大庭信介【伸介】著「今、労働運動は君に何を求めているのか
   ―非正規雇用と地域合同労組の可能性」パンフ批判
     (合同労組に取り組む全同志のみなさんへ)

 (07.2.20)大原

 現在、青年労働者を軸とした未組織労働者の自己解放的組織化の決定的水路として合同労組建設が積極的に進められ様としています。全国アイリス総会においても、党の歴史的到達点に踏まえ、11月集会と教基法決戦の総括から「体制内労働運動との決別」を核心路線として提起し「組合権力の奪取」「組合のない職場での組合建設」「反戦政治(改憲)闘争」を組織方針の三本柱として強力に再確認してきました。06年11月集会の根底的総括から、いよいよ全党が一致して階級の組織化に突入しようとしています。この様なとき合同労組建設を巡ってこの方針を核心的に否定するパンフレットが、バルト労働学校の講師によって、バルトの忠告を無視して自主発刊されました。全面的に読まれていないとは思いますが、党内にも影響が出ているとも聞き、このパンフのコピーを取り寄せ読んでみました。以下私の率直な感想と批判を述べたいと思います。

 はっきり言って、大庭パンフは関合や関トラの闘いの事実以外には読むに耐えない内容です。全内容を怒り無しには読めません。党として切り開いてきた闘いの運動的を盾にして、党と違う(ブルジョア的−体制内労働運動的)思想・路線を党内に持ち込もうという意図以外の何ものも感じませんでした。どうしてこの程度の内容が見抜かれず、党内に影響を与えてしまうのかと思ってしまいます。「党の革命」からアグレッシブ(23全総)を切り開き、11・9に到達した党的地平の核心に踏まえ切るならば、全く自明のことだと思います。党内では、アグレッシブ以降、特に第三報告に踏まえてMEL研を先頭に「俺鉄2」の全面的捉え返しが行われ「憑き物が落ちた」様に理論活動が活性化しています。最近では、K同志の獄中著作である「スターリン主義と農業の強制集団化」の討議が本格的に行われ、民族抑圧問題、農民圧殺の根源に「労働者階級自己解放の破壊があった」とスタ批判としても決定的に深化しています。「何なす」をはじめレーニンの諸著作もここを押さえて読み込む中で、鮮明な捉え返しが可能となっています。そして、この「労働者階級自己解放」の核心的捉え返しは、不安定雇用労働者も含むステンド運動の活性化の原動力になっています。関合の闘いを励みとして建設してきたIPXの合同労組の決定的前進も、司馬同志をはじめとして、この核心をつかんだからこそ労働者と真に結びつき、自己解放性と確信に溢れて労働組合の組織化に決起することができています。それはまた、ステンド運動を青年労働者と一体で、徹底して青年労働者の決起に応えることでつかんだ決定的地平でもあります。党の到達点の核心に踏まえたとき、大庭パンフの根底的問題性がはっきりすると思います。
 一言で言えば、大庭パンフと「俺鉄2」や私のパンフとでは「労働者観」「階級観」が根本から違うのです。大庭氏の労働者観は、既に歴史的に破産した民同的(体制内労働運動的)見方でしかありません。労働者を決定的歴史的主体として措定できず、それ故労働組合についても階級の自己解放−プロレタリア革命に向けた決定的水路としてつかめないばかりか、これに意識的に反対しているということです。大庭氏は、建前上は「労働者階級自己解放」を云々しながら、労働者自己解放が一体どういうことなのかが全く分かっていません。むしろこれに敵対しブルジョア思想に屈服し、労働者を自己解放から遠ざけようとしています。そして、何よりも労働者階級を徹底して低め、侮蔑しています。彼は、明白に自分を階級の上に置いて、そこから全てを語っています。その傲慢な思想が隠しようもなくにじみ出ています。この点では、怒りに耐えない内容です。これを階級が読んでひれ伏すなどということはあり得ません。したがって、彼の提起する様な合同労組運動ならば、何の階級的力にならず破産するか反動化する以外にありません。何よりも問題は、党の到達地平を盾にこれを換骨奪胎する内容を展開しているところに最大の毒があります。党を階級の上に置いてきたこれまでの私党化グループ的あり方と根底的に決別し、真に階級的自己解放性にあふれた労働運動を組織するためにも、大庭パンフを徹底的に批判する必要があります。いちいち指摘するのも腹立たしい程なのですが、以下核心的に批判したいと思います。

