脱革共同を宣言した綱領草案
――帝国主義権力打倒なき、闘わない団結革命論

2009年8月

目次
(1)現実の階級闘争への敵対を強める革共同
(2)綱領草案は革共同史を蹂躙する一大組織犯罪
(3)カクマル黒田にならってレーニンを否定しマルクスを歪める
(4)反マルクス・反マルクス主義の極地
  ●帝国主義打倒戦略と7・7自己批判を追放した団結論
  ●労働者階級の革命的本領への嫌悪と恐怖
  ●革共同を動労千葉の従属物に解消
(5)06年3・14Uが生み出した綱領草案

(1)現実の階級闘争への敵対を強める革共同

 革共同が「新綱領」を策定するという。
 経過的には、5月に開かれた革共同中央労働者組織委員会・全国会議で「綱領草案」が提案され、確認された(第一次綱領草案とする)。第一次綱領草案と軌を一にするものが、坂本千秋論文(『前進』第2389号、春季特別号論文)である。同全国会議の第1報告である松丘静司論文(『共産主義者第161号』)も、それらと同内容の観点に立つものである。
 その後、その修正版として7月に、主に清水丈夫氏が執筆し、政治局決定された「第二次草案」が出された。第二次草案は、7月末から8月初めにかけて開かれた中央および地方の革共同政治集会で発表され、配布された。『前進』2402号の無署名論文(夏季特別号論文)は、11月方針のための論文であるが、第二次草案の「解説」という位置にもある。中野洋氏、天田三紀夫氏、清水丈夫氏ら政治局は、第二次草案の方を「新綱領」として決定する方針のようである。
 二つの草案は、字句上および構成上のかなりはっきりしたちがいはあるが、基本的なコンセプトはまったく同じである。革共同の内部での自由な論議も抑圧したまま、早々と9月にも決定に持ち込むとのことである。
 仮にも「綱領草案」とか「新綱領」と呼ぶものについての決定を、なぜそんなにも急ぐのかには、わけがある。
 結論を先に言っておこう。脱革共同と敵前逃亡の宣言――それが革共同綱領草案の狙いである。
 綱領草案なるものは、共産主義社会をめざす共産主義者らしい志の高さも、理論的・思想的な深さ、豊かさのかけらもなく、およそ革命党の綱領とは言えないものである。諸外国の闘う人々に示しても恥をかくだけのものでしかない。なぜなら、それは、綱領とはまったく異質の、醜悪な政治主義的な狙いから発しただけの文書だからである。

 綱領草案の具体的な狙いはどこにあるのか。それを最初にみておこう。

(a)現下の最大の問題は、革共同が三里塚反対同盟に対する破壊・分裂を策動していることである。革共同は、08年3月に、中野洋氏の意向として、全学連委員長・織田陽介名で三里塚現闘への指導文書「三里塚闘争のプロレタリア的爆発にむけて」を出したのであった。それは革共同の三里塚反対同盟との血盟をもはやなしにするという、中野氏の本音そのものであり、撤回などされておらず、今も生きている。綱領草案は、その織田文書の狙い――革共同の三里塚反対同盟との血盟を解消、農地死守を貫く反戦の砦としての三里塚闘争の意義を全否定、三里塚反対同盟への分裂策動と三里塚農民に対するセクト的政治利用主義、農民解放闘争としての発展の抑圧、労農連帯を清算、広範な三里塚闘争陣形の解体――をいよいよ強引かつ具体的に進めるということである。

(b)恒常的で具体的なイラク・アフガニスタン侵略戦争阻止の闘い、対北朝鮮排外主義と対決して米・日帝国主義の北朝鮮侵略戦争と朝鮮半島への植民地主義的侵略を阻止する闘い、そして憲法改悪を粉砕する闘いを、革共同はことごとく放棄した。それらの大衆運動陣形をなしてきた百万人署名運動を組織的に解体・破壊した。改憲阻止の運動体に対して、「4者4団体派である」などと根も葉もないデマをふりまいて、敵視した。革共同が、一切の政治闘争からの逃亡を決め込んだことは、革共同ではなくなったことの最も明確な証左であり、そのギャップはあまりに激しい。綱領草案は、もはやあいまいなごまかしでは通用しなくなり、誤解の余地がない政治闘争反対論を打ち出したのである。それは、後述するように徹底したものだ。

(c)革共同は、「動労千葉特化路線」「体制内労働運動粉砕」と称して、革共同の本来的な戦闘的労働運動の路線をすっかり破棄してしまい、さまざまなところで現実の労働者の決起や組織化に敵対するにいたっている。とくに国労5・27臨大弾圧粉砕の裁判闘争において被告団長解任、弁護団全員解任、権力に降伏する分離裁判路線に走った。そしてそのことで国労をめぐる闘いを切り捨て、国鉄1047名闘争への妨害者となった。厖大な数にのぼる被解雇者、失業労働者、非正規労働者、部落民労働者、外国人労働者については一顧だにしない集団になりさがった。綱領草案は、浮き彫りになった〈労働運動の破壊者=革共同〉の姿を党内外に押し隠し、合理化するためのものである。

