「同志会総会(12・23)」議案批判

速見(清水丈夫)

〔一〕 まず前提として、203ら「同志会」指導部による『12・23同志会総会』の開催そのものを断じて許すことはできない。『12・23同志会総会』は、反革共同中央をかかげた解党主義・分裂主義と、その帰結である血債主義・糾弾主義によって革共同破壊集団に反革命的に転落した塩川一派の策動と完全に連動するものである。何よりも当日行われた労働者同志の決起による新生関西地方委員会とその再建をかちとる『関西党員総会』に真っ向からの敵対するものである。
 同志会総会議案で、もっぱら口をきわめてののしる24CCの特別報告@「当面する部落解放闘争の諸問題」(注:『共産主義者』第155号に再録、速見健一郎署名)こそ、このような「同志会」指導部の組織原則・組織規律の破壊・解体のあり方、思想を徹底的に批判したものなのだ。
 「同志会総会」は、その現実をもって、『広島問題』で全面的に暴かれた、レーニン主義組織論に背反する小ブル解党主義者の底無しの反階級的転落を示している。そこに貫かれている思想的本質は、プロレタリア革命に敵対し、反マルクス主義の極致である血債主義・糾弾主義である。
 12・23にいたる過程で、この「議案」筆者である203(同志会キャップ)は、すでに11月16日においても「同志会総会」を開き、「同志会の解散」を決定したらしい。「らしい」といわざるえないのは、事前にこの「総会」そのものが、全く党中央に知らされずに、「解散決定」もまったく一方的に強行し、同時にその報告もまったく行われていないという異常な経過であったからである。加えて、「再登録」というデタラメで無節操な組織方針のもとで、12・23の「総会」が再度行われたのだ。
 この過程の本質こそ、「同志会」を「党ならざる党」として、党と切り離して、勝手に「解散」も「再登録」も好き放題におこなう、203による小ブル解党主義的な「私党化」そのものである。203は、まさに与田とまったく同じことをやったのだ。仮に党中央に対してどんなに批判や「弾劾」があろうが、「同志会」が203のいう「産別組織的」形態をとろうが、それが「党の組織」であるならば、指導部(しかも中央指導部の一員)が勝手に「解散」という、党組織にとって最も深刻な生命線をなす決定を無断に強行し、その報告もしないという組織原則、組織規律の根本を破壊することが許されるはずもない。203ら同志会指導部は、「同志会」を、こういうことを平然として強行できる「党ならざる党」にしてしまったのだ。
 しかも、203ら同志会指導部は、同志会内部で、議案に書きなぐった党中央への敵対と24CCへのあらんかぎりの悪罵を投げ、同志の離党を促す反組織的行為を行っているにもかかわらず、まだ「党にとどまって、中央を打倒する」と言っているらしい。こんな傍若無人で、いい加減なふるまいが許されていいのか。いったい全体、203は、どのような立場で、この議案を書いたのだ。この一点において、203の本質が主体性、責任性のかけらもない小ブル自由主義であることは明らかである。
 もし「党にとどまる」と言うなら、よけいにこの「12・23同志会総会」なるものの内容と、その開催自体、絶対に許されるものではない。しかも、党中央と新生関西地方委員会とともに闘おうという同志たちへの反動的オルグなど、ただ粉砕あるのみである。  くりかえせば、24CCで徹底的に批判したのは、このような石嶺や203らの、組織原則のかけらもないメンシェビィキ以下の「あり方」なのだ。それは共産主義者の党、プロレタリア革命の党としての「党内議論」を徹底的に拒否し、「同志会」を党と切り離して、あたかも党の一段上に、部落解放闘争をになう例外的な「党内党」をおく、という与田におかされきった反階級的小ブル自由主義・解党主義である。これこそ血債主義・糾弾主義と一体なのだ。

