意見書No.2/◆◆◆//2007・12・31

〈目次〉
  はじめに
1/三全総以前のこと
2/三全総路線とは何か
3/73年本多論文について
4/五月テーゼ路線について
5/AD革命をどうとらえるか
6/「階級的労働運動路線」について@
7/「階級的労働運動路線」についてA
8/党的全体性をとりもどすこと
  まとめにかえて

はじめに

 私は、先に開かれた24CC(革共同第24回拡大全国委員会総会)なるものの直後に、ここにおけるNC関西指導部の2名の同志の除名に反対する「私の立場」と題する短い文書を提出した。この立場に変わりはない。
 ここでも簡単に触れておいたが、私は今回の組織分裂が、関西の「中央打倒闘争」によって引き起こされたという考えに与さない。直近の諸問題、例えば24CCと同日に開かれた関西NC党員総会の、どちらが先にスケジュールを決めたかなどという問題はもちろん重要なことだが、ここで触れたいとは思わない。
 私が言いたいのは、この分裂は、本質的にNC中央によって引き起こされたということである。この数年、とりわけ06年3月のAD革命以降のNC中央における極めて急激な、180度的な路線転換が、この基底に横たわっている。そして今日のいわゆる「階級的労働運動路線」に異論を唱える者、ついていけない者、はみだした者をことごとく問答無用的に切り捨てる組織指導――これこそこの分裂を引き起こした真の原因である。
 ことわっておくが私は他方で、24CCと同じ日に開かれた関西NC党員総会に出された諸文書にも大いに意見がある。関西入管闘争委論文のような極めて優れた文書がある一方で、今日NC中央が格好の餌食として活用している椿署名文書などはただひたすら最低である。必要なのは、いま生起しているNC存亡の危機の全体像をその根底からとらえ、路線的・理論的批判を磨き、党内闘争・分派闘争を正しく推進することであって、「党の変質」に対してただ感情をむき出しにして罵詈雑言を書きなぐるなどというのは百害あって一利もない。分裂はいまや危機の段階から、現実の段階となった。しかし関西に限ってはいざ知らず、全国的にはNC内の多くの同志たちが、いまでも「分裂は避けてほしい」と、口に出して言うかどうかはともかく、心から願っていることも厳然たる事実なのだ。ただ分裂の火に油をぶちまければいいのではないのである。
 だからといって私はもちろん蝙蝠的な「どっちもどっち」派に逃げ道を求めようとは思わない。椿署名文書などくだらないというしかないが、椿署名文書批判に血道をあげることもそれと同じぐらいくだらない。問題はそんなところにあるのではない。問題の核心を見失ってはならないのだ。問われているのは、繰り返し強調するが、この間のNC中央における「180度的」路線転換とその強権的貫徹という組織指導の是非である。
 当然にも路線転換一般が悪いわけでない。91年五月テーゼも、旧くは62年三全総も重大な路線転換だった。その果断な推進は時代が求めていた。だが言うまでもないことだが、それは「路線」の転換であっても、NCの反帝・反スターリン主義の綱領的立場の清算ではなかった。今日進行している路線転換について、私は「180度的」という形容詞を繰り返したが、実はそれでも不十分だと思っている。一言でいえば、それはNCとして越えてはならない一線を越えつつあるということだ。言い換えれば、私にはそこにおいて、NCの立党の精神、NCのNCとしての原点・党是があまりにも乱暴に無視され、破壊されているように思えてならない。
 この意見書を書く私の問題意識は以上のようなものだが、だからこそ、少々迂遠のように感じられるかもしれないが、私は私のささやかなNC活動の節穴を通して見た、NCの決して短くない歴史をまず跡づけてみたい。もちろんそれが、今日われわれが直面している諸問題の全てに回答を与えるとは言わないが、不可欠の前提とヒントを与えると信じるからだ。「温故知新」の言葉もある。文字通り古い記憶をたどり、古い文献などもあさりながら、そもそもNCとは何なのか、何を共通の確認としてきたのかについてまず振り返ってみたい。その上でこの間の路線問題、組織問題についての私の若干の意見を述べることにする。そして私はこの意見書全体を、NCにおいて断続的ではあれ指導的構成員の一角を占めてきた私の自己批判の書として書きたいと思っている。

1/三全総以前のこと

 NC(革共同全国委)が結成されたのは、1959年8月で、これは革共同第二次分裂のときだった。トロツキー教条主義者である西分派あるいは関西派(西京司を指導者とし、関西に主力があったため、こう呼んでいた。後の4トロ系)とたもとを分かつことでNCは出発した。
 革共同そのもの(第4インター日本支部設立をめざす)の発足は57年暮にさかのぼるが、58年夏の第一次分裂(太田龍の脱落)や黒田寛一の小ブル自由主義的指導放棄の結果、その活動は停滞していた。当時、全学連は50年代中頃の「歌と踊りの民青」路線への反発から急速に戦闘化・急進化をとげ、これにトロツキズムの影響が加わることによって、58年夏には幹部党員が集団的に日共から除名された。だが彼らの多くは結局革共同に結集することなく、いわゆる「学連新党」としての共産同(ブンド)を結成した(58年暮)、翌年のNC発足時点での全学連主流派(反日共系)内の力関係は、ブンドが圧倒的多数で、次は西分派、NCは極少派だった。
 NC出発(本多延嘉書記長主導)時の綱領的対立点は、NCの「反帝・反スターリン主義」に対し、西分派の「反帝・労働者国家無条件擁護、スターリン主義官僚打倒」があった。ブンドは 「世界革命」は語ってもスターリン主義に対する態度は雑炊的だった。  これとともに重要なのが、NCが掲げた「職場・生産点に社共に代わる闘う労働者の党をつくろう」である。今日から見れば何の変哲もないと見えるかもしれないが、ここにはNCの根本にかかわる様々な概念がつめこまれている。まず「社共に代わる党」は、何よりも西分派の主に社会党への加入戦術の自己目的化からの決別としてあった。彼らは当時選挙があると「社共に投票せよ、だが信頼するな」などという愚かな主張を掲げていた。ここからの決別としてNCは「独自の党建設」「党のための闘い」をその党派的主張・実践の軸にすえるのである。  同時に重要なのは、「職場・生産点」に「労働者の党」をつくろうという点だった。これは当時のNCが動労青年部に一定の足がかりをつかんでいたことを基礎としているが、何よりもブンドの戦術左翼的街頭主義、街頭で物情騒然たる事態をつくり出すことによって革命への道を開こうという路線に対する批判としてあった。またこれとは全く次元を異にするが、日共の街頭主義(純然たるカンパニア主義で、ズブズブの議会主義と表裏一体)に対する批判でもあった。換言すれば、これは、職場という最も厳しい、根源的な闘いの場からの様々な逃亡の路線への批判としてあった。  このスローガンは、さらに戦後十数年の日本階級闘争・労働運動の総括から出てきたものであった。61年の「革命的共産主義運動の現段階と革命的プロレタリア党創造の課題」(本多著作選第5巻)では、革命的共産主義運動の源泉として次の三点をあげている。

したがって、日本革命的共産主義運動は、その実体的=潮流的な系譜としては、主としては日本共産党内の国際派的反対派の闘争から出発しているとはいえ、まさに、その国際派的限界(左翼スターリン主義)を自覚し、突破した地点から開始されたのである。そして、われわれをこうした左翼スターリン主義から解放して革命的共産主義運動にまで高めたもっとも決定的な力は、@51年以後、大敗北の廃墟のなかから不死鳥のようによみがえり、57年にはあの歴史的な国鉄新潟闘争を展開するところまで進んだ日本プロレタリアートの現実の階級闘争であり、Aマルクス主義哲学のスターリン主義的歪曲=客観主義との実践的唯物論のための闘争、プロレタリア解放の世界観としてのマルクス主義哲学の現代的再生のための闘争であり、Bハンガリア労働者階級の革命的蜂起を最前衛とする国際的な反帝・反スターリン主義、スターリン主義とたたかうトロツキー的左翼反対派の闘争だったのである。
 【この引用に関連して一言注意を喚起したいのは、07年SNG(『前進』新年号)が、「革共同創立の源泉は、1956年のハンガリア革命と57年国鉄新潟闘争、さらに日本共産党の55年六全協である」としていることである。つまりスターリン主義的な客観主義哲学・革命論との闘いが、宮本ら国際派が日共の主導権を握った六全協にすり替わっている。故意か、単なる間違いか。いずれにせよこれは反スタ革命的左翼の源流と左翼スターリン主義の源流の混同である】

 本題にもどるが、50年代の幾多の労働争議の中で特に国鉄新潟闘争を強調しているのは、とりわけその総括にかかわってであった。57年国鉄新潟闘争を指導したのは、「革同」を名乗る活動家たちで、日共にも民同にも批判的な戦闘的労働組合主義者の集団だった。だがその壮絶な闘いと無残な敗北の後、この革同の精鋭たちは、こともあろうに国鉄新潟闘争に敵対した張本人である日共に入党するのである。この一見奇妙で、痛苦な現実の中から、NCは「労働者党のための闘い」の旗を掲げるのである。岸本健一『日本型社会民主主義』は簡潔に次のように書いている。

 日本労働運動の戦闘性の実体的担い手であった戦闘的組合主義者、その代表的存在であった「革同」的要素の日共への屈服は、われわれにプロレタリア党のための闘争の決定的重要性を告げている。日共が階級闘争を否定した立場から「革命」を語り、社民が革命を否定して「階級闘争」を語り、両者が抗争している中で、階級闘争を革命のために闘う立場を示し、組織的にもこれを結集していくことは、日本労働運動の歴史的ジグザグを革命的に止揚する唯一の道だからである。