(d)革共同は、70年以来、7・7自己批判の立場=血債論を、党の反帝国主義・反スターリン主義の綱領的立脚点に内在化させ、帝国主義によるあらゆる民族抑圧と社会的差別に対する闘いを推し進めんとしてきた。そのことを「血債主義粉砕」「民族問題や差別問題に階級性を強制・刻印せよ」の名をもって全面的に清算したのが07年7月テーゼ(「階級的労働運動路線のもと7・7思想の革命的再確立を」清水丈夫氏メモ)である。07年の広島での部落差別事件を開き直る革共同は、部落解放同盟全国連合会が対革共同の広島差別事件糾弾闘争を強め、支援を広げていることに対して、恐怖にかられている。綱領草案は、ぼろぼろになりながらも、おのれの反階級的な部落差別、排外主義・差別主義・権威主義を正当化しようと躍起である。

(e)帝国主義国家権力打倒・政治権力奪取にむけての政治闘争の一環として革命的議会主義の戦術は、革命党とプロレタリア階級闘争の必須の闘いである。06年から07年にかけて、革共同は東京・杉並において営々と積み重ねてきた革命議会主義の地平とその共同闘争陣形、地域住民運動の成果をことごとく破壊せんとして、大失敗した。綱領草案から「革命的議会主義」の言葉すらすべて追放することで、革共同はもはや革命をやる党ではないことをはっきりさせたということである。

(f)革共同は、06年3月14日の過程以後、現在まで3年におよぶ中野洋氏独裁体制を敷いてきている。その革共同は、党創成以来の、66年第三回大会と67年10・8羽田闘争以来の、対カクマル戦争と革命的武装闘争突入以来の、中核派の中核派たるゆえんのもの一切を投げ捨てることを明確にさせなければ、実際にはやっていけない。ただただ中野独裁体制を賛美し、党内反対派に踏み絵を踏ませて忠誠を誓わせ、「動労千葉特化路線」を合理化し、かつ動労千葉支援団体に革共同を解消することこそ、綱領草案の最重要の狙いであり、本質である。そのために、綱領草案はレーニン主義組織論を全面否定したのである。
 現在の革共同が日本階級闘争の中で果たしている役割は、きわめて悪質であり、すでにかつての革共同からは堕落しきっている。その党的現実を合理化することこそが、今回の綱領草案の狙いなのである。

 以上のような醜悪な狙いにもとづいて作成された革共同綱領草案は、あらゆる意味で革命党の綱領ではさらさらない。
 すなわち、綱領草案なるものは、現実の階級闘争に敵対するその狙いからしても、また策定の組織的経緯から見ても、中野綱領――清水流粉飾をこらした中野綱領――と呼ぶにふさわしい。多少とも新しいもの、クリエイティブなものは何もない。新しいことは、中野氏、天田氏、清水氏ら政治局とそれに忠誠を示す革共同の党員たちが、ここに新しい階級的大罪をつけ加えたことである。

(2)綱領草案は革共同史を蹂躙する一大組織犯罪

 綱領草案は、その醜悪な狙いに対応して、内容そのものがお粗末きわまるものとなっているばかりか、きわめて犯罪的なものである。次に、その特徴を見ておこう。

 第一に、革共同綱領草案は、21世紀現代の矛盾と危機の逆巻く具体的現実に対する言及らしい言及がまるでない。戦略的打倒対象であるはずのアメリカおよび日本を始めとする帝国主義に対する帝国主義論的批判もなく、スターリン主義崩壊以後の世界、とくに流動化し激変する中国(その国家、社会、労働者人民、民族)についてのマルクス主義的な何らの解明=規定もなく、また全世界の労働者階級=人民大衆、被抑圧民族が切実に求めるさまざまな課題との格闘も、何もない。ムスリム人民による01年9・11反米ゲリラ戦が突き出した世界史的情勢――9・11情勢――についての時代認識がないということは、まったく問題外である。これに関連して、綱領草案は、帝国主義的抑圧民族と被抑圧民族とへの世界の分裂という現実を塗り隠し、民族問題をすべて階級問題に解消したのである。
 こうした意味で、第9条改悪を軸とする憲法改悪攻撃について、一言もなく、憲法改悪につながるあらゆる問題を切り捨てていることは、綱領草案が闘わない死文・空文でしかないことを端的に象徴している。
 また、現実に新たな農地強奪攻撃がかけられ、それに対して農地死守を貫いて闘う三里塚反対同盟農民がいるのに、そして、彼らの必死の闘いに党がどう接近・肉迫し、何をなすべきなのかが、今もなお問われ続けているのに、この問題に何の言及もない。このことは、綱領草案のセクト的政治利用主義を示すものである。三里塚農民との実体的関係を抜きに語られる「労農同盟論」など、まやかしである。帝国主義の支配下で苦しむ農民への党および労働者階級の自己犠牲的な援助を戦略的・路線的に位置づけない似非「労農同盟」など、労農同盟の闘いを破壊するだけである。
 労働運動についても、抑圧・差別との闘いについても、綱領草案がそれらを破壊するものである点は、すべて同じである。

