三里塚闘争のプロレタリア的爆発にむけて

織田陽介[全学連委員長] 080311

(0)はじめに

 階級的労働運動路線への転換の中で、三里塚闘争の位置は、日本階級闘争にとって格段に上がったと考えています。むしろ、真の三里塚闘争論を、労働者階級の側から、革命的にうち立てることによって、労働者が本当に食えない、まさに革命情勢の中に置いて、三里塚闘争の真の位置づけを奪還する時であると考えています。
 先日の福士穣二さんの葬儀に出させていただいて、正直、彼の存在、精神、その人生のあまりの革命的なあり方に、本当に胸が熱くなり、涙が止まらなかった。人間として、共産主義者として、心の底からブルジョアジーの暴虐に怒り、一切の屈服を拒否し、団結を作りあげてきた。○○さんがそうした彼の存在を証明した。心底感動し、革命というもののあまりのすばらしさ、誇り高さを彼の生き様から感じ、魂を揺さぶれれました。それと同時に何としても三里塚闘争の革命的前進について、一切のあいまいさなく、自らも必死に責任をとることを決意しました。生意気なことを言うかも知れませんが、お許し下さい。そして率直な感想や反論などをいただきたいです。
 そして、何より三里塚現地の攻防の厳しさをどこまで分かっているのか、という点においては不十分さは否めず、申し訳ないと思っています。文章を書いていく中で、そういう点で至らないところもあるのではないかと思っています。しかし、青年労働者が体制内労働運動と激突し、学生が法大で激しくぶつかり合っているこの格闘と本質的に同じものであると確信し、遠慮することなく、率直に意見を述べたいと思います。現闘のみなさんのぶっ立ちに心からの敬意と、信頼をおいて、書きたいと思います。
※また、この手紙については、同盟に見せても私は構いませんが、本質的にそんなことが問題になっているのではないと考えます。「誰々がこう言っているからこうだ」ではなく、本当に現闘のメンバーが真に一致し、自らの言葉で必死に獲得しに来ることをこそ、同盟の仲間は待っているからです。

(1)

 三里塚現闘の団結を革命的にうち立てましょう。その環は、何より、全員が革命的労働者党の立場に立ちきるということです。本当にここに立ちきったとき、共産主義者としてのエネルギーに満ちあふれる現闘が生まれると確信しています。それこそ同盟を根底的に獲得し、革命への確信と信頼関係を前進させると確信します。

(2)

 問題の本質は何か。つまり金丸[解任された三里塚現闘責任者]体制の根本的な批判、打倒とはどういうことなのか。  労農同盟論が豊かに論じられ始めています。この地平は決定的です。しかし、私が訴えたいことは、今論じられている労農同盟論は、農民解放闘争の側から語られた労農同盟論であるということです。ここにおいて、多くの限界性があります。三里塚現闘は、農民解放の立場ではなく、労働者階級の自己解放闘争の立場への移行、つまり、自らをまず革命的労働者党の党員として、ぶっ立たせることが必要ではないでしょうか。三里塚現闘は、農民党の党員ではありません。そうではなく、農民の革命的な闘いに、その魂に心底感動し獲得された、革命的労働者党員であるということです。  よって、三里塚現闘に求められているのは、農民の利害にたって闘うことではなく、労働者階級の利害にたって、革命的立場に立とうと必死になっている同盟とともに、時には対決し、団結を形成していくことです。ここに、この間問題となっている「3・16か3・30か」「三里塚闘争が位置付いていないのではないか」ということの本質があります。  われわれは共産主義者です。よって、プロ独論者です。農民との関係において、真のプロ独論者かどうかが問われます。厳しい関係に入った今だからこそ、革命的農民との関係を、人間として絶対にごまかすことなく、真っ正面からぶつかり、勝負するときです。そして、その核心は、農民の利害に立つのではなく、労働者階級の立場に現闘が立ちきることです。革命的農民を獲得できるのは、農民党ではない。革命的労働者党だけが、彼らを獲得できるのです。そうでなければ、プロ独など絶対に実現しない。