 労働運動と革命が日共と民同によって分断されてきた状況を社共に代わる革命的労働者党建設によって突き破ろうという立場である。
 さてこうしてNCが結成される59年夏には、すでに60年安保改定をめぐる攻防は始まっており、同年11月の全学連の国会突入闘争はその導火線に火をつけた。このときまで革共同は、NCも西分派も全学連の下にブンドと行動を共にしてきた。だがこれに対する激しい反動の中で、西分派は翌年1月羽田闘争を境に全学連から離れ、日共スターリン主義者の分裂組織・全自連と行動を共にする。これに対しNCは、60年6・15国会突入闘争にいたる全過程を、論戦ではブンドの街頭主義を「ブランキズム」と激しく批判しながらも、行動では一貫して、最後まで、ブンドと行動を共にするのである。当時の黒田が、大量逮捕者を出した全学連の実力闘争に「ブンドの自滅行為」と手を叩いて喜んでいたという話からもわかるように、60年安保闘争のただ中におけるNCのこの選択は極めて意識的な選択だった。
 西分派はこのころ、その日和見主義を居直るために、「炭鉱国有化」などのスローガンを掲げて、安保より三池の方が重要だというトーンを強める。NCは、職場闘争の基軸的・土台的重要性にあくまで踏まえつつ、しかし「職場か街頭か」などという問題の立て方を拒否した。60年安保闘争が敗北し、ブンドが一挙的に瓦解する中で、ブンド中枢の多くの活動家が西分派ではなく、NCに結集したという事実は、この60年安保闘争過程での、極少数派でしかなかったとはいえNCの正しい選択、舵取りなしには考えられないことである。
 なおつけ加えれば、60年安保闘争の指導路線で、日共は反米平和主義・愛国主義であったのに対し、革命的左翼は全体として反日帝的階級性を前面に出したが、これは岸というA級戦犯への怒りとともに大きく大衆をとらえていった。
 崩壊したブンドの幹部(カードル)のかなりの部分を結集して、60年安保後のNCは一躍して日本の革命的左翼の主座に躍り出た。時代は大きく回っていた。日本帝国主義は安保改定と高度経済成長の本格化の中で、文字通り帝国主義的復活の道を驀進し始めていた。安保・三池の敗北を受けて日本階級闘争は、炭労の政転闘争に象徴される急速な右旋回をとげ、太田―岩井ラインの総評労働運動では労働者大衆が主役の職場闘争や地域共闘が後景化し、「整然たる産業別統一闘争」(高度成長にのった賃上げと合理化への屈服)が幅をきかせた。民間産業の職場は、全金や全造船など一部を除いてほぼ資本に制圧され、日経連は、「戦後15年、労働者の時代は終わった」と豪語した。だが他方、官公労は国鉄を先頭に49年定員法攻撃の痛手をようやくこえて戦闘力を回復しつつあった。全体として後退戦を強いられ、しかしまだ頑強な抵抗は続き、新たな反撃も生まれるという起伏に富んだ攻防局面を背景に、62年9月のNC三全総は開かれた(その宣言と報告全文は本多著作選第1巻)。

2/三全総路線とは何か

 三全総とは、一言で言えば、NCと階級との閥係、 NCと大衆との関係における、それまでのカラを打ち破った、両者の間の「生きた交通」「全面的交通」(三全総宣言に繰り返し出てくる言葉)をつくり、NCが真に社共に代わる革命党に飛躍する道を指し示したものといえる。三全総では通常、「戦闘的労働運動の『防衛』」と「地区党建設」の二点があげられるが、後者について三全総報告は「各産業別の工場・経営細胞を包括した地区党」という「レーニン主義的原則」を語っている。将来のソビエト、プロレタリア独裁をも展望した党のあり方を、「党のための闘い」の「当面する中心環」として示したものである。だがここで一番肝心なのは「地区党も産別委もその基礎は細胞にある」という確認だった。
 そしてまさにこの細胞を媒介にして、「NCと大衆の生きた交通を拡大」するための労働戦線における当面する「戦術の精密化」として、「戦闘的労働運動の『防衛』」が掲げられたのである。「革命的労働運動の創造」という言い方でないことに注意したい。ここでいう「戦闘的労働運動」とは、明らかにNCの影響の外にある、他党派の主導する運動でも、もしそこに階級的闘いがあるならば、NCの党員・細胞はその「防衛」のために先頭に立たなければならないということである。
 NCは出発点から、職場における党建設を主張してきた。しかし三全総以前の段階で展開されてきたのは、主要に学習会とダラ幹批判だった。もちろん両方とも重要なのだが、特に後者では三全総報告の言葉を使えば、「極左空論主義・セクト的最大限綱領主義」「はじめから職場労働者の感情や意識を無視してダラ幹批判をはじめるような稚拙な方法』に陥りがちであった。このような限界を打ち破り、「われわれは、たとえ、民同的指導部のもとであろうと、日本共産党的指導部のもとであろうと、労働者が自分の生活と権利を守るためにたたかいに立ち上がるかぎり、その先頭にたってたたかい、民同や日共の反労働者的本質を具体的に弾劾し、戦闘的労働者を不断に伝統的指導部から分裂させ、革命的プロレタリア党のためのたたかいに組織していく」ことを三全総は方針化したのだ。

 周知のようにNCは、三全総路線の是非をめぐってその直後から第三次分裂に突入する。このとき三全総に反対した黒田を中心とするカクマルが主張したのが、「これは労働運動主義だ、大衆運動主義だ、党のための闘いがない」などというものだった。彼らの無知と召還主義は明白だった。三全総は断じて「党のための闘い」を放棄したものではなかった。そうではなくて、党は起伏に富んだ階級闘争・労働運動の先頭に立つ、それが一単産レベルであれ、一分会レベルであれ、その闘いの先頭に立ち、その責任を引き受ける、その闘いのるつぼのただ中においてこそ、真に闘う革命的な労働者の党も建設できるという路線だったのである。この党と階級の生きた「交通」関係の形成の中でこそ、党の建設と階級の形成を革命にむけて一体的に推し進めることができる、ここにこそ革命の大道があるという考え方だった。
 サークル主義にしがみつくカクマルにとってそれでは党と階級闘争の関係はどのようなものだったか。労働運動も大衆運動も重要だが、それはあくまで党をつくるための手段で、真の目的は党建設、この党の同心円的拡大の先に革命を展望するというものであった。党は階級の上に立つエリート集団のようなものとしてイメージされていた。後のカルト的ファシスト集団に転落する彼らの原点がここにあった。

 さて三全総においては、以上のように職場に闘う労働者の党をまさに「いかに」建設するかの議論が大きな部分を占めたが、今日その報告全文を読み返しても明白なように、総括でも任務方針部分でも反戦政治闘争の領域にかかわる言及が、これとともに極めて大きな位置を占めている。労働運動の強調が政治闘争の否定につながるというようなことは微塵もなかった(革命的議会主義についても触れているが略。ただ、三全総直前の黒田を立候補者として惨敗した参院選について、64年の五全総第三報告では「まことに、三全総は参院選参加によってかちとられたのである」(本多著作選第6巻)と総括していることは付記に値する)。
 NCは61年から62年にかけて、学生戦線を先頭に米ソ核実験反対闘争を闘った。これは日本の革命的左翼の歴史の中でも重大な新地平を切り開くものとしてあった。また若干歴史をさかのぼるが、50年代の平和運動は、反基地闘争や原水禁運動など重要な役割を担った。だが、路線的には、左派社会党=民同左派の平和四原則、あるいは日共スターリン主義者の平和擁護闘争路線の下にあった。これを革命的左翼と後にここに合流する学生共産主義者たち(左翼スターリン主義者)はふたつの方向で突破しようとした。戦闘性と階級性である。前者は何よりも56年「流血の砂川」にはじまり60年安保にいたる闘いに貫かれる。問題は後者だった。小ブル平和主義を階級的に批判するのはもちろん正しいが、それが当初は、「戦争とか平和などというテーマを取り上げることじたいが階級的ではない」という誤った傾向を生むのである。
 スターリン主義者の平和擁護闘争は、その平和共存政策の一環で、アメリカは戦争勢力、ソ連は平和勢力、だから平和を守るためにはソ連を守ることが必要というものだった。それは小ブル平和主義ではあるが、それに加えてスタ的に疎外され、歪曲されたエセ「階級性」をもっていた。だがこれは米ソの悪無限的核軍拡競争の中で、ついには「ソ連の核実験から出る死の灰はキレイ」などという愚論とともに破産、原水禁運動は60年代初頭に無様な分裂・混迷に投げ込まれる。この危機を突破して米ソ核実験反対の革命的反戦闘争を果敢に闘いぬき、反核闘争を階級的に再生させたのは、まさに反帝・反スターリン主義の綱領をもつNCであった。三全総はここをしっかり総括し、その発展を打ち出した。清水丈夫選集第1巻序文は、三全総を振り返り、この部分について、「反戦闘争という巨大な分野をスターリニストから奪い返す」「一般的に言えは、政治闘争へのプロレタリアートの決起の組織化を革共同は断固として推進するという立場を宣明」と総括している。

 NCはその後、60年代中葉を通じて、原潜、日韓、ベトナムなどの諸政治闘争を闘い、その中で、戦争といっても直面しているのは侵略戦争であり、われわれは侵略帝国主義足下の労働者人民であることを自覚するとともに、「日帝36年の朝鮮支配」の学習などもしながら、「反戦・反植民地主義」のスローガンを形成する。「他民族を抑圧する民族は自由ではありえない」などという言葉もこのとき学んで。さらに66年第三回大会での戦後世界体制論の確立とその危機の分析などを経て、それは「連帯し侵略を内乱へ」という総路線に高められていくのである。そして70年の7・7自己批判という形で、帝国主義の排外主義と差別・分断支配との闘いの飛躍を勝ち取ったのである。7・7思想については多くが語られているが、いわゆる「7月テーゼ」批判は次の引用で十分だろう。

 周知のように、民族抑圧や社会差別は、帝国主義によってつくりだされ、あるいは、帝国主義によって温存され、維持されてきたのもである。……それゆえ民族抑圧、社会差別を根底的になくすためには、まずもって帝国主義の世界支配を完全に打倒し、プロレタリアートの世界史的な勝利をかちとらなくてはならない。しかし、同時に確認されなくてはならないのは、旧社会において民族抑圧や社会差別が政治経済制度と結びついて存在していただけではなく、それを基礎として民衆じしんの生活の内部まで民族排外主義や差別意識が浸透し、それが日常的に再生産されていた事実である。帝国主義権力の打倒にもかかわらず、このような旧社会の意識は、プロレタリア独裁下の過渡期社会にももちこまれるのであり、この点の自覚が弱い場合には、プロレタリア権力の指導そのものが種々の形態をとってその母斑に影響される危険がはらまれるのである。したがって、プロレタリア独裁下の権力は、民族抑圧、社会差別とたたかう旧被抑圧民族、旧被差別人民の自己解放の歴史と現状に深く学び、そのたたかいをプロレタリア権力の中心的な課題に強くおしあげていかなくてはならないのである。(「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」本多著作選第1巻)