 そうして、議案書では203が、その参加を拒否した24CCを「反階級的な差別者集団へと転落する歴史的画期」と言いなし、「24CCの全内容を徹底的に断罪し、その決定を木っ端みじんに粉砕する」と、組織日和見主義の節穴から、「大言壮語」の反階級的絶叫をおこなっている。もしこれほどのことを言うなら、この議案書をそもそも、203みずから党中央に堂々と提出せよ、ということだ。このような文書を、あくまでも排他的に内部がためにしか提起できないところに、203の面従腹背に終始してきた度し難い『日和見主義』の底がみえる、のだ。同時にそれは、この議案書が、逆におおよそ階級大衆から、徹底的に乖離した内容でしかないことを、あばくものだ。
 はっきり言えば、内容以前の問題が、全体の内容そのもののおぞましさを規定しているのだ。同志会議案は、すでにもうあらかじめ「木っ端みじんに粉砕されている」のである。

〔二〕 この議案の題名は、「スターリン主義反革命の道か、革命的共産主義の再確立の道か」とある。全体が「血債主義・糾弾主義」の反マルクス主義的絶叫をまったく無内容・空疎に羅列しているなかで、結局帰着する内容は、“革共同は日共スターリン主義と同じ差別集団になった”ということである。
 ここには、今回の「広島差別事件」を、“党による差別事件”としてしたてあげるために、ただ無理やり「矢田差別事件」にあてはめようというものである。したがって、それはまったく粗雑なレッテル貼りでしかない。革共同への差別糾弾をむやみにしたてあげるための、虚言なのである。

 この内容については後述するとして、まず「広島問題」を「差別ではない」ということへの議案での反論を徹底的に批判しなければならない。
 ここではただただ、24CC『特別報告』や中条同志は「広島問題の具体的事実を捏造、すりかえ、嘘を言っている」と言っているのみである。それではどこが「捏造、すりかえ、ウソ」なのか、この無内容の罵倒は、そっくりそのままこの議案の反動的本質をものがたっている。議案の全部が全部、議案の筆者自身のペテン的で無責任なくだらない本質をあばくものだが、もっとも決定的な文面をいくつかあげて批判したい。

 議案は、「権力の事情聴取に応じた中田書記長に対して、特別報告で『学生の同志が疑問をもった』といっているのはウソで、事実は『書記長を解任して、全国連を新体制にする』方針をでっち上げ、実行しようとした」、この書記長解任の『陰謀』が「歴史的な部落差別だ」というのだ。そしてその『陰謀』を、党中央は学生の同志を使って「策動」したのだ、というのだ。
 この叙述の内容こそ、荒唐無稽にしたてあげられた、とんでもない「捏造、すりかえ、ウソ」である。まずここでは「『略式命令方針』は党中央がだしたのであり、それを党中央は全国連に自己批判せずに、中田書記長の責任になすりつけている」と言いなしている。
 議案書の筆者よ。くりかえすが、こんな「捏造、すりかえ、ウソ」が許されるとでもいうのか。
 『略式命令』方針をだしながら、「ケースバイケース」で居直り、自己批判をしていないのは、椿であり、塩川であり、毛利ではないか。そして今や「略式命令の方針を出さないものは、真の革命家ではない」と反革命的に言い放っているものこそ、塩川=椿ではないか。これほど公然周知のことを、知らないとは言わせない。203は、この塩川一派の行動と言動を徹底的に擁護することで、完全に塩川一派とまったく同じ「ケースバイケース」の思想に転落している。なぜならそう言わなければ「広島問題」を「部落差別」として、でっち上げられないからだ。
 203は「塩川一派には合流しない」といっているが、ここには完全に塩川一派と同質・同根の思想があるのだ。だからこそ、逆の側から塩川一派も「広島問題」に飛びついたのだ。

