07年区議選にむけての若干の意見

2006年9月2日・工藤

 07年統一地方選へ向けて「選挙戦を新しい闘い」として生み出し取り組むという中央の方針に全面的に賛成するものです。
 地区委員会等で、区議選の論議が始まっていると聞いています。この論議に加わらないで文章を出すということは同志諸君の苦闘を考えず、全く失礼なことと考えるのですが、89年都議選を担い、89年都議選後、関西から西部地区に移籍し、それ以降の選挙戦を指導部として全力で担ってきた者として、07年に迎える選挙戦の重要性から僭越ながら、若干の意見を述べます。
 後ほど述べますが、イラク決議・被害者支援法の賛成・そしてADと06年は自分にとって(恐らく全ての同志にとって)身を切るような過程でした。
 党へ結集して40数年。あらゆるものをプロレタリア革命勝利へと注いできました。当然ですが、その決意は変わりません。
 しかし、この間突きつけられたことは、自分がとってきたことの誤りを突きつけられた事でもあります。単に、議員個人の誤りだけでは決してなく、自分自身が誤りを助長させ、救ってきたのではと考えています。改めて、89年都議選そのものに目を向け、それを正しく総括していく。そこに、新しい闘いが見えてくると考える次第です。

@70年代(PT)80年代(PU)の選挙闘争について

 89年を総括するにあたって地方選挙は、それぞれの選挙戦での位置づけと課題を持ち、一人の候補を立てて闘ってきました。そういう意味では統一されたものではありません。
 杉並での選挙は、北小路さんを押し立てての都議選以来、党の選挙としてありました(何故、杉並で行ったのかは、重要なことですが、今回は論じません)。区議選を複数の候補を立てて闘うという方針は、85年都議選の敗北。その総括から出されました。87年区議選をWXとして闘うという方針が立てられたことは、あくまで89年都議選の勝利を目指したものです。
 87年WXは、街宣の責任者として闘いました。文字通り、二重対峙対Y戦下の闘いで、過激派攻撃の中での闘いでした。連日、機動隊との街頭宣伝での激突としてありました。そして、87年WXは、投票日当日には、選対本部の勝利の予測が出され、結果は、けしば100票差での落選が示す無惨な敗北を記しました。(総括は斉藤論文として出されています)
 89年の選挙戦は、区議ゼロというあらかじめマイナスからの出発でした。区民の信頼を一から取り戻すという闘いで、非常に厳しい状況から出発しました。オルグ団の一員として区民に、罵倒され、謝るところから始めたのを覚えています。(ここで、若い同志はオルグに行けないということも発生しました)
 89年都議選を巡る情勢は、すさまじい情勢です。85年三里塚・国鉄決戦、岩手弾圧・対Y戦の壮絶な闘いの勝利。戦後世界体制を転換するソ連の崩壊。(マルクス主義の否定が横行し)国内では総評の解体・連合の結成。更に時代の転換とも言うべき天皇ヒロヒトの死。消費税・リクルートへの人民の激しい怒りが渦巻く中での闘いでした。  選挙戦は、初っぱなから荻窪駅での宣伝隊11名の大量逮捕に始まり、多くの不当逮捕・区民宅を初めのガサ攻撃、大量の公安の投入による支持者つぶしと、街頭を巡る制圧戦。さながら治安維持法下の弾圧体制と対峙しながらの壮絶な闘いでありました。Y戦としても阿佐ヶ谷の一日デモへの襲撃を始め、災害無線を使ったり、テレビを使っての妨害。トリック手口を使っての襲撃。これを区民と共に跳ね返しての闘いでした。  区民との懇談会では、常に警察・カクマルと闘いが最大のテーマでした。この必要性を訴え続け、隠れ支持者から、公然と支持する区民を獲得していきました。(櫻井さんを初め党を支持する区民の力が本当に大きかった)89年の勝利は、85年二重対峙対Y戦をのり越えての勝利で、PI、PU下の選挙戦の偉大な勝利と考えるものです。

89年の勝利を生み出した力は、一体何か?

 それは、何よりも党の選挙戦勝利にかけた執念と考えます。党中央は、都議選の勝利か、敗北かは単に選挙の当選か、落選かという次元のものではなく、党の90年代以降の闘いをかけたものとして位置づけ、絶対に負けられな選挙として文字通り総力で闘う体制をつくりあげたと考えます。
 1月冒頭から選対が正式に発足し、そうそうたる指導体制がつくられました。中央指導部の総力がかけられ、全国はその動員要請に応え、選挙一色でした。党員もこの指導体制と、党の必勝の構えを日のあたりにして、あらん限りの力を発揮して闘いました。