(3)三里塚闘争とは何なのか。

 三里塚闘争とは何かを、農民解放闘争として語るのではなく、労働者自己解放闘争として、語らなければならない。農民の闘争への労働者の合流ではなく、労働者の取り組むべき課題そのものなのです。その点については、前進の論文で、少しだけですが展開したつもりです。
 労働者とは、資本主義社会にまで前進した人類史において、無限の力をつくり出した人間の力(早く走ろうと思えば車に乗り、飛ぼうと思えば飛行機を使い、携帯電話で地球の裏側まで届く大声を出すことも出来る!)と、しかし、すべて労働者が団結を破壊され、分断され、支配されることによって、その力をすべて資本家に奪われ、この無限の力が金を媒介にして発現される資本主義社会においては、金が神の如く登場し、労働者の生活は、動物のように自らとその家族のことしか考えられない(人間の類的本質からの疎外)。この両方の資本主義的本質を一手に引き受けているのが労働者階級であり、つまり、労働者が資本との闘いの中で、真にブルジョア的な人間関係から解放され、団結を取り戻していく闘いの中に労働者の無限の力が引き出される道があるのだと言うことです。支配の根幹は団結破壊であり、労働者階級はこの団結破壊に最も怒りを燃やして立ち上がらなければならない。こうした階級関係の中に、成田空港建設という巨大な攻撃があるのです。
 そして労働者は団結できる存在です。団結をした瞬間に勝利している。相模原鉄道の非正規職の正規職化の勝利は、何より、正規・非正規は団結破壊の攻撃としてその本質があるということを明らかにし、そして、その分断をうち破って、「正規職化」を掲げて正規職労働者がストを構えた時点で、その分断は打ち破られている。あとは資本が認めるのかどうかという後から着いてくる問題になる。労働者は団結し、その団結を資本に暴力的に強制していく。これこそ共産主義革命の本質なのです。だから、成田空港を粉砕する主体が誰なのかが問題なのです。塩川一派のように、武装蜂起をかかげ、しかしその主体を全く語れない、彼らは偽物のマルクス主義なのです。主体は、団結した労働者です。成田空港によって、農民と分断され、FTAや戦争によってアジアと日本の労働者・農民とに分断されている労働者階級なのです。労働者階級がまさに11月集会で築き上げた団結をもって、成田空港を暴力的に粉砕することに、革命的な意味があるのです。主体のはっきりしない人民蜂起としての空港廃港には、プロレタリア的な意味がないのです。
 農民の生活破壊に対して、労働者は本当に腹の底から怒りに燃えて立ち上がります。この暴虐に怒り、労働者として反応し、国家権力に対して闘いたいと心の底から感じるはずです。そして、重要なのは、実はこの三里塚の現実をぶち破る力は、労働者の中にあるのだ、という、つまり青年労働者に対して「あなたこそ三里塚の現実を覆す革命的主体だ」と言い切ることこそが求められているのです。この許しがたい現実を粉砕する力が、自らの職場で仲間をつくる中にこそあると確信した労働者が、どれだけの力を発揮するでしょうか。考えただけでもわくわくしませんか。青年労働者の闘いは本当に苦闘の連続です。労働運動の経験だってない。資本とともに体制内労働運動が激烈に襲いかかり、何度も仲間との団結を破壊され、今までのブルジョア的なものを引きずった人間関係を破壊され、悔しがり、何度も立ち上がりながら、さらに強固な団結をつくり、プロレタリア的な、真の人間関係に限りなく近づいていく。苦しいことも本当にたくさんあり、しかし団結した時、仲間との壁がぶち壊されたときの解放感、感動、そしてますます力が沸いてくる、これが共産主義そのものだと実感して未来を感じる、そういう闘いなのです。
 私が訴えたいことは、青年労働者が格闘しているこの闘いは、三里塚闘争なのだと言うことです。現地で厳しい攻防に入っていることはよく分かります。しかし、「階級的労働運動路線になってから三里塚闘争が位置付いていない」「みんな労働運動をやっていて、三里塚をやらない」「三里塚はこんなに厳しい状況なのに、共有できない」ということは全く間違っていると言うことです。むしろ、三里塚闘争は、もはや革命以外にますます解決がなくなっている状況、そしてその時代がついに来ているという本質的規定にあって、つまり労働者が職場から団結する度合いにこそ三里塚闘争の革命的前進があるのだと言うことです。三里塚闘争は、青年の毎日の苦闘こそが三里塚闘争そのものなのだと位置づけることが出来ます。職場闘争に決起する青年がひとり増えるたびに、三里塚闘争は拡大し、三里塚闘争は無限の闘いとなっていきます。現闘のみなさんが日々必死になっている苦労は、無限に共有され、無限に位置づけられる、本当に無駄なことなど一つもない、前進のための苦闘なのです。
 農民解放闘争としての三里塚闘争論は、理論として、農民の解放まで語ることのできない、「生きられなくなった農民」で終わってしまうものになっています。革命的主体としての労働者階級に依拠して初めて、三里塚闘争の勝利の展望を語ることができるのです。
 □□さんの「ここまで労農同盟論をだしているのになかなか結集が増えない」という思いも分かります。しかし、問題は、そうではないのです。三里塚闘争は、青年労働者が職場闘争を徹底的に闘う、革命的エネルギーとなって今、圧倒的な獲得力を生み出しているのです。こうした階級闘争の一体性を語り、三里塚闘争を真に位置づけ、無限の力となっていることを明らかにすることは、党にしか出来ません。党を通じて初めて可能になるものです。