 第二に、おまけに、59年に革命的共産主義者同盟・全国委員会を結成して以来の革共同の総括およびここ半世紀にわたる国際階級闘争・日本階級闘争の総括がすっぽりと抜け落ちている。ということは何か。
 一つはっきりしていることは、綱領草案は、06年以前までの革共同の戦略的総路線をすべて捨て去るためのものだということである。現革共同は、「反帝国主義・反スターリン主義世界革命をかちとれ」「闘うアジア人民と連帯し、日本帝国主義のアジア侵略を内乱に転化せよ」「米軍基地撤去=沖縄奪還、安保粉砕・日本帝国主義打倒」「憲法改悪粉砕=戦争国家化阻止・日本帝国主義打倒」という、血と汗でつくりあげてきた戦略的総路線、ここに内在化させてきた7・7自己批判=血債論を放棄するというのである。そして、それに代えて「戦争・改憲と民営化・労働組合破壊を粉砕せよ」という政治カンパニアスローガンでお茶を濁そうというのである。
 いま一つはっきりしていることは、革共同が本多延嘉書記長を先頭とする党、すなわち反スターリン主義の党であったこと、本多書記長虐殺の75年3・14反革命と武装し死力を尽くして闘った党であったこと、黒田寛一・松崎明らカクマルが反帝国主義・反スターリン主義を容帝国主義・反共主義に歪めることと主体的=意識的に思想的に対決して現代におけるマルクス主義・レーニン主義を創造的に鍛え上げようとした党であったことが、まったく消し去られていることである。そのことは、きわめて重大な組織的犯罪でなくて何であろうか。
 だが、革共同は、なぜ、どういう総括で、いかなる論理で、革共同を革共同たらしめてきた戦略的総路線を破棄したのか。なぜ、反スターリン主義運動の反革命疎外物である黒田カクマルとの対決、その粉砕を自らに課していないのか。そのことへの明確な言及なしに、なし崩しに「綱領的立脚点」「戦略的総路線」「内戦戦略」を変えるようなものは、それだけで党の綱領に値しない。

(3)カクマル黒田にならってレーニンを否定しマルクスを歪める

 革共同綱領草案は、その醜悪な狙いとその組織的犯罪性を押し隠すために、非常に手の込んだ最悪の詐欺的手法を使っている。

 第二次草案をベースにして、まず、構成上のトリックをみておこう。  第二次草案は、13の節(4章立て)から成っている。大づかみにその中身をみておこう。  第1節は、「労働者階級自己解放」と言う。  第2節は、「真のマルクス主義を奪い返す」と言う。  第3節は、「プロレタリアートは自らを独自の政党に組織する」と言う。ここまでが第1章「わが党の目的」である。  第4節は、「大恐慌をプロレタリア革命に転化する」と言う。  第5節は、以上のすべての「一切のかぎが、労働者が分断を打ち破って団結することだ」と言う。この二つの節が第2章「革命情勢の成熟」である。  第6節は、「暴力革命」や「プロレタリアート独裁樹立」について言う。  第7節は、「党を労働者階級の外部あるいは上に位置づけるのはスターリン主義である」と言う。  第8節は、前節を受けて、「労働組合が最も重要だ」と言う。そして、「職場生産点の支配を全社会的に拡大することがプロレタリア革命だ」と言う。この三つの節が第3章「革命の核心問題」である。  第9節は、「労働組合と労働運動をめぐる革命と反革命の激突が最大の焦点だ」と言う。これ以下の五つの節が第4章「21世紀革命の課題」となる。  第10節は、「プロレタリアートの階級的団結が帝国主義の戦争を阻止する」と言う。  第11節は、「労農同盟は巨大な意義がある」と言う。  第12節は、「労働者支配の危機、安保・沖縄問題の矛盾、朝鮮半島問題、中国問題、アメリカ労働者階級の問題」について言う。  第13節は、『共産党宣言』の末尾の言葉を引用する。  こうした構成をとっている第二次綱領草案の構成上のポイントは、どこにあるのか。それは、第5節と第7節と第8節である。そこに革共同新綱領策定の本音がある。
 その三つの節は、後述するように、帝国主義権力打倒なき、観念的な、闘わない団結革命論(第5節)と、レーニン主義的な革命党と革命党建設論の全否定(第7節)と、狭い企業内組合主義・本工主義・経済主義(第8節)であり、その中身が、他の節全体に規制をかけ、枠はめをする構造になっている。つまり、「あれやこれやの『革命的』言辞をのたまわったりするけれど、誤解するな、それらはすべて三つの節の枠をはみ出るものであってはならない」と、党内に恫喝を加えているのである。