 これは、革命後のプロ独権力下の課題に言及した箇所だが、いまだ帝国主義を打倒し得ていないわれわれにとっては、その何倍も死活的な課題であることは明白だ。7・7は決して特殊、諸戦線的課題に切り縮められる問題なのではなく、まさに階級的団結の質を決し、プロレタリア革命の階級的倫理性の琴線に触れ、その成否を決定的に左右する思想としてNCが闘いとったものなのである。

 三全総について、党組織論的角度からつけ加えるとすれば、それは「党のための闘い」と「党としての闘い」の統一ということもできる。「党としての闘い」という用語は三全総報告そのものにはまだないが、考え方としては完全にあった。「党のための闘い」をまずやって、それから「党としての闘い」に入るなどということではないということだ。さらに換言すれば、われわれはいつでも、どこでも、階級と階級闘争全体に責任をとるということだ。「まだ力がないからちょっと待ってくれ」は通用しない。事実第三次分裂直後の学生戦線は惨めなほどの少数派に追い込まれていた。私じしん当時学生としてこの分裂の渦中にいたが、当時のNCに横溢していた戦闘的気概と確信と明るさを昨日のように思い出す。前掲清水選集第1巻は、三全総を「党建設論の理論上の問題」としてこう総括している。

  党建設のためのたたかいを@党建設そのもののためのたたかいとA形成途上の党としての階級全体や階級闘争全体との生きた交通関係の形成確立のためのたたかいとの一個二重的な統一のなかでたたかいとっていくことを意味していたのである。別の言い方をすれば、党建設というのは、党と階級との対応関係において、対応する階級・大衆の革命的変革のためのたたかいとの相応関係のなかで両者一体となって成熟していくことによって、党建設としても勝利していくのだということの明確化としてあったのである。

  

3/73年本多論文について

 三全総についてはとりあえず以上だが、続いて73年8月のF紙に掲載された本多論文「革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために」(本多著作選第2巻)について、簡単にふれておきたい。これは70年を前後する激動の後、二重対峙・対カクマル戦の対峙段階突入前夜に書かれている。直接には二重対峙戦への本格的突入にむけて作成された論文だが、それがこのような大見出しで登場したこと、特に「堅実で」「全画的な」という言葉が、決して堅実でも、全面的でもなかった当時の活動の日々の中で私の強い記憶に残っている。
 総括、情勢は省略して、任務として、見出し的には「革命の本格的な準備、二重対峙・戦略的前進・党建設のたたかいの一体的推進」がゴリゴリ確認されている。そして革命情勢の過渡期の成熟の下で、まず反帝・反スターリン主義基本戦路のために、第一にマルクス主義にふまえたプロレタリア解放、第二に帝とスタの現代世界を打倒し、ロシア革命で開始された世界革命を貫徹、第三に個々の帝国主義国家権力、スターリン主義国家権力の永続的打倒を打ち出している。次に70年代革命の総路線のために、第一に戦後世界体制の危機を反帝・反スタ世界革命に転化する、第二にアジアを反帝・反スタ世界革命の根拠地に転化する、第三に沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒をめざす、第四に闘うアジア人民と連帯し、侵略を内乱に転化することを確認している。
 以上の基本路線とか戦略的総路線は、すでに70年闘争過程で形成され、確認済みのことともいえる。しかしこの論文はこれらをかなりのスペースをさいて再確認し、さらに「基本戦略―戦略的総路線についての指導上の問題」として、「基本戦略―戦略的総路線を一個の全体としてとらえる」とか、「党の指導の問題としてとくに留意しなければならない点は、個別→全体ではなく、全体→個別の観点がすべての基本とならなければならない」と強調している。私はここに、NCが戦争・軍事という未踏の領域に本格的に突入するにあたっての、筆者のある種の危機感にも似た、すべてを革命の準備、共産主義的政治の一点に強力に、全一的に絞り上げていかなければならないという強い意志を感ずる。  続いて論文は「二重対峙・戦略的前進・党建設のたたかいの一体的な推進」「その調和ある発展」をうたっている。ここで戦略的前進とは「基本戦略―戦略的総路線の物質化をめざす戦略的前進」のことで、この項では「政治闘争とは、権力をめぐる闘争であり、ブルジョアジーの独裁をプロレタリアートの独裁にかえることをめざす闘争」、「経済闘争とは、労働者階級の直接の経済的利益をまもり、改善するための集団的たたかいであり、労働者階級と人民大衆の完全な解放をめざすたたかいの一翼をなす」としていることを指摘しておく。あたりまえのことだが、政治闘争があり、経済闘争があるのだ。
 この論文は、既述のように73年という時点で書かれたものであり、そこでは「革命的情勢への過渡期の成熟とそれに応じた党の三つの義務」という一節を設け、周知のようなレーニンの規定についての詳細な解説もしている。もちろんそれは「革命的情勢」の上滑りな絶叫ではなく、「党そのものがいまだ建設の途上にあることを徹底的に重視し」とか、「情勢そのものが過渡的、端緒的な段階であることをはっきり見すえ」とか、非常に慎重な言い回しをしながら、その結論としてすでに引用したような「堅実で全面的な発展」、「一体的推進」、「調和ある発展」をくどいほど強調していることに注意をうながしたい。
 党建設にかかわっては、三全総で触れられた点がさらに明快に語られている。「党としてのたたかいを今日的におし進め、そのたたかいをとおして党建設を独自にかちとっていく」として、次のように述べている。

 われわれは、真空のなかに存在しているのではないので、まず党の建設をかちとり、しかるのちに党としての闘争にとりくむというようにすすむことはできない。たとえ建設途上であろうとも、その一定の政治的、組織的力量にふまえて、われわれは、今日的に党としての闘争にとりくまなくてはならない。………二重対峙・対カクマル戦と戦略的前進を二つの大きな柱とする『党としてのたたかい』は、このように積極的に位置づけていくならば、その勝利的前進そのものが、党建設の決定的な精錬過程に転化するのである。

 NCのPT、PUを通しての闘いは、ヒマラヤ(75年3・14反革命=カクマルによる本多延嘉書記長虐殺)の試練をのりこえて基本的にはこの論文で打ち出された方向に進んだといえるだろう。もちろん、二重対峙戦の絶対的死活性からさまざまな歪みは生まれた。組織指導における軍令主義、動員主義、官僚主義、上意下達主義などである。また戦略的前進、つまり大衆運動領域では、二重対峙戦との関係に逆規定される形で、その戦場をNCは選別的に限定した。ありていに言えば、三里塚、動労千葉、法政、杉並(ある時点までは狭山)などの拠点を守ることに力を集中し、他は切り捨てたということだ。しかしこのような形ででも政治闘争的、労働運動的、選挙闘争的土台を全面的に守り、発展させることなしに、戦争としての戦争の勝利もあり得なかったのだ。
 この時期の闘いを私はこのように積極的に総括していた。
 いや正確にいえば、昨日まで私はこのように思っていた。しかし今日ではもはやこのように思えなくなった。結論的にいえば、PT、PUを通して生まれた組織的歪みは、ある意味では限度を超えて進行したのではないか。そしてそれは、今日までいまだ解決されていない問題として横たわっているのではないか。そしてこれこそ、今日のNCの危機と分裂の最も奥深いところでの基底を形成しているのではないかというのが私の認識である。

4/五月テーゼ路線について

 91年五月テーゼは、清水選集第10巻に収録されているが、そこには狭い意味の五月テーゼ@「党建設とりわけ労働戦線における党建設の前進のために」とともに、A「五月テーゼを断固として貫徹しよう」、B「五月テーゼについての党内アピール」という、いずれもほぼ同時期に書かれた論文が掲載されている。ここではこれら全体を五月テーゼ路線として、以下見ていく。
 73年本多論文における二重対峙はその後、革命的武装闘争(A)と言い換えられ、戦略的前進は戦闘的大衆運動(B)と言い換えられる(党建設(C)はそのまま)が、90年天皇決戦の確か最終段階でAとBが入れ替えられ、Aが大衆運動、Bが武装闘争とされる。その意味で天皇決戦は五月テーゼへの橋渡しだったとも言えるが、いずれにせよ五月テーゼの結論は、A×B×Cという三大任務体系の中で、「A、Cに戦略的重心をすえる」、これによって「PT、PUをこえた戦略的な攻勢に出る」ということだった。私の五月テーゼについての当時の印象を一言でいえば、長く、苦しい内戦を勝ち抜いて、NCはその任務体系も本来あるべき正置形態にすえ直し、戦後世界体制の崩壊という歴史的な局面において、労働運動にしっかり軸足をおいて、革命にむかって、新たな本格的な前進を開始する、その合図の号砲のようなものとして受け止めた。
 それはもちろん直接的には、「(PT、PU的闘いを)清算主義的には絶対とらえない」とした上で、「しかし、労働戦線における党の現状、大衆運動における決定的不十分性の問題はもはや放置することはけっしてできない。このまま行くことは、党の死をしか意味しないという絶対的飢餓の現実に直面している」というNCの厳しい自己認識から出されたものである。しかし私はこれを、何か組織が疲弊したから、一時的に迂回戦術をとり、力が回復すればまたPI、PU的闘いにもどる(NC指導部の一部にこんな意見があることを当時又聞きしていた)などとは全く考えなかった。それは多分五月テーゼの背後で進行する内外情勢の激しい展開と関係しているだろう。
 80年代末から90年代にかけて、ベルリンの壁崩壊・ソ連崩壊と総評解散・社会党解体は、国際階級闘争と日本階級闘争の構図を一変させた。五月テーゼ直前の湾岸戦争と掃海艇ペルシャ湾派遣(初の自衛隊海外派兵)は、冷戦崩壊が平和の到来ではなく新たな戦争の時代の始まりであることを告げていた。他方総評解散は、いうまでもなく87年国鉄分割・民営化の結果で、攻撃は89年日米構造協議、90年バブル崩壊、93年規制緩和と小選挙区制、95年雇用破壊(日経連報告)と労働者人民の生活と権利を様々な「改革」イデオロギーの下で根こそぎ解体する攻撃として進んでいった。これは決して単なる資本攻勢の激化というレベルの問題ではなく、70年代以降危機を深める国際帝国主義の基本政策的転換、国家独占資本主義的あり方から新自由主義的あり方への大きな世界史的カウンター・レボリューションとして進行していった。ロシア革命以降の一定の社会保障や大恐慌以降のタテマエとしての「完全雇用」は、帝が帝として生き残るために曲がりなりにも必要だったはずだが、限度を超えて膨張する過剰資本・過剰生産力に突き動かされた、帝間争闘戦の激化を背景とする、この新自由主義的「改革」攻撃は、これらも放擲して、文字通りグローバルに全世界の労働者人民を飲み込み、ソ連崩壊をもたぐり寄せ、それを通してさらに拡大していった。そしてこうした帝国主義の一層の危機の現れとしての湾岸戦争以後的な新たな戦争と新自由主義的諸攻撃が、21世紀を迎え、9・11を招き、さらにエスカレートして今日に至っていることは周知の通りである。
 そして日本階級闘争にとってやはり直接的に最も大きいのは総評解散→連合結成であった。これは革命的左翼の「二つの11月」を含む様々なそれまでの闘いの土台・前提が失われたことを意味した。これに加え、主体の側ではPT、PU段階で政治大衆闘争は三里塚に限定してではあれ全力でやったが、労働運動的には、動労千葉の闘いがいわば「天領」的には存在しても、全NC的にはその闘い(70年代末の分離・独立から85年決戦ストまで)は、あくまで支援・防衛の対象として、「政治決戦」的には位置づけられても、動労千葉の闘いに呼応して、国鉄戦線を含む全産別で職場・生産点からの闘いを組織するという指導は皆無に近かったのである。おそらくここらに踏まえてだろうが、五月テーゼは、「先制的内戦戦略(PT、PU)はどんな限界をもっていたであろうか」として、「党建設とりわけ労働戦線での党建設として結実させていくたたかいにおいては、きわめて不十分」とか「やはり工場・職場の労働者同志の苦闘に十分対応した指導をなしえなかった指導部と指導の限界として総括すべき」としている。そしてここから「とりわけ労働戦線における党建設の前進」がNCの死活的課題として打ち出されるのである。  そして五月テーゼはその結論として、「第一には、レーニンが『なにをなすべきか』で言っているように、労働者階級のなかに共産主義的政治の全体(党の戦略、総路線、先制的内戦戦略など)を断固として提起し物質化していくこと」、「第二には、第一のたたかいを貫くための一環として、労働組合運動(的レベル)のたたかいを断固重視していくということである」としている。そしてこの二点を総括して「三全総の『戦闘的労働運動の防衛と推進』という路線をラセン的の再確立していく」と結論づけているのである。