選挙方針はいかなる選挙方針だったのか

 選挙方針は、かってない大胆な方針であり、党員にとって、それまでのY戦からくる閉塞感をうち破る自己解放的な方針と捉え。(カルチャーショックでもありました)よく言われたことですが、わかりやすい言葉でもありますが、区民52万を対象にして、杉並全域をキャンパスに見立てて権力・カクマルの包囲をうち破り、大衆闘争を爆発させ、選挙闘争に転換し、更に支持者の公然との決起を生み出し、集票として集約していくというものです。
 89年選挙はもとより、警察権力・カクマルの妨害から隠れ支持者になっている区民をどのようにして公然と登場させるのかが勝敗の鍵を握っていたのです。区民52万を対象にするということで「東京研究」「東京一極集中」の学習に多くの人間が当てられたのです。(党員は、にわか都民に成りました)自治体・地域間題を取り上げたのは画期的なこととらえたものです。
 これまで潜行していた多くの区民が浮上してきたのは事実です。今から考えると、これが、ペテン的で、付け焼き刃であったことは明白でした。大衆迎合的なものになり(良いか悪いか別ですが、4月29日のフォーラムはその典型的な催しです。これの爆発で公然と登場する区民が出てきたことも事実です)そのことが「区民の声」なるものが一人歩きし、一挙に、闘い方が市民主義的なものに変化していきました。いろんなサークルが雨後の竹の子のように生み出されました。(93年都議選時には地域問題の探索なる、陳腐なものになりました)
 今一つ、方針の柱として立てられたのが大衆運動の爆発。とりわけ区民(中小商店主)との統一戦線の形成にありました。
 リクルート・消費税闘争を区民との統一戦線の場とし今までの枠を越える広範囲な区民の決起を実現しました。(櫻井さんのリクルート弾劾のキャラバンや中国派との連携)直前の参議院選での社会党勝利(山が動いた)都議選での社会党三井の高得票。勝利にはいろんな要素が重なります。その重なりを生み出すことも力です。それを生み出した事により勝利したのです。(偶然ではないと考えています)
 都議選勝利の原動力になったのは党員の自己犠牲・献身性・英雄主義であり、党の指導力です。今でもその当時の同志の闘いを、思い返せば感動するものです。党員の力になったものは、3・14を越え20年近くの内戦を開い抜いてきた党員が全階級に通じる党への飛躍をなしとげようとする熱意でした。

党員を奮い立たせた「党の改革」

 選挙指導部は「党の改革」を掲げ、都議選でこれを実現することを指導方針として打ち出しました。全国から動員されてきた党員は感動を持って受け入れたのです。日頃の内戦下による指導の限界とりわけ官僚的な方針の有無をいわせない押しつけに対し、閉塞感をもっていた多くの同志が「党の改革」にすさまじいエネルギーを引き出すことに成功したのです。レーニン主義の研究として二冊のパンフが出され、それをむさぼり読み、学習会を行いました。久しぶりにふれたイデオロギーの感触です。それがイデオロギー的基礎となりました。(マルクス主義ではなく、レーニン主義というところに意味があります。)

 その事が実は、後日明らかに成っていくのですが、各地方から動員された同志が指導に悩み、苦しんでいたものを正しく組織的に解決し、党の建設に生かせていくのではなく、当該地区の指導部批判、中央批判と組織されていったのです。とりわけ、F批判がブロック会議で頻繁に出されました。当時、一ブロックのキャップでしかなかったので、詳しいことは解らないのですが、自分もそれに乗ったのは事実でもあります。「党内権力」闘争に、選挙メンバーが動員され、杉並が聖域化されたのです。この誤りはいろんな事実が示します。同時に次の混乱を作り上げたものでもあります。

89年都議選がもたらした誤り

 あらためて、89年都議選の勝利の意義が大きければ大きいほどきっちりと総括しなければと考えます。20年近く経って、まだまだ十分に総括しきれないでいるのが正直な気持ちです。
 ADで示されたことが、89年にもあり、あり続けたと思うのは自分だけだろうか? 指導体制のこと、組織体制のこと、指導部そのものの資質のこと(西部地区キャップであり選対本部長の矢野の関西への逃亡と草野の公然たる保護)自分は、矢野に非常に影響を受けた一人でした。逃亡後の矢野の腐敗を見た者でもあります。ADでも草野の腐敗、とりわけ財政の腐敗が明らかにされましたが、当時の財政思想が(ついこの前まで)全く誤っていたと考えざるを得ません。(自分も考えを容認してきたという点では、誤りとは無縁ではありませんでした)
 財政のことは第一級の秘密事項とされ(それ自身は必ずしも間違いではありません)担当者と、指導部(矢野達)だけのものとして明らかにされないという。一部は明らかにされても、ごまかされ、隠蔽され全く解らない状態でした。今でも解らない状態なのは何故でしょう。財政政策そのものが間違っていたのです。選挙戦での財政の疲弊という事では済まされないものがあります。
 89年の総括は、自分の身を切る総括です。中心にいた者が何らの総括も出さずにいなくなる中で(これ自身が不思議です)総括は全く不十分になっています。臭いものには蓋のたとえ通りで、自らに不利になることに口をつぐんでいるとしか考えられないのです。それとも解決したことでしょうか? 財政政策・思想に対する、多くの同志の怒りと不信感はここにあると考えます。
 個人的には、それ以降の選挙戦は、89年レベルをどう実現するのか。更に、別言すればどう越えるのかにあったと考えます。
 現実には、いろんな挑戦を行ったがどれも実現で来てないのが現状です。89年都議選を総括しきれず、真っ正面から見据えることなく、越えれないのは当然と言わざるを得ません。89年を見据えることなくきた結果が、89年に生み出した誤り、弊害が助長され、いろんな混乱を生み出し、議会活動においては、転向とも言える右翼的変質を行うようになってしまったと考えます。
 それも党に非公然に事を進めるという。革命的議会主義を踏みにじることが公然とまかり通ることにまで行き着いているという腐敗、堕落。これほど、同志の闘いや、区民の闘いを踏みにじるものはないと考えます。自分にとって、痛み以外のなにものでもありません。
 今の状況は限界と考えます。これを繰り返しても、革命的議会主義とは全く無縁なものであり、ADで突きつけられた党のプロレタリア党としての建設とは無縁なものであるばかりか対立するものでしかないのです。
 ADで突きつけられていることが一つの重要な契機です。革命的議会主義の新しい形成・革命的議員の新しいあり方を生み出していく契機です。  自分としては、07年針地方選挙は党建設にとって決定的に重要な選挙と捉えています(07年参議院選も)地区党建設にとってチャンスと捉えています。安部内閣―小澤民主党が誕生した場合、改憲・教育基本法の改悪と全人民を対象にし戦後歴史を転換する歴史的闘いに突入します。これに抗しうる党・党員と更に先進的区民と一体的なプロレタリア階級の先頭に立つ候補が必要なのです。
 今までの闘いの歴史があるか、地盤があるかなど二の次です。これについては、自分の意見として述べますが、この決断は、まず自分が傷つきながら進んでいくものとして考え、結論づけたものです。