@ まず6Pの冒頭、「労働組合運動の原点は、困っている労働者を団結の力によって助けることであり、その人たちを組織することである。」という規定からはじまっています。これが全体を規定する彼のテーゼになっています。果たしてこれは正しいのでしょうか。一体これが労働者階級自己解放の労働組合運動なのでしょうか?団結は、困っている労働者を助けるためにあるのでしょうか?何よりも、いきなり自分が階級の上に立ったところから規定しています。労働者階級は、無知で、かわいそうで救済の対象でしかないと彼は規定しているのです。この思想―労働者観は、全編を通して貫かれています。そして、ご丁寧に現代の若者たちは「女工哀史」と変わらないとまで規定しています。これは、正しいのでしょうか?かわいそうだから助けろ、というのは朝日新聞並みのブルジョア的改良主義的労働者観です。私のみならず、バルト―ダートマスをはじめ誇り高く闘い抜き、鉄火の試練の中で情勢を切り開いてきた労働者全てが「冗談じゃない!」と思うはずです。ここには、凄まじく過酷な状況の中でも、誇り高く生き抜いた女工労働者の活きた歴史が全く抜け落ちています。それ故に現代の青年労働者の根源的な人間的息吹・怒りが完全に欠落しています。苦闘しつつ人間として誇り高く生きようとしている労働者は、哀れな救済の対象などではなく社会の主人公であり、正に自己解放−革命の主体なのです。その様についぞ今日までスターリン主義も社民主義者も位置づけてこなかったところに「女工哀史」的階級観−労働者観が成立しているのです。これに全く無自覚です。これは、日共、民同の指導で敗北した国鉄新潟闘争の中に日本労働者階級の根源的戦闘性を捉え、党を立ち上げたROBの階級観と違う民同の思想です。こうした体制内運動的労働者観を党の運動をあたかも賞賛するかの様に装いながら、党内に持ち込もうとしているのです。これだけでも怒らなければなりません。

A さらにあろうことか「非正規の彼ら彼女らの多くは…正しい知識を持ち合わせていません。」と断定する。大庭氏は正しい知識を持っている(ブルジョア的所有概念)が非正規の青年は無知だ、知識を持ち合わせていないと断定しているのです。フザケルナ!と思いませんか。(こんな主張を支持できるとすれば、同様に階級を蔑み上から見ている旧態然とした思想と労働者観が自分の中にもあるということです。)そして、無知な青年労働者に「資本主義打倒」などと言うのは間違いだ、「最大限綱領主義」だとご丁寧に安田同志の言葉「資本主義は、労働者食わせていくことができなくなった。」を引用して批判しています。「資本主義打倒」などと言うのは観念論だ、ウソだと思うなら失業者に聞いてみろとまで言っています。どこまで労働者を愚弄するのでしょうか。階級の窮状を盾にして、根源的解決から遠ざけようとする論理でしかありません。革命の彼岸化であり、大衆の自然発生性に拝脆する体制内労働運動の古典的論理です。階級を自己解放の主体、革命の主体と措定できない者がレーニンを引用するなど、そもそも前提が違います。許し難いことです。

B また合同労組への「二重加盟」の提起自体は、一見否定し難い様に思えます。私自身がダートマスを担いながら、県アイリスの代表を務め、合同労組の委員長として組合建設を切り開いてきました。しかし、大庭氏の言う二重加盟の提起は、既成組合も本工主義でダメ、非正規も無知で踊らされているから二重加盟でやれということです。両方ダメだから二重加盟でやれというのは、そもそも論理自体が破産しています。私の立場と全然違います。歴史と社会の主人公として労働者階級は、ひとつでありそれを組織するのに誰しもが決定的主体なのです。私は労働者をその様に位置づけ、励まし、労働組合建設を勝利に導いてきました。正規であれ非正規であれ、労働者階級としていずれも決定的なのです。その様に位置づけられず分断支配を前提化したところに体制内労働運動の思想と路線の限界があるのです。また、こうした「二重加盟」の様なことができなかったから総評はだめだったとでも言うような総括らしき展開は、自らが依然としてその体制内労働運動の枠内で労働者を見て発想していることを示しています。総評―体制内労働運動の限界は、経済主義の枠内で、「ニンジンをぶら下げて」体制内改良主義に階級を押さえ込もうとしてきたからこそ、必然的に破産し連合結成に結びついてきたことなどの核心が全く分かっていません。だからこそ、バルト運動の核心を意図的に無視し、内容的には全否定して展開しているのです。