 つぎに、内容上のトリックを一つ指摘しておこう。  革共同は、帝国主義権力打倒なき、観念的な、闘わない団結革命論として綱領草案を貫くために、当然にも、労働者階級自己解放の思想や暴力革命論や革命党建設論などをことごとく歪めに歪めている。どう歪めているかと言うと、第7節に端的なように、レーニンとレーニン主義を100%否定することを、マルクスおよびマルクス主義の名でやっているのである。
 実際、非常に際立ったことであるが、二つの綱領草案には「レーニン」「レーニン主義」という言葉が全然ない。
 レーニンを先頭とするボルシェビキと彼らによって指導され牽引された1917年ロシア革命が、マルクスの時代の世界革命運動を圧倒的に継承しつつ、一つブレークスルーしたのは、帝国主義論、国家・革命論(ソビエト論・プロレタリアート独裁論)、民族・植民地問題論、農民・農業問題論、前衛党組織論、コミンテルン論であり、それを全面的に実践した闘いであった。革共同綱領草案は、そのレーニン主義の世界史的地平を何としても否定し破壊しようとしている。
 それをよく示す部分を引用する。

「プロレタリア革命とは、労働者階級がこの団結の力で資本家階級の支配を打ち倒し、搾取階級の存在そのものを一掃し、資本家階級の私有財産とされてきた社会的生産手段のすべてを団結した労働者のもとに奪い返し、自らの手で全社会を再組織することにほかならない。」(第一次草案第6節) 「プロレタリア革命とは、労働者階級がその団結の力で資本家階級(ブルジョアジー)の支配を打ち倒し、ブルジョア国家権力を粉砕してプロレタリア独裁を樹立し、資本家階級の私有財産とされてきた社会的生産手段のすべてを団結した労働者のもとに奪い返して、自らの手で全社会を再組織することにほかならない。」(第二次草案第1節)

 下線部分を見比べてほしい。
 第一次草案は、レーニンの国家・革命論(ソビエト論・プロレタリアート独裁論)を肉体的・思想的に嫌う中野氏の本音をあからさまに書いた。だから、帝国主義国家権力粉砕もプロレタリアート独裁も消し去られている。それはあまりに露骨だと慌てた清水氏が、上記部分を書き直して第二次草案を作ったのである(同じような書き直し箇所が実に多い)。だから、上書きされた「ブルジョア国家権力粉砕」も「プロレタリア独裁樹立」も、真の狙いを隠す煙幕でしかない。
 革共同における草案作りとは、一事が万事、この調子である。だから、どこに本音があるかを見破ればいいのである。
 いずれにせよ、彼らは、レーニンおよびレーニン主義を排撃するのに、よりによってマルクスとマルクス主義を持ち出している。だから当たり前だが、それは歪められ、蹂躙された、マルクス主義ならぬ似非マルクス主義でしかない。まさに、彼らは、マルクス・エンゲルスらとその時代の世界革命運動を冒涜してはばからないのである。
 それにしても、マルクスをもってレーニンを排撃するのは、カクマル黒田寛一のおぞましい反革命心情と思想、その手法とまったく同じである。つまり、革共同綱領草案のペテン的なマルクス主義解釈は、黒田カクマルのそれに似通っている。「団結革命論」そのものが、黒田が元祖の一人だったことは周知の事実である。
 第二次草案の中心的な執筆者である清水氏は、かつて黒田寛一に身も心も帰依していた時期(60年のブント崩壊後に革共同に遅れて入党してから63年の革共同第三次分裂までの時期)のおのれに舞い戻っている。いや、黒田主義者に特化していた時期のおのれを克服できないまま今日まで黒田コンプレックスを引きずってきたのが、清水氏であると言うべきなのであろう。みよ。第二次草案には、「レーニン」「レーニン主義」という言葉がどこにもないだけではない。「カクマル」「本多延嘉書記長を虐殺した75年3・14反革命」「対カクマルの内戦」という言葉が何にもないではないか。
 要するに、綱領草案は、すでに固定化されている脱革共同を、改めて内外に宣言するという意味をもたされたものである。
 そのような革共同綱領草案なるものを議論している(実際にはどのような自由な議論も封殺されている)革共同なる集団は、すでに革共同ではありえない。革共同ならざる革共同は、存在することが世界と日本の階級闘争に害毒である。革共同は解体されなければならない。