 いまひとつは、「権力の弾圧をめぐる党内論議」を、『中田書記長解任の陰謀』、すなわち部落差別にすりかえるという、とんでもない思想的変質、権力への投降、転向である。このような居直りは、今や単に「部落差別をめぐる党内論議のあり方の誤り」への批判のレベルではすまない。学生同志の権力の弾圧と「完黙・非転向」に対する真剣な議論を「陰謀」といいなす、おそるべき“腐敗・転向した感性”を弾劾しなければならない。ここには、権力の弾圧という階級闘争における絶対的課題に対置、対立して、部落差別を取り扱うという「広島問題」の核心中の核心の問題がある。このあり方こそ、「血債主義・糾弾主義」として批判されなければならないのだ。
 はっきり言って、権力の弾圧をめぐって、中田書記長と内在的に対決することは同志会指導部にこそ求められたはずだ。それは部落解放闘争の戦闘的発展にとって切実な課題であったはずであり、それは30年代の水平社運動をのりこえる歴史的教訓を現代的に検証すべき課題であったはずだ。203は、ここから逃げまわっている。そうして真摯な組織的実践を放棄することで石嶺が広島問題を部落差別にしたてることにのっかり、居直り、その結果、まさに権力への転向の思想に転落したのだ。
 「物取り主義」発言について、それが差別である、ということへの批判は、特別報告@の批判で十分だか、議案では、203らがいかに「捏造とすりかえ」をしてもごまかせない、断じて許しがたい反動的主張があばかれている。
 しかし何といっても、ここではMSLや青年の決起やそこでの真剣な『議論』に対して、「共産主義者としての実践的立場も感性のかけらもない評論」と罵倒し、塩川一派とまったく同様に、見下し、ふみつぶす、この襲撃的な態度と感性について、満身の怒りをこめて弾劾する。これこそ共産主義者としての実践と感性のかけらもない。すなわちここには、住宅闘争という部落解放闘争を、労働者階級から分断する共産主義・マルクス主義の根本的否定がある。
 そもそも、住宅闘争において「『供託か分納か』は戦術主義的議論」といい放っているところに、その本質のすべてあばかれている。とくに現実の住宅闘争の実践的攻防から逃避しなければ、こういう言い方は絶対に出てこない。  『供託』とは、差別と闘う部落大衆の〈団結〉がかかった闘いであるところに核心があり、それゆえに権力と非和解的に対決に発展するのであり、断じて「戦術」ではないのだ。
 現在の帝国主義権力の『新自由主義』攻撃は、労働者階級とあらゆる諸階級諸階層へ向け、その階級的団結の解体にむけ、おそいかかっている。それは「資本の自由競争を妨げる、労働組合や地方自治などのあらゆる形態の社会的連帯への攻撃」(新自由主義)なのである。
 帝国主義の末期的危機のもとで、部落解放闘争においても、とりわけ住宅闘争は、応能応益家賃の負担による『供託』の解体という部落大衆の団結の解体攻撃(それは全国連の解体攻撃でもある)に対して、部落大衆自身の階級的団結をかちとる闘いであり、『供託』とはそのような〈闘う路線〉がかかっている。それを203のように『戦術』と言って恥じないところに、すでに住宅闘争のとんでもない屈服と解体があるのだ。そしてこの文面には、だからこそいまひとつの住宅闘争を闘う路線こそが、労働者との階級的団結であることがまったく措定されず、この労働者階級との団結の闘いに、差別糾弾闘争が圧倒的につらぬかれるという立場に真っ向から敵対するものとなっている。
 だからこそ、MSLの団結を希求した真剣な議論を平然と罵倒することもできるのだ。この労働者との階級的団結を妨げ、遠ざけることこそ、血債主義・糾弾主義の反動的核心なのである。そしてそれでは断じて住宅闘争はかちぬけないのだ。

 議案が、24CCにおいて、「決定的な事実の抹消」として、「党的に確認された事実確認会(党内における)への出席を拒否した事実」と、N同志の「糾弾は人格否定」と「自分も被差別民」という2つの主張を、きわめてペテン的にねじまげて、問題にしている。
 とくに前者について、203の嘘とごまかしは断じて許しがたい。一切は、石嶺の党内討論の拒否と、話し合いとして確認した討論を、全国連の第一回「確認会」にねじ曲げたことに端を発しているのだ。203は「もう大衆化したのだから飲め」と言った事実をごまかすのか。
 そもそも『大衆化』させたのを、石嶺一人の問題にしているが、その張本人は203である。れっきとしたマル学同合宿を全学連合宿に意図的にすりかえ、さらに宇佐美同志を「全学連大会で糾弾しろ」と煽ったのは誰なのだ。今回、「宇佐美同志」とか「マル学同」とか、こっそり言い換えているのが、自分が張本人であることをごまかすためであるとともに、その矛盾をつきつけられ、この問題が「党内討議」であったことを認めているのだ。
 もしこの問題が「党内討議」として認めるなら、余計にN同志の2つの主張の言動を、非難することなど断じて認められない。しかし203は、この自己分裂に対して、再度開き直るのだ。ここで言っていることは、「部落差別」と認識すれば、党内討議であろうが大衆的糾弾闘争にしていくのだ、と轟然と言い放っているのだ。まったく破綻的である。