C 合同労組が、若者の「実態」に合わせた個人加盟方式を取るべきだ、これこそが若者を中心に人間解放をめざす労働運動だなどというのは、実際には自己解放の彼岸化にしかなりません。一方で組織者集団たれなどと言いながら、個人加盟方式を固定化し、階級自身の力で団結し組合組織を作り上げ自己解放していくことを否定しています。救済の思想・論理からは、組織的団結をつくる水路として個人加盟が過程的水路として重要なのだという位置づけは出てきません。それで自己完結し、結局体制内に青年労働者をつなぎ止める役割しか果たせないのです。

D 関合−関トラの闘いの引用についても、つい唸って読んでしまいそうですが、よく注意して見ると、救済運動としての重要性を経済主義的に一面的意識的に総括している事が分かります。この党が切り開いた闘いを階級の自己解放−革命に向けた決定的かつ歴史的な闘いとして位置づけるのではなく、あくまで救済運動としての重要性を強調していると言うことです。持ち上げるふりをして、実は核心を低めています。

E 彼の労働組合運動における物知り顔で、根本的な誤りに満ちた高説については、逐一反論する気も起きませんが、取り分け「労働者階級自己解放を戦術で表現せよ。」「戦術討議が重要だ。」「何が何でも絶対に勝利をもぎり取れ」という点について、彼の階級不信、経済主義の思想の結論であるということです。自己解放が戦術によって切り開かれるなどというのは、階級不信に基づく自己の経済主義的破産をテロリズムで乗り切ろうとする思想と同根です。戦術でしか労働者を引っ張れないなどというのは、階級を侮辱した思想に基づく階級自身の自己解放の否定であり、階級的団結の否定でしかありません。「ニンジンがなければ戦術で引っ張れ」と主張しているとしか私には受け取れません。戦術は、自己解放性を土台とした団結の強さに応じて、また同時にこれを階級的に発展させる意識性を以てギリギリのところで決定されていくのであり、彼我の力関係、個別人格も含めた対象資本の分析、社会情勢構造分析を労働者と共に徹底討論し、一致していくことを抜きに決められる訳がないのです。孫子の兵法以下です。これで仮に争議に形式上勝ったとしても、階級的団結が強化されるはずがありません。「勝利」が当該労働者の外側にあり、戦術の外からの押しつけになっても、階級自身の自己解放的勝利にはならないからです。闘いの主体、自己解放の主体はあくまで労働者自身なのです。また、非正規雇用労働者は、無知だから政治・経済情勢について話し合っても仕方がない、だから戦術が大事なんだという侮蔑した思想のどこに労働者自己解放があるというのでしょうか。ステンドの青年労働者が必死で切り開いてきた地平の全否定です。むしろ青年労働者は、革命をつかむことによって自己と労働組合的団結の決定的重要性をはっきりと自覚することができるのです。これはステンドの青年労働者自身が切り開き、つかんだ核心です。これを、物知り顔で妨害するのか、断固として発展させるのか、党員であろうと例外なくこれを突きつけられています。大庭氏の主張は、バルトやステンドを例外として否定し、これと合同労組の組織化を切断する役割しか果たしません。

F さらに「非正規労働者は、恨みや怒りはあるがこれを経済や政治と結びつけて考えるイデオロギー的思考を持ち合わせていません。」とブルジョア的所有概念で階級を侮蔑し、自己解放の思想と政治から切断した上で「組合権力を取れなどというのは思い上がった大衆蔑視だ。」「労働組合は特定の政治・イデオロギー的目的を実現するために存在するのではない。」と主張しています。(何を言っているんだ!どの旗の下に団結するかは、本来階級自身の主体的行為だぞ!だいたい政治・思想と無関係な労働組合があるとでも言うのか!物知り顔の空論主義者め!とつい怒鳴りたくなってしまいます。)そして「非正規労働者は底辺で虐げられているから自己防衛に敏感で、利用しようとすれば信頼を寄せてくれない。」などと展開しています。言うまでもないことですがバルト―アイリス方針の否定、党の方針の否定を展開しています、ここまで労働者を愚弄した思想の持ち主である大庭氏に大衆蔑視だなどと言われる筋合いはないし、その彼だからこそこの様に展開できるのですが、組合権力を体制内労働運動勢力と激突して取るということが、一体労働者を利用したところで実現できるとでも思っているのかということです。全く逆に「組合権力の奪取」とは労働者階級として仲間を根底的に信頼し、その根源的自己解放性に深く依拠し、まさに彼ら彼女ら自身の主体的で自己解放的な闘いを実現していくことによってしか勝ち取る事など決してできないのです。この核心において激烈な党派闘争を貫徹していくと言うことであり、まさにこの様な労働者を徹底的に主体とした思想を貫徹する我々の旗の下に団結せよ!という方針なのです。冒頭にも展開しましたが、労働者階級が、虐げられたままでいるのだなどという労働者観は、根本的に間違っています。自らが利用し、される存在であるというブルジョア的商品的人間関係に無自覚に依拠して、階級の外側(上)からしか見ていないからこの様な事が言えるのです。信頼を寄せてくれないから、利用しようとしている事を見透かされてはいけないと、言っているに過ぎません。労働者の誰がそんな奴を信用するのかということです。みんなに去られるか、殴られる(打倒される)のが落ちです。労働者をなめるのもいい加減にしろ!ということです。彼の思想・彼の路線・彼の主張は、安田同志や私が熾烈な党派闘争を通じて階級と共につかみ取ってきた思想と実践的実証、党の歴史的到達点の対極・敵対でしかありません。彼が「高説」は語れても労働者階級と、取り分け退路を断った労働者と一度としてまともに向き合ったことのないことを如実に示しています。