(4)

3・30三里塚は青年労働者の春闘だという規定はそういう意味ではっきりさせたいのです。労働者の側にたち切って、労働者の真っ正面から取り組むべき課題、労働運動の課題として三里塚闘争を語らなければなりません。
 労働者階級にとって、三里塚闘争の総括軸は、団結の強化拡大です。労働者は、職場から資本の違い、産別の違い、地域の違い、国境すら越えて団結していく。隣の仲間との団結から闘いが始まる。共産党宣言の通りです。労働者は、経済闘争だけでなく、政治闘争で政治的に政府や国家権力に対しての団結も形成し、理論闘争を通して団結する。三里塚闘争は、その労働者の団結強化・拡大の運動の最高の武器なのです。
 「市東さんの農地を守ろう」というスローガンは、まさに絶対反対スローガンです。労働者にとっては、解雇阻止闘争だと思います。解雇をされたら終わりの闘いでは断じてない。総括軸は「農地を守れたかどうか」ではないと言うことです。解雇撤回闘争も解雇撤回が総括軸ではないのと同じです。解雇は、資本や国家権力にとって一番痛い闘いをやりぬいた労働者にかけられる見せしめであり、解雇された労働者と同じ、もっとも敵の痛い攻撃をやりぬく労働者をさらにつくる闘いです。▽▽さんの闘いが、さらに不起立を拡大する闘いであるのと全く同じです。ここに労働者の革命性があるのです、
 つまり、個人(つまりバラバラにされたブルジョア的な個人)の利害、一職場の利害、一闘争の利害を超えて闘えるのが労働者であり、ここに労働者の革命性があるのだと言うことです。それ以外に労働者は団結できない。個人の利害は闘争を破壊し、一職場の利害は、資本の他の資本に対する競争に服従するからです。三里塚闘争が、本当にそうした三里塚闘争の利害を超えた闘争にならなければならない。「農地を守れたかどうか」を総括軸にしている以上は、団結を組織していくことは出来ないと言うことです。一切を革命へ向けた団結の前進かどうかで総括する以外に、つまり革命以外に勝利はないと言い切る以外に、団結することは出来ないのです。
 よって、市東さんの農地を守れという運動の総括軸は、国家権力が最も痛い闘い、つまり空港絶対反対で営農し続ける市東さんの存在と闘いを無限に拡大することにことあります。もうひとりの市東さんを無数につくることなのです。同盟内のひとりひとりが市東さんとともに腹を固め、市東さんのように闘う労働者、農民を膨大に生み出していく。市東さんの闘いを無限に拡大する闘いです。
 反対同盟の団結を守ることが、空港廃港の勝利の道です。そして労働運動の高揚をつくり出さない限り勝利はない。何としても、三里塚闘争の中から、労働運動の高揚と、反対同盟の団結の強化・拡大を総括軸に、運動の爆発をつくっていかなければならない。市東さんの農地を守る道はそこにしかない。三里塚は日本階級闘争がつくり出した、砦です,ここを絶対に革命の拠点に仕切らなければならない。しかし同時に、市東さんの農地を守れるかどうかが総括軸ではないのです。
 教育基本法改悪阻止闘争で塩川一派との論争でここが焦点になった。教基法が改悪されるかどうかを総括軸にする塩川一派は、「全学連を国会つっこませろ」「その衝撃で教育労働者の決起をつくる」と、「何をなすべきか」の中のテロル的な敗北主義に陥った。しかし、今▽▽さんの闘いではっきりしたことは、あの国会闘争で生み出された団結、とりわけ教育労働者の団結が、北教組や沖高教組、不起立で闘う教育労働者を生み出し、共産党の妨害にも屈することなく、ついに▽▽さんの存在を生み出した。▽▽さんはたとえ解雇されても、教労における1047名闘争の開始です。国鉄分割民営化を粉砕するまで続く解雇撤回闘争とおなじように、教基法改悪を撤回させるまで続く労働者の闘いです。国会闘争で当時問われたことは、そういう労働者の力を心底信じ切り、闘う立場です。そういう意味で「教育基本法改悪絶対反対」は改悪されても掲げ続けるべき絶対反対スローガンなのです。
 そういう立場で俺鉄3の館山・木更津闘争のところを読んでほしいと思います。

