意見書

松本 2006・12・31

[目次]
1 06年憲法闘争の無惨の顛末
2 「レーニン的オーソドキシー」はどこへ行った
3 動労千葉の歴史と教訓をいかに学ぶか
4 憲法闘争の現段階と百万人署名運動
5 杉並区議問題についての私の考え@
6 杉並区議問題についての私の考えA

 06年年末にあたって、二つの問題をめぐって私の意見を明らかにする。第一は憲法闘争について、第二は杉並区議問題である。私はこの意見書を基本的に書き終わった時点で07年新年号に接した。だからこれはそれを読む前のものである。しかし内容的に大きく変更させるべき点があるとは思わない。従ってこのまま提出する。

1 06年憲法闘争の無残の顛末

 私は、05年末から○○○→●●●に出席するようになった。一点、憲法闘争のためである。
 06年新年号一面論文の大見出しは、「小泉・奥田体制打倒! 4大産別決戦勝利! 改憲阻止闘争の勝利へ全力で驀進しよう!」である。
 ここには、次のような文章もある。「したがって、改憲阻止決戦(A)と4大産別を軸とする民営化阻止決戦(B)を単にAプラスBとしてではなく、Bを徹底的・全面的に闘い抜くことを基軸・基底にすえて、そのもとでAとBを正しく結合して闘っていくことが求められている。そのようにして改憲決戦に断固として踏み込んでいくということである。06年をその巨大な突破口としよう」。
 慎重な言い方だが、ここで確認すべき点は、第一に、AとBという二つの戦略的闘いを二つの柱として定立している、第二に、AとBを単純に並列的にはとらえない、Bが基軸・基底である、第三に、だがA=Bではない、AがBを闘うことに解消されるのではない、第四に、だからAとBの関係を論じ、「正しい結合」を求めている、第五に、結論として06年をもって「改憲決戦(つまりA)に断固として踏み込んでいく」ということである。
 しかし一年後の今日、私は苦渋の告白・告発をしなければならないが、NCは06年を通して「断固として」どころか、おずおずとした一歩というレベルにおいてさえ、改憲決戦に踏み出していない。「巨大な突破口」どころか、蟻の穴という大きさにおいても、憲法闘争の道筋を切り開くことに成功していない。「成功していない」という言い方は不正確だ。NCはその指導において、憲法闘争を徹頭徹尾放棄し、ネグレクトし、サボタージュ・ボイコットすることを06年一年間を通して明らかにした。
 憲法闘争の意義をここで云々する愚は避ける。だが憲法問題(それは鋭い朝鮮戦争危機を背景に進行している)がこの数年間の日本階級闘争の中期的最大テーマ、さらには日本革命の帰趨を左右する戦略的テーマであると私は考えている。そもそもこの認識において、不一致が存在するのであればそれまでだが、私の考えによれば、この憲法闘争をここまでトコトン放棄することは、NCが革命党であることを止めるのに等しい、NCの革命党としての死を意味する、
 もちろん私の非力という問題はある。しかし私はこの一年を振り返って、私の力量や努力云々の水準で問題を考えることは出来ない。問題はもっと根本的である。憲法闘争について論じることは、06年におけるNCにおいて最も大きな問題であった◎◎◎革命の認識と評価、さらにいえば新指導路線そのものの認識と評価と分かちがたく絡み合っている。私はそう考えるにいたった。これが私がこの意見書を書くにいたった主な理由である。
 06年におけるNCの「憲法闘争ならざる憲法闘争」の展開から振り返る。
 私は、06年前半、8月ぐらいまでは、○○○→●●●で努めて発言するようにした。発言の中身は、要するに、前述記号的言い方を繰り返せば、Bを闘うことがAを闘うことにもなるというようなインチキな論調・雰囲気に対して、「違う、A=Bではない、A<Bでもない、AとしてのAをしっかり確立させなければ、AとBの正しい結合など出来るわけがない」ということだったと思う。そしてNCは今日的な階級関係、党派関係の中で、Aを何より百万人署名運動の成功にかけていることも当然強調した。
 しかし秋に入ると発言することを止めた。無駄だということが分かったからだ。暖簾に腕押し、糠に釘ということをよく理解したからだ。実際、この会議において、憲法闘争や百万人署名運動について、ただの一度でもいいからまともな議論・討論になったことがあるか。いやそもそも議題にしたことがあるか。一度もない。かろうじてレジュメに一行、アリバイ的に「百万人署名運動は重要です」などという寝言が、ただ一行並んでいたのがせいぜいだ。一行だ!
 私は、こんな会議でいつまでも憲法闘争や百万人署名運動についてのんべんだらりとお喋りを続けることは出来ない。
 それでも06年前半は、私じしんについていえば、何カ所かの憲法問題学習会(東京、関東、東北など)に呼ばれた。また百万人署名運動は1、3月の全国代表者会議を経て、4月22日の呼びかけ人会議で、9条改憲反対の新たな百万人署名運動を立ち上げることを決定した。決定事項は、@9条改憲反対の一本に絞った署名運動とする、A当面の目標は、来年7月参議院選挙までに全国で100万筆、B9月までに賛同人を5千人に拡大するだった。議論が様々あった。@については国民投票法も入れた方がいいとか、Aでは目標は300万、いや500万がいいとか……。特にAに関しては、憲法闘争の危機的状況の中で、目標数を絞っても、改憲情勢をも左右する07年参院選までに局面を打開する必要があるということでこのような方針になった。4月中に署名用紙も完成、メーデーでは使い初め、5・20百万人署名運動全国集会でこの方針を大衆的に提起した。
 目標100万とはいえ、当然これはNCが組織をあげて取り組むことなしに達成されない。全国で100万なら、各地方・地区的にはそれぞれどんな目標を立てるのか、その目標を実現するためにどんな政策をもつのか、どう指導と点検を強めるのか―問われていたのは、百万人署名運動という運動体が決定した方針を成功させるために、NC、とりわけNC指導部がこれにどう応えるのかの一点にあった。だが私が●●●という会議に出て見ている限り、この方針を貫徹するために、NC指導部がどんなささやかな努力をはらった形跡もない。それどころか、NCの最高指導部は、百万人署名運動が新たな改憲反対運動の方針を決めてから何ヶ月も経た時点で、決まった方針の中身について正確に認識していないということを、私は●●●で一再ならず知った。
 ●●●での忍耐は夏には限度に近づいていたが、この頃私の頭を占めていたのは、11月集会の組織化と百万人署名運動をいかに結びつけるかにあった。つまりAとBをいかに結合させるかにあった。もちろん簡単なことではない。しかしそもそもこの二つの課題が対立していていいはずがない。必ず結合させなければならない。それは06年SNGの路線を貫徹することでもある。Bを土台にしようが、基軸にしようが、必要なのはAに踏みだし、両者を結合することだ。もし結合出来なければ、その時は百万人署名運動は来年7月を待たずに破産が明らかとなる。改憲百万の成否はこの秋にかかっている。そこで私は▽▽▽さんを訪ねた。6〜7月ごろだったろうか。
 私が言ったことは、上記に加え、「労働者こそ憲法闘争の先頭に立たなければならない。このことをハッキリさせてほしい。そのためにも9月ぐらいに憲法問題を正面にすえた労働者集会をもてないか」というようなことだった。答えは「その通りだ。今年の11月の半分は憲法だ。9月集会についてはすぐ手配しよう」であったと記憶する。
 靖国が焦点化した8月、このことが当然百万の事務局会議でも議論になった。その結論として、8・15集会の現場で、百万のAさんとBさんの二人が、わざわざがん首を揃えて、11月集会を主催する3労組の一つである動労千葉の委員長に、11月に向かう組織化の過程で、改憲百万の署名取り組みに力添えをお願いするA署名の文書を手渡した。蛇足ながらこの文書は2〜3日前に○○が書いたものである。
 Bさんは8月末には同じ文書をもって関西に飛び、港合同のCさんに改憲百万への取り組みを要請している。関生は先方の都合で会えず、同文書を郵送しただけに終わった。いずれにせよこれは、3組合を先頭とする11月集会陣形への改憲署名取り組みの要請であった。結果はどうだったか。明々白々、その後の実践が示している通り、8・15申し入れは完全に無視された。Bさんは9月に入ると、労組交流センター全国常任運営委員会に参加し、同様の要請をし、さらに反戦共同行動全国活動者会議でも同じ訴えを繰り返した。Bさんがそこでもらってきたのは、適当なオベンチャラだけだった。
 9月集会は、結局9・23労働者憲法集会となった。だが看板に偽りあり、私はこの集会の基調提起を一言も漏らさず聞いていたが、確か1時間近い話の中で憲法に触れたのは2〜3分もなかった。労働者集会としては成功したろうが、これが憲法集会でないことは明白だった。当然ながら11月集会に向かって、改憲署名は全く前進しなかった(9月キャラバン過程を除いて)。Bさんは11月集会での発言じたいをいやがっていた。しかし直前に闘病中の▽▽▽さんから電話の要請があったので、苦しい発言に立った。以上が、私が見てきた限りなく空しい06年憲法闘争の全てである、
 なお、改憲阻止百万人署名運動の署名集約の現状を記しておく。2006年12月27日現在、145092筆、