 しかし、このN同志の2つの主張こそ、まさに党内議論の完全な範疇である。要するに203は、部落解放闘争をめぐる党内議論を根底的に否定しているのである。そして自分たちの誤りを指摘されれば、それを部落差別だ、分断だ、と開き直るのだ。これこそ「血債主義・糾弾主義」の極におちいっているといっても過言ではない。

〔三〕 議案のひとつの反動的核心は、党内における部落差別の議論のあり方を、「党内においては差別はない」という非難にすりかえ、革共同を「日共スターリン主義者と同じだ」と言っていることである。
 ここには、「塩川一派と同じでない」と主張しながら、「7月テーゼ」反対という点において、まったく同質同根の反マルクス主義の思想がある。
 そして「7月テーゼ」をめぐる徹底的一致を、「驚くべき、観念論的主張」「党を観念的宗教集団に変質させる」(「カルト集団」よばわり)と理論以前の塩川一派と同じ悪罵にゆきつくのだ。
 7月テーゼとは何か。それはまさにマルクス主義とプロレタリア世界革命論を再確立したことに、核心がある。そこには「観念論的世界」などの入り込む余地がない。ところが、203らが、当初は「7月テーゼにおおむね賛成」と面従腹背的対応をとっていたのが、まさに「広島問題」という唯物論的現実のなかで、逆に反マルクス主義の本音をはきだし、7月テーゼ反対をなし崩し的に絶叫するにいたったのだ。このあたりもご都合主義である。
 ここで言っているのは、7月テーゼを正しいと言うのは「カルトだ」と言っているに等しい。そしてマルクス主義も「カルト」なのだ。それで一致し、議論することは、『強制』であり、差別である、と言っているのだ。はっきりいえばマルクス主義そのものが、差別思想だと言っているに等しいのだ。

  以上までの議案の全体的に流れるものは、与田が「自分は血債主義者ではない」とうそぶきながら、実際には血債主義・糾弾主義をつかって、強権的官僚主義に党内を屈服させつつ、これと裏腹の徹底的な『面従腹背』をつらぬいたことである。  だからこそ、与田がなんと「党内議論を差別糾弾闘争にした事実など、どこにもない」と言って、与田全面擁護にはしっている。与田擁護とは、実は203自身の自己擁護、自己弁護である。
 “党内議論を差別糾弾にしてきた”事実は、関西の労働者同志であれば誰もがいっかんして呪縛のように苦しめられ、実感してきたことのだ。とくに指摘できるのは、かつてのTSDの「部落差別問題」である。この事態に象徴される無数のこれまでの与田指導の日常的なあり方なのである。これに全く気づかないことこそ、与田を全面的に擁護していることなのだ。いや気づいているのだ。そしてそうした与田の関西の党内支配にのっかってきたのだ。それが遠山であり、同志会指導部なのだ。
 今後、徹底的に究明していかなければならないが、与田がTSDに上陸するきっかけになった〈4・29〉と、そこから生み出したTSD支配と、そのための、かの『労働者医療論』なる『路線』こそ、腐敗と強権的官僚的暴力支配をうみだし、その貫徹を合理化するものであったのだ。
 まさに、この『労働者医療論』なるものが、プロレタリア革命と労働者階級とを切断した「よりよい医療」なるものでブルジョア思想や日共的反動的路線をはびこらせ、労働者階級と切断した「差別糾弾思想」が支配していった。ここに貫かれた「党内議論を差別糾弾闘争として党を支配する」という血債主義・糾弾主義の誤りを、はっきりとみぬかなけれはならない。
 この結果、TSDに対して、階級性を解体する路線が支配し、利権と強権的官僚支配をうみだし、そしてそれを許す細胞性の解体が進行していったのだ。
 現在の塩川一派は、この「労働者医療論」とまったく対決できず、屈服し、むしろそれを反動的に推進し、その結果、毛利らのTSDグループは、階級的労働運動路線に全面的に敵対しているのである。
 ※『労働者医療論』は、改めて徹底的に批判しなければならない。