(4)反マルクス・反マルクス主義の極地

 革共同綱領草案は、言葉上は似非マルクス主義の装いをとりつくろっているが、それを剥がすと、その思想、枠取りは、「団結すれば革命ができる」「労働組合は革命をできる」というテーゼに尽きる。それが反マルクス・反マルクス主義の極地であることは、非常にはっきりしている。その点を、綱領草案に沿って論究していこう。

●帝国主義打@@倒戦略と7・7自己批判を追放した団結論
 革共同綱領草案の核心中の核心は、一つは、「団結革命論」である。

「一切のかぎは、資本の支配のもとで徹底した分断と競争にさらされている労働者が、この分断を打ち破って階級としてひとつに団結して立ち上がることにある。」(第二次草案第5節、第一次草案第6節)
「この目的(注:労働者階級自己解放とプロレタリア世界革命)を実現するためにわれわれは、資本との絶対非和解を貫く労働者階級の階級的団結の形成を一切の軸にすえて闘う。」(第一次草案第3節)

●労働者階級の革命的本領への嫌悪と恐怖
 二つは、「労働組合は革命ができる論」である。

「労働者階級による職場生産点の支配とその全社会的な拡大こそ、ブルジョア国家権力の打倒=プロレタリア革命の勝利を保障する決定的条件である。」 「最も重要なことは労働組合の存在と役割である。」(第二次草案第8節、第一次草案第10節)

 そこでも、「職場生産点の支配の全社会的な拡大」「労働組合」が実は「プロレタリア革命」と等置されている。  「職場生産点の支配」と言っても、生産管理・工場占拠というのではない。「支配」とは格好づけであり、組合に入って団結するという程度の意味である。つまり、綱領草案がその言葉のさまざまな修辞を通して言っていることは、職場・生産点の団結、それを担う労働組合の拡大がすなわち革命であるということにほかならない。要するに、「団結=労働組合=革命」ということ以上でも以下でもない。それは決定的な誤りである。

 第1点として、革共同にもわかるように言ってやるなら、「労働組合の存在と役割」の一面的な強調は、帝国主義国家権力打倒・政治権力奪取の闘いを労働者階級の運動から追放するためだということである。
 想起せよ。1871年のパリ・コミューンの壮絶な蜂起と血の敗北を受けて、マルクスたち第1インターナショナルは、その規約に、「独立した党」と「政治権力奪取」を明記した第7条付則を付け加えた。

「第7条a――有産階級の集合権力にたいするたたかいでプロレタリアートが階級として行動できるのは、有産階級によってつくられたすべての旧来の政党に対立する別個の政党に自分自身を組織する場合だけである。
プロレタリアートをこのように政党に組織することは、社会革命とその終局目標――階級の廃止――との勝利を確保するために不可欠である。
経済闘争によってなしとげられた労働者の勢力の結合はまた、彼らの搾取者の政治権力にたいする彼らの闘争においても、この階級の手中のてことして役立たなければならない。
土地の貴族と資本の貴族が、彼らの経済的独占を守り永久化し、労働を隷属させるために、彼らの政治的特権を利用するのを常としているので、政治権力を獲得することが、プロレタリアートの偉大な義務となっている。」
(1872年9月、ハーグ大会でのマルクス起草「規約に関する決議」)

 この決議は、今日の革共同の堕落と誤りを、まるで時・空を超えて喝破しているようではないか。
 支配階級の国家権力の問題、それとの倒すか倒されるかの死闘戦の問題を抜かしたところで、プロレタリアートは階級として行動できない。この闘いにおいては、革命党をつくり、そのもとにプロレタリアートを組織しなければならない。労働組合の延長上には、労働者階級の解放はない。帝国主義ブルジョアジーの国家権力を打倒し、粉砕し、政治権力を獲得するために闘うということを抜きにしては、経済闘争も、労働組合運動も、プロレタリアート解放の目的に結びつくことはできない。むしろ経済闘争と労働組合的団結は、政治権力獲得のためのてことして役立たなければならないのである。まさに、政治権力獲得はプロレタリアートの偉大な義務である――このことは、今日ますます強調されなければならない。
 「労働者階級」「労働組合」という用語だけが乱発される綱領草案のどこに、「政治権力獲得はプロレタリアートの偉大な義務である」という戦略と精神があるというのか。どこにもない。それでいて、「一切のかぎは団結である」とか「職場生産点の支配の拡大が革命である」とか「労働組合は革命ができる」とか言う綱領草案の言辞は、革命論的にまちがいであるというより、労働者人民を冒涜する悪質なデマゴギーである。革共同が、マルクスたち第1インターナショナルの血の教訓を踏みにじることは、けっして許されない。