2 「レーニン的オーソドキシー」はどこへ行った

 愚痴はこの辺で止めよう。単刀直入にいって一体いま何が問題なのか。私の考えでは、つまるところNCはレーニン主義を継承するのか否かが問われている。「レーニン的オーソドキシー」はどこに行ったのか。『なにをなすべきか』をいつからNCは清算することにしたのか。「社会民主主義的政治」を没却した革命党組織がまともに機能すると思っているのか。いつまでその組織的団結・単一性を維持できるのか。
 私は労働組合運動に直接関わった経験を殆どもっていない。僅かに国鉄労働運動に、国労共闘の諸君と共にビラを書いたり、ささやかなオルグをした程度だ。しかしこれは1047名闘争という政治経済闘争ともいうべき、もちろん非常に重要だがかなり特殊な闘い。その意味で、私は労働組合運動の土台をなすいわゆる経済闘争や職場闘争について本当に何にも知らない。これから勉強しなければならないことばかりだ。前記憲法学習会などにおいても、新指導路線のもとでの生き生きとした現場労働者の発言からいろんな刺激を受けたという程度にすぎない。しかしにもかかわらず、私は、経済闘争や組合運動や職場闘争が、階級闘争と革命運動において極めて重要であるという結論については、100%、一点の曇りもなく理解しているつもりである。
 一般論だけではない。私は今から4半世紀前に、第二臨調・行革、国鉄分割・民営化問題について一冊の本を書いた。これを継承し、発展させるような仕事をその後やれていないことは残念だが、ともかくはっきりしていることは、あそこで国鉄労働者に集中的に襲いかかった攻撃が、いま全労働者、全社会、全世界を覆っていることである。一体これは何なのか。このことを忘れたことは一瞬もない。私は「新自由主義」という言葉を使ってよいと思っているが(これはもう完全な国際用語になっている)、要するに民営化、規制緩和、地方分権等々の政策に体現される、まさに世界史の歯車を何百年か逆転させるような裸形の資本主義の暴走、この攻撃の帝国主義的全体像を、かつてのように一国的レベルにおいてではなく、全世界的スケールで対象化し、職場生産点からの闘いと国際連帯で反撃していくことが、まさに今日の国際階級闘争の死活的課題になっていることは明白である。
 だから私は新指導路線に100%賛成である。4大産別の闘いを基軸的に押し出していくことにも賛成である(もちろんこれは、非正規等の闘いをいささかでも軽視するものであってはならないが)。11月集会も素晴らしかった。だがしかし、その上で私は声を大にして言わなければならない。経済闘争を強調するのは正しい、しかしそれがいささかでも政治闘争を否定したり、後景化させたりするものであってはならない。職場闘争を強調するのは正しい。しかしそれが少しでも、街頭や地域における権力との闘いを没却するものであるとすれば、それは間違っている。新指導路線が、もし政治闘争や街頭闘争を否定する路線であるとすれば、私は新指導路線に100%反対する。
 こんな言い方をすれば、「そんなことはない」という反論が矢のように返って来るだろう。それに対して私は、最近NC内の至る所で次のような奇異な主張を耳にすることを指摘したい。「職場闘争とマルクス主義を結びつければ革命が見えてくる」、これは果たして正しいのか。職場闘争という言葉を「ランク&ファイル」などという洒落た言葉に言い換えても同じことだが、私の考えによれば、全く間違っている。なぜならここには政治闘争がないからだ。革命とは、ブルジョア国家権力を政治的に転覆し、奪取するという歴史的事業である。もちろん革命の主体は労働者階級である。労働者の職場生産点における資本との営々たる闘いが一切の土台である。このことを忘れ、革命を一握りの革命家の政治的陰謀によって成し遂げようとするような考え方をブランキズムという。
 それでは逆に、職場における経済闘争を正しい理論と路線、つまりマルクス主義で指導すれば、その単純延長線上に革命が展望できるかといえば、そうではない。経済闘争と並んで、もう一つの柱としての政治闘争、その時々の国家権力の攻撃に対する街頭と地域からの政治的闘いが絶対に必要なのだ。周知のようにレーニンは、労働者が政治闘争に立ち上がるのは、身近な経済的利害を通してしか、つまり経済闘争の延長においてしか立ち上がらないというような考え方を「経済主義」として厳しく批判した。そして全面的政治暴露と定期的な政治新聞の刊行を革命党の最重要課題として強調した。このレーニンの主張も含めて、経済闘争と並んで、それとは区別される政治闘争が必要なのだ。そして理論闘争が必要なのだ。くどいようだが、経済闘争、政治闘争、理論闘争の3つがそれぞれ必要であり、重要なのだ。その先にのみ、我々は革命を展望出来る。これは、今も昔も変わらぬ、マルクス主義のイロハのイである。
 『なにをなすべきか』の読み直し? もちろん必要だろう。「外部注入」論的な一面的読み方はスターリン主義に大きな根っこをもっており、決定的に改めなくてはならない。レーニン自身がそのような一面化を軌道修正させようと、その後様々に努力しているのではないか、また『なになす』が書かれた当時のロシア階級闘争においては、経済闘争はまさに自然発生的に高揚しており、それは当然このような情勢を前提に書かれている。その点でもいま読み直しが必要なことは明白だ。しかし必要なのは「読み直し」であって、その否定・清算ではないだろう.
 少なくとも私の理解では、『なになす』は決して革命党づくりに関する単なるノウハウ本ではない。革命的組織・運動づくりのガイスト・哲学を記したものだ。そんな簡単に投げ捨てられてたまるものか。しかし最近のNCにおいては、「労働者自己解放」の名のもとに、『なになす』的精神が不当に忘れられ、あるいは歪められ、あるいは否定されている。それによって、憲法闘争をここまでネグレクトして平然としていられるという恐るべき組織状況もまたまかり通っている―これが私の認識だ。
 政治闘争の重要性について一言付け加えておこう。肝心なことは、その時々の政治的攻撃に全力で立ち向かっていくためには、そのための政治討論が必要だということだ。そしてこの活発な政治討論の不断の組織化の成否こそ、私はその革命組織を死んだ組織にするか、生きた組織にするかのひとつの分岐点だと思っている。政治討論、それはもちろん床屋談義ではなく、必ず様々な政治闘争にむけての実践的政治討論でなければならないのだが、これこそ、細胞の隅々にまで酸素を送り込む心臓の鼓動のようなものだ。革命党とそれを先頭とする労働者階級を、真に革命の主体として生き生きと、力強く形成していくための機関車のような役割を果たすのだ。  労働者階級の団結を闘いとるための職場闘争や経済闘争の重要性はいうまでもない。だが階級とその党が真に革命の主体に飛躍するためには、経済闘争だけでは十分ではない。不断の政治闘争とそのための政治討議の組織化がそれに結合しなければならない。レーニンも言っている通り、労働者階級は、もちろん己の直接的な階級的利害のために闘うのだが、同時に学生が弾圧されている、農民がこんなに虐げられている、学者や坊主まであんな抑圧を受けていること等々に関心を持ち、怒り、真実を知ろうとし、出来れば自分たちも何かしたいと思っている、あるいは思うことが出来る、そういう階級なのだ。
 逆の場合を考えればいい。政治討論もまともに行わない組織がどうなるか。それは細胞の隅々まで酸素が行き渡らない組織になる。このような状態を長い間放置すればどうなるか。必ずその組織は、末端細胞から、徐々にしかし確実に、壊死していく。まして今日の日本階級闘争をとりまく政治情勢は、朝鮮危機を背景とした改憲攻撃という、文字通り歴史を画する局面に突入している。この非常事態に日本の労働者階級が一戦も交えず敗退するようでは、日本階級闘争の骨が折られる。階級への絶望感を煽るようで申し訳ないが、私はオプミティストであると同時にリアリストである。さらに言えば、この改憲攻撃に一戦も交えないで手を拱いている「革命党」があるとすれば、それは多分「徐々に」ではなく、もっと急速に、激しく、ドラスティックに空中分解するだろう。私はいまそういう危機感をもっている。
 まさしくレーニンが強調しているように「政治的なものを、組織的なものから、機械的に切り離すわけにはゆかない」のである、