 そもそも、203ら同志会指導部は、この与田の反動的本質を容認するならば、後はいったいどうやって批判をするというのだ。この議案に限らず、203はこれまで与田へのまともな批判を一言も言ったことはない。与田のもとにいた自己のあり方がどうなのだ、AD革命は、203にとってなんなのだ、ということについて真剣に問題にしていないのだ。
 203にとって、与田批判は、単なる腐敗への批判なのか。そもそもTSG問題をどう主体的に総括するのだ。この対権力と金銭腐敗は、どこからきていると思うのだ。こういうおそるべき組織的腐敗と権力への投降という事態があっても、部落解放闘争のみずからの路線と思想とは別だと言うのか。なぜ主体的にそれをとらえかえそうとしないのか。203にはそういう格闘がまったく皆無なのだ。いや徹底的に逃げ回っているのだ。203らには、まったく与田の打倒などつゆも考えていないのだ。塩川一派とまったく同様に、それを党中央の一方的責任にして、自己を与田的な血債主義・糾弾主義で徹底的に合理化しているにすぎない。まさに小ブル的な自己保身そのものなのだ。はっきり言おう。203らは、与田の残骸であり、与田派そのものだ。この間、与田と同じような『面従腹背』でやってきたにすぎない。
 したがって、与田を「打倒」したADが、路線問題であり、それゆえに関西の労働者同志の蜂起であることを否定し、これを憎悪し、階級的労働運動路線に敵対する点において、塩川一派と路線的思想的には完全に同質・同根である。AD革命の経過から塩川一派に行かないだけなのである。
 そもそもこの議案全体に、12・23で決起し、塩川一派を打倒した関西の労働者同志―労働者細胞の存在がまったく抹殺されている。そもそも〈12・23〉に意図的にぶつけた同志会総会の犯罪性について“答えてみろ”ということなのだ。そもそも24CCが、新生関西地方委員会の労働者同志とともにかちとり、この全面的に支持と、単一党的団結を圧倒的にかちとったことに、全面的に敵対しているのが、同志会総会議案なのだ。24CCへの憎悪をこめた批判は、関西の労働者同志のいのちがけの決起への憎悪である。

〔四〕 今こそ、このような203らの血債主義・糾弾主義を打倒し、部落解放闘争論の新たな再構築が決定的に求められていることは明らかである。
 『特別報告』では、「部落解放闘争論」のこれまでの歪みを徹底的に検証し、そのマルクス主義的な再構築をこころみている。だが同志会議案では、支離滅裂な、反マルクス主義の極ともいうべきケチつけ(それでしかない)で、『特別報告』を「部落解消論」として、日共スターリン主義と同一視するやり方で非難し、「綱領的次元の反革命的変質」という最大限の悪罵をなげている。ここでも、その根っこには、与田(=仁村論文)の擁護である。
 「特別報告は部落解消論」という非難の根拠を、この『議案』で探るのは、前後の脈絡を無視して、都合のよい引用を延々とやり、まともな理論的批判がまったく皆無のなかで『難解』な作業である。だがどうやらやっと『積極的批判』らしいものは、「部落差別という『非資本主義的要素』が、帝国主義の階級支配を支える決定的要素」と言っている箇所である。
 しかしこれこそ“よくぞ言った”ということである。このとらえ方に、これまでの部落解放闘争論におけるマルクス主義とマルクス主義的歴史観の決定的不十分性、逆に血債主義・糾弾主義に傾斜し、結局はマルクス主義を否定する根拠ともなっている。  すなわち部落差別を、封建的残存の「非資本主義的要素」としてのみを強調し、現実の賃労働と資本の階級支配の資本主義的要素と別のものとして、あるいは対立的、並列的にとらえていくという歪みである。
 確かに、封建時代の部落と部落差別が、明治維新以後も、資本主義・帝国主義によって解体・解消されたわけではない。
 しかし、それは、封建的身分差別が、資本主義・帝国主義でもそっくりそのまま「残存・温存」されたわけではなく、明治維新以降の資本主義・帝国主義の急速の形成に適合され、再編され、徹底的に利用されたといえるのである。
 封建的身分差別が、たんに「残存・温存」されたのではなく、明治維新以降、部落と部落差別が「近代的身分的差別」として、再編的、固定化的に、まったく新たな形で形成され直した、というべきなのだ。
 すなわち資本主義的支配の原理、すなわち『賃労働と資本』の階級支配に、新たに組み込まれたのである。
 それを、帝国主義から、資本主義の支配の原理を放逐し、帝国主義段階の重要な特徴である「非資本主義的要素」をとらえ、そこにすべてをおしこむような展開は、決定的な誤りであり、マルクス主義の解体なのだ。
 さらにこれを与田の「差別糾弾闘争論」は、とくに日本資本主義の形成と後発帝国主義の同時的進行というなかで、“明治以降、封建的生産関係が解体されずに残存し、その解体しきれないところに日本資本主義の脆弱性があり、それを支えるものとして『非資本主義的要素』としての部落差別が、労働者階級の差別として存在していく”といっているのだ。
 しかし、これは、日本資本主義・帝国主義の形成の特殊性の強調をもって、上記のようなマルクス主義として歴史的社会的把握を決定的にくもらせるものであり、それが、差別糾弾闘争の論理になったときには完全に誤りとなり、マルクス主義の否定となるのだ。与田の「差別紐弾闘争論」の誤りは、その帰結である。