 幾つか述べる。まず「第一の一環として」としながら特に「第二」として、労働組合運動の重視を強調している点だ。やはりこの背景には三全総路線のラセン的再確立といいながらも、三全総当時と五月テーゼ段階では、労働組合運動をめぐる状況が一変していたことがあったことは明白だろう。動労千葉二波のストと国労修善寺大会を経て、90年4月には国鉄1047名闘争が出発し、それは連合にも全労連にも与しない一定の戦闘的労働者の潮流を形成した(中心は自治労と日教組)が、それは中軸を担う国労じしんが協会と革同の寄り合い所帯という大きな限界を抱えていた。連合という、民同的労資協調路線とも全く質を異にした帝国主義的労働運動支配をいかに打ち破るかが、これ以降今日までの日本階級闘争の最大テーマであり続けていることは確かである。89年全国労組交流センターの結成はこの逆流に抗して勝ち取られた。
 さて五月テーゼは、それでは労働戦線における党建設のために労働組合運動のグレードアップをはかったことが全てかといえばそうではなく、第一にまず「共産主義的政治の全体を物質化」(第二もその一環)を謳っていることが重要である。そして前記B論文においては、自衛隊の海外派兵情勢の中で、「六月反戦大行動の圧倒的貫徹こそ革共同の五月テーゼの実践的着手そのもの」として、「五月テーゼというのは、反戦共同行動をやるのか、やらないのかという歴史的大問題にたいして、『やる』 『断固やる』という立場を全面的にうちだしたものとしてある」と強調、実際NCと労組交流センターは五月テーゼを受けてまず何よりもここに全力で突っ込んでいくのである。つまり、反戦政治闘争も労働組合運動も、一言でいえば戦闘的大衆運動の全領域に全面的に突っ込んでいく、PT、PU段階のように戦争に逆規定されて三里塚だけ、動労千葉だけというような限定を取っ払って全面展開する、それを通してとりわけ労働戦線における党建設を推し進めるというのが五月テーゼであった。そうしたものとして私はそれを全面的に支持した。

 だが五月テーゼは、とくにこのような「労働組合運動において、一定の物質化が進むと、それはそれで巨大な勢いで自己運動する側面をもつ」がゆえに、「今日のかぎられた力量の党とその戦術の中で、勢力配置やいわゆる党的動員との関係できわめてシリアスになるときが生起してくる」として、「リアルなかたちで解決を与えていく」「リアルな改革」「ぎりぎりのリアルな解決」等々の言葉が、繰り返し繰り返し強調されるのである。この「リアルな解決」という言葉は、今日のNCの路線問題を考える上でのキーワードになるので、しっかり記億しておきたい。

 しかし、このような五月テーゼが本来もっていたトータルな取り組み(それはまさに三全総のラセン的再確立そのものとしてあった)の前進はその後も遅々としていた。様々な努力が重ねられた。PKO闘争は一定高揚したが、交流センター1万人会員方針は壁にあたった。95年には日経連報告に対応して「大失業攻撃と闘う」方針の下に11月集会が始まり、阪神大震災に際して、動労千葉と港合同による被災支援連結成は後の3組合共闘の先鞭をつけ、9月の沖縄女子暴行事件の後に第三次安保・沖縄闘争方針を出し、これは2年後の新ガイドラインに対応した百万人署名運動の発足として結実した。実は私は、それまで労働運動への関わりを全くもっていなかったが、五月テーゼをうけ労対の一員となり、ある産別の担当常任となった。健康上の理由で六年ほどの短い関わりであったが、いずれにせよ特にこの時期のことを私は反省的に語らなければならない。
 では闘いの前進を阻んでいたのは何なのか。ひとつははっきりしている。五月テーゼ方針そのものの評価をめぐって、NC指導部中枢を巻き込む不一致と抗争が存在したことである。06年3月のAD革命はその一角を鋭く暴き、切開することによって、問題を解決するための決定的突破口を切り開くはずであった。
 しかし私は五月テーゼ物質化の闘いの停滞の原因をここだけで説明するのは正しくないと思う。より深刻なのは、やはりPT、PUの20年間で、NCの大衆運動能力が予想を超えるレベルで衰退し、枯渇していたという問題である。言い換えれば、党と大衆との生きた交通関係を形成するのを妨げるような壁を、長い年月をかけてNCじしんが築いてきたといえるのかもしれない。それを典型的につきだしたのが最も重要で、最も困難な職場での闘いだろう。古くて新しい問題である。三全総直後の岸本論文「職場におけるわが同盟の組織的活動について」(イスト8号)は職場闘争の意義を次のように語っている。

 われわれは、労働者階級の基本的闘いの場が工場外―「消費者」として家に帰ったところにあるのではなく、生産者として、労働を行う生産点にあること、そこにおける力の拡大が、本質的にプロレタリア権力に連なることを確認し、一切の闘いをそこから組み直さなければならない。人間の人間たるゆえんである生産=労働を除外して、どこかに革命や解放があるかのごとき思想との闘争は、日常のわれわれの実践=反逆の基盤を、日常の搾取と支配の場である生産点におくことから始まるのである。

 だが同論文によれば、このころでさえ、NCの労働者党員の多くの現実は、「実践的な組合での活動においては、民同として行動しながら(やむを得ぬマヌーバーではなく)、学習会やオルグ、特に組織内の討論となると『党のための闘争』として他党派の否定を抽象的に強調するということを『党づくりの独自活動』とするならば、それは当然にも『××は言っていることとやっていることが違う』という疑問を起こさせずにはおかない。なぜならば、ここでは組合運動(大衆運動)における民同(又は日共)的自己と、『独自活動』の時における『革命的』自己との喜劇的分裂が行われている」という状況にあった。PT、PUを経て、NC労働者党員の多くがかなりの年齢になり、しかも長くNCの看板を背負って職場で孤立・苦闘してきた仲間たちが抱える困難は、ここでいう「喜劇的分裂」の何倍も深刻であったに違いない。

 これとならんで、停滞の原因として、NCにおける、私を含む常任・職革の側の責任に触れないわけにはいかない。ずばり言えば、最大の問題は、PT、PUを通して、常任を含む幹部党員(カードル)の一部における骨がらみの官僚化・手配師化・サラリーマン化が進んでいたことである。一部といっても、それは決して少なくない一部のことである。これこそ、五月テーゼが最も強調してやまなかった職場における細胞建設、言い換えれば前述のような現場労働者の「喜劇的分裂」からの脱却の闘いをおし進めていくうえでの最大の障害になっていたと考えている。私自身についていえば、確かに担当産別の大会や重要な攻防の節々において配布するビラやパンフの殆どを書いた。労対を辞めたあとも数年間書いた。そこでは正しい認識や方針を、当該単組労働者に通用する言葉で提起したつもりだし、それはそれで重要な仕事だったと思っている。だが言うまでもないことだが、正しい方針を提起すれば、運動は正しく発展するなどというのは、NCとは縁もゆかりもない考え方である。正しい方針を担う主体をいかに職場に細胞としてつくり出すかこそ問題の核心なのである。そこでの真の格闘なしのビラづくりなど、所詮サラリーマン仕事の域を出なかったのである。
 私はそれを自覚しなかったのではない。だがそこにおいて私は何の成果もあげることはできなかった。弁解はできる。私が担当した単組の特殊性、さらに労働者同志たちが所属する基本組繊である地区党の壁の厚さなどである。しかし結果が全てなのであって、五月テーゼを受けて私は、三全総後のような職場細胞づくりをめざしながら成功しなかった。ただ私はこれをどうしても、私の能力や努力の不足というレベルの問題としてだけ考えることは出来ないのだ。そこで問われていたのは、すでに指摘したようなPT、PU過程で生じたNC組織の歪みの対象化と切開と改革、今日的な言い方をすればまさに「党の革命」こそがこのとき求められていた。しかし五月テーゼは路線転換としては圧倒的に正しい道を指し示しながら、この最も深刻で、困難で、デリケートな組織問題の切開という点では殆ど何も手をつけることがなかったと言わざるをえないのである。私が真に自己批判しなければならないのは、この現実と正面から闘うことを避けてきたということである。