 第2点として、マルクスたちがプルードン派やラサール派と対決し、またオーエンをのりこえて、積極的に提起した労働組合論の実践的命題は何だったのか、このことを隠蔽しても無駄だということである。  マルクスたちは、次のことを繰り返し強調し、実践した。

「労働組合は、もともとの目的は別として、今や労働者階級の組織的中心として、労働者階級の完全な解放という大きな利益をめざして活動することを学ばなければならない。労働組合は、この方向をめざすあらゆる社会的、政治的な運動を支持・支援しなければならない。労働組合が労働者階級全体の前衛、代表としての自覚をもって行動すれば、未加盟労働者を隊列に獲得することに必ず成功するであろう(注:別のテキストによれば、「非組合員を組合に参加させることを怠ることはできない。」となっている。)。労働組合は、たとえば農業労働者のように、最悪の賃金水準の業種で過酷な状況のために無力にされている仲間の利益を注意深く擁護しなければならない。労働組合は、労働組合の活動が狭く利己的なものでなく、ふみにじられている幾百万の人民の解放をめざしているのだということを、全世界に十分に納得させなければならない。」
(1867年2月、マルクス「第1インターナショナル暫定中央評議会代議員への第6号指示――労働組合。その過去、現在、未来」から「その未来」の節)
「わが国際労働者協会のすべての支部が労働者階級を組織する中心として活動するにとどまらないで、さらにそれぞれの国で、わが協会の終局目標――すなわち、労働者階級の経済的解放――の達成をめざすあらゆる政治運動を援助することが、それら諸支部の特別の任務である。」
(1870年5月、マルクス「フランス諸支部会員への迫害についての国際労働者協会総評議会の声明」)

 こうしたマルクスたちの戦略的・思想的立脚点と具体的な政治行動は、現在の時代状況にも完全に生きているし、生かされなければならない。「労働者階級の完全な解放という大きな利益」「あらゆる社会的、政治的な運動」「非加盟労働者の獲得」「農業労働者など、最悪の賃金水準の業種で過酷な状況のために無力にされている仲間の利益」「狭く利己的なものでなく、ふみにじられている幾百万の人民の解放をめざす」という諸課題は、今も一層切実な課題である。
 それに比べて、革共同綱領草案の何と「狭く、利己的」であることか。
 とくに日本でも労働者の3人に1人を上回る厖大な非正規労働者および外国人労働者の問題を、綱領草案が無視・抹殺していることは、けっして許されることではない。非正規労働者の問題は、もちろんきわめて今日的な問題であるが、資本主義的生産様式に内在する相対的過剰人口がもたらす普遍的な問題なのである。非正規労働者および外国人労働者の問題は、いやしくも「綱領」で無視・抹殺してよい問題ではない。
 また「あらゆる社会的、政治的な運動」「ふみにじられている幾百万の人民の解放」と言う時、現代において自国帝国主義政府の一切の戦争政策に対する反戦・反侵略の課題、帝国主義的排外主義・差別主義・権威主義との闘いの課題、民族解放闘争や黒人解放闘争や部落解放闘争を始めとする被抑圧・被差別人民の闘いの支援・連帯・防衛の課題、かつ第二次世界大戦がもたらした人類史上最大最悪の惨禍をめぐる賠償・戦後補償の課題は、労働組合にとって死活的であるばかりか積極的なテーマとしてある。ところが、革共同綱領草案のどこをどうひっくり返しても、このテーマが出てきようがない。
 非正規労働者・部落民労働者・外国人労働者・失業労働者の問題や、反戦・反侵略の闘いというテーマを平然と無視・抹殺することでは、職場・生産点での闘いが成り立つわけがないし、せいぜい自己満足に終わるしかない。
 こうしてみると、革共同が07年7月テーゼ「階級的労働運動路線のもと7・7思想の革命的再確立を」をもって、「血債主義粉砕」の名のもとに7・7自己批判を否定・追放したことがその労働組合論を歪めに歪めていること、いや逆に堕落した労働組合論ゆえに7・7自己批判の抹殺が必要であったことが、きわめて鮮明に浮き彫りになっているのである。