 そもそもマルクス主義において、資本制社会とはいかなるものか。ここでは『共産党宣言』における規定が決定的である。
 以下、引用する(岩波文庫『共産党宣言』1971年発行)。

 「封建社会の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃止しなかった。この社会はただ、新しい階級を、圧政の新しい条件を、闘争の新しい形態を、旧いものにおきかえたにすぎない。
 しかしわれわれの時代、すなわちブルジョア階級の時代は、階級対立を単純にしたという特徴をもっている。」(p40)

 「ブルジョア階級が支配をにぎるにいたったところでは、封建的な家父長的な、牧歌的ないっさいの関係を破壊した。かれらは……封建的きずなをようしゃなく切断し、人間と人間とのあいだに、むきだしの利害以外の、つめたい『現金勘定』以外のどんなきずなをも残さなかった……
 人間の値打ちを交換価値にかえてしまい……無数の自由を、ただ一つの、良心をもたない商業の自由と取り代えてしまった……いっさいの身分的なものや常在的なものは、煙のように消え、いっさいの神聖なものはけがされ、人々はついに自分の生活上の地位、自分たちの相互関係を、ひややかな眼で見ることを強いられる」(p42)

 「ブルジョア階級の成長の土台をなす生産手段や交通手段は、封建社会のなかで作られたということである。…封建的所有関係は、そのときまでに発展した生産諸力にもはや適合しなくなった。……それは粉砕されなければならなかった。そして粉砕された」(P46)

 「ブルジョア階級が、すなわち資本が発展にするにつれて、同じだけプロレタリア階級も発展する。……労働者は、自分の身を切り売りしなければならないのであるから、他のすべての売りものと同じく一つの商品であり……機械の単なる付属物(である)。……これまでの下層の中産階級、すなわち小工業者、商人および金利生活者、手工業者および農民、これらすべての階級はプロレタリア階級に転落する……プロレタリア階級は人口のあらゆる階級から補充される。
 プロレタリア階級は、さまざまな発展段階を経過する。ブルジョア階級に対するかれらの闘争は、かれらの存在とともにはじまる。……かれらの闘争の本来の成果は、その直接の成功ではなく、労働者の団結がますます拡がっていくことである」(p48〜49)

 「近代のブルジョア的私有財産は、階級対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である」(p58)

 「人類の全歴史は、階級闘争の歴史であった。つまり搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と圧迫される階級とのあいだの闘争の歴史であった。そしてこの階級闘争の歴史は、次第に発展し、現在では、搾取され、圧迫される階級―プロレタリア階級―が、搾取し支配する階級―ブルジョア階級―のくびきから解放されるためには、同時に、また究極的に、社会全体のあらゆる搾取、あらゆる圧迫、あらゆる階級差別、あらゆる階級闘争から解放しなければならない段階に達している」(エンゲルス、1888年英語版への序文、p26)

