変革し、革命に向かって進むことができる力を自己の内側にもっている」とか「資本との闘いに階級(注:あるいは労働組合)として立ち上がっていった瞬間に、自分自身の中にある汚物をも自ら払いのけつつ闘っていくことが必ずできる」とか「学ぶという契機のみを独立させるのはマルクス主義とまったく別のもの」という章句は、大変なことを言っている。その文意は明らかにこうである。つまり、労働者あるいは労働組合はそのまま階級性をもった存在であり、共産主義的意識で武装されており、革命を遂行できる、自己の汚物を自分の力で払いのけられる、だから被抑圧民族・被差別人民から学ぶ必要もない、と。
 そこではあたかも労働者階級の本質規定を論じているようであるが、実体的には動労千葉を念頭におきつつ労働組合について言っている。だが、それは、マルクス、エンゲルスや第1インターナショナル以来の国際プロレタリアートの血の教訓とはまったくかけ離れたものでしかない。
 なぜかと言うと、マルクスとエンゲルスは、プロレタリアートの階級形成の課題をくり返し提起してきた。

●マルクスの階級形成論を全否定

「19世紀の諸革命のようなプロレタリア革命は、たえず自分自身を批判し、進みながらもたえずたちどまり、すでになしとげられたと思えたものにたちどまっては、もう一度新しくやりなおし、自分がはじめにやった試みの中途半端な点、弱い点、けちくさい点を、情け容赦もなく、徹底的に嘲笑する。……この革命は、自分の立てた目的が茫漠として巨大なことに驚いて、たえず尻ごみするが、ついに、絶対にあともどりのできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる。
 ここがロドスだ、ここで跳べ!
 ここにバラがある、ここで踊れ!」
 (マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」)

 この有名な文章では、プロレタリア革命は、情け容赦もなく徹底的に自己批判しながらはじめて前進できること、革命的情勢に迫られて自己変革=主体的飛躍をやりとげなければならないことが、突き出されている。プロレタリア革命の主体である労働者階級は、19世紀においてだけでなく20世紀でも21世紀でも、たえざる自己批判=自己変革をおそれることなくやらなければならないし、このことによってプロレタリア革命を担いうる階級へと自己を形成するのである。
 つまり、7月テーゼの上記引用部分が言うように、労働者階級(あるいは労働組合)は労働者階級(あるいは労働組合)であることによってそのまま革命的なのか。そうではない。革命主体へと、いかに自己を階級形成するのかという闘いが、労働者階級(したがって戦闘的・階級的労働運動)に求められているのである。このことをぬり隠す上記引用部分は、誤りである。この点は、反スターリン主義・革命的共産主義運動がスターリン主義と決別する上での重要な思想的・戦略的テーマの一つであった。

「資本の支配は、この大衆にとって、共通な一つの地位を、共通な諸利害関係をつくり出した。だからこの大衆は、資本に対してはすでに一つの階級である。しかし、まだ、大衆それ自体にとっての階級ではない。さらに、われわれがその若干の局面だけを指摘した闘争において、この大衆は自己を相互に結合するようになる。大衆自体にとっての階級に自己を構成するのである。大衆の防衛する利害が、階級的利害となる。しかし、階級対階級の闘争は一つの政治闘争である。」
                      (マルクス「哲学の貧困」)