3 動労千葉の歴史と教訓をいかに学ぶか

 同じ問題を、別の角度からさらに考える。新教育基本法が成立した。教基法改悪反対闘争が負けたか、勝ったかなどという話があるが、改悪を許したのである。負けたに決まっている。
 問題はそんなところにあるのではない。負けた、しかも殆ど闘いらしい闘いもやれぬまま負けたということだ。全力を挙げて闘ったが負けたというのではない。日本の労働者人民の中にまだまだ眠っている力を十分引き出せぬまま、有効に発揮させることができぬまま敗北したということである。4人の学者=あんころの限界も含めて。教基法闘争でNCが何をやれたのかについて、ここで語ることは止めよう。分かり切ったことである。処分された教育労働者のリレーハンストなどを中心とする国会闘争はもちろん一定高揚したし、新しい可能性を育んだ。だが国会闘争とは、もともと職場、地域、街頭等での闘いと結合してこそ意味がある。私はこの国会闘争で、教基法闘争をやった、やったなどという気にはなれない。むしろ正確にいえば、国会闘争でお茶を濁したという方がいいのではないのか。教基法改悪はいうまでもなく改憲の外堀、内堀を埋める攻撃である。改憲本番でも同じような状況を繰り返すというわけにはいかないのだ。
 もちろん教育攻撃はまだぜんぜん終わってなどいないから言うのだが、教基法改悪攻撃を日教組解体攻撃だという、この間NCにおいて盛んに言われている主張は正しいか。もちろん一面では正しい。教基法や日の丸・君が代攻撃を「内心の自由」などという次元で論じようとする傾向に対し、敵の攻撃意図(労組の「悪性腫瘍」視化)という点からも、闘いの中心に誰よりも教育労働者こそ立たなければならないという主体的側面からも、攻撃をこのようにとらえることは重要である。だがその上で敢えて言いたいが、これだけではやはり不十分である。教育労働者の団結を解体して、彼らを再度皇民化教育の担い手に作り直し、それを通して子どもたちを皇国少年・少女に育て上げ、再び国を挙げての戦争に突っ込んでいく、あまりにも当たり前で強調するのも恐縮だが、やはりこの攻撃の全体像を、つまり改憲と戦争の一里塚としての大きさを、トータルに、豊かに、説得的に暴ききっていくことが必要である。そしてこの闘いを、かつての勤評闘争が日教組と総評と解放同盟と全学連等々のまさに「国民的」闘いであったように、全人民的闘いに発展させていく、遠回りのように見えても、この中にこそ、それを通してこそ、教育労働者のさらなる決起と教育労働運動の階級的再生の道もまたあると考えている。
 20年前の国鉄分割・民営化攻撃は、もちろん(いまの教育攻撃が教育労働運動潰しの攻撃であるのと同様に、あるいはその10倍ぐらいの明白さをもって)国鉄労働運動潰しの攻撃だった。松崎などが「国鉄赤字解消のため」などという反革命的たわごとを繰り返すのに対し、われわれは真っ向から問題の一切は、国鉄労働運動の解体を許すのか否かのあることを明らかにした。しかし誤解してはならないが、われわれは決してそれだけを言ったのではない。この攻撃が、「戦後政治の総決算」を掲げた第2臨調・行革攻撃、「増税なき財政再建」などを旗印とする反革命的国家改造攻撃の、まさに突破口としてあることを暴いた。国鉄労働運動潰しというだけなら、十何年も前のマル生攻撃も激しいものだった。だが分割・民営化攻撃は、それとも戦略的次元の違う、国鉄そのものを解体することと一体で国鉄労働運動を潰すという、つまり支配者の側のあり方、国家の姿・形をも一変させることと一体の階級絶滅攻撃という鋭い反革命性をもっていた。
 動労千葉が85年のあのストを闘いぬいた、闘い抜くことのできた要因はもちろん幾つもある。幾つもあるのだが、その重要な一つに、国鉄分割・民営化という攻撃の戦略的・歴史的大きさを、その大きさの全体において、ひるむことなく、たじろぐことなく、真っ向から受け止め、受けて立ったということがある。もちろんそこでは、権力と松崎カクマルによる動労千葉そのものの根絶が企図されていたのだが、動労千葉の組合員は、ただ自分たちの組合が潰されるから大変だというだけではなく、それが(動労千葉指導部の革命的指導の貫徹を通して)結局は総評労働運動と戦後体制そのものの反革命的転覆に連なる攻撃であることを理解したとき、あれだけの英雄的エネルギーを爆発的に発揮していったのではないだろうか。
 だが動労千葉の歴史と教訓というとき、どうも私は最近引っかかることがある。私は、動労千葉の運動に直接関わったこともない人間だが、ただ▽▽▽さんという人の話す動労千葉の歴史と教訓を文章化し、活字化したという点では、最も古い段階から、最も数多く手がけてきた人間ではある。別にこんなことを全然自慢するつもりはないが、ともかく私の頭には、今でもそれが刷り込まれている。しかし、引っかかるというのは、最近強調されるそれでは、要するに何か職場闘争の重要性しか語られないように感じるのだ。釈迦に説法をするつもりは毛頭ないが若干述べさせてもらう。
 60年代前半の三河島、鶴見事故以降の安全問題をめぐる職場からの闘いこそ、動労という右翼的組合を青年部を先頭に急速に左旋回させていった原動力であった。60年代後半の5万人反合闘争をはさんで、70年代に入るとマル生勝利の上に動労は全体として戦闘的順法闘争を繰り返す。だが動労本部カクマルが上尾を決定的な節目として反革命的正体をむき出しに転落してゆくのに対し、動労千葉は船橋事故闘争の勝利をバネに上尾を突き抜けて、運転保安闘争を路線的に確立していく。運転職場で働く労働者の組合である動労千葉の団結を今日まで貫く赤々とした一本の糸がここにある。これについては多くが語られているので、これ以上繰り返さない。  私がここで強調したいのは、この不屈の職場闘争は同時に、その時々の政治的課題をめぐる街頭闘争への果敢な取り組みと一体だったということだ。三点述べる。ひとつは、まだ▽▽▽さんが青年部で、当局と右翼民同ダラ幹の二重の抑圧の中で苦闘している頃の話だ。60年代中頃か、大スコ闘争とか、カーテン闘争とかを通して職場闘争をこじ開けようとしていた頃のことで、彼はどこかでこんなことを言っている。当時、俺らはデモにもよく行った(多分、原潜、日韓、ベトナムあたりだろう)。そこで俺らは機動隊とバンバン喧嘩してきた。そうすると職場の職制なんか小さく見えて来るんだ。街頭でエネルギーをもらって、それで職場に戻ってまた元気に職制とやりあったもんだ。職場と街頭の生きた弁証法的関係が語られていると私は思った。