A89年以降の選挙戦について

 89年都議選の勝利を持って更に事態ははっきりしました。矢野選対本部長が公然と言っていた事ですが「89年は勝てると思ってなかった。次の93年の勝利を計画していた。勝利には20000票が必要で15000票の維持に地域担当としてオルグ団中心に何名か西部地区に移籍する。後の5000票は中央が街頭・労組オルグで責任取る」と、この言葉でハッキリしていると思う。
 自分もこの考えに積極的に賛同していましたが、明らかに党組織の破壊行為です。全て都議選の勝利ありきで一切に優先すると言う考えです。同時に中央とのあからさまな対立が内に含まれていると言うことです。これが通用したところに、89年都議選の勝利「偉大さ」と、それを実現した大衆運動の爆発があったと考えます。
 91年のWXは更に、政治路線は表面だけで、ひたすら地域での展開を行い、権力の集中弾圧・Yのテロをうち破りながら多くの区民の決起を生み出して、けしばの当選をもぎ取ったのです。このWXの方針もあくまで93年TXの勝利のためでしかなかったのです。(当選以降やったことは、高円寺開発などの地域課題が中心)地区党の建設に至っては、大衆の党への獲得ではなく、地域の名簿維持活動と地域活動の展開が中心(勿論、大嘗祭への闘いを担ったが)で、選挙を設定した党組織です(自分は地区委員会に入ってなかったのでそれ以上、詳しくは述べられないが)91年に出された5月テーゼも、ほとんど論議されず。文章も反戦共同委の会議に動労千葉に行って初めで見る状況でした。
 そのことを矢野に批判することでやっと全体に回覧される状態でもありました。5月テーゼについては、その後も論議されず、どちらかといえば杉並は別。まず選挙に勝つ事という指導が強く。むしろ、対立するものとしてあったと考えます。
 93年都議選挙は、大混乱の選挙でした。89年以来、西部に移籍した同志の力を生かすものでもなく、ひたすらマシーン的な展開を要求し、何をつくろうとしていくのか理解できない選挙でした。区民300人アクト方針が出たかと思えば、すぐ名簿回りのマシーン展開方針が出たりで、ジグザグ方針で最後まで大混乱の選挙でした。
 選挙のプロという自認でただ同志を鵜飼いのように操作する。そして地区党の指導部に側近を据えて運動する。一ゾーンの責任者でしかなかったけれど自分にも一端の責任がありますが、何度か方針を巡ってぶつかりました。自分の指導していた同志は、93年選挙をもつて、党からの離脱状態になりました。更に、労働者の獲得という意味では、労組票は労組交流センターの責任とお手並み拝見的なもので、全く当てにしていないどころか批判的なものでした。交流センターからの不信がつきつけられたのもこれ以降です。

B党の中央指導部のデタラメさを示した97年都議選

 何の方針もない選挙とはこういう事を言うのでしよう。あらかじめ負けるのを前提にした選挙です。ガイドライン選挙としてありました。杉並には、何%の戦争反対者が居る。ビラを何枚まけば、何%の左翼票が獲得される。ひたすら全戸ビラをまき続けさせる。選対本部の会議もビラの点検のみというお粗末なものでした。
 本部長が事務所にいないで、伊勢同志を本部員にして、呼び出してコントロールするというのを初めて経験しました。考えてみれば矢野選対本部長の時も、時々静養と称して居なくなりました(ADでもあったことですが)敗北の総括も出来ないで、速報を聴くやいなや、事務所から居なくなる本部長。それを批判できない、総括できないでいる中央指導部。97年都議選の大敗北に混乱している中での革共同集会では、選対本部からの発言ではなくオルグ団を担った岩崎同志が総括発言を行うというものでした。(そのことが原因で伊勢同志の病気、戦線から離れざるをえなくなった)
 99年以降の選挙戦は、書記長の本部長体制のもとで闘ってきました。本部長が先頭に立ち、区民と会い。本部に腰を落ち着けて采配する。97年とは、180度異なった選挙で本来あるべき体制です。しかしながら、今から考えれば、この89年選挙に対するマイナスを乗り越える闘いと考えますが、根本が変革されていない選挙は、89年の限界も突破できないし、それを上まわる事も出来なかったのです。
 今後の選挙戦のあり方は既に5月テーゼで明らかにされ、ADで突きつけられたものをどのように選挙戦に物質化して行くかにあると考えます。何よりも、その軸は、地区党の建設の視点を持ち、労働者の獲得を基本方針の柱として、激烈な党派闘争を開始すると言うことです。
 それを貫徹するには、同時に揺るがない選挙指導部が必要であり、更にそれを先頭になって闘う候補であります。そのことが、何よりも地区党の同志を初め、多くの同志の戦闘的な決起と先進的な区民の決起を生み出します。要約すれば、生まれ変わってプロレタリアの党として登場できるかどうかです。それを背負った候補と党員と先進的区民の登場が実現出来るかどうかと考えます。