 第3点は、労働者階級の中で党がいかに活動するのかという実践的視点が意図的に無視されていることである。
 綱領草案は、第二次草案の第8節、第一次草案の第10節で、マルクスが執筆した第1インターナショナルの決議「労働組合。その過去、現在、未来」から引用しているのだが、「その過去」からの引用をしながら、本稿で引用した「その未来」の核心的な提起を意図的に避けている。まったくのお笑いである。すなわち、革共同は、労働組合を自然発生的段階に押しとどめたい、目的意識性を否定するという意図があるから、そのような姑息なやり方をしたのである。
 関連して指摘すると、二つの綱領草案では、「戦闘的労働運動」あるいは「階級的労働運動」という言葉も規定もない。それもまた、意図的なものである。
 従来、革共同は、マルクスたち第1インターナショナルの労働組合論とその経験をも継承し、1930年代の国際階級闘争の血の教訓や、戦後日本革命の敗北の総括から、戦闘的労働運動(あるいは階級的労働運動)と言ってきた。これは、すでにある労働組合や未組織労働者の中で、まさに「労働組合。その未来」の立場に立って、党がプロレタリア革命にむかってどう活動するのかという実践的視点をもっていたからである。
 言い換えると、どのような労働貴族や他党派幹部のいる組合であろうと、すべての労働組合の中に積極的に入り、未組織労働者の組織化を積極化し、その中で、反幹部闘争、フラクション活動を展開し、戦闘的労働運動を創造していくという実践的立場である。
 ところが、革共同綱領草案には、労働組合に組織された労働者、未組織労働者という労働者階級全体の中で、党がいかに戦闘的労働運動を防衛し創造していくのかという実践的アプローチがまるでない。それでは、革命党の労働組合論になりえないのである。
 端的に言うならば、労働組合ないし労働組合運動の積み重ねやその延長上にはプロレタリア革命はない。このことは、古今東西の革命運動の歴史と現実がはっきりと教えているところである。すなわち、「団結すれば革命ができる」あるいは「労働組合は革命をできる」というのは、大嘘なのである。
 自然発生的な労働組合のままではプロレタリア革命ができないからこそ、未組織労働者の組織化を含めて労働組合を基盤としつつ、また労働組合内部での左翼的反逆や大衆的分岐をつくり出しつつ、政治権力奪取をめざして、さまざまな地域的・産業的なコミューン運動、ソビエト運動、評議会運動が試みられ、それらを底深く貫通する存在としての党が求められてきたのではなかったのか。プロレタリアートの革命運動は、労働組合や厖大な未組織労働者の組織化を基盤としつつ、狭く利己的な職業的枠を突破することを課題とするのである。その課題は、労働組合のままでも一部できるが、地域という政治的・社会的な諸関係をもった共闘組織として、労働組合および未組織の労働者の闘う組織を形成することを媒介にして、初めて着手できる。
 そうした試みは、戦前の日本でもあったし、戦後の日本でもさまざまに追求されてきている。60年代・70年代の反戦青年委員会運動はそのもっとも戦闘的で組織だった経験であった。全国建設運輸連帯労働組合・関西地区生コン支部と全国金属機械労働組合・港合同が営々と闘いとっている地平は、先駆的で今日的な経験である。
 かつて全国反戦青年委員会運動の中軸を担った動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)には、その貴重な実績があったが、今の動労千葉にはそのかけらもない。中野氏の唱える「体制内労働運動粉砕」という、方針ならざる唯一の「方針」は、いままで述べてきたような労働者階級全体の中に入って、戦闘的労働運動を創造するという実践的立場とはまったく逆のものである。帝国主義的民族主義・排外主義とも闘わず、非正規労働者の存在と闘いに背を向け、ソビエト運動についてまったく無知・無理解な中野氏。その中野式「体制内労働運動粉砕」など、笑止千万である。「体制内労働運動」と中野氏が語るのは、天に唾するものである。それなのに、まるで「動労千葉だけが労働組合」というような扇動は、苦闘に満ちているが豊かな経験にあふれる労働運動というものを冒涜するものである。
 もう一度言うと、労働組合と言いながら、@労働組合と党との関係の積極的規定を無視していること、A労働組合にだけ解消できない労働者階級全体の運動をまったく対象化していないこと(それは党の立場から初めて対象化できることだからである)、Bさまざまなソビエト運動の積極的規定を抹殺していること、C世界および日本の労働運動の苦闘と前進についての総括と教訓化が皆無であることは、革共同綱領草案の決定的な誤りである。
 そこにある思想は、「労働組合」の名をもって、労働者階級を狭く利己的な職業的利害に枠付けしようとする最悪の企業内組合主義・本工主義・経済主義であり、そこに党および党活動を解消するものである。したがってまた、帝国主義的民族主義・排外主義にやすやすと組み込まれるものである。それこそ、反マルクス・反マルクス主義の極地である。
 彼らにあるのは、マルクスとまったく逆に、労働者階級の革命的本領への蔑視ないし恐怖以外の何ものでもない。革共同が「団結=労働組合=革命」などという呪文を唱えることは、労働者階級を腐らせ、すべての人民大衆を敗北の淵に突き落とす反革命である