 ふたつ目は、70年闘争をへて動労千葉において▽▽▽体制が確立する過程である。ここでは前記船橋闘争など運転保安闘争がもちろん重要だが、同時にこの過程の国鉄職場はマル生攻撃との死闘戦のただ中にあった。この闘いに、国労、動労は勝利するのだが、その理由はもちろん第一に国鉄労働者の全体としての階級的戦闘性があるが、第二にはこれが沖縄・安保闘争と一体に闘われたということがある(脱線するが、私は70年闘争は必ず沖縄、国鉄、大学の三つでとらえなければならないと思っている)。だが動労青年部などは、国労青年部も殆ど変わらないが、沖縄闘争をカッコつけ的動員で政治利用したにすぎない。動労千葉は違った。当時▽▽▽さんは、動労千葉では確か千葉気動車区支部の支部長だったが、同時に彼は千葉県反戦青年委員会の議長でもあった。70年の、あの反戦・全共闘を先頭とする激烈な闘いの中で、動労千葉はその労働組合的団結をしっかり守り、強化しながら、同時に街頭における反戦青年委員会的運動の先頭に立った。どちらか一つでも大変なことだが、動労千葉は両者を一体的に体現した。総評労働運動が、国鉄労働運動も含めて、75年スト権ストの敗北以降急坂を転げ落ちるように衰退していく中で、動労千葉は全く逆のカーブを描いて80年代中葉に上り詰めていく、その起点がこの70年闘争における動労千葉のあり方にあったと私は認識している。
 みっつ目は、言うまでもない、三里塚闘争への決起、三里塚ジェット闘争、労農連帯に関わる問題である。運転保安闘争はもちろん職場闘争である。ただ付け加えなければならないのは、そこでは「安全」という運転職場の最も死活的問題をとらえて、乗客を獲得の対象として考えたということである。上尾の乗客に「国家権力のどす黒い謀略」を見た松崎の、まさに対極にあった。この闘いがあって、動労千葉はそれを三里塚ジェット闘争に発展させていく。そしてこの闘いの圧倒的な人民的大義性を背景にして、あの本部カクマルからの血みどろの分離・独立を動労千葉は勝利的に闘いとった。
 故・高島喜久男は旧高野派で、国鉄労働運動大嫌い人間だった。その彼が動労千葉に注目したのは何よりも労農連帯だった。動労などという職能主義的組合から、その狭い、自分たちだけの利害を超えて決起する組合が出てきたきたことに、彼は本当に驚き、感動していた。「俺たちはゼニ・カネのためだけに闘うんじゃないんだ」、これは三里塚ジェット闘争の頃の動労千葉組合員の合言葉だった。いま私がこんなことを一面的に強調するのはよくないかもしれない。労働組合にとってやはり一番重要なのは、ゼニ・カネの問題だから。今日のすさまじい資本攻勢、格差社会の中でそれはますます重要なのだから。だがこのような動労千葉組合員の昂然たる気概があってこそ、動労千葉はゼニ・カネの問題でも、職場の様々な労働条件をめぐっても、前進し、組織を守り、団結を強化し、そして分離・独立に勝利し、85年に攻め上っていったことは確かだろう。
 では動労千葉組合員はそのような意気天を突く戦闘精神をどこで獲得したのか。もちろん組合指導部の長年の階級的指導と路線の結果である。だがあの70年代から80年代の時期においてはやはり三里塚闘争への決起が決定的だったと思う。三里塚闘争は、動労千葉の決起と合流があってはじめて、一期開港と3・8分裂を乗り越えて闘いを継続できた。
 同時に動労千葉は、三里塚の農民と三里塚に結集する全国の労働者人民の戦闘的パワー(80年代における対権力・政治闘争の頂点をなす闘い)と結合し、それを自らのパワーにすることによって、組合員全員が首切りを覚悟するというすさまじい戦闘性で、あの85年ストを打ち抜けたのだと思う。
 62年9月にNCは三全総を開いた。われわれにとってこれは単に遠い昔の一つの会議などではない。この三全総の是非をめぐって、その直後にNCは第三次分裂に突入した。
 私自身もそのただ中にいた。私もまたこの三全総路線を自分の体でくぐりぬけて、その後の活動を続けてきた。
 だから言うのだが、もちろん「戦闘的労働運動の防衛」はそこでの最重要方針のひとつである。60年安保・三池の敗北の後の高度成長下、危機と右傾化を深める総評労働運動の中で、NCは労働運動において、学習会などによるケルンづくりに止まらず、労働組合運動そのものに積極的に進出し、責任をとり、その防衛のために全力を挙げなければならないという方針である。三全総では、これと並んで「地区党建設」も打ち出しているが、黒田選挙の総括を通しての革命的議会主義路線の出発点もここにある。
 街頭政治闘争については、特にここでこと新しく何か打ち出したということはない。しかしこれはもちろん政治闘争を否定したものではない。60年安保ブンドを引き継ぎ、乗り越えて革命的左翼の主座に躍り出た当時のNCにとって、街頭政治闘争が重要であることなど前提中の前提であった。NCにおいて、職場か街頭か、などという問題の立て方をしたことは一度もない。結党以来一貫して、職場も街頭も、である。そしてこの三全総路線の中から、その後の動労千葉の闘いも生まれてくるのだ。