C最後に

 いろいろ述べましたが、89年総括を今更と言われるかもしれません。まだまだ言い足りないことはあります。ただこれからの闘いは、中途半端な闘いでは済まないと言うことです。党の生きるか死ぬかがかかった闘いです。ADで問題は痛烈に示されたと思います。関西の同志の闘いに乗っかるのではなく、それを受け必死の思いで党を建設して労働者を初め、全人民と切り結んで行くことと考えます。自らの誤りをえぐり出さない、傷つかない改革はないと考えます。特に、区民(大衆)と接している同志はそうだと考えます。

 自分としては、区民の批判を真っ正面から受ける決意です。我々の過ちを明らかにして、政治的に獲得してゆきます。それが自分の89年総括の出発点と考えています。  今までの延長では行かないのです。その事は、間違いを繰り返すだけで、は全く無縁なものであり、プロレタリアの自己解放とも無縁なものです。いやそれどころか、革共同を背景にするわけですから、階級闘争の前進を阻むものとなります。プロレタリア人民を地獄の道に引きずり込むものです。それは、決して地域住民の要望を無視するとか、従来の後援会の人々を無視するといっているのではありません。住民の要求(小ブル的な要求も)を正しく共産主義者として分析しプロレタリア的に発展させていくと言うことです。  そういう意味では、党と人民を背負った複数の議員が必要と考えます。とりわけ、女性議員の登場は絶対必要と考えます。時間はそうありせん。党員と先進的区民(党友)とのある種の血盟を裏切らない、戦闘的な方針を。
 なによりも、党員が一致団結して奮い立つことが出来る方針を望む次第です。
中央の論議の上での決定をのぞみます。
 革命勝利に向かって、中央と共にあります。

以上

(追加)

9月18日・工藤

 9月2日に提出した文章に、少し、加えて書いたものです。
 少し、状況が変わっています。
 小生は、07年の区議選は3人候補を立てて闘うべしという考えを持っていました。  ADを発展するため、03年に獲得した9500票に応えるために、3人の議員を生み出す。何よりも、地区党同志の団結を生み出す積極的な、戦闘的な方針をとして立てていました。現時点では、完全な間違いとしてあります。
 一人か、二人か、三人かではないのです。革命的議員の登場が必要なのです。この間の状況は、三人会派として議会に登場する力も内容もないと言うことが痛烈に突きつけられました。何をしてきたのかと情けなく思ったりします。一から革命的議員をつくり出さなくては成らないのです。
 共産党を議会主義者と批判しましたが、今の我々は、それと同じ道に転落しようとしているのです。現時点で改めて、誤りを考えてみれば、大変なことと捉え返しています。  イラク区議会決議・犯罪被害者支援条例の賛成・ADへの議員の対応。明らかな、階級移行党と人民への裏切りです。いずれも痛烈な批判と自己批判がなされていますが、自己批判書が提出されたということが全て克服したということではないと考えます。
 議員個人の問題にのみとするのは是としませんが、根本からの路線の違いです。路線の一致を生み出し、誤りを克服していくというのは簡単なことではないということです。克服していくというのは、革命家としての再生をかけてです。
 議員は、地方議員としても、党を代表するものであり。党が責任をとるものです。議員をやりながら再生の道を探るのではないのです。党との一致がないまま進むことは出来ません。
 情勢は、絶好のチャンスを迎えようとしています。この情勢に対し鮮明な政治方針を掲げ、労働者を柱に52万区民を組織していく絶好のチャンスがおとずれたということです。区議選を徹底して教育基本法・憲法を守るを掲げ、自民党政権打倒を掲げ闘い抜くと言うことではないでしょうか。

 Jさん・Sさんを初め、何人かの区民と討論しました。非常に、厳しいものがありますが重要な討論になっています。一定の覚悟をしなければ成りません。生半端な事ではありません。従来の支持者が離れるかも知れません。必ず、区民は決起し、合流することを信じています。
 党の路線と方針を一歩も歪めず、獲得に向かっていきます。

以上

報告と意見

10月15日・工藤

 9月18日に07年区議選に向かう意見書を提出して、ほぼ−ケ月。事態は激しく動いています。区議選が近づいてくるにあたってADで問われた問題が浮き彫りにされてます。待ったなしに回答が求められてきたことから、いろんな問題が出てきたことと捉えています。
 選挙・議会を軸につくられてきた杉並地区党として、従来の地区党建設の誤りが容赦なくつきだされ。激しい変革が求められてきています。
 この間新たに区議会において保育所の民営化賛成の意見を行ったことが明らかにされたことから契機に、9月議会への出席を巡る論議から、議員辞職か否かの論議の最中に、支持者への党内の議員辞職の論議が指導方針なしに、野放図に持ち込まれました。
 12名の支持者と党が対立するという構図を生み出してしまっています。異常な事態と言わざるを得ません。党が党でなくなり、幾多の同志の血で守り抜いてきた党の栄誉も権威も全て否定するもの以外ありません。
 けしば同志は、Jさんが「怒って、進めたこと」と弁明する卑劣さ・区民を愚弄する態度は許し難い発言です。何の情報もなく区民が勝手に怒って、勝手に反都革新(党)で組織すると言うことなどありえず、噴飯ものといわざるを得ません。
 自分は、87年以来、けしば同志と共に闘い、敗北も勝利も共にしてきました。更に今回、名を連ねられている多くの人とは常に論議してきました。単なる支持者としてではなく、共同闘争者としてあると理解しています。
 何故、このようになってしまったのか。今までの都革新としてのあり方が破綻し、薄々解決していかなければならない課題と感じながら未解決できたことが一挙に表れてきました。何人かの署名者の区民と会ってきましたが、非常に厳しい現実を感じると共に一歩も引いてはならないと決意を新たにしています。
 自分としては、TRX以来3年間、都革新と後援会に関わってこれなかったのですが、その歴史を担ってきた一人として起こっている事態を正しく捉え、正しい方向に向かっていかなければならないと考える次第です。何よりも望むことは、党の(地区党の)一致です。戦闘的精神の再構築です。「勝利に向かっての試練」と考えています。