(5)

これは同盟に絶対に理解されると思います。ここで本当に主体を信じ切れるかどうかがわれわれのマルクス主義の核心です。  そのためには、党は、一闘争の情勢だけでなく、常にあらゆる産別の動向を語らなければなりません。田中委員長が動労千葉でやっていることです。法政大学でも、大学闘争の中に学生を閉じこめる傾向、つまりサークル闘争になると大学内の問題や情勢しか語らない傾向が、運動の前進を決定的に阻害している現実があり、全力で突破してきました。法政大学では、当局に屈服した団体本部によるサークル団体の解散方針に対し、全サークル員がついに決起し(3・14弾圧から2年。「学生を信じて闘いぬいてきて良かった」というメンバーの声)、こうした攻撃を粉砕した。最先頭に立ったわれわれが「ロマンチスト」とまで言われている。重要なのは、この闘いが単なる大学闘争ではなく、革命的闘争であることを明らかに出来るのは党だけだと言うことです。つまり、こうした怒りの噴出、爆発は、法大内でのみ起こっていることではないということ。実は全国、全世界の労働者や学生が、ストライキの一発でもたたきつけてやりたいと心底思っているし、そういう闘いが始まっていると言うことです。みんな怒っている。これが革命情勢なのです。▽▽さんの闘いから日教組30万がひっくり返る状況に入った。この事実をサークル団体の中に持ち込むだけでも全然違う。学生の中に、当局と非和解で、徹底的に原則的に闘う力が生まれるのです。当局と非和解で闘えば、攻撃は本当に激しくなる。しかし、当局と和解し、譲歩し、当局の攻撃の弱まりを期待することほどくだらないものはありません。学生の誇りがますます奪われる。当局の顔色を見てやる運動など体制内運動そのものです。世界が革命情勢であり、自らの怒りがその一部であり、自らの闘いはどんなに小さくても革命的闘いであることを確信することなしに、一大学闘争も一歩も前進しない状況に入ったのです。  三里塚闘争は本質的にそうやって闘われてきたと思います。だからこそ党がその目的意識性を発揮し、あらゆる産別の動向を語り、三里塚闘争を世界革命の一部として位置づけきり、現地で原則を貫いて闘いぬく力を生み出すために一生懸命にならなければならない。一闘争の指導部では勝利できない。階級の指導部、革命家でなければ一闘争も勝利できない時代だと言うことです。