4 憲法闘争の現段階と百万人署名運動

 私はここまで、要するに経済闘争と政治闘争のふたつがあって、その結合が必要であるというあたりまえのことを、レーニン主義と動労千葉という視角から見てきた。階級闘争の今日的問題に戻ろう。
 直接、憲法問題に関連しては、通常国会に国民投票法案を初めとする改憲手続き法案が出てくる。これを過小評価してはならない。憲法闘争は国民投票で勝てばよいなどと主張する、9条の会周辺にたむろするクソ民主主義者はもちろん論外だ。手続き法が重要なのは、公務員や教育者の運動規制など内容的問題もあるが、それ以上にこれが自・公・民の賛成で成立させられようとしていることだ。つまりそうして改憲案そのものを圧倒的多数で国会で発議する政治的レール・枠組みが形成されようとしているのだ。もちろん単純ではない。4月統一地方選、7月参院選にむけては、まさにいつ何が起きても不思議ではない政治的大波乱含みだ。安倍政権は早くも末期政権化がささやかれている。他方民主党も参院選で負ければ小沢体制など吹き飛び、分解の危機に入る。だが重要なことは、この自・公と民の激突などというのは、支配階級の分裂は労働者人民の有利に転化しうることはもちろんあるが、所詮改憲推進勢力間の激突で、それに目を奪われているようでは、その間に改憲攻撃は手続き法に見るように着々と進み、社・共などはますます無関係の存在になって、のみこまれていくということだ。
 朝鮮情勢についても詳論は出来ないが、イラクの泥沼にはまった米帝が明日朝鮮で戦争を始めるとも思えないが、結局6者協議でも、米朝協議でも朝鮮危機は解決出来ず、危機はズルズル続き、北は決して核を放棄せず、核を抱えた北の体制がいつまで保つかのカウントダウンに入っている。その中で、ブッシュの理性も期待できないが、金正日の理性も期待できない、つまりいつ戦争が起きても不思議でない情勢にある。そして重要なことは、支持率急落にあえぐ安倍は必ずこれに飛びつくことだ。「拉致の安倍」(07年度予算案では、全体の削減の中で拉致関連予算だけ10倍化)は、様々なきっかけによる、しかし根本的には小泉改革のツケによる政権危機が深まれば深まるほど、必ず北に対する排外主義的憎悪の政治にのめり込んでゆく。そしてこれが9条改憲に直結している。そもそも集団的自衛権問題とは、戦後一貫して自衛隊の朝鮮戦争参戦の是非の問題としてあったのだ。そしていま9条改憲に反対して闘う中で突きつけられているのは、この朝鮮戦争の危機に日本の労働者人民はいかに立ち向かうか、日帝・安倍による対北排外主義の洪水をわれわれはいかに打ち破るのかという問題なのである。
 私は今ふたつの点を指摘したが、ここからも明らかな通り、改憲攻撃との闘いは何か数年先のテーマなどではなくて、ただいま現在の、まさに火急的テーマとしてわれわれの眼前にあるということである。そして憲法闘争とは決して一戦線的テーマでもなく、市民運動に押しつけて済ませられるような課題でもない。労働運動の、学生運動の、選挙運動の、全体を貫くまさに第一義的テーマなのだ。いや、そうしなければならないのだ。放っておけばそうはならない。そうはならないというのは、改憲攻撃が進まないということではない。労働者人民が気づかないところで、どんどん改憲と戦争の攻撃が進んでしまうということだ。この現状に危機感を持たなければならない、
 07年には、同時に労働ビックバンとか、ホワイトカラー・イグゼンプション等の労働法制改悪から増税、福祉切り捨て等々の生活と権利を破壊する攻撃が津波のように押し寄せてくる。もちろんこれは、改憲・戦争の攻撃と並ぶ決定的に重要な課題だ。特に労働運動において。だがここでの闘いを構築するにあたって注意しなければならないのは、民主党・連合を初めとする労働運動のかなりの部分において、今日の日帝・安倍との闘いをここに切り縮めようとする動きが極めて強いことだ。この背後には、この秋の臨時国会での教基法との闘いで、院内的レベルでもいわゆる全野党共闘が完全に腰砕けに終わったという現実がある。こうして、「天下分け目」の7月参院選に向かっては、テーマを「格差社会反対」一本に絞るという動きが連合あたりから強まり、社・共などもやすやすとそれに乗せられようとしているのである。だがこんなのは、言うまでもないことだが、格差社会とも、労働ビックバンとも全然闘わないということだ。今真に敵と闘うためには、止まるところを知らぬ新自由主義的生活破壊攻撃との闘いと改憲・戦争に反対する闘いをしっかり結びつけて闘う以外にないのである。
 11月集会の総括で真に1万人を集めるために何をなすべきかが盛んに議論されている。しかし私が不思議でならないのは、このとき、改憲・戦争というような政治的問題が完全に無視されていることだ。私の考えでは、1万人を本当に集めようとすれば、改憲・戦争的な柱を、民営化とか小泉改革とかに反対することと並ぶ大きな柱としてうち立てることが前提だと思う。うち立てれば集まると言っているのではない。この政治的課題に全力で取り組むことなしに、経済的課題と「闘う労組のネットワークづくり」の呼びかけだけで1万人集めるのは無理だということだ。
 誤解しないよう断っておくが、私は政治的課題なら人を集めやすいなどと言っているのではない。改憲・戦争的質の攻撃と真っ向から対決して、この日本階級闘争の危機的現状を何としてもこじ開けていく、われわれがヘゲモニーをとって階級闘争全体を塗り替えていく展望の中でこそ、それと結びついて11月に1万人集まることも可能になる。全体は今のままで、11月集会だけ1万人集まるなどというのは無理な注文ではないのか。全体を変えるためにもまず11月集会に1万をという論法だけでは駄目だ。少し具体的な話をする。
 新ガイドラインと有事法制のときは20労組陣形があった。しかし、教基法のときは「あんころ」しかなかった。ここに両者の大きな違いがあったのではないか。だがこれは何かわれわれの手の届かないところで不可避的に進行した階級闘争の後退などと私は考えていない。NCはどうも十分そこを自覚してないようだが、99年春に出発する20労組陣形は、百万人署名運動の登場(97年秋)に決定的な刺激を受けて生まれたのだ。われわれはあの99年春から夏にかけてまさに情勢を牽引したのだ。だからこそ権力とカクマルのあれだけの反動が襲いかかったのだが。教基法闘争でもわれわれは様々な挑戦をしたが、教育問題という特殊性もあり、新ガイドラインの時のようにはいかなかった。改憲闘争でこれを繰り返すことはできない。私は、カギは百万人署名運動の成否にかかっていると思っている。改憲反対の百万人署名の達成と11月集会1万人結集は一体の課題だということである。そんなことは無理だと言うことは、全てを諦めることである。
 憲法闘争では、9条の会とか、行脚の会とか、平和フォーラムとかがあるが、ともかくトコトン駄目である。連中のチラシなどを一目見れば分かるが、彼らの「9条を守れ」論の中には、戦争のセの字もない。朝鮮戦争危機の現実から逃げまくっている。そして彼らには何の運動方針もない。日帝の対北排外主義の嵐の中での改憲攻撃に、こんなものは吹き飛ばされるだけだ。さらにこれらの運動の特徴は、CP、SDP、さらには高田健的政治ゴロもかんだ徹底的にセクト主義的囲い込み運動、つまり20労組的可能性をつみ取ることに熱中した運動になっていることだ。憲法闘争をめぐる状況は極めて厳しい。このような状況を打ち破る可能性はどこにあるか。繰り返し強調するが、私は百万人署名運動にある、それ以外にないと思っている。
 かつて50年朝鮮戦争の時、壊滅的危機にある階級闘争の中から、日本の労働者人民は二つの水路を通って再起していった。ひとつは言うまでもなく総評労働運動のニワトリからアヒルへの転換、いまひとつは反核と反基地を火点とする戦後的反戦・平和運動の出発である。そして両者は、周知のように平和4原則をめぐる国労新潟大会の攻防が決定的分岐点になったように一体的に絡み合って進んだ。もちろんこれらは、平和4原則なるものに象徴されるように、朝鮮戦争と真っ向から闘わない、平和主義的、中立主義的、民同左派的、あるいはスターリン主義的限界にまとわれたものだったが。
 だが私がここで指摘したいのは、この中で特に反核運動に関わって、50年に朝鮮戦争で米軍が原爆を実際投下しようとする中でのストックホルム・アピールに応えた署名運動、さらに54年ビキニ環礁被爆に対して杉並から始まる爆発的な署名運動(原水禁運動の出発)のことである。あのときも署名から始めたのだ。署名運動でどん底からはい上がるようにして新しい闘いを構築していったのだ。署名運動は、運動方針として、最もハードルの低い、誰でも参加できる、寝たきりの老人でも加わることの出来る運動である。もちろんチョンチョロの数では何の役にも立たない。しかしそれが一定の数を超えたとき、必ず情勢を動かす。量が質に転化する。それは戦後日本の階級闘争の歴史が教えていることだ。そして今また、それ以外にどんな運動方針があるというのか。54年原水禁署名運動の爆発的展開が、いかに当時のワシントンを驚かせ、うろたえさせたかは十分想起する値打ちのある事柄なのである。百万の署名を集めると言うことは、百万人の人と改憲と朝鮮戦争の問題をめぐって政治的会話・討論をするということだ。そこから始め、そこから運動を立て直す以外にどんなやり方があるというのか。
 私の言いたいことを繰り返す。改憲反対の百万人署名達成と11月1万人結集の実現はひとつの課題であり、ひとつの課題として闘いとられなくてはならない。