●革共同を動労千葉の従属物に解消
 三つは、革命党の否定である。

「マルクス主義を歪曲したスターリン主義は、党を、現実の労働者階級の外部に、階級の上に立つ特別の集団として位置づけてきた。だが『共産党宣言』も言うように、プロレタリアートの党は、労働者階級全体の利益から切り離された利益をもたない。また特別の原則を立てて、その型に労働者階級の現実の運動をはめ込もうとするものではない。労働者階級はその闘いをとおして、自らの力で党をつくりだす。党は労働者階級の一部であり、その階級意識の最高の団結形態であり、最も鍛え抜かれた階級の前衛である。」(第二次草案第9節)
「労働者階級自己解放の思想を否定してきたスターリン主義は、党というものを、労働者階級の外部に、労働者の現場での闘いとは切り離された特別の集団として位置づけてきた。革命の理論や正しい方針は、労働者階級自身の革命へ向けた必死の格闘の中から導き出されるのではなく、この党がそれを指導する知識人などの手によってつくり、上から労働者に与えるものとしてきたのだ。これは根本的に間違っている。党は労働者階級の一部であり、その最も鍛え抜かれた前衛である。労働者階級はこの党を媒介として自らの階級的団結を強め、拡大し、ブルジョア政党や小ブルジョア政党との党派闘争に勝ちぬいて、権力奪取のために必要なあらゆることを準備していくのである。」(第一次草案第13節)

 上記の部分は、「マルクス主義」の名でレーニン主義をスターリン主義にすっかり還元し、かつレーニン主義を全面否定したものとして、特筆に価する。

 本稿では、レーニン主義組織論を改めて述べることはしない。だが、つぎの点だけは強調しておく。レーニン主義組織論を現代日本において創造的に適用せんとしてきた革共同が、レーニン主義組織論について一言だにせずに、したがってレーニンをスターリンに解消してしまって、スターリン主義組織論を断罪してみせるなどということはありえない、と。今回の綱領草案作成にかかわった者たち、それに忠誠を示す者たちは、すでに身も心も革共同ではなくなった抜け殻たちである、と。
 その上で、もう一つ強調すれば、綱領草案は、革命党というものの位置づけそれ自体を否定したということである。
 「外部にある党」「特別の集団である党」「特別の原則をもつ党」はすべてスターリン主義であるというなら、党とは何か。綱領草案には、それは何もない。「党は労働者階級の一部である」ということでは、党とは何か、どういう党をつくるのかという規定にはまったくなりえない。
 党は共産主義者の政治的結集体であること、共産主義的究極目標を鮮明に掲げること、それにもとづいてプロレタリアート独裁にむかっての歴史的任務を明確にさせること、プロレタリア階級闘争に対する党の目的意識性と指導性を確認すること、政治警察との死闘をやりぬく党であること、党の組織的構成と活動内容を規定し、かつ党内のプロレタリア民主主義を実現すること、革命闘争を党―階級―大衆の具体的結合をかちとっていく過程として構想し実践すること、統一戦線戦術を必須不可欠の闘いとすることなどが、基本的な党規定になければならない。これらがないということは、革命党それ自体を否定するものである。
 では、中野氏、天田氏、清水氏らの党は、どのような党としてやっていこうとしているのか。それは非常に明白であって、動労千葉支援団体に革共同を解消することである。わかりやすく言えば、中野氏の書記に清水氏がなる(すでにそうなっている)ということ、中野氏の私兵に常任集団と地区委員会がなる(すでにほとんどがそうなっている)ということ、総じて、抜け殻となった革共同を動労千葉の従属物に解消するということなのである。
 革共同綱領草案のすべての文言の集約が、第二次草案第9節、第一次草案第13節であると言っていい。

(5)06年3・14Uが生み出した綱領草案

 2006年3月14日に、政治局指導の限界と誤りを衝き、党内に潜在していた中央不信をあたかも掬いあげるかのように欺瞞して、集団的・部落差別的テロ・リンチ・粛清事件(3・14U)が陰謀的に強行された。中野氏、清水氏、天田氏らと現在の関西派が野合して、3・14Uの党的肯定・美化を行った。それらをもってする党内右派クーデター=大粛清以来の3年余が何だったのかは、綱領草案に如実に現れている。それまでの革共同をめちゃくちゃに破壊した3・14Uこそが、今回の綱領草案を生み出し、かつそれが党内で通用することを可能としたのである。
 「新綱領」とは、革共同が21世紀の矛盾逆巻く現代世界と対決していかに闘うかを規定した綱領などというものではまったくない。この3年におよぶ中野洋氏独裁体制のもとにある1政治組織がついに脱革共同の宣言、プロレタリア革命運動とあらゆる現実の大衆運動から敵前逃亡の宣言をしたものと言っていい。革共同は、政治権力打倒とはまったく無縁な観念世界で、ただただ「動労千葉特化路線」を唱える集団になることを最終決定したということである。

 革共同よ。堕ちるところまで堕ちるがいい。日本階級闘争は、その革共同を解体する度合いとは無関係に、不屈に前進していくであろうし、そうしなければならない。

(了)

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