 ここでマルクスが言っているように(「ドイツ・イデオロギー」でも同じことが強調されている)、労働者階級は、資本主義的生産様式の成立によって社会的・歴史的に与えられた階級の地位を資本に対して直接に表現することでそのまま革命の主体であるのではない。そうではなくて、「大衆それ自体にとっての階級」へと自己を形成しなければならない。
 それは、なぜか。「労働者階級の解放の条件、それは、あらゆる階級の廃止である」(「哲学の貧困」)からである。つまり、労働者階級が直接に与えられた社会的・歴史的地位を廃止する、すなわち自己止揚する闘いが、プロレタリア革命の基本的な使命だからである。
 あらゆる階級支配を廃止することは、すべての階級の廃止とその中心である労働者階級自身の止揚ということにほかならない。このことは、まさしく「自分の立てた茫漠として巨大な目的」と言わなければならない。労働者階級にはそれをやり抜く本質的な可能根拠があるということと、現実的解決そのものが得られることとの間には矛盾、あるいは裂け目がある。
 この矛盾ゆえに、労働者階級は、血みどろの実践の中で自己批判をテコに、自分の階級状態と世界史的使命を正しく認識し、階級意識を獲得し、階級的団結をつくり出し、そうして自己を階級へと形成するために闘わなければならない。
 重要なことは、この闘いは、資本に対する闘いを含めて「階級対階級の闘争は一つの政治闘争である」ものとしてかちとられなければならないことである。ブルジョア国家権力と対決して政治権力を奪取する闘いを抜きにした階級形成が成り立つわけもない。  これが労働者階級自己解放の運動であり、労働組合をこの運動のための日常的な基本組織とし、「組織された力」として究極的解放のテコにしていかなければならないのである。
 したがって、「労働者階級であることによって」とか「資本との闘いに階級として立ち上がった瞬間に」うんぬんと言うのは、とんでもない誤りである。  7月テーゼのその誤りは、スターリン主義の労働者観と同じだということでもある。すなわち労働者階級は、決起し、後退し、飛躍し、腐敗にまみれ、葛藤=自己変革する生身の弁証法的存在であるのに、それを抽象的存在に物神化するのがスターリン主義である。スターリン主義は、階級闘争を敗北させ腐敗させた自己の反革命指導を合理化するために、労働者階級の偉大さを強調するのである。それは、労働者階級の本質への確信ということとはまったく別物なのである。7月テーゼは、そのスターリン主義に右にならえをするものでなくて何であろうか。
 それは、政治的には、一方での国家権力との対決からの敵前逃亡と、他方での階級形成の課題の追放であり、理論的には客観主義的自動解決論である。思想的には批判精神なき現状肯定、すなわち奴隷根性である。

●日本階級闘争の敗北の責任にほおかむり

 では、マルクスが言った「プロレタリア革命がはじめにやった試みの中途半端な点、弱い点、けちくさい点」とは現実には何なのか。戦前・戦後の日本階級闘争では何だったのか。さまざまな点を総括しなければならないが、排外主義・差別主義への屈服と加担は、日本の労働者階級とその党において、伝統的で今日的な最大の弱点の一つである。ここには被抑圧民族への血債が突きつけられているのである。 この血債の問題を決定的に認識しなおしたからこそ、7・7自己批判を革共同は路線化したのである。しかるに、7月テーゼは、平然と「労働者が最も差別するという現実も生まれてくる。労働者が侵略戦争に動員されてその手先となることも起こる」などと書いている。まるで他人事のように、客観主義まるだしではないか。それは日本階級闘争の敗北を居直るものでなくてなんなのか。
 70年7・7糾弾と自己批判には少なくとも次の諸問題があった。
・戦前・戦後を通しての日帝に対する階級的な認識における歪みと一面性。
・その柱としての日帝の対外的・対内的な民族抑圧と社会的差別への歴史的・階級的批判の欠如。
・入管闘争に在日朝鮮・中国人民が決死の決起をしていることの実体的かつ歴史的意味をつかめなかった誤り。
・帝国主義戦争に道を開いた戦前の日本階級闘争の敗北、戦後日本革命の敗北の総括。 ・そこにおける日本共産党スターリン主義の犯罪性(とくに6全協問題)の批判と日共の打倒という課題。
・在日朝鮮・中国人民を世界革命と日帝打倒への闘う同志として連帯する立場の弱さ。 ・直面する朝鮮の南北統一の闘い、台湾解放の闘いを日本の労働者人民が自らの戦略的課題として闘う立場の薄さ。
 総じて、帝国主義・日帝による民族抑圧や社会的差別とは何か、それを労働者にとって何なのかととらえ返す立場が決定的に弱かったという問題が核心であった。抑圧・差別は労働者自身に対する攻撃なのである。それは、労働者に対する階級意識解体・階級的団結解体の攻撃であり、帝国主義による差別=分断支配の攻撃なのである。
 だから、抑圧・差別との闘いに労働者が決起することは、階級形成にとって不可欠の闘いなのである。
 糾弾と自己批判は、労働者階級にとって負担なことなのか。十字架を背負わせられることなのか。そうではない。連帯は階級的喜びである。階級形成をどうなしとげるかという戦略的・思想的テーマにとって、連帯それ自身が目的なのである。
 共産主義社会樹立と世界革命・日本革命の勝利にむかっての試練としての7・7自己批判路線は、血債の支払いをかけた闘いであり、まさしく連帯戦略の復権、連帯の思想の階級的本能化を核心としているのである。