5/AD革命をどうとらえるか

 この意見書でNCの歴史を振り返るのはここまでである。以後は今日の問題を考える。

 06年3月のAD革命の一報に接したとき、私は何のためらいもなくこれを支持できた。それは私が長年考えてきたこと、考え、ストレスはためてきたが、決してそれと正面から闘うことができず、ただ愚痴でウサを晴らしをしてきた問題、つまり何十年もNC組織を蝕んできた組織的病、官僚主義と権威主義と印籠政治の弊害を、関西の同志たちが、下から実力打ち破る闘いに決起したと確信したからだ。
 直接問題になったのは、PBの一員として、関西の最高指導部の位置にいたYDの腐敗であり、党組織の私物化であり、暴力的支配だった。これについては繰り返さない。最大の問題は、なぜYDのような人物がNC最高指導部の一員であったのかである。YDは生まれたときから腐敗していたのか。反階級分子だったのか。そうではないだろう。YDはNCが生み出し、つくり出したのだ。これが肝心要のところである。  事柄は単にPT、PU段階にとどまらず、1969年4月27日にさかのぼるのではないかと考えている。以下述べることは、決してNCにおける非合法・非公然的指導部建設の意義を否定するものではないことを断っておく。これがあってこそNCは、あの二重対峙戦を闘い抜くことが出来たのだということに私は一点の疑いも持っていない。だが私は、NCはこの中で生じた組織問題を正しく解決することに成功してこなかった、今も成功していないと思っているのである。
 問題が問題だけに、抽象的に語る以外にないが、一言でいえば、すでに述べたような非・非体制の中から育っていった印籠政治が諸悪の根源だといえるだろう。つまりNCの方針の多くが、重要な方針であればあるほど、通常NCの大半の構成員が接することのできないところから随時出され、しかるべき幹部に配布され、様々な部署、地区の細胞会議が大筋それにそって開かれる。極端な場合は、ひとつの文書の読み合わせが、あらゆる会議で基調報告の代わりになる。これが二重対峙戦という厳しい試練の中で、NCが大局的方向を見失わずに結束を維持し、正しい道を選択してくるうえで、極めて重要な役割を果たしてきたことを否定しようとは思わない。
 だがそれが長期化する中でつくり出されてきたのは、要するに自分の頭でものを考えない、考える習慣を失った幹部党員の集団である。言い換えれば、自分の肩の上に自分の頭をのせた共産主義者はあるいははじかれ、あるいは摩滅せしめられ、純然たる官僚、手配師、イエスマンが取り立てられ、NCの基幹部を形成するという事態が生み出されたのである。こうしてNCは、三全総時代にもっていたような活力と明るさを失い、風通しの悪い組織になっていった。しかし私もそうだが、私以外の多くの同志たちも、そこに問題は感じながらも、それを二重対峙戦に勝ち抜くという死活的課題のためには耐えなければならない現実として飲み込んできたのである。
 YDは、まさにかかる官僚・手配師の中でもとりわけ優秀な官僚・手配師だったのではないか。いやYD一人ではない。NC最高指導部が、決して全てとはいわないが、多分にYD的人格でPBを固めることによってその指導を貫徹しようとしたのである。そしてこのような頂点からつくられた指導―被指導の関係は、それがNCの本来のありかたであるかのような錯覚とともに全党を覆っていった。その責任は一にも、二にもNC最高指導部にある。そしてこうした環境の中でYDの増長は限度を超えて進み、印籠政治の暴力的展開でNC組織を私物化し、金銭的腐敗や対権力関係での腐敗も生まれた。(しかもここで一言特記しておきたいことは、NC指導中枢におけるYD的腐敗は、何もYDだけのことではなく、YDが最初でもないということである)。これに対して関西の同志たちは、労働者同志を先頭に敢然と決起し、これを打倒した。このAD革命は決してただYDをその権力の座から引きずり下ろしただけでなく、何よりもYDを生み出したようなNC組織の長い間の歪んだあり方を根底的に告発するものとしてあったと私は理解している。  こうしてPBからは(決して全てからではなく一部からだが)深刻な自己批判がなされ、AD革命に反対した指導部の何人かがそこから追放され、処分された。私は、この過程じたい積極的に賛成するものではないし、もう少し何とかならなかったのかという気持ちは残るが、大きくは仕方なかったと思っている。しかし重要なことは、実は話のすり替えがこの過程から同時に始まっていたということである。つまり、このAD革命を支持するか否かは、五月テーゼを支持するか否かとイコールだといわれ、問題はYDの腐敗問題を超えた路線問題だということがゴリゴリ強調されていくのである。もちろんここには一理ある。YDはいうまでもなく部落解放運動における自己の勢力を足がかりとしてNC内の権力を手に入れ、陰に陽に、五月テーゼ下での労働運動の推進に抵抗してきたからである。しかしこれだけのことなら、別にYDは打倒対象ということにもならないし、少なくともあのような形で打倒すべき対象とはいえないはずである。
 確かにこのようなNC中枢での路線対立は90年代を通じて続くが、だが他方で重要なことは、YDにとって路線のあれこれなど本当はどうでもよかったということである。だから労働運動の推進を基軸とする路線がNC内の大勢になったとみるや、すぐにそれに乗り移り、こんどはその印籠を振りかざすことで、関西におけるYD反対派狩りに奔走したのである。まさに手配師の手配師たるゆえんである。印籠はそれが印籠であることが重要なのであってその中身など何でもよかったのだ。そして、PBが、内部から生み出したこの腐敗を自らの手で切開・切除することができず、それどころか全体として、YDの関西における強権的支配を最後まで尻押しし続けたことは厳然たる事実なのである。
 AD直後から始まる「ADとは腐敗問題ではなく路線問題だ」という主張の一面的強調は、YD問題をPB(とその長年の指導によるNC組織の官僚的歪み)が生み出したという核心点を塗り隠し、YD的腐敗を生み出した責任は関西にある、あるいは部落解放運動にある、あるいは血債とか7・7というものの考え方にあるという、とんでもない話のすり替えを進行させるのだ。言語道断というべきである。私はこれをAD革命の簒奪・改竄と呼ぶことにしている。こうしてAD以降、表ではAD革命支持が叫ばれながら、実はその根本を踏みにじり、ADに伴うNC内権力移動を利用しつつ、YDと違う、だがYDを超えた印籠政治が「労働者」の名において、労働者同志を頭に担ぎ上げながら開始されるのである。YDがAD以前において関西でほしいままにしてきた官僚主義的・権威主義的組織支配は、AD革命によって清算されるのではなく、逆にエスカレートする形で全党化するのである。このような状況を許したのは、NC幹部党員における官僚化・手配師化・サラリーマン化が、ただ五月テーゼ反対派の中だけでなく、五月テーゼ推進派の中にも深々と浸透していたという事実である。
 今年の5月に開かれたNC中央WOBは、NC中央と関西との対立にケリをつけようと意気込んで開催されたものだが、そこに提出された「革共同中央労働者組織委員会」名の議案の冒頭は次のような言葉で始まっている。「以下の議案書は、大原が執筆し中央労働者組織委員会の議論を経て、革共同と中央労働者組織委員会が一致して提起する内容である。全指導的同志には、本議案に則して全国全同志に対しこの議案書を基に、この内容を徹底討議して意思一致する党員としての義務がある」。私もNCに所属して長い年月を経ており、 NC以外の運動団体の会議などにも参加したことは多々あるが、会議に提出する議案とは、参加者の討議と検討に付し、様々な批判・意見によってそれを深めてもらうためのものであって、頭ごなしに全員に「意思一致の義務」などとがなり立てる議案などというものを見たことがない。
 この議案の文言が何よりも雄弁に物語っているので他に個々に的な事例をあげることはしないが、要するにAD以降のNCを覆っているのは、単なる印籠政治にとどまらない、NC中央に対する一切の異論・反論を許さない、排斥するというという異様な空気であり、それはいまや魔女狩り政治の域に達しつつある。そしてここでは、「党の革命」「党の階級移行」という言葉が最大の踏み絵、殺し文句として使われている。二重対峙戦下に発するNC組織の官僚主義的・権威主義的変質は、こうしてAD革命を経て今日、その破局的頂点に登りつめつつあるのである。

 

6/「階級的労働運動路線」について@

 最大の問題は、このようなAD革命の簒奪・改竄が、この意見書の冒頭で述べたようなNCにおける基本路線の180度的転換、綱領的・原点的逸脱と並行して、一体のものとして進行していったことである。
 03年6月に、いわゆる新指導路線が出された。この年は、3月にイラク開戦があり、6月に有事三法が国会で成立する一方、4月の杉並TRXがあり、また3月末にDC春闘集会があった。ところがこの春闘集会は確か1午名を割る結集しか実現しえなかったことから、新指導路線は、一言でいえばNCの全体重を労働運動に集中するという内容だった。私はこの路線が発表された全国WOB会議に参加しており、ここで労働運動が重要なのはその通りだが、反戦運動を切り捨ててはならないというような意見を述べている。戦争と戦争法案をめぐる激しい情勢展開とNCの闘争放棄(せいぜい20労組集会への百万動員でお茶を濁す)の中で発言せざるをえなかった。
 だが、このころ言われていたのは、確か「労働運動への傾斜生産的な力の投入」ということだったと記憶している。今からおもえば、五月テーゼの中で繰り返されていた「リアルな解決」のかなり極端ではあるが、ひとつの形態であると理解することも出来た。その後この路線は、いわゆる「労働組合運動の革命論的意義」づけなどを通して深められていった。しかしこの過程では、指導の舵取りは大きくは上記「リアルな解決」の枠内にあった。その何よりの証拠は、これは実践以前のことだが、05年夏に憲法本が出版されたことである。同年秋の自民党新憲法草案発表を前にして、この本は04年初めからの準備のうえに出されたものであり、NCが本格的に憲法闘争に取り組むための武器となることをめざしたものであった(今日では徹底的に否定された存在になっているが)。NCは労働運動を圧倒的に重視しながらも、独自に憲法闘争を準備するという立場を堅持していたのである。少なくともこの段階までは。
 そして06年SNGでは、改憲決戦と4大産別決戦が二本の柱として打ち出されるのだが、これは同年3月のAD革命を挟んで完全に裏切られる。この過程のことは、1年前の私の意見書で詳述したので略す。そのうえに07年SNGが打ち出すのが「階級的労働運動路線」である。私は階級的労働運動の推進や、そこにNCが体重をかけることに反対するつもりなど毛頭ない。だがここにいう「階級的労働運動路線」とは単にそれだけのことではなかった。それは07年SNGにおける次のような文言、すなわち「帝国主義打倒のプロレタリア革命は何を軸に達成されるのか」として、「その唯一かつ普遍的な推進軸はプロレタリア自己解放とその発露としての階級的労働運動、労働組合の団結強化の発展にある。これとは別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない」という箇所に鮮明に表現されている。つまり当面する課題との関係でいえば、階級的労働運動に対して独自に憲法闘争としての憲法闘争など対置してはならないということだ。NCの歴史の中でもかつて例を見ない無法な規定、政治闘争一般を全面否定する言葉がSNG紙面に登場したのである。
 さらにいえばそれは、要するに階級的労働運動以外の一切を切り捨てるという方向性を急速に露わにしていった。事実06年から07年にかけて、まず杉並が切り捨てられ(坂口・雪野問題の結論は杉並TXの切り捨てだ)、部落解放運動をはじめとする戦線が切り捨てられ(地区移行などを口実として)、憲法闘争を含む反戦政治闘争が切り捨てられていった(百万人署名運動などの徹底的後景化)。今後さらに何が続くのか。だから私はこの「階級的労働運動路線」を“労働運動原理主義路線”と呼ぶのである。「新指導路線」と「階級的労働運動路線」の間には、明白な断絶があり、それは五月テーゼのいう「リアルな解決」からの完全な逸脱・脱線、NCの長年の基本路線、綱領的立脚点(例えば73年本多論文が強調した「革命運動と革命党の堅実で全面的発展」)の無残な解体としてあったのである。そこでは政治闘争も経済闘争も何もかも「プロレタリア自己解放」の名のもとにごちゃ混ぜにして、結局政治闘争も、選挙闘争も、諸戦線的闘いも投げ捨てられていった。