G 本工組合の経験は、地域合同労組運動に役に立たない、というブルジョア思想にまみれた規定を行う大庭氏の指摘は、そのまま大庭氏に突き返されるべきだ。本工・非正規というブルジョアジーの分断は、核心的階級的団結を形成することで打ち破れるのです。本工主義への屈服は正に体制内労働運動が組合権力を支配し続けてきた結果なのです。これを問題にせず、これをどう仕様もないこととして屈服し、「結果」を前提化して合同労組の論理を立てているのです。いまやその「結果」がブルジョアジーの危機の中で大破産していることが、全く分かっていません。問題は、これまでスタや民同の中で幾たびも繰り返されてきた「正規か非正規か」、あるいは「横断組織か縦割り組織か」などのまやかしの形式論議にあるのではありません。核心的思想が大事であり、何に向けた労働者組織をつくっていくのかということです。「労働者階級自己解放」の思想に基づき「プロレタリア革命」に向けた組織をつくっていくと言うことであり、ここに階級そのものと拠点を決定的に位置づけ、発展させていくということです。これは我が党にしかできないのです。わが党だけが、「階級そのものである」という地平に到達したからです。大庭氏の思想・主張は、この党の地平―労働者階級の自己解放の思想―プロレタリア革命の妨害物でしかないのです。

 労働者階級自己解放の原理、革命の主体としての労働者階級に対する断固とした措定こそが「党の革命」−アグレッシブ−11月集会−SNGの階級的労働運動路線の核心であり、これを通じて「俺鉄2」の労働者観−労働組合観こそが日本労働者階級の最高の到達点であり、党はここに立ちきって革命に向けた労働者階級の組織化に入るということです。これは、内戦から逃亡し民同労働運動−体制内労働運動の中で、これを「左」から批判しつつ、正に体制内で自己を維持してきた大庭氏には到底到達し得ない地平なのです。にもかかわらず、彼にはバルトから学ぶという謙虚ささえありません。この様な人の主張に依拠してしか自己を総括し、運動方針を打ち立てられないとすれば「党の革命」が切り開いている地平から自ら後退していくことになってしまいます。大庭氏のパンフは、ステンドの最前線で闘い抜いている同志たちが見れば、怒り心頭で破り捨てられること請け合いです。彼と同じスタンスでしか労働者階級を見られないとすれば、それこそが体制内労働運動の階級観なのです。「党の革命」よって打倒された与田もまた既成解同(体制内運動)を「左」から批判するありかたを土台に、階級に絶望した体制内思想をもって党の路線方針としてきました。与田の「シルクロード計画」−「袋ごとの獲得論」などの思想的・路線的・運動的な影響が党内には依然としてあると思います。こうしたことと党は意職的に決別し、「憑きものを落とし」スターリン主義、社民主義を階級と共に根底から打破していくということなのです。「体制内労働運動との決別」というのは、そもそも三全総以来の核心的党是でもあります。自らが曖昧な所に決定的で広い獲得はないのです。これを鮮明に打ち出して勝負する時代を「党の革命」によって切り開いたということなのです。全労働者階級をスターリン主義や民同の体制内イデオロギー的組織的支配から解放し、労働者階級自身の自己解放的力で団結を形成し帝国主義を打倒しよう。これが、我々の旗でありこの下に団結しようということです。

※参照資料添付

抜粋:〈歴史的存在としての革共同〉を全否定した大原議案
    ――5月拡大全国WOB議案を批判する(2007年6月)
[T]関西地方委を封殺・排斥する革共同中央