 以上の引用以外にも、一言一言が圧巻であり、マルクス主義に神髄をしめしている。  資本主義とは最後の完成された階級社会なのである。同時に階級対立を、ブルジョア階級とプロレタリア階級、賃労働と資本の階級対立として、「単純にした」社会である。それは封建社会の徹底的な解体・破壊のうえに成り立つ。
 『共産党宣言』では、こうした資本制社会は、これまでの「牧歌的」な階級関係・対立を絶滅し、極限的で非人間的な階級支配、すなわち賃労働と資本の階級関係をつくりだすのだ。
 すなわちそこには、明らかに旧社会、すなわち封建制社会との決定的断絶があるのだ。こうして人類史に登場した、おそるべき階級社会が資本制社会、すなわち賃労働への資本の階級支配なのだ。

 日本資本主義の形成、および帝国主義への飛躍は、たしかに特殊的である。
 しかしそれは、イギリス資本主義・帝国主義が300年かけたものを、数十年でやろうとする、おそるべき断絶と飛躍の激しさがもたらす〈特殊性〉であり、かえって資本制社会の階級支配をいっそう極限的暴力的に遂行するなくして形成できない、すなわちマルクス主義の世界、『共産党宣言』の世界がもっと本質的に、激しくきわだって、うかびあがらせるという意味の〈特殊性〉なのであり、断じて逆ではないのだ。そこには本質的な断絶性、そして『党宣言』での「新たな圧政の条件」としてあるのだ。

 たしかに日本の近代資本主義が、旧体制・幕藩体制の諸要素・諸実体(ある意味では「非資本主義的要素」)を完全に“解体・分解をしきれず”に、一気に資本主義的形成・確立の過程に突入していった。とくに帝国主義への世界史的移行の過渡期に資本主義的形成の端緒についた日本資本主義は、むしろ部落の解消や農民分解が不徹底なまま、実質的には、それらを急激な資本主義的生産関係・階級関係に“とりこむ”ことが必要であった。

 しかしそれは日本資本主義・帝国主義の〈断絶と飛躍〉のもとでは、旧体制の分解する「ゆとりもなかった」ということであり、逆にその“とりこみ”が暴力的に遂行していったのである。しかもそれは旧社会の諸要素がその後も封建制も半封建制の原理によって支配され続けたわけではなく、外見上の形態は旧社会とあまり変わらなくても、本質的にはほとんど明治維新とともに急速に、暴力的に資本主義的原理・原則の貫徹をうけるものとして、断絶的に転換していったのである。

 たとえば封建遺制として寄生地主制はあるが、むしろそれは、近代的土地所有の一形態に急速に移行した存在として、資本主義の本源的蓄積の激しい一挙的形成の実体的条件となっている。そこには寄生地主制とブルジョアジーの“妥協”ともに、相互に結合し、一体化していった様相が強いのだ。

 当時のブルジョアジーの多くは(三井や安田などの財閥)は、寄生大地主の出身なのである。天皇制ボナパルティズムとは、そうした寄生地主とブルジョアジーの妥協と結合の頂点にあり、このような資本主義・帝国主義の急激な形成における政治支配にとって不可欠なものであったのだ。
 したがって「封建社会の解体しきれていない」ということのみの強調は、まったく一面的なのである。むしろ暴力的解体の過程において、資本制社会の新たな形成として、封建遺制、半封建制の形態を徹底的に利用しつくしたのだ。この暴力性ゆえに、明治初期の農民反乱は、日本近代史上、最も大規模に爆発するのである。
 重要なのは、ここでの封建制を解体しきれないが、しかし同時に激しく進行した封建制の解体による農民の分解と労働者階級の膨大な形成であり、そこでの階級支配の極限的過酷性である。それは労働市場として、労働予備軍もふくめて、「労働者階級への全階級からの転落と『補充』」として、一挙につくりだすなかで、すさまじい搾取・収奪を貫徹していくのである。その結果、労働者階級の反乱と決起は不可避となる。
 日本資本主義・帝国主義の“脆弱性”をいうのなら、この暴力的過程ゆえに、まきおこる階級矛盾の爆発にたえずおびえ、その予防反革命的政策と鎮圧に、終始せざるをえないという体制的な不安定性、危機性という階級的見方として指摘しなければならないのだ。