 憲法闘争に話を絞れば、このころ私がその意義を強調したとき返ってくる反応は二つあった。第一は段階論である。「憲法闘争などといっても労働運動を立て直さない限りどうしようもない。百万だって署名が集まらないのは労働運動の後退が原因ではないか」というものだ。一画の真理ではある。しかし彼あるいは彼女は、私が「それではあなたはまず経済闘争をやって、政治闘争はその次という主張なのか」というと必ず口ごもる。そこで第二によりエスカレートした反応が返ってくる。それは「労働運動=憲法闘争だ、11月集会=憲法闘争だ、それがわからないのか」という主張だ。これを私は“究極の憲法闘争放棄”論と呼ぶことにしている。
 ここで若干用語の整理をしておこう。レーニンの『なにをなすべきか』は、エンゲルス『ドイツ農民戦争』序文にある、「労働運動が成立して以来、いまはじめて、闘争は、その三つの側面―理論的側面、政治的側面、実際的=経済的側面(資本家にたいする反抗)――にわたって、調和と関連をたもちつつ、計画的に遂行されている」を引用した上で、次のように言っている。

 誤解を避けるために言っておくが、以下の叙述においてわれわれが経済闘争と言うときには、いつでも(われわれのあいだで慣用となっている語法にしたがって)、エンゲルスがまえにあげた引用文のなかで「資本家にたいする反抗」とよび、また自由な国々では労働組合闘争とよんでいる、あの実際的な経済闘争をさしているのである。

 レーニンの『なになす』はいうまでもなく激しい経済主義批判の書として知られるが、しかしレーニン自身が後年、その一面的読み方を戒めている。だがこれを待つまでもなく、レーニンが経済闘争や労働組合運動、労働者の階級的団結にどれだけ手放しの賛辞を送っていたかは、『なになす』の2〜3年前に書かれた有名な論文「ストライキについて」を一読すれば分かることだ。

  ……労働者がひとりひとりで雇い主を相手にしているかぎり、彼らはいつまでもほんとうの奴隷のままであり、永久に一片のパンと引きかえに他人のために働き、永久に従順な、黙々とした雇い人にとどまらなければならない。しかし、労働者が共同して自分たちの要求を表明し、ふくれあがった財布の持ち主に服従することを拒否するとき、労働者は奴隷ではなくなって人間になる。……どのストライキも、ほんとうの主人は資本家ではなく、ますます声たかく自分の権利を主張している労働者であることを、そのつど資本家におもいださせる。どのストライキも、労働者の状態は絶望的ではなく、彼らはひとりぼっちではないことを、そのつど労働者におもいださせる。……あらゆるストライキは労働者に多くの艱難をもたらす。しかもそれは、戦争の惨苦とにだけ比較できるような恐ろしい艱難――家族は飢え、賃金は取れず、しばしば逮捕され、自分の職をもっている住み慣れた町から追放される―である。そしてこれらすべての惨苦にもかかわらず、労働者は、同僚全体にそむいて雇い主と取引するものを軽蔑する。ストライキの惨苦にもかかわらず、近隣の工場の労働者は、自分たちの同僚が闘争をはじめたのをみると、いつも志気の高まりを感じる。……ストライキの精神的影響はそれほど偉大であり、一時的にもせよ奴隷たることをやめて、金持ちと平等の権利をもった人間になっている自分の同僚たちの姿は、それほど労働者に伝染的に作用するのだ! あらゆるストライキは、巨大な力で労働者を社会主義の思想に――資本の圧制から自分自身を解放するための全労働者階級の闘争という思想に導く。
 ……ドイツのある内務大臣が、かつて国民代表を前にして「あらゆるストライキのかげから革命のヒドラ(怪物)が顔を出す」と述べたのも無理からぬことである。  ……ストライキは、工場主の全階級と専権的・警察的政府とにたいする全労働者階級の闘争について考えることを、労働者におしえる。それだからストライキを「戦争の学校」とよぶのである。それは労働者が、役人の圧制と資本の圧制とから全人民と全勤労者を解放するために自分たちの敵にたいする戦争をおこなう道を学ぶ学校である。

 もう十分だろう。しかし重要なのは、レーニンはこの論文でも、決してストライキへの賛辞だけで話を終わらせていないことだ。レーニンは論文の最後で、「しかし、『戦争の学校』はまだ戦争そのものではない」として、「政府の圧制から全人民を解放し、資本の圧制から全勤労者を解放するためにたたかう社会主義的労働者党をつくる」ことの必要性を結論としてしっかり強調しているのである。そしてこのようにストライキという経済闘争に絶大な賛辞を送ったレーニンが、『なになす』では例えば次のように経済主義者を激しく攻撃するのである。

 経済的利益が決定的役割を演じるからといって、したがって経済闘争(=労働組合闘争)が第一義的な意義をもつという結論には、けっしてならない。なぜなら、諸階級の最も本質的で「決定的」な利益は、一般に根本的な政治的改革によってはじめて満足させることができるし、とくにプロレタリアートの基本的な経済的利益は、ブルジョアジーの独裁をプロレタリアートの独裁とおきかえる政治革命によって、はじめて満足させることができるからである。

 これは「政治闘争における『段階論』」を批判している言葉である。もちろんレーニンはここで何か矛盾したことをいっているのではない。労働者の自然発生的な経済闘争が彼らを「社会主義の思想」に導く偉大な学校であることを言葉の限りをつくして称えながら、しかし労働者の経済的要求の貫徹は究極的には政治革命によってのみ可能であるということを言っているだけだ。当時においてはストライキこそ労働者の団結と労働組合の出発点だったが、レーニンはその意義を十分強調しつつ、しかし労働者が資本と国家との間で本当の「戦争」をはじめようとするのなら、それだけでは不十分だ、労働者の党をつくらなければならないと言っているのである。07年SNGでの先に引用した文言「政治決戦一般を対置してはならない」云々は、ここでレーニンがいう「戦争」=政治闘争、政治革命の否定以外の何ものでもないのである。

7/「階級的労働運動路線」についてA

 そしてこのような政治闘争からの全面的召還は、そのまま労働運動と革命運動の切断、労働運動と革命運動の間に万里の長城を築くことを意味している。それは、政治闘争についての、すでに引用したようなレーニンや本多著作選の定義からも明白である。このように言えば、必ず、いやわれわれは「労働運動の力で革命をやろう」と言っているという反論が返ってくるだろう。私は、若い青年労働者、学生諸君が元気よくこのようなスローガンを叫ぶことに目くじらを立てるつもりは全くない。しかしNCがただこれに乗っかり、これを、あたかもNCの綱領的スローガンであるかのごとく扱うのなら、「ちょっと待ってくれ」と言わなくてはならないのである。私がここで言いたいのは、「革命」を云々していることではなく、そこにいたる道を「労働運動の力で」と狭め、限定していることである。「ストライキの力で革命をやろう」を綱領とするのは、社会主義協会ではあってもレーニン主義の党ではないだろう。
 強調しなければならないのは、革命とはもっと豊かで、壮大で、ダイナミックなものだということである。「ドレフュス事件からも革命は起こる」という言葉がある。もっと身近な三里塚の例をあげよう。66年に三里塚で闘争が起こり、間もなく全学連が支援に行くと聞いたとき、まだ学生だった私は一瞬戸惑った。民間空港では反基地闘争にならないし、農民という小ブルが自分の私有財産を守るのをなぜ応援に行くの? だがそれが私の浅はかさだけを示していることはその後の歴史が示している。三里塚がなければ、NCの70年代も、80年代もないことは明白ではないか。狭山闘争についても言える。誤解を与えかねない言い方を敢えてするが、事件そのものは一部落青年をめぐる冤罪事件にすぎない。しかしあの狭山闘争から、どれだけ多くの活動家が育ち、巣立っていったか。狭山事件は日本のドレフュス事件である。
 さらに極く最近の出来事でいえば、一体誰が、沖縄の集団自決に関する教科書の記述問題で、あのような沖縄県民の決起が起こると予想できたろうか。あれをどこどこの労働組合がヘゲモニーをとったか否かというような話に切り縮めることに私は反対である。あれは、誰が指導したのでもない、地面から湧くように出てきた沖縄住民の怒りの決起であり、ヤマトへの告発なのだ。ここにこそ注目しなければならないのである。一言でいえば、革命への水路は無数にある。どれが重要で、どれが重要でないなどということを決める権限は革命党にはない。だから全面的政治暴露が必要なのだ。労働運動の基軸的・土台的重要性のうえに、このことをしっかり確認しなければならない。  レーニンは『なになす』の中で、「経済主義者たち」の「労働者の階級的・政治的意識を、いわば労働者の経済闘争の内部から、つまり、もっぱら(でないまでも主として)この闘争から出発して、またもっぱら(でないまでも主として)この闘争にもとづいて発達させることができるという確信」は「根本的にまちがっている」とした上で、「社会民主主義者は、住民のすべての階級のなかにはいっていかなければならない」と言っている。そして『なになす』の重要な結論のひとつである「全面的政治暴露」の意義を強調して次のようにいっている。