@自己批判書はなんだったのか
 日を追うごとに問題の本質が明らかになってきています。本年初頭、革命的義会主義の歴史を根底から否定する事態が明らかにされました。
 山田区長が鳴り物入りで進めてきた犯罪被害者支援法をあろう事か、賛成したという事実、その法案を党へ提起されず。当然にも討論し決定するという当然のことが行われなかったこと、そしてその法案を賛成したことも報告されていなかったという事実。区議会の議事録を点検するまで誰一人認識していなかったという事態でありました。
 このことは、既にいろんな方向から明らかにされているので述べないが、改めて、革命的議会主義を裏切るものであり、党を否定する何物でもありません。今起きている事態から見れば解るのですが、区議は、個人のものであり、党に服しないと言う考えです。  革命的議員は、党の路線と方針を党が非合法になっても党に代わり人民に訴え、蜂起を組織していく。どのような攻撃があってもそれを貫き通すのが革命的議員です。この基本的な立場が否定され、思想的に完全に山田区政に絡め取られたものと判断せざるを得ません。
 ほぼ、2ケ月近くの自己批判書作成の過程を経て、自己批判書が作成され、新コスモスに掲載されるに至りました。その自己批判の内容が貫徹され始める過程で、ADが起こり、あろうことかけしば同志は、前記、自己批判書を否定するAD反対の立場をとったのです。
 3月下旬の中央での最終決定。AD支持。PB解任そして新たな指導体制が確立されるまでの指導体制の出発まで、けしば同志はAD反対の立場をとってきました。それ以降ほぼ2ケ月間の、指導部との自己批判を貫徹する為に、相互の強烈な闘いが展開されました。
 6月議会が近づいているということで、来年の区議選には立候補しないという一文を加えることで一端、自己批判書は受け入られました。その上での、有岡同志の努力による区議会議事録の点検による高井戸保育所民営化賛成したことが明らかにされたのです。一連の事態が一つ一つの事ではなく、実は、重大な屈服であり、思想的な転向であることがハツキリしたのです。(自分はそれまで、有岡同志の言う思想的な転向とは、捉えていなかったが、事実は激しく思想転向に向かっていることを突きつけられました)
議員でなければ、個人の問題で済むのですが、議員は、区民や党員をその思想転向にひきずる力を持つ者です(その役割でもあります)
 自己批判を真に実現すると言うことが、これほど重要であると言うことを身にしみて感じています。何故ならば、今起こっていることは、自己批判を曖昧にしてきた、させてきた事から生じてきているもの以外ありません。
 区議会でのイラク弾劾決議の賛成は、けしば区議の責任を問うのではなく、書記長が責任を取り自己批判するということで不問にした形で修めました。犯罪被害者支援法についても、けしば区議の思想的変質に肉薄せず、ただ新コスモスに自己批判書を掲載するといったもので如何に責任をとるのか不問にしたまま、議員を守り自己批判を承認しました。
 ADについての自己批判書については、けしば同志の苦闘を感じながらも事実と向きあおうとしない自己批判書であったことは、歴然としています。ADの決起を、「中央方針を否定する暴力クーデター」との一言で関西の同志の決起を否定し「党内闘争で暴力をふるっての党内闘争はない」現場労働者の怒りの決起を否定し「産別委員会のAD支持の決議に対し」沈黙し東京・西部の労働者同志の訴えにも耳をかさず。明確に路線上の違いがありながらそれを明らかにせず、清水議長・高木同志の自己批判が出される中で180度転換するというのは、明らかに、ADをとらえきっているものではなかったのです。  重ねて言いますが、自己批判とは、闘いです。けしば同志がADの自己批判書作成過程で自分に言っていたことですが「ADでの自己批判は、今までと異なり、自分の誤りを指導するというのではなく、ただただ自分を打倒しようとするもので、何を書いて良いのか解らない」とその通りです。
 自己批判は、自己批判をさせる者、自己批判をするものの闘いです。相互に傷つきながら新たな闘いに向かっての内容をつくっていくもので、誤りにとことん向き合い、えぐり出し、古い体質・考えをうち破っていくものです。それは同時に、新しく革命家を生み出し、獲得する闘いです。極めて同志的な闘いです。  これを曖昧にして中途半端なものにしてきたのが、今回の区民を巻き込んで、混乱する事態を生み出したものです。自らを傷つけない改革はありえません。区民の批判に、この身を晒しながら、誤りをえぐり出さなければなりません。この厳しい闘いをやり抜く中にしか党の再生はないと考えます。