5 杉並区議問題についての私の考え@

 この問題については今さら発言しても、もう遅すぎるような気もする。事態は、最低・最悪のコースをとって、すでに取り返しのつかないところまで行ってしまったようだ。しかし、いやことはまだ始まったばかり、とも思う。いずれにせよこれは、NCという党派の存亡のかかった問題である。一党員の義務として以下発言したい。
 私の手許に、12月段階に発出された「全国の同志のみなさんへ」と題する西部地区委員会署名の文書がある。この文書は、西部地区委員会全員の一致した意見に基づく文書なのだろうか。もしそうなら非常に残念である。杉並区議問題をめぐる、この間のNC中央指導部の誤った方針に西部の組織がねじ伏せられたことを意味するからだ。しかしそれは、仮に党員をねじ伏せることに成功しても、杉並区民・支持者を説得することは出来ないだろう。私にとってこの文書は、NC西部地区委員会が、杉並区民と完全に無縁な、遊離した、浮き上がった組織になり果てたことを示す記念碑のように思えてならない。その文書が、自らを「新指導路線を実践」「◎◎◎革命をとことん推進」等々の美辞麗句で飾り立てている。悪い夢を見ているようだ。
 はじめに、この問題についての私の結論を述べておく。結柴、新城の2人の議員がこの間の杉並区議会での幾つかの採決に際してとった誤った、反人民的な対応については弁解の余地はない。私はこの点について、二人をいささかも弁護するものではない。〔尤も、この2人の誤った対応のうち、上記文書などでは、05年「犯罪被害者等支援条例」賛成問題、03年「保育園民営化」賛成問題については詳述しているが、03年の「イラク反戦決議」賛成問題、つまり国連決議承認を含む決議に自民党などと共に賛成した問題を完全に無視しているのは解せないが〕
 ふたりには自己批判してもらうことが是非とも必要だし、一定の責任をとってもらうことも必要かもしれない。私はいま現在は全く遠いところにいるので、正しく判断できる立場にないが、この「責任をとる」中には、来年4月の選挙での再立候補を断念するという選択肢も十分あり得ると、今年の9月中旬までは思っていた。今も、この結論にかわりはない。だから、●●●でこれが議題になっても私はそれまで殆ど発言しなかった、
 ところが、確か9月下旬の●●●の基調報告で、突然2人の即時議員辞職、活動停止、自己批判要求という方針が出されるのである。来年4月に立候補しないことと、即時議員辞職とは全く違う。私はこの新たな方針に直ちに「全面的に反対する」ことを表明した。私はそこでも、2人を弁護するつもりは毛頭ないし、最大の責任が本人たちにあることも明白なこと、しかし杉並選挙は決してNCにとって幾つかある選挙のひとつではなく、繰り返し中央指導部が全力を集中してきた看板選挙だ、そこでこのような議員を生み出した責任・原因はどこにあるのか、そこを不問にして、2人を切れば全て解決というようなことではトカゲの尻尾切りではないか。こんな乱暴なことをすると組織が壊れるぞ、というようなことを言ったと思う。私の意見に賛成したのは1人だけ、あとは殆ど全員から集中的に反論が出た。
 しかし私はこの会議の直後から、ひとつ言い忘れたことがあるな、ということに気づいた。私に反対する意見の多くが、彼らの行為がいかに犯罪的かを強調し、杉並選挙に動員されてきた労働者党員なども怒っているというところから、ストレートに即時辞職を導き出していた。私が、これに対して指導責任の問題もあると言ったのは正しいが、それだけではやはり弱い。ここから次期選挙への不出馬の結論ならまだ問題はNC内に止まるが、即時辞職などと言い出せば、それは必ず膨大な杉並区民を巻き込む問題になる。その後の事態は、私が心配していた通り、いやそれ以上に収拾のつかない展開をとげているように見える。私は9月段階からこのことをはっきり強調しておくべきであった。
 なお一言つけ加えておけば、前記文書では、議員辞職は、そもそもは2人が恫喝的・居直り的に言い出したのがきっかけのようなことが語られているが、細かい経過などどうでもいい。それをNCの方針にしたことが問題なのだ。これに限らず、同文書の筆者が、この重大で、困難な問題をいかに解決するかという立場からではなく、売り言葉に買い言葉的なやりとりを通して、2人を追いつめ、2人がいかに許し難い「団結破壊・分裂行動」に走ったかを、トクトクと、鬼の首でも取ったように述べ立てているのは、ひたすら浅ましいという他にない。
 2人の責任は言わずもがなだが、一応おさえておくと、ともかくもっと勉強して、もっと運動の中に身を置いて、議会の場で常に正しい判断が出来るように、不断に知識を蓄え、感性を磨いていくことが必要である(あった?)。別にサボっていたわけではないだろうが、学習と運動よりも議会的議会活動にのめり込めばのめり込むほど、必ず議員病に侵される。ただし、これまで私は2人、2人と言ってきたが、やはり結柴と新城を同じ水準で論じるのは、これから述べる指導責任という点からも正しくないと思う。結柴の場合も当然彼に対する指導責任はある。結柴は何を言っても言うことを聞かなかった、などというのは言い訳にならない、彼はあらゆるレベルのNC指導部会議に出ていたはずだ。党の助言・指導を一切拒否するような人間なら、候補者にしたこと自体の責任が問われなくてはならない。まして新城に対する指導責任はその何倍も重い、新城に議員という重責を課したのはNCではないか。その新城が自分たちの言うことを聞かなくなると転向集団呼ばわりする。私には到底その神経が理解できない。
 杉並区議問題をめぐるNC指導部の責任といっても、私は個々の案件についてどういう経緯でこういう過ちが犯されたのか、それに指導部がどう関わっていたのかについて、よく知らないし、知りたいとも思わない。むしろ問題は、明らかになっただけでも、これだけ重大な過ちが繰り返し犯されているにもかかわらず、それをチェックし、正す機能が、西部地区委員会的にも、中央指導部的にも全く存在しなかったことである、というよりも、そんなことには関心がなかったのだ。なぜなのか。