 この過程をとおして、封建的身分差別としての部落差別は、封建制の徹底的な解体のうえで、新たな資本主義と後発帝国主義の形成のもとでの労働者階級の抑圧と支配を徹底的に貫徹する分断攻撃として、むしろ「新しい圧政」として新たに再編・強化されるのである。
 それはある意味では、封建制の「牧歌的なもの」をかなぐりすて破壊する、すさまじい分断的な差別攻撃として、新たに激化していくのだ。
 それは「非資本主義的要素」であって「非資本主義的要素」ではないのだ。むしろ徹底的な資本主義の階級支配として、賃労働の支配の激しい貫徹として、部落差別を遂行されるのだ。
 「帝国主義の脆弱な支配が、労働者階級の部落差別によって下支えされる」などいうのは、とんでもない『転倒』である。

 203は、帝国主義段階における「非資本主義的要素」を「封建的残存」にだけにおいているが、帝国主義段階におけるロシア革命を突破口とする「過渡期」的過程ゆえに、帝国主義は、その予防反革命的政策の根幹に、スターリン主義的屈服と「社会主義的」とりこみという、「非資本主義的要素」も決定的な労働者階級の支配のテコなのである。それこそ「国家独占資本主義政策」なのだ。「社会民主主義」やスターリン主義の存在が、労働者階級の決起を圧殺することで、部落差別が階級内部に浸透していくのだ。  203は、「スターリン主義や社会民主主義を打ち倒す闘いをやれば階級性が回復される」などで、“労働者は差別者から逃れられない”“労働者への差別糾弾闘争を徹底的にやれ”と言って、社会民主主義やスターリン主義との闘いを完全に否定しているのだ。まさに塩川一派と同じ、体制内労働運動への屈服であり、なによりも既成解同への屈服である。だがそのことは、より本質的には、徹底的な労働者への蔑視であり、敵視なのだ。それは労働者自己解放の思想の放棄であり、ひいては部落解放の根底的放棄である。  203のように、こうした社会民主主義やスターリン主義との闘いをとことん低めていることは、帝国主義打倒と、反スターリン主義革命的共産主義の綱領的核心をまったく無残なほど皆無である、ということである。
 だれが「反スターリン主義反革命の転落の道」にむかっているのだ。

 こういう203こそ、「封建制の残存物」とプロレタリア革命の放棄という日共スターリン主義の「部落解消」論に知らず知らずに近づくのだ。  さらには、これらは、まさに賃労働と資本の廃絶のプロレタリア革命がおきても、「部落差別はなくならない」という論理となる。すなわち「部落差別」をプロレタリア革命と切断し、労働者階級との階級的団結を解体するものにゆきつくのが「部落差別は非資本主義的要素」論である。

 以上の展開で、「7月テーゼ」批判は、徹底的に爆砕されている、といえる。とくに、7月テーゼが「レーニン主義の反革命的解体」である、と叫ぶにいたっては、語るにおちる。驚くことに、この議案の全面をみわたすと、マルクス主義の概念と、「賃労働と資本」のいう言葉がまったく見当たらないことに気づく。まさにマルクス主義の徹底的な無視、すなわち労働者階級の措定から逃げ、ことさらレーニン主義にまったく無内容に強調し、それこそ逃げ込んでいる。しかし『逃げ場』はもうない。レーニンは、まさに徹底したマルクス主義者をつらぬくことでレーニン主義をうちたてているのだ。今や、レーニン主義の一知半解をこえて、『レーニン主義の解体』そのものである。そして203の「7月テーゼ」批判は、マルクス主義こそが『差別思想』であるといっているのに等しいのだ。今や、断じて、マルクス・レーニン主義の背反・敵対を許すことはできない。  この「同志会総会」議案の徹底批判・弾劾をとおして、階級的労働運動路線と「階級的団結」論、そして7月テーゼの道を、08年階級決戦の革命的実践として、真一文字に突き進むことを、圧倒的に宣言するものである。

 ※なお、08年新年号アピールと「1・6提起」こそ、『同志会議案』への最大最強の批判であることを、つけ加えたい。

以上。

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