A一連の誤りは些細なことなのか
 10月8日、12名の署名者の内の一人、Yさんとの討論の中で出されたことだが、一連の議会での誤った議決に賛成したことに、「事務所の区民と接しない内田というものが、些細な誤りをほじくりだして、トカゲのしっぼ切りのように議員辞職させようとしてきている。」「これは、革共同の現体制派が反対派を切ろうとするもの。」「区民とは無関係な党内権力闘争」との発言がありました。
 この間党内の討論でもよく聞く話です。何故、区民から内田同志の名が出。内田同志の闘いを知るのか。我が同志の中から、区民に伝えられたものです。非常に情けない限りです。党の原則がこうも簡単に踏みにじられ、闘いを困難にしているのです。(Yさんは学生時代はSY。99年からの都革新会議構成員の一人だが、01年宮崎問題、星野救援会での対立で都革新からは離れ政治活動も行わず。F読者で維持)この意見は、わが同志の中でも出され、よく耳にしています。
 果たして、些細なことだろうか。断じて否です。保育所民営化反対は選挙政策に掲げてきたことです。住基ネットでの山田への賛美発言はおぞましい限りです。一連のことは、一つ一つではなく、関連があり思想的に傾斜していった過程と契機があるのです。思想的な確信を持った行為としてあるのです。そこを誤魔化して、何の政治党派なのか、何の革命的議員といえるのか。
 もとより、それを点検できなかった党指導体制の問題はありますが問題は別です。議員の区民への責任の取り方は議員を辞職するということでしかなれないのです。けしば同志もそのことは良く解っているはずです。党へ辞職届をだすことは、唯一党を救い、党と一体化していく事と考えます。

Bいまこそ党の団結を打ち固め、党内の議論を深めよう
 今日(10月15日)も署名者の一人であるUさんと討論になりました。非常に厳しい状況ですが、一から組織をし直すしかないと決意を新たにするものです。
 すなわち、何と言われようと、今の党の立場と責任の取り方、考えを理解してもらうしかないと言うことです。そこで、いったん、支持者として離れようと、それは、残念ながら仕方がないということです。
 12名の署名者は、同一の状況ではありません。区別して対応すべきと考えます。
 あらためて、事態をハツキリさせるため、自分の今に至った考えを述べます。
 8月段階では、けしば同志は、なんとか自己批判を貰徹し、党員の信頼を回復して、選挙戦を臨む。07年は現職を含む複数の侯補を立てて闘う。その為に自分は全力をあげて、けしば同志を支えて闘う気持ちを強く持っていました。
 それが、全面的に変わったのは、浅原同志の意見書が出され、けしば同志が「一人候補論でマーキュリーは大混乱する。誰も認めない」との発言があり、某所で党外の人に「自分が候補として出るのを一人反対しているのが居る」との発言があったことによります。

 自分は、前回のレポートにも出しましたが、この過程を通して、党の再生と何よりも西部地区党の党員の団結を生み出すのを第一の獲得目標にしたのです。それが、けしば同志の発言でガラガラと崩れました。党の混乱と党の分裂を生み出すもの以外ありません。またぞろ、正面からの路線論争ではなく、党内の秘密フラクションを形成し、反中央を組織するというAD過程で浮き彫りにされた姿が再現されようとしたのです。
 けしば同志には、立場の違い、考えの違いを示しました。今進行している事態は、従来起こっていた事と寸分違いはありません。それは、反発的組織化を党員ではなく区民に働きかけているにしかありません。
 けしば同意と共に闘ってきた者として残念で仕方ありません。路線論争なら路線論争。指導部批判なら指導部批判を。政策の違いなら政策の違いを党員の前で公然と行ってほしいのです。ADで突きつけられたことの一つは、このことと考えています。徹底的な論議の元に、決定には共同の責任を持ち闘っていくことではないのでしょうか。
 自分は、指導部は、党員がつくるものと考えています。それは、下部意識を言っているのでは決してありません。それだけの誇りと厳しさを持つと言うことです。

C都革新の根本からの総括を必要としています
 この、間署名者のY・Uさんと討論してきました。二人がいうのは「区民をないがしろにして区民が選んだ議員を勝手に辞職させようとしている」「区民抜きにそういう論議をすることが許せない」「革共同が決定を押しつけようとしている」「区民の意見を認めないなら革共同と手を切る」
 どのように説明しても、納得してもらえず、平行線になります。あらためて、99年〜02年まで都革新会議を開催してきたのですが非常に誤った組織化であったと考えるものです。
 住民運動や地域での闘いを否定するものでは決してありません。地域住民の選挙への参加も否定するものではありません。むしろ、それを積極的に進めるべきです。杉並では、住民の会や親の会が維持され闘っています。そして、何よりも緊張がある中で党の指導方針が貫徹されています。
 都革新会議は、明らかな誤りを持っていました。都革新を党とは別の政治組織として形成しようとしたことです。当初、選挙戦に勝利するためにと立てられたのですが、それでは済まなくなったのです。(後援会も同じです)
 01年のけしば候補の都議選での宮崎問題でまず激突しました。そのご都議選総括で一致が出来ず、その後、都革新を党と別個につくるという提案がなされ、それを否定することで、解散に至りました。
 この事の中に、今回生じている誤りが生み出されていると考えます。区民の一人一人の権利や主張や闘いを決して無視するものではありません。責任をとることは異なるということです。党が本来とらなければならない責任を区民に押しつけ、革命党の姿をカモフラージュする事以外のなにものでもありません。
 今回起こっていることは、責任をとれない区民に責任を押しつけ、党員としての姿を隠し、議員というオブラートで包み隠そうとするもの以外ありません。痛苦の限りです。つくり出してしまった誤りによる支持者が我々から離れようとも断固としてこの道を進むということです。
 労働者党の建設を柱に、新たな地域の組織化に全力を傾ける決意です。