第3章:抑圧・差別からの解放をめざす大衆運動に敵対するのか

●「被抑圧民族・被差別人民の利益を捨てよ」「部落民的自覚を自己否定せよ」

 党組織における排外主義・差別主義とは、以下のような文章のためにある言葉である。

「第三に、したがって、差別・抑圧と闘う諸戦線における共産主義者の任務は、党と革命運動の内部において各戦線の利益代表者のようにふるまうことでは断じてない。そうではなくて、各戦線の現場で闘っている人びとの中にプロレタリアートの陣営から入っていって、プロレタリア革命の中にこそ真の解放の道があることを真剣に訴え、労働者階級とともに闘おうと呼びかけることだ。そしてプロレタリア革命との結合・一体化をかちとり革命を勝利させていくという立場から、被差別・被抑圧人民の自己解放闘争それ自身の真に豊かな革命的戦闘的な発展を、ともに全力をあげて闘いとっていくことにある。
 例えば、部落民出身の共産主義者は、自己をまず労働者階級解放闘争を闘う主体として徹底的に確立することによって、全部落民の解放を求めて闘う主体としての自己をも真の意味で確立することができるのである。この関係を逆転させて『部落民としての自覚』を一切の出発点に置くことは、部落解放闘争をプロレタリア革命の上に置くものとなり、実際にはプロレタリア革命をも、部落の真の解放をもともに否定するものとなってしまうのだ。」(7月テーゼ第Y章)

 上記では、ペテン的な言い回しをしているとは言え、その文意は明らかである。つまり、“「各戦線の利益を代表する」ことと「プロレタリアートの陣営に位置する」こととは矛盾・対立する”“「全部落民の解放を求めて闘う主体」「部落民としての自覚」と「労働者階級解放闘争を闘う主体」「プロレタリア革命」とは互いに否定し合う異質なものである”“だから前者は否定されなければならない”“部落解放闘争はプロレタリア革命の下に置いて従属させるべきもの”ということが言われている。

●労働者の利益を盾にして党内差別を組織化

 それはあまりにも乱暴な、恐るべき宣言ではないか。一つには、労働者の利益は、被抑圧民族・在日被抑圧民族やアイヌ民族や沖縄・在本土沖縄人民ならびに部落大衆、「障害者」、被爆者・被爆2世3世、プロレタリア女性・女性大衆の利益に対立すると言ったのである。
 では、被抑圧民族・被差別人民の利益――民族自決権、民族解放、差別撤廃、全人間的解放をもとめるということ――と対立する労働者の利益とは何なのか。そんな利益は、帝国主義の世界支配と帝国主義国家体制のもとで与えられた一部の労働貴族の特権でしかなく、それに労働者階級が屈服させられて排外主義・差別主義に動員されることによる見せかけの生活の保障でしかないではないか。労働者は労働者だけの利益のために排外主義・差別主義をやってよろしい――これが「階級的労働運動路線」の実際なのである。
 二つには、部落出身の党員は、部落民としての自覚を一切の出発点に置くな、すなわち部落民的自覚をまずもって自己否定せよと言ったのである。階級意識のありよう、共産主義的意識の出発点や契機、形成過程はさまざまにある。7月テーゼはそのことを言っているのではなく、部落民的自覚を党とプロレタリア革命にとっての阻害要因であるとした。それは、帝国主義の部落差別の中で、部落出身の党員に対して党内で部落民であることを隠せ、党内で部落解放を主張するなということを意味する。しかも、部落解放闘争をプロレタリア革命の下に置けということは従属させよという以外の何ものでもない。  そのことは、すべての被抑圧民族出身の党員、被差別人民出身の党員に対しても同じ仕打ちをするということである。
 革共同は、労働者の利益を盾に掲げて党内における差別を組織化する組織であることを公言したのである。
 三つには、具体的には、革共同が70年7・7自己批判以来、営々として組織的につくりあげてきた抑圧・差別と闘う諸戦線を解消して、労働戦線すなわち動労千葉崇拝運動を一切に優先させて取り組む組織体制に再編するということなのである。

●諸戦線解消論は日共スターリン主義と同じ反革命の道

 抑圧・差別と闘う諸戦線を党の利害のために解消するという問題は、7・7自己批判路線をめぐって最も重大な核心問題である。しいて言えば、綱領・戦略・路線の問題での誤りは理論・イデオロギー問題として修正することもできなくはない。だが、党是にかかわる組織問題において一線を踏み越えた誤りを犯した場合、具体的な人間の組織的運命を決するのであるから、その組織はもう再生はできない。いったん解散する以外ない。諸戦線解消はそういう性格の誤りであり、はっきり言って反革命そのものである。  かつて日共は、金斗鎔を使って(金斗鎔自身がその先頭に立って)、在日朝鮮人党員の英雄主義、献身性、戦闘的エネルギーを政治主義的に利用した。金斗鎔は次のような党指導を行った(1946年12月「朝鮮人運動は転換しつつある」、1947年2月「朝鮮人運動の正しい発展のために」から要約して引用)。