(6)三里塚闘争の勝利性は、日本労働者階級の闘争の歴史

 労働者党として、われわれは、反対同盟農民の闘いの歴史としてのみ三里塚闘争を描いてはならないと考えます。何より、労働者階級の立場に立ちきり、三里塚闘争を総括することです。そこには命をかけて三里塚闘争に決起した革命的な労働者の姿があるのです。動労千葉の闘いは、組合員の闘いだけではない。日本の労働者、そしてその最高の歴史的産物・団結体としての党が懸命になって闘いぬいてきた勝利の結晶です。三里塚闘争も全く同じです。日本労働者階級の勝利の地平なのです。日本の労働者階級はものすごい地平を切り開いてきたのです。青年労働者にこう訴えようとすればするほど、いかに三里塚闘争の勝利が決定的であるのかが鮮明になるはずです。単に農民が屈せずに闘ってきた闘いだけでは終わらない。その中で動労千葉が生まれ、40名の解雇を出しながら新自由主義攻撃をぶち破り、アメリカ・イギリスの新自由主義で滅茶苦茶にされた労働運動が、今新たな指導部を建設し、動労千葉から学ぼうとしている、世界の階級闘争のマルクス主義的な復権に転化しようとしている。そうした力によって成田空港をボロボロの姿にまで追い込み、完全に勝利してきている。青年労働者は、そういう意味で、三里塚の地に立ってこそ、勝利できる。食うことすら出来ない、真に革命的主体としての青年労働者こそ、この日本階級闘争の勝利の地平に立つべきなのです。
 そういう意味では、今回の三里塚論文の立場は未だ、農民の立場で書かれたものと言わざるを得ません。「反対同盟と三里塚勢力は、これを打ち返し、決定的な勝利をもぎ取ってきた」「強固な陣形が形成された」という文章の「三里塚勢力」「陣形」という言葉が、市民運動と労働運動を並列にとらえ、いっしょくたにしてしまうあいまいな傾向を如実に示しています。しかし、われわれは労働者党であり、労働者を主語に三里塚を語らなければならないのです。「全国農民総反乱」という立場ではなく、労働者は三里塚闘争で団結しようという立場でなければならないのです。
 市東さんの闘いの総括軸は、そういう点からいって、何より彼がNCに加盟することではないかと考えています。党という階級闘争の産物としての最高の団結形態に結実することこそが、日本階級闘争の、三里塚闘争の真の勝利ではないかと考えるからです。

(7)

よって、三里塚現闘は、労働者階級の立場に曖昧さなく立ちきって、同盟農民と勝負しなければならないと思います。厳しいときほど、自然発生性に拝跪する弱さが生まれます。しかし、断固として目的意識性に立ちきらない限り、絶対に突破はないのです。それは、3・30とともに3・16の旗を高く掲げる闘いであり、三里塚3000→11月1万なのか、11月1万→三里塚3000なのかをはっきりさせる闘いです。断固としてわれわれは、11月1万→三里塚3000です。三里塚闘争で労働者のさらなる団結を固めながら、なんとしても11月1万を実現するのです。なぜなら、三里塚闘争は「何人集まったから勝てる」闘いではもはやないからです。成田空港を実力でぶっとめる労働者の闘いなしには勝利できない。労働者という存在を、生産点を握る、「武器を取る」革命的存在としてはっきりさせる。数の優位性にのみ労働者の革命性を切り縮める傾向は、勝利の展望を語ることが出来ないからです。  プロ独思想を貫徹する闘いは簡単ではない。しかし、労働者の立場に立ちきってこそ、それ以外に同盟農民を獲得することは出来ません。前進の一面をめぐる話の本質もそこにあります。□□さんから見れば、われわれが農民解放闘争の立場に引き戻されるほどに、「体制はかわったけど言うことはかわらない」としか取られない。必ず彼らは理解します。そしてそういう突き抜けをしたときに、いままで以上に解放的に闘いに立ち上がります。  その力は、現闘がプロレタリア性に溢れ、一致団結することです。曖昧さなく討論し、全員が確信溢れて労働者党員として登場することが、必ず同盟農民を獲得する力です。だから、現闘の団結が一切です。それ以外に依拠する力はありません。「正しい理論に転換すれば獲得される」ようなものではありません。本当に確信溢れる、活力みなぎる現闘になったときに、そのエネルギーは絶対に伝わるものです。

(8)

これから3・16→3・30の闘いがあります。ワーカーズアクションでどんな発言をするのかと言うことについては、この際総括軸ではありません。現闘の中で徹底的に議論し、同盟農民と真正面から向き合い対決し、プロレタリア党の下に結集していく運動こそが総括軸であると考えます。3・16→3・30は、党が団結する最大のチャンスです。現闘が団結し、階級的労働運動路線の下で真に党が一つになるチャンスです。  この闘いを現闘の責任にしてしまうわけには行きません。全党が一致している転換なのだということを同盟農民にもはっきりさせ、党が本当に責任をとる立場に立たなければなりません。私もそういう立場でともに闘います。

(9)

そうなったときに、3・30での塩川一派との曖昧さない対決をつくり出す力も必ず生まれてきます。私も全力でともに闘います。

(10)その上でワーカーズアクションでの発言について。

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