 まだまだ総括しなければならないことが山ほどありますが今回は以上です。

報告と意見NO,2

10月18日・工藤

 10月15日付けで、「報告と意見」を提出しましたが、この数日とりわけ10月16日のマアキュリーの決定があり、翌日(17日)決定をマーキュリ−の代表として三人の同志が、けしば.新城に伝えに言った時の二人の回答とその時の言動をきくにつれて、如何に自分の「報告と意見」が生やさしかったのか、現場の厳しさに応え切れていないのかを痛烈に考える次第です。(敬称を略します)
 今や事態は抜き差しならないところにきていると考えます。二人の行動は、党を全面的に否定するもの以外ありません。これと徹底的に闘う事を明らかにし、現在とっている行為を弾劾するものです。
 「報告と意見」に続き、自分が関与した事に対して、二点について、あらためて、明らかにする次第です。

 一つは、けしばが、Jクリーニング店に掲げていた北島の連絡所看板を下ろしたのは、工藤との討論に怒って看板を下ろしたと言ってることについてです。
 事態を明らかにする前に記憶する限り過程を明らかにします。
 まず、けしばが許せない事ですが、Jと激論になったのは、9月10日以前で、それ以降何度もけしばと顔を合わせていながらこのことを何も問わず、ふれず、いきなりマアキュリーメンバーとの討論の時、あたかも衝撃的な事実であるかのように出し、自らの立場を優位に立てようとしたこと。更に今回(17日)又ぞろ持ち出して、区民が党に怒って行動し始めているのは、工藤が火をつけたものであるとして、自分たちの反党的な区民の組織化を隠蔽しようとするもので絶対に許せません。
 このような、けしば言動は、非同志的、党的団結を破壊する卑劣な行為としてあります。断じて許すことが出来ません。
 次に同志諸君に事態を明らかにするものです。
 9月の初旬、都革新後援会長のJさんから電話がありました。工藤が都革新会議解散以降、何人かの区民を年に一度か二度、懇親会として開催してきた会を、07年の選挙準備のために催してくれないかとの打診がありました。これにたいして自分としては、「党がどのような方針で闘うのかまだ決定されていない段階で、方針を持たずに呼びかけられない」又「都革新の建設問題や党とのありかたに一致のないまま、前のような論議は出来ない」「彼らは、後援会としても辞めているから集まらないだろう」と応え詳しくは、電話でなく近々会って説明しますとした。
 数日後、或所でJと会って事態を説明した。07年区議選を巡る状況。ADの若干の説明。けしばのADで取った態度。党の現状の力と区議選を巡る事態(新城が出ないとの表明を行っている事も)自分の結論として、三人はとても無理。複数も人が居ないし今から新人二人では共倒れになる可能性がある。よっぽどの体制をつくらなくてはとても無理といった。
 Jは、三人で行くべし。自分は二人を説得すると言って話は終わった。
 その数日後(9月10日頃)Jの店舗で激論になる。Jから「新城さんがけしばさんともJの考えを受け止めると言っている三人で行くべき」との意見が出される。初耳だったのでどこでそれを聞いたのかを問うと、「事務所で、けしば・新城が自分に表明した」との応え。
 それに対し「前にも言ったがそれは無理」「無理の理由は、今の段階では実際、選挙戦のリアルな話として三人では勝てない。それはJもわかるはず」「ましてや、けしばを全国の党員は支持しない。このことはこの間説明したはず」「ずっと一緒にやってきた自分としても、6月以降何とか出来ないかとけしばにも言って来たが、自分の目からみればけしばは何も動かなかったし、変わらなかった、それ以上に今は困難になってきている。今回はとても党員の信頼を勝ち取れない、無理と判断している」「商店の問題にしても、烏山商店街を良い商店街というけしばなんて考えられない」
 これに対してJは「自分は商店街の利益の為にやっている。いいところは良い」
 工藤としてはその論に対して「それでは、民主党でも自民党でもいけば良いと思う」「自分としては、今までの選挙戦のあり方を変えていかなければならないと感じている」
 どう変えていくのかというJの問いに対して「労働者・労働組合の獲得を柱にしないと駄目だと思う」「全国の力をあてにしては駄目だ地区の力でやらなければとも」
 これに対してJは「労働者は駄目、組合なんてなんの力にもならない」と否定。(ここが明確な対立点です。ずっと対立と離反を恐れ不問にしてきたことです)
 「力がなければ、自分たちだけでやる」「金も運動員も後援会で集める」との結論に対し「それは、無理、金も人もなんてできっこない。後援会と言ってもJが何とか支えているのみ。金も集まらない。誰がそもそも動く」「二人だって組織化の先頭には立たないのはJもいつも嘆いている事ではないか、後援会を組織しているわけでもない、阿波踊りもJが押し込んで何とか実現したこと」「自分としては、後援会を中心としたあり方は変わった。今後どうあるべきか再検討すべきではないか」
 Jは「三人・五人でやる。やる前から無理はない。やってみなければ結果は分からない。区民に集まってもらって党へ意見する」との結論でした。
 この論議の数日後に、北鳥とJの激論があったのですが、その一週間後位に何の通告もなく、看板がはずされました。