 われわれがそういう暴露を組織するなら、どんなに遅れた労働者でも、学生や異宗派、百姓や著作家を罵倒し、これに暴行をくわえているのは、彼、労働者自身をその生活の一歩ごとにあのようにひどく抑圧し、押しつぶしている、まさにその同じ暗黒の勢力であることを、理解するか、でなければ感じるであろう。だがそれを感じた以上、労働者は自分でもこれに反応したいという願望、しかも抑えきれない願望をいだくであろう。そのときには彼は、きょうは検閲官にやじをとばし、あすは農民一揆を鎮圧した知事の家の前でデモをおこない、あさっては異端糾問の仕事をしている法衣をきた憲兵どもに思い知らせる、等々のことをやれるようになるだろう。われわれは、全面的な、生なましい暴露を労働者大衆のなかに投げ込むために、まだきわめてわずかなことしかやっていない、いなほとんどなにもやっていない。

 労働者階級への圧倒的な信頼感こそ、レーニンにこのような主張をさせているのである。レーニンはこの段階ではもっぱら「住民」という言葉を使っており、帝国主義と民族・植民地問題に本格的に言及するのはずっと後である。しかしともかく、この帝国主義の住民支配の一環としての民族抑圧や社会差別の問題に労働者や共産主義者がどのような態度をとり、政策でかかわるべきかは、レーニン主義的革命論の根幹をなしている。労働者の階級的団結の真価を問う問題として横たわっている。広島部落差別事件について、部落解放運動に直接かかわった経験のない私に多くのことは言えない。しかしそんな私にも言えることはあるし、言わなければならないことはある。
 第一に、まず一人の被差別部落出身の若い女性が、ある会議での討論の中で差別発言を受けたと感じたのは事実ではないのか。そこまで否定するのか。そんな感じを受けたというのは、もしかすると本人の勘違いかもしれない。悪意をもった誰かによってそう誘導されたのかもしれない。そもそも、こういう問題では別に会話をあらかじめ録音しているわけではないだろうから、必ず、言ったとか、言わないとかいう話になる。だが、だからこそ「事実確認会」が重要ではないのか。それを差別したといわれる側がボイコットするとは何事か。
 第二に、24CCにおける部落解放闘争に関する特別報告の凄まじい内容である。問題の討議が党内路線論議であり、共産主義者間の論議であるということから、これを「『部落民対一般民』の議論にすりかえることは間違い」と断定し、「(党組織に属する部落民は)プロレタリア自己解放の党という普遍的立場に立ちきって、そこから部落民としての自己解放を措定し、あえていえば相対化する(決して否定ではない)立場に徹底的に立脚して問題を考える必要がある」としている。こうした議論の組み立て方からは、かつてスターリンが、ソ連は社会主義国家だからもう民族などない、そこにおける民族主義や民族的自己主張などは反革命だと言って、ソ連を、「諸民族の牢獄」と呼ばれた帝政ロシアを上回る諸民族の牢獄にしていった歴史を思い出さざるをえない。
 第三に、同報告が「このような本来、党内議論の範疇に属する問題を、差別糾弾闘争にしていくことは、本質的にYD的あり方そのもの」としていることである。AD革命がつきだしたYD問題とはいつからこんな言葉で定義されるようになったのか。これはYD問題をめぐる話のすり替えの完成であり、白を黒と言いくるめるデマゴギーに類する言辞である。それにしても何という愚かなことを言い出すのか。この広島部落差別事件を、私は“労働運動原理主義路線”の最も深刻な結論、そしてAD革命の簒奪・改竄の最も耐え難い結論と見なさざるをえない。

8/党的全体性をとりもどすこと

 「階級的労働運動路線」の問題は、ただそれが政治闘争や諸戦線の闘いを放棄するところにとどまらない。それは労働運動のあり方そのものにも大きな変質をつくり出している。それを最もどぎつく表現しているのが、今年の秋口から言われ出しているいわゆる「DC特化論」である。
 「特化」という言葉を目の前にあるパソコンの辞書で調べれば、「他と異なる特別なものにすること」とある。それでは「DCを他と異なる特別なものにする」とはどういうことか。これでも私はずっと以前から、「DCの闘いに学ぼう」とか、「第二、第三のDCを」などということを繰り返し言ってきた人間である。DCはもちろんひとつの職能別組合だが、その闘いの歴史には他の組合運動においても参考にするべき普遍的教訓が多くつめこまれていると思ってきたからだ。だからDCの教訓を普遍化することこそ必要である。だがそれを「特化する」=「他と異なる特別なものにする」とは何事か。私は、DC特化論などというものに100%反対である。問題の核心にあるのは何か。それは、DC特化論が、結局のところ党=NCの否定・解体・蒸発の行き着くということである。
 私は今年も盛大に開かれた11月労働者集会の意義について全面否定するつもりなど全くない。12年前に始まる11月労働者集会は、「闘う労働組合の全国ネットワークをつくろう」を一貫した合言葉として開かれてきたが、それは闘うナショナルセンター不在の中で、連合・全労連に代わる労働運動の新たな潮流づくりに重要な役割を果たしてきた。また日米韓三国連帯も、戦争と新自由主義の嵐が吹き荒れる世界情勢、とりわけ東アジア情勢の中で極めて重要な役割を担っていると思う。そしてその中軸に、国鉄分割・民営化以来不屈の闘いを貫いてきたDCの存在があることも全く疑う余地がない。
 さらに特に今年のそれにおいては、青年労働者・学生の登場を含め、新たな活力を感じさせた。五月テーゼ以来の停滞・足踏み状態を打ち破るひとつの道、ひとつの勢い、ひとつの可能性をそれが照らし出していることは事実である。だが、その上で、にもかかわらず私は、この道、「階級的労働運動路線」の下で、11月集会に全てを集約し、11月集会を年間を通しての全ての総括軸するような道は、労働運動という次元においても決して正しい道ではないと考えていると言いたいのである。
 小さな問題から指摘するが、まずこの11月集会をやったから憲法闘争をやったことになるなどと主張するのは、ただマンガという以外にない。年一回開かれる労働組合運動の新潮流づくりをめざす集会に憲法闘争の全てを解消するなどというのは、きたる国民投票に憲法闘争の全てを委ねる日共=「9条の会」と同じぐらい無責任な方針であり、憲法闘争からの完全な召還である。「攻めの改憲闘争」などという言葉で騙そうとしても無駄である。また、三国連帯は重要だが、「労働者に国境はない」ことを確認することが7・7思想だなどというのは、NCの基本路線、革命観、世界観に対する純然たる無知をさらけ出すだけである。だがこれらはほんのささやかな問題に過ぎない。より深刻で、根本的な問題は、NCと労働運動との関係の問題である。
 私はNCは、いまいちど三全総の原点に戻るべきだと思っている。つまり「社共に代わる闘う労働者の党をつくろう」ということである。職場生産煮にNCの細胞をつくるということを、いま改めて一切の総括軸にすえなければならない。だがもちろんNCの歴史が繰り返し確認してきたように、それは決して真空の中で達成されるのではなく、NCがその時々、その場所々々での経済闘争や政治闘争に全力で取り組むこと、つまり「党としての闘争」を全力で展開することと一体的にのみ実現できることである。  もちろん三全総のときと今とでは、決定的な違いがある。かつては総評労働運動という民同左派的限界があるとはいえ、巨大な階級的労働運動が存在したが、いまはそれがないということである。その中で労働運動を階級的に立て直すこと、闘う労働組合の全国ネットワークをつくり、連合・全労連に代わる新しい労働運動の潮流形成をめざすことが、今日的な「党としての闘争」の中で決定的に大きな位置を占めていることは間違いない。しかしそれがどれほど大きな位置を占めていようと、それは「党としての闘争」の重要なひとつではあっても全てではないはずだ。だが最近の「11月集会全て」論では、「党としての闘争」どころか、「党のための闘争」も全てここに流し込み、解消されているようにみえる。NC建設などどこかに吹き飛び、11月集会を牽引するMWL、MSL建設が叫ばれているだけだ。このような議論は、NCが長年築いてきた組織論、運動論、革命論の完全なる解体・清算である。
 その組織的結論は、結局NCを、労働者党あるいは労働者党をめざす組織から、労働組舎ないしはそれに毛の生えたようなものに作り替えるということだ。最近の組織問題をめぐる議論の中で、中央WOBがPBに準ずる指導機関とされ、それは労働者党員で構成され、常任=職革からなる労対はそれをサポートする役回りのようなことがいわれている。だがこれは労働組合における執行委員会と書記集団の関係のようなものであり、労働者党の組織論の中に労働組合の組織論を密輸入するものだ。「党の革命」「党の階級移行」の名において。
 私はこのような「階級的労働運動路線」に基づく「党の革命」の基底に横たわっているのは「あるべきNCへの絶望」であると思っている。長い歴史の中で蓄積されてきたNC組織の歪みを動かしがたい前提とする考えである。あるいはこれがもともとNCのあり方だという錯覚にまで行き着いているかもしれない。五月テーゼ路線の停滞から生じたこのような絶望にはそれなりの根拠がある。だから深刻なのだが、しかし私はこのような絶望は間違っていると思っている。
 幾つかを指摘したい。まず「11月集会全て」論から必然化する画一的動員主義である。これはPT、PU段階における大衆運動(特に三里塚闘争)で特に顕著であった、「組織をつくるのではなく、組織をぶんまわす」という指導のあり方の究極形態である。もちろんかつてもそれが必要であったように、11月集会結集運動とその成功が新たな活力を生み出すということは大いにありうるだろう。しかし繰り返すが、それは重要なひとつではあっても全てではないはずだ。これと並んで同時に、あくまで非公然的に、地底深く組織の網の目を張りめぐらしていくための工作もそれ以上に重要なはずだ。これはより困難な課題だろうが、必要不可欠の仕事であり、それはまさに職場細胞の建設とそれを媒介にした、三全織のいわゆる「戦術の精密化」を通してのみ達成されるだろう。一切の総括軸はやはり職場における細胞つくり、党づくりにこそおかれなくてはならない。「11月集会全て」路線はこのような課題を完全に没却し、押し流しているとしか思えない。
 画一的動員主義はしばしば利用主義と表裏の関係にある。この数年でいえば、例えば国鉄や教労に対するかかわりだ。11月集会成功のために、焦点化している産別の闘いに光をあて、それを利用することは何ら非難されることではない。しかし利用主義になってはいけないだろう。労働者はそんなものはすぐ見抜く。やはり毎年の11月集会に何人集めるかという尺度だけではなしに、もっと長いスパンで、しっかり腰をすえてこれらの産別の職場に細胞をつくり、公然・非公然、あらゆる戦術の精密な駆使を通して、それを拡大・強化していくことをめざすべきではないか。遠回りのように見えても、このような「党のための闘争+党としての闘争」の着実な推進こそ、4大産則をめぐる戦略的攻防かちぬくためにぜひとも求められていると思っている。
 いまひとつ指摘しなければならないのは、硬直的な「体制内労働運動」批判である。最近の論調では、何か体制内労働運動と階級的労働運動の間にはくっきりとした線が引かれているようなことが言われているが、一体何を言っているのか。あえて言わせてもらうが、今日の日本において労働組合運動というのは、憲法28条と労働組合法によって保障されているという意味で、そもそも「体制内的」な存在なのだ。だがそこに労働者が存在し、その階級的闘いが生まれるなら、それはこのブルジョア社会を根底的に転覆する砦のひとつになりうるのだ。「体制内」どころではない、レーニンは「反動的な労働組合」の中で革命家は働くべきなのか?として、次のようにいっている。