●「党とは別の意見や著作を読んではならない」!
 大原議案では直接に触れていないが、大庭伸介氏のパンフレット『今、労働運動はキミに何を求めているか――非正規雇用と地域合同労組運動の可能性』をめぐる革共同中央の常軌を逸した対応は、大原議案と一体の重大問題である(注:大庭伸介氏は、元総評オルグ。1926年の浜松・日本楽器大争議の研究で知られる)
。  中野氏や大原氏は、大庭パンフを批判するというレベルではなく、何とその存在そのものを抹殺する対応をしている。
 彼らは、動労千葉労働学校での大庭氏の講義を、恒例通りパンフ化することを取りやめ、大庭氏にパンフ化をやめるよう圧力をかけ、「その忠告を無視して自主発行した」などと非難している。
 彼らは、動労千葉として自ら講師として招きながら、「革共同と違う思想と路線を党内に持ち込もうとしている」と、誰が聞いてもびっくりするような本末転倒の難癖をつけた。しかも、「読めば怒りに耐えられず、破り捨てて当然」(大原氏)とさえ公言している。まさにナチスの焚書のような、左翼にあるまじき禁書扱いをしているのである。
 その理由がまたひどい。“民同であり体制内労働運動派だ”、“ブルジョア思想に屈服している”、“労働者階級を救済の対象と見て侮蔑している”と罵倒し、とどのつまりは“動労千葉労働運動から学ぼうとしていない”と言って切り捨てているのだ。要するに、動労千葉労働運動いや中野洋氏をあがめないのはみんな反動派だと言っているに等しいのである。
 だが、大庭氏がこのパンフの基本テーマとして、「非正規労働者に対する賃金その他の差別を撤廃し正規化をかちとることこそ、労働運動の最重要の戦略課題」と提起している問題について、革共同中央はまったく答えていない。この問題を不問にふして今日の戦闘的・階級的労働運動を進められるなどと、本当に考えているのだろうか。ここには、「階級的労働運動路線」なるもの、「労働運動で革命をやろう」路線の致命的な誤りと裏切り性があるのだ。
 また、労働組合が100あれば、100の労働運動の実例があり、運動の100の性格と100の教訓がある。それを認め合い、学び合い、団結して共同の敵と闘い、それを通してこそ階級形成を進めていくことができる――これが革共同の労働運動における基本姿勢ではなかったのか。動労千葉自身が、これまでは、最も戦闘的・原則的に血を流して闘ってきたからだけでなく、そういう姿勢で闘ってきたからこそ、他の労働組合や労働運動家から尊敬され、新しい潮流運動の軸になりえてきたのではないのか。
 党とちがう思想と路線であるという理由で、一労働運動家のパンフを“読むな、売るな、買うな”というのは、党の名による労働運動への思想弾圧以外の何だというのか。それは動労千葉とその労働運動をも党の名でじゅうりんするものでなくて何であろうか。

●党内での粛清と党外への思想弾圧は一体
 大庭パンフ禁圧の先頭に立つ中野氏、天田氏、大原氏、それを援護する清水氏は、次のエンゲルスのことばを思い出してはどうだろうか。
「今日、存在している社会主義的労働者党のどれ一つをとっても、自分の胎内に育った反対派をデンマーク流に処分(注:デンマーク社会民主労働党における反対派処分問題)しようと思う党は、たぶんどこにもないでしょう。ひとつの党の内部に穏健派と過激派の傾向が生まれ、あい争うのは、その党が生き、大きく成長するために必要なことです。そして、過激派をたちどころに排除する者は、そうすることで、彼らの成長を促すだけです。労働運動は現存の社会にたいする最も鋭利な批判に根ざしていますし、批判はこの運動になくてはならぬ生命の糧です。労働運動は、みずから批判をおさえようとか、討論を禁じようとか、そのようなことができるでしょうか? いったい私どもが、他人にたいして私どもの発言の自由を要求するのは、それをわが党の戦列でふたたび廃止する、そのためだけなのでしょうか?」(下線は原文)
(「トリエルあての手紙の草稿」1889年12月18日、『全集』第37巻284ページ)
エンゲルスのこのような実践的態度を、革共同は、スターリン主義の歪曲をうち破って復活させ、引き継いできたはずではなかったのか。党内民主主義を絞殺し、中央批判の自由を抑圧し、相互批判と自己批判の党風を一掃する党。そのような党は、労働者階級の運動に対して、同じように排他的で官僚主義的・セクト主義的な政策をとり、闘う統一戦線に背を向け、党と労働組合の関係、党と大衆運動の関係のすべてを破壊する党でもあるのだ。それはもう労働者階級の党とは呼べない閉鎖的で独善的な組織でしかない。
 革共同中央は、党内での粛清と党外への思想弾圧をこととする集団になりさがったのである。

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