 ながながと記しましたが、言いたいことは、自分の提起は正面から出し対立点を明確にしたことで決して間違っていないと言うことです。
 杉並での闘いの出発点はここにあります。自分たちが生み出し、区民にあらぬ幻想を与え、誤った方向へ導こうとした事をハッキリさせ、自己批判し、あらためての獲得に全力をあげ、同時に路線の転換を開始していかねばならないのです。
 Jは、典型的な商店主です。商店街では一匹オオカミ的な存在です。89年都議選勝利後から支持者として登場し、権力・カクマルからも都革新支持の看板を掲げ闘い抜いてくれた区民です。その意味では、非常に信頼する一人の区民です。しかし、何度となく前進を基に政治討論を行ってきましたが、獲得しきれなかったという現実があります。11月労働者集会への参加を話し合っても「労働者は駄目」との拒絶で一度として参加を実現したことがない人でもあります。選挙以外、党の方針を理解させることが出来なかった人でもあります。選挙という限定してきた時の共同闘争者として位置づけてきました。(こういう関係は、必ずしも全面否定はしませんが、軸ではありません)
 党が(TRXや選挙スローガンに表れる)Jの言うことを受け入れてきました。そういう意味では、積極的に持ち上げてきたとも言えます。
 今回ハツキリしたこと、突きつけられたことは。それでは、もう今後の問いはもう立ち行かないのです。党の建設とは、無縁であり、労働者党建設に敵対的になると言うことです。今回のように対立するようになるとハッキリします。党の思想と方針を捨て、小ブルジュアジーの立場に立つのかと言うことにあります。
 ましてや、Jのように、自の意見を押し通すために、党への圧力(脅しに)に支持の撤回をちらつかせるなど言語道断であり、これと対決しなければなりません。その上で獲得に全力をかけるべきなのです。
 その闘いの先頭に立つべき、党の議員が、あろうことかそれに屈服し、助長し、そればかりか、そのことを自らの行為の正当性のために使うという許し難い行為なのです。断じて許すわけには行きません。
 我々の向かおうとする闘いに、たとえ最良の闘いで支えてくれた区民でも反対の立場を明らかにする限り、関係が切断しても進んでいくのは当たり前のことです。私は自らの発言がJの行為を生み出したとしたならば、自分の正しさの証とします。

 二つには、Y・Uとの討論です。
 先の「報告と意見」で述べましたが、両人共、都革新会議の構成者でありましたが、宮崎擁護問題、星野救援会での仮釈放方針での党との対立・更に01年都議選敗北の総括から都革新を党と離れた政治団体としてつくることの論議で決裂した人達です。(自分も含め曖昧な対応をした結果と捉えています)それ以降、一切の政治行動から身を引き、工藤がF読者として維持してきました。
 9月下旬に両者、別々にADの説明が主で、区議選はけしばが出馬しない、新城は出ないと言っていることを現状を伝えました。両者ともADについては、不問で区議選については「なんとかならないか」との意見で終え、今後討論していけば、理解してくれるかもしれないとの感触でした。(特に、Uにはそのように受け取ったものです。)

 10月8日、Yとは、全く違った対応で討論になりました。
 中心的な主張は、何点かに絞られます。特にその後の、Jの他の区民への電話での話の中でそれは何人かの論議で一致して出されたものと判断せざるを得ません。
 一つは、一連のけしばの誤りの中身は、論議しないと言うこと。けしばの責任でなく内田がほじくり出したことに過ぎないと言う主張です。「誤りは、誰でもある。誤りは自己批判して正せばいい。」「今回のことは、事務所にいて、区民と接しない内田という者が、けしばを追い落とすため些細なことをほじくり出して問題にしている」とけしばを擁護する内容です。
 二つには、けしばに責任はないとすることで、議員の責任という区民への責任を持つ(公的にも)重要な責任の位置を否定し、党全体の責任にすり替えていき、けしばを擁護するという我々の議員・議会への位置を否定するものです。「本来、組織全体が責任をとらざるを得ないのに、トカゲのしっぼ切りでけしば、新城を切ろうとする、議員辞職にすぎない。区議を選んだのは、区民であり、区民の意見を無視するやり方は許せない」「なによりも、都革新の代表である長谷川さんが責任をとるべき」
 第三に、今回起こっている事態を党内権力闘争としていることです。
 何故、これらのことが、区民の中に流れているのか、党内の論議が歪められて、小ブル意識に乗っかり、党との対立として組織されていると考えます。Jが、或区民に「労働運動派の集会に行くな」と言っていることにもこのことを示しています。
 許せないことには、次の事がYの意見としてだされました。「清水・高木さん達を追い落とし、その声を押さえつけ中野・天田体制が反対派つぶし、反対派狩りを行っているにすぎない。デマでけしばはこれの的になっているだけ」「これは、革共同内部の権力闘争、区民は関係ない。」「こんりんざい、革共同との関係を絶つ」(Fをとっていただけですが)
 Uも「清水さん・高木さんはどうしているんですか」と聞いてきました。(いずれも、Jから聞いたとしているが、決してそれだけではないと判断します)けしばが「清水さん高木さんの自己批判書をを読んで立派な自己批判書で、これを読んで自己批判書を書くことが出来た」といっていたことを考えると一見、ADを理解した自己批判の立場に立ったと捉えるのですが、大きなペテンで誤りです。
 上記三名の言動と一致するではありませんか。ADの意義は、二重対峙・対Y戦を闘い抜き、党の政策、方針をはじめ一切を本来のあり方に立ち戻り、労働者党を建設していこうとするものです。
 ADを血の出るような闘いを進めてきていた労働者同志から学ぶのではなく、依然として権威にすがり、自らの誤りをスライドしていくもの以外ありません。現在、けしばが言っているのは、同志としての暖かみが全くない中で自己批判は出来ないと言っていると聞いています。何と甘えた考えなのでしょう。
 生きるか、死ぬかの対立に入っているものは、どちらかが打倒されなければならないし、それ以外は、党の腐敗を生み出すしかないのです。どうして党の革命的作風を生み出し党そのものを建設していくことが出来ましょう。再生の道は、この間の事を含め全面的に自己批判する事以外ありません。
 真剣な自己批判を要求するものです。

以上

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