 共産主義者が反動的労働組合に参加しないという、このおろかな「理論」こそ、これら「左翼」共産主義者たちがどんなにかるがるしく「大衆」にたいする影響の問題をとりあつかっているか、彼らが「大衆」についての自分たちの叫び声をどんなに悪用しているかを、きわめてはっきりしめすものである。「大衆」をたすけ、「大衆」の同情、共鳴、支持をかちとるためには、困難をおそれてはならないし、「指導者たち」(日和見主義者や社会排外主義者であって、たいていのばあい、直接間接に、ブルジョアジーや警察と結びついている指導者たち)のがわからする言いがかり、あげ足とり、侮辱、迫害をおそれてはならない。そして、ぜひとも大衆のいるところでこそはたらかなくてはならない。  ……共産主義者の任務のすべては―おくれた人たちを説得し、彼らのあいだで活動することができるということであって、頭のなかで考えだした、子供じみた=「左翼的な」スローガンで、彼らと自分たちのあいだに垣をつくることではないのだから。(『共産主義における「左翼」空論主義』)

 もちろん、この「体制内労働運動」批判が、すでに見たようなNC労働者党員の「喜劇的分裂」状態を打ち破るという意識性をもって、特に自己変革的側面から強調されていることは理解できる。だがそのためにこそ必要なのは、職場における細胞の建設であり、そこにおける主体的力量に踏まえた、戦術、組織戦術の具体化・緻密化なのであって、当該主体の年齢・性別・経歴や当該職場の労資関係や党派関係を一切無視して、ただ青年労働者の尻馬に乗って、画一的な「体制内」派つるし上げを繰り返すなどということは、階級的労働運動の前進に何の役にもたたないだろう。そこに欠けているのは、党である。  これと並んで、今日のNCにおける「子供じみた」暴論としてまかり通っているのが統一戦線の否定である。DCを中心とし、あるいはせいぜい3労組を含んだ統一戦線でなければ、それは「体制内」的と否定する愚かな論調である。
 先にその冒頭の言葉を紹介した5月の全国WOB議案には次のような言葉がある。「『体制内労働運動との決別』の反対者は、ドイツ革命において、正に体制内労働運動指導部―ドイツ社会民主党右派が、カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグの虐殺者となったことを忘れたとでもいうのか」。そしてローザは「体制内労働運動に対する武装が決定的に弱く」などと批判しながら、「トロツキーの『統一戦線戦術』はスターリン主義に対する甘い認識に貫かれている。それ故彼にも死の破産が突きつけられているのである」などと言っているのである。味噌も糞もごちゃ混ぜにしたような見事な迷論である。ヒトラー・ナチスが台頭する30年代ドイツ階級情勢の中で、トロツキーは反ファシズム統一戦線の必要性・火急性を次のように激しく訴えている。

 別個に進みともに撃て! いかに撃ち、誰を撃ち、いつ撃つかだけについて、協定せよ! このような協定は、悪魔自身とも、悪魔の祖母とも、それどころか、ノスケやグルツェジンスキーとさえ、結ぶことができる。自分自身の手を縛らないという、ただ一つの条件のもとで。(「ドイツ共産党の今日の政策の誤りはどこにあるか?」)

 ここにあげられている、ノスケやグルツェジンスキーこそ、ドイツの最も優れた革命家であったローザやカールを虐殺した張本人である。極悪社民そのものである。そんなことは百も承知のうえで、トロツキーは上記のように火を吐くような言葉で、ドイツ労働者階級全体の生存と未来を守るための統一戦線の必要性を訴えたのだ。そしてこれは、スターリンの、ナチスなど政権を取ってもすぐ自己崩壊する、むしろより悪質な、最大の敵は社会民主主義者だという「社会ファシズム論=社民主要打撃論」に対する批判として圧倒的に正しかったのである。トロツキーの誤り・限界はこのような正しい方針を、結局ドイツ共産党というスターリン主義の党に呼びかけることしかできなかったことである。このような、まさにドイツ労働者階級の命運のかかった正しい戦術を推進する自らの党をもっていなかったということである。
 結局ここでも問題は党である。党的原則性、党的綱領性、党的全体性がしっかり中心にすわっているならば、どんな大胆で、柔軟な統一戦線も可能であり、「悪魔とも、悪魔の祖母とも、それどころか極悪社民」とも統一戦線を組むべきときがあり得るのだ。そしてこの党的全体性を欠いたところで、労働運動の単純延長線上に革命を追い求めようとするとき、その主張はただ独りよがりなドグマ主義に陥り、その運動はセクト主義的囲い込みに堕し、まさに三全総が強調してやまなかった「党と階級との生きた全面的交通」を破壊しつくすものとなるだろう。
 このような問題が、水準の低い、混乱した党内論議にとどまっているうちはまだいい。しかし現実の階級闘争に持ち込まれた場合は極めて有害なものとなる。多くを語るつもりはないが、対北朝鮮侵略戦争態勢づくりの決定的一環をなす、パトリオットミサイル・PAC3の自衛隊習志野基地配備をめぐる地元住民の反対運動に対する、この間のNCの右往左往的妨害などは、ただ醜態というほかに表現のしようがない。

まとめにかえて

 

 論じるべきことは他にも無限にある。特に情勢に関しては、サブプライム問題を引き金とする世界大恐慌の危機、そしてパレスチナからパキスタン危機までを導火線とする世界戦争の危機は恐るべき世界危機の爆発を予感させている。
 国内情勢を見れば、安倍政権崩壊によって、永田町は完全に動乱的局面に入ったが、これは日本の全階級・全社会を巻き込む動乱的精勢の先駆けであるにちがいない。日本社会の矛盾はすでに臨界点をこえている。2000万を超えるという非正規・ワーキングプアの出口のない怒りのマグマは、日本社会が抱える途方もない大きさの火薬庫である。それは日本の資本主義を爆砕する力を膨らませているし、また新たなファシスト運動の温床にもなりうる。安部内閣は日本会議にハイジャックされた政権と言われていたが、政権崩壊とともに、このファシスト運動の総本山が解体したわけではない。また改憲は日帝と米帝の絶対的な階級意思なのであって、福田政権下でも策動は続いている。そして改憲過程は、政党政治の危機とともに、このような極右勢力を間違いなく解き放つだろう。  憲法闘争とは何かと問われれば、つまるところ、私は、このファシスト的勢力との職場、地域、街頭、学園での衝突に勝ち抜くことにあるのではないかと思っている。ファシストに勝つためには何が必要か。それは一にも二にも、労働者の階級的団結と武装である。トロツキーは言っている。

  社会民主主義者、スターリニスト、アナーキストをふくむブルジョア民主主義者は、実際に、いよいよ臆病にファシズムに屈服すればするほど、ますます声高にファシズム反対の闘争についてわめきたてる、幾千万の労働者大衆の支持を背後に感じる労働者の武装部隊だけが、ファシスト隊にうち勝つことができる。ファシズムに対する闘争は、自由主義的な編集事務所からではなく、工場においてはじまり、――そして街頭において終わる。工場内のスト破りと私的な殺し屋は、ファシスト軍隊の基本的中核である。ストライキのピケットはプロレタリア軍隊の基本的中核である。これがわれわれの出発点である。あらゆるストライキと街頭デモンストレーションを結びつけて、労働者自衛グループをつくる必要を宣伝することが絶対に必要である。(「資本主義の死の苦悶と第4インターナショナルの任務」)

 憲法闘争は、今日の日本の労働者人民が、迫り来る戦争の危機と絶対的窮乏化・労働地獄の泥沼の中で、戦争と排外主義とファシズムに出口を求めるのか、それとも革命に出口を求めるのかを迫っている。改憲を是とするか非とするかの選択を通して、9条問題を最も鋭い分岐点として、全ての日本の労働者人民が、革命か反革命か、どちらの道を選ぶのかが有無を言わさず迫られるのである。そのとき真に求められるもの、それは繰り返し強調するが、革命的労働者党の存在である。
 この意見書の最後に、NCが結成以来一貫して立脚点としてきた「反帝・反スターリン主義」について触れた、イスト9号(本多著作選第6巻)に収録されている「四全総討議の深化のために」と題する論文から次の箇所を引用する。

 〈反帝国主義・反スターリン主義〉という綱領的立場は、マルクス・レーニン主義的段階におけるプロレタリア世界革命を本質論として継承しつつ、一国社会主義と平和共存論にもとずく現代革命のスターリン主義的歪曲とそれを基礎としたところの帝国主義とスターリン主義の相互依存的な体制化を根底釣に打破せんとする真に現代的かつ革命的な立場から打ちだされたものであり、それゆえに永続的に展開される個別革命において支配権力にたいするもっとも根本的な転覆者の立場である。〈反帝国主義・反スターリン主義〉が現代革命の普遍的網領だということは、世界革命の一環としての日本革命の根底的遂行の過程のなかに、それゆえに、現在的に再生産されている日本労働者階級にたいする搾取と抑圧とそれへの反逆のなかに反帝・反スタの契機が内在していることの実践的・理論的把握をたえず媒介することによって〈われわれにとって真理〉にたかまりうる開かれた綱領的立場に立つということであって、綱領的立場を異にする一切のプロレタリア運動から自己をセクト主義的に区別し召還するためのものではだんじてないのである。

以上
(この意見書の全党回覧を要求します)

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