 まず、杉並選挙と当該西部地区委員会に生じたある種の歪み、長い歴史をぬきに論ずることの出来ない歪みについて触れないわけにはいかない。杉並選挙は、PCW下における、二重対峙・対カクマル戦のもうひとつの最前線だった。あの戦争は、政治闘争的には、三里塚、動労千葉、さらに狭山もつけ加えた方がいいだろうが(動労千葉がここでは労働運動としてではなく、政治闘争的テーマでしかなかったことが大きな問題だが)、これらに支えられて存在しえた。同時に重要だったのが杉並選挙で、私はこの選挙を、あの戦争の人民的大義性を、限られた時間と空間で立証してみせる闘いであったと思っている。だから権力とカクマルの破壊攻撃は凄まじいものがあった。これに対してNCは、勝利の絶対的死活性にせき立てられて、その総力を2年の一度、しかも春闘、新歓という決定的な時期に杉並の一点に集中した。
 PCW下の杉並選挙、それはまさに血みどろの選挙だった。私は杉並選挙に、89年の都議選、91年の区議選、93年の都議選の3回、APの仕事で関わっている。91年には結柴が投票日の数日前の頭を割られ、瀕死の重傷を負った。93年は、その結果立候補者が一度も街頭に立てないという異常な選挙を強いられた(私は強く抗議したが)。そして選挙運動期間以外も、議員や議員候補は数名の護衛を付けなければ外出出来ず、その日常的地城活動は大きく制限された。その中で議員の活動が、選挙期間以外は議会での活動に特化される傾向が生まれていったと思う。ここにはやむなく強いられたという側面がある。だがそれも一定の段階までだ。それがいつの段階かをはっきり言うことは出来ないが、要するに議員にも、選挙を抱えた西部地区委にも、いわゆる5月T的転換が求められたのだ。しかしこの転換を結局かちとれぬまま今日までズルズルきたというのが問題の核心ではないか。
 もちろん結柴、新城を含む議員の責任は大きい。自分に引き寄せて百万人署名運動の窓などから見ていると、本当の杉並は何をやっているんだということをいつも思い、また口にしてきた。複数の議員がいて、万単位の選挙名簿をもっていて、なぜこんな運動に飛びつかないのか。なぜ議員が先頭に立たないのか。なんのための革命的議員か。全く不思議でならない。議員の責任は大きいのだ。だがここは言うまでもなくNCの政治的看板を掲げた、革命的議会主義の成否のかかった戦略的地区組織である。そこにおける5月T的転換がいつまでたっても勝ち取られない責任は、ただ議員の責任というだけではすまされない。当然NC中央指導部の責任がある。
 要するにNC指導部は、投票日の何ヶ月か前になると、目の色を変えて杉並に押し掛け、ビラの内容や演説の中身にまであれこれ口を出す。もちろん全国からの動員もかける。そして勝っても負けても、投票日が過ぎるとさっと潮が引くように引き上げる。これが選挙を抱える当該地区組織にとってどれだけ組織破壊的であるかを顧みることもなく。中央指導部にとって杉並で関心があるのは選挙の結果だけ。いやそれに関心があるのは当然だが、問題は投票日の半年前になると騒ぎ出すが、それ以外の3年半については全く無関心・無方針。つまり杉並選挙には関心があるが、それを抱えている当該地区委建設についてはどんな積極的方針も定見ももたないまま20年余を費やしてきた。
 こうして、革命的議会主義などを唱えてはいるものの、西部地区委指導部の頭の中は、常に運動のために議員や選挙があるのではなく、議員や選挙のために運動があるという逆立ちした発想を引きずってきた。その中で、議員そのものの活動も従来からの歪みを正すことが出来ず、今回明らかになったような形で問題が表面化したということではないか。ともかく必要なのは、結柴、新城の自己批判とともに、NC指導部を先頭に杉並選挙問題という戦略的大問題を全面的に、自己批判的に総括することである。だが事態は逆方向に進んでいるようだ。
 冒頭に触れた文書は、次回区議選で候補者を1人にする方針を合理化するためか、前回03年区議選で3人の候補者を立てたことに関して、「『3人会派』論は議会主義的屈服の道」などということを言い出している。今さら何を言うか。御都合主義の極みである。3人区議への挑戦は何よりも都議選勝利のためではなかったのか。「3人会派」という言葉の評価はどうでもいいが、問題は都議選である。3人区議への挑戦を「完全に間違った方針」というなら、85年にはじめた都議選の誤りを語らなくてはならない。しかし都議選を始めたのは結柴、新城の責任か。NC最高指導部の決断で踏み切ったのではないのか。
これに応じて区議選でも87年から2人の候補を立てた。いま区議候補を1人にするということは都議選を断念することだ。私は決して都議選を継続すべきだと言っているのではない。しかし文書のようなことを言うのなら、結柴、新城の弾劾などというレベルではなく、都議選挑戦を決定し、さらに一度は国政選挙にまで手を出したNC最高指導部の責任、その「議会主義的屈服」を正面から論じなければならない。いや最高指導部こそがこの20年余の、大変な人とカネを注ぎ込んだ杉並選挙の全面的な総括をぜひともしなければならない。それなしに、これだけ重大なNCとしての戦略的方針転換を、西部地区委員会の一片の文書などに滑り込ませて押し通そうというようなインチキなやり方は止めてほしいのである、
 付言すれば、いま私は「インチキ」という言葉を使ったが、杉並区議問題について●●●でまともに議論したのは、前述した9月下旬の会議が唯一である。11月集会までは、集会組織化の妨げになるから控えているのかな、と思っていたが、それ以降も今日までこれだけ重要な組織問題を、●●●という指導部会議で正面から論議する議事運営が行われていない。しかし杉並的には「トカゲの尻尾切り」に向けての既成事実がどしどし積み上げられてきた。私がこのような意見書という形で発言せざるを得なかったもう一つの理由がここにある。いずれにせよこういうやり方は、少々「プロレタリア的公明性」(第3次分裂時に本多論文が「山本派」に投げつけた言葉)に欠けるのではないか。