(a)「在日朝鮮人は、朝鮮の統一と日本の革命の両方に足をかける考え方を完全に清算しなければならない。」 (b)「日本の党の根本的な政治目標のための闘争のみが朝鮮の革命に真に実践的に役立ちうることを悟らなければならない。」
(c)「階級闘争の見地から見れば、民族問題は完全にそれに従属しなければならない問題である。階級的利益と民族的利益が矛盾する時には前者のために後者を捨てねばならない。この見地を否定するものは共産主義者ではない。」
(d)「朝鮮人の党員は朝鮮人運動の大衆団体など朝鮮人の間でのみ働くべきものではなく、広汎な革命運動のどこへでも行かなければならぬ義務と権利をもっている。朝鮮人党員がどしどし日本の党の基本組織について働くことが何よりの先決問題である。そうしないのは一種の民族主義的偏向であって、共産主義とは相容れないものである。」

 日共は、戦後革命の裏切りのために、朝鮮人党員とその影響下にある広範な戦闘的な朝鮮人大衆を引き回す一方で、彼らの民族的要求をことごとく退け、朝連など民族的大衆団体の運動の発展を内側から妨害した。そこでは、朝鮮人党員を民族運動から召還し、日本の党の組織に組み入れるなどの強引な措置をとっていった。その中で、金斗鎔のような党員のあり方こそ共産主義者にふさわしいとしていった。
 そのやり方は、朝鮮戦争下で極限に達し、そしてその総括をすべて放棄した上で、1955年の6全協に先立つ3月段階で、“日本の党は日本革命のための党であり、朝鮮人は朝鮮統一が任務であるから、朝鮮人党員は党籍を離脱せよ”としたのであった。
 日共スターリン主義をのりこえる党として闘ってきた革共同が、2007年にいたって打ち出した7月テーゼは、何と、かの金斗鎔論文そっくりではないか。その言い回しと言い、論理構造と言い、実に酷似しているではないか。そしてそれは、必ず6全協へと連なっていく。
 革共同は世界党(世界革命党)ではない、革共同は労働者と農民と被抑圧民族と被差別人民の党ではない、革共同はただ動労千葉のための党である――これが7月テーゼの組織論なのである。
階級闘争の高揚と危機のはりつめた緊張ある分岐に際しては、党は党そのものの反革命化とけっして無縁ではない。いや、反革命への転落はたえずくり返されることさえあるのだ。7月テーゼは、党内の差別を引き起こす路線であるばかりか、抑圧・差別と闘うすべての大衆運動を妨害し、破壊する反革命を合理化したのである。そしてそういう党になると宣言したのである。このことを、闘う労働者階級人民はあいまいさなく認識しなければならない。
 なお金斗鎔は、その後、みじめな人生を送った。彼は、日本共産党の最も忠実な党官僚としてふるまい、スターリン主義党の利害を在日被抑圧民族である在日朝鮮人民に貫徹する先頭に立った。だが、朝鮮人党員と大衆から何の信頼も得ることができないまま、早くも1948年には戦線を離脱して朝鮮に帰った。北朝鮮スターリン主義のもとでも不遇な政治・組織生活状態であったと言われている。それも、革命運動の生きた負の教訓としなければならない。

第4章:抑圧・差別と闘わない労働運動を美化するのか

●指導的階級としての労働者階級の使命と任務を解体

 7月テーゼは、「労働者階級の特殊的解放を通して全人間の普遍的解放を実現する」というフレーズをくり返し使っている。23全総の報告では、「プロレタリアートの自己解放は、特殊的解放の貫徹が普遍的解放としての意義をもつのである」と、よりはっきりと規定している。それは正しいのか。否である。また、労働者階級はプロレタリア革命をやれる「唯一の階級」だと言う。労働者階級は指導的階級であるということを言わない。指導的階級ということと唯一の階級ということとはまったくちがう。  すでに述べたように、世界革命=プロレタリア革命の革命主体は、労働者階級と被抑圧民族であり、労働者階級と同盟した農民および被差別人民である。 これに対して、7月テーゼは、労働者階級の特殊的解放がそれ自体で達成できると言っている。かつ労働者階級解放が貫徹されることで自動的に全人民の普遍的解放が実現されると言っている。その論理は生きた階級関係の現実とかけ離れており、理論的・イデオロギー的に意図的な歪曲がある。