6 杉並区議問題についての私の考えA

 Dさんという、長年、都革新の後援会長を勤めてきた▽▽屋の親父さんが、12月に入って辞任届を出している。西部地区委文書によれば、これも2人が「10月に入り直接区民に働きかけて分裂を組織し」た結果ということなのだろう。他方では、いやDなどという人物は、もともと労働運動なんか何にも知らない、どうしようもない人間だなどと言って、このD動向を居直る言動もある。沙汰の限り、というべきである。
 03年区議選においては、結柴、新城の2人に投ぜられた票だけで、7千数百という数であることをまず最初に再確認しておこう。この決して少なくない杉並区民、もし必要なら杉並に住む労働者人民と言い換えてもいいのだが、ここに今回の杉並区議問題は大きな衝撃を呼び起こしている。これは前記文書においても、「支持者に波紋を呼んでいる」「選挙過程を通して支持を失う、支持者が離れる、または敵対的に登場することも十分想定できます」などと実に正直に自白している。しかし同文書は、これはやはり2人の分裂策動の結果だという。こういう発想を私は「警察史観」と呼んでおこう。権力を握っているものが絶えず陥りがちなものの見方というぐらいに理解してもらえばいい。民衆が権力に異を唱えたり、あるいは立ち上がったりしたとき、権力者はそれを自分の責任と受け止めない。しかし民衆を全部敵にすることも出来ない。そこで一握りの悪質な煽動者が民衆をたぶらかし、悪の道に導いたという、われわれにとっておなじみの発想である。この警視庁公安部の顔負けのものの見方が、NCの公式文書にまで堂々とまかり通っていることが私は恥ずかしい。
 Dさんという人を、私は私が選挙に関わっていた頃からの熱心な支持者と認識しているが、直接話したこともない、目を合わせればお辞儀をするぐらいだ。しかし、ともかくひたすら誠実で、実直な人という印象が残る、ああいう人間が辞任届を出した、私はそこに至る彼の中での無念、葛藤、苦しみに思いをはせざるを得ない。Dは労働運動を知らない? 当たり前ではないか。あるいは私はよく知らないが、住民運動でも積極的な活動家ではないのかもしれない。活動家ではなく、単なる支持者に止まっていたのかもしれない。だが、だから何だというのか。
 重要なことは、このDさんを中心にすでに何十人という区民が、即時辞職反対、結柴・新城支持で動き始めていることだ。私はこの背後には何百人という区民がいると思う。さらにそのまた背後には何千人という区民が固唾をのんで事態を見守っていると思う。杉並区民をあまりなめないほうがいい。彼らの大半が住民運動や労働運動の活動家ではないかもしれない。しかしそれは、革命的議会主義を繰り返し口にしながら、実践においては絶えずそれを裏切って、これらの区民をただの一票としてしか見てこなかったNC(当然結柴、新城を含む)の責任ではないか(もちろん私は杉並に「親の会」とか「住民の会」などの優れた運動があることを十分認識しており、それを担う少なくない区民活動家がいることを承知しているが)。Dなどろくでもない人間だ、逃げて当然などというのは、まさに天(杉並50万区民)に向かって唾をするもの。少しは恥というものも知っておいた方がいいと思う。  私は、杉並選挙について事情に疎い人が、民営化に賛成した議員などすぐクビにしろ、杉並選挙などすぐ止めてしまえ、と言うのは、よく分かる気がする。選挙の度に自分の持ち場での活動を投げ捨てて杉並に駆けつけた労働者メンバーが、今回明らかになった2議員の過ちに本当に怒っているというのもよく分かる。だが私は強調したいが、NC指導部、特に杉並選挙に直接関わりをもち、杉並の事情に通じている指導部が、これに乗って、これを煽って、結柴・新城攻撃に熱中するなどというのは問題外だということだ。それらの当然の怒りをしっかり受け止めて、引き取って、その上で、さらに杉並にある政治的緊張に踏まえて、正しい打開の道を模索することこそ求められているのだ。
 私も杉並について何も知らなければ、多分杉並選挙なんか直ぐ全部止めろ、と言っただろう。それぐらい杉並選挙はこの20年余り、NCに大きな犠牲を強い、打撃を与えてきた。しかし私は不幸にして、もう随分昔だが、ここの選挙に関わりをもった。私はいま、「杉並の政治的緊張」という言葉を使った。言うまでもなく、杉並支持者区民との緊張関係ということである。裏返せば信頼関係といってもいい。今の問題に則して、より具体的にいえば、結柴・新城に投票した7千数百人の杉並区民との関係のことだ。
 私は、杉並において区民が都革新(そのどの候補者であれ)に投票するということが、どういう行為であるかを多少知っている。一昔、二昔前であれば、そんなことが分かれば、真夜中に脅迫の電話が連続し、重油を家中にばらまかれた支持者までいた。熱心に都革新を支持し続けていた芸能人が、もうこれ以上支持していると自分の商売が成り立たないと言って、泣く泣く離れていったこともあった。今ではそれほどのことはない。しかし都革新のバックにNCがあることは公知の事実であり、都革新の候補者に投票することは、一文の得にもならないだけではない、必ず権力と地域の激しい反動を呼び起こす。大変なリアクションを覚悟しなければ一票など投じられない。そういう区民が結柴・新城に投票した人間に限っても7下数百人いるのだ。だからこそ今回明らかになったような結柴・新城の誤りは許せない。必ず自己批判しなければならない。
 しかし即時辞職となれば別だ。前記文書と同じころ、ホームページ上で流れた都革新の声明は、やはり2議員の誤りをあれこれ語り、2人の即時辞職を区民に説得するためのものと思われる。だが誤りを区民に謝罪するのはいいが、即時辞職などという結論に導くためなら、支持者区民が何を言い出すかは明白だ。「ふざけるな! そんな議員を担いで、われわれに支持を呼びかけたのは誰だ! そもそもわれわれが選んだ議員を、われわれと関係ないところで勝手に辞めさせるなどということをされてたまるか!」―結柴・新城が一切区民と接していなくても、区民は必ずこう言う。なぜ、こんなことが分からないのだろうか。それは杉並区民を主体として考えていないからである。もちろんそれは、ブルジョア議会主義に基づく有権者という主体でしかない。しかしやはり主体なのである。
 この肝心なことが分からず、区民など党の一存でどうにでもなる、蚊帳の外においておけばいいという極めて傲慢な思想がここに顔を出している。それにしてもこのような恥知らずで、傲慢で、無謀な思想が、こともあろうに新指導路線、◎◎◎革命を錦の御旗にして登場している。何と不愉快で、おぞましいことか。
 求められていることははっきりしている。結柴・新城は自己批判しなければならない。その上で来年4月までの任期を全うし、4月選挙には出馬を断念すべきだろう。しかしここで一番重要なことは、結柴・新城の犯した過ちは、同時にNCの犯した過ちだということである。2人の自己批判は、NCの自己批判でなければならない。NC指導部は、必ず結柴・新城を支え、助け、共同の仕事として、この自己批判をやり切らなくてはならない。
 結柴・新城が直面している痛みをNCはNCの痛みとして共有しなければならない。そうすることを通してのみ、2人の真の自己批判も勝ち取られるだろう。2人が全くどうしようもない、箸にも棒にもかからない「マルクス主義に敵対した転向分子」であるとしよう。私は決してそうは思わないが、もしそうだと仮定しても、これをやりきる以外に道はないのだ。最後通牒主義的に、即時辞職を迫るなどというやり方は、NC指導部の困難だが、しかし避けて通ることのできない仕事を放棄することである。それは杉並支持者区民に対する裏切り行為であり、階級的犯罪行為である。

INDEX
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