 詳しくは別の機会に検討したいが、マルクス・エンゲルスやレーニン・ボルシェビキ以来の世界革命運動の歴史的経験は、次のことを教えている。すなわち、「搾取され抑圧されている階級(プロレタリアート)が、彼らを搾取し抑圧する階級(ブルジョアジー)から自分自身を解放するためには、同時に全社会を、搾取、抑圧、階級闘争から永遠に解放する以外にない」(エンゲルス『共産党宣言』1883年ドイツ語第3版への序文)ということである。
 くり返すと、全人民の解放あるいは人間の共産主義的解放は、プロレタリアート自己解放として実現するのであり、またプロレタリアートの解放は全人民の普遍的解放を条件として実現されるということである。ここに、労働者階級がプロレタリアート自己解放の闘いにおける指導的階級として自己を鍛えあげるという課題が提起されているのである。だから、7月テーゼが言うような、特殊的解放が自動的に普遍的解放であったり、普遍的解放と切り離された特殊的解放があるかのような議論は、とんでもないペテンなのである。

 それは、指導的階級としての労働者階級の使命と任務を解体し、したがって労働者を全被抑圧民族および他の諸階級や被差別人民から孤立させ、労働者を狭い職業的利害に閉じこめ、労働者を競争と分断に翻弄されるがままに置き、かくして労働運動を帝国主義的労働運動の道へ追いやるものである。排外主義・差別主義と闘わない労働運動の美化、経済主義・組合主義・合法主義の労働組合の美化――それが7月テーゼの実践的結論となるのだ。

●差別糾弾に恐怖する政治局員たち

 7月テーゼは、理論問題であるかのように装っているが、生々しい組織問題が真のテーマなのである。
 この場合、直接には、関西地方委の中から出された中央批判を強権的に圧殺することが目的になっている。かつ仁村和義論文(『前進』第1743号)を始めとする部落解放闘争指導を断罪・排斥することが狙われている。それらを今日的に討議・検討しともに苦闘することとはまったくかけ離れたやり方である。
 特徴的なことは、糾弾と糾弾主義とを等置し、糾弾そのものを否定、いや門前払いしている点である。糾弾主義のわら人形をデッチあげ、そしてデッチ上げた糾弾主義に自らが恐怖して、マルクス主義ではないとか、プロレタリア革命の解体であるとか、党内を恫喝しているのが、7月テーゼの真の姿である。
 中野氏や大原氏や天田氏が党内でくり返し差別言動をなしている。「労働者は差別しない」「沖縄差別なんてあるのですか」「差別や平等はブルジョア民主主義の範疇にすぎない」など枚挙にいとまがない。それらを官僚主義的に擁護するために書かれたきれいごとが、7月テーゼなのだ。
 彼らの強調してやまない「動労千葉型労働運動」とは、排外主義・差別主義を日常的に傲慢に居直る彼ら自身の組織実態と離れてあるものではない。7月テーゼは、動労千葉型労働運動というものを後戻りのない堕落の淵に一気に導くであろう。許しがたいことである。
 真に戦闘的・階級的な労働運動の実践的再創造が待ったなしに求められている。

●7月テーゼ批判を新たな闘いの共同綱領に

 革共同政治局は、21世紀初頭の世界史の中で自己がどこに位置し、なにをなすべきかについて、実践的唯物論者=共産主義者としての視座をすっかり失ってしまい、時代の空気を読めない閉鎖集団になりさがった。そこではただただ官僚主義的な党内権力闘争だけが一切となってしまっている。率直に言って、そのことは階級闘争に深刻な打撃を与え、プロレタリア革命運動が何年も立ち遅れることにつながりかねない。
 すべての闘う皆さん。革共同政治局は清水氏、中野氏、大原氏、天田氏を先頭についに7・7自己批判路線を清算するにいたった。このことは、ぎゃくに今こそ7・7自己批判路線、ひいては共産主義思想そのものを、より革命的に進化させ、世界革命とその一環としての日本革命に勝利する闘いの武器として、鍛えあげなければならないことを、痛切に教えているのではないだろうか。
 革共同の裏切りと堕落の紋章となった7月テーゼ。その7月テーゼに対する批判を、21世紀革命をめざして闘う労働者人民の共同綱領をつくりあげ、鍛えあげる闘いとして推進しよう。その中から、21世紀革命の展望と9条改憲阻止決戦の道筋を切り開く労働者階級人民の新たな力が生み出される。本稿はそのためのささやかな一石である。多くの皆さんに討議、意見交換を呼びかけてやまない。

以上

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