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政治局会議Uへの提起[その1] 【付属文書】

[06.7.〇〇] 清水丈夫

一】まず今回の「政治局会議Uへの提起」のはじめに、革共同の議長として、あるいは政治局のキャップとして、政治局として長い間政治局会議で会議をともにしてきた与田のおそるべき財政的腐敗、小ブル的二重生活のあり方、党組織の私物化、官僚主義的権力主義的支配(暴力的支配)、革共同の対権力防衛闘争への裏切りと敵対等々の現実を、今次の3・14革命(注:06年3月14日の関西地方委員会内でのテロ・リンチを行使したクーデターのこと)によってえぐりだされ暴かれるまで見過ごし、容認し、さらには助長さえしてきてしまったことを、全党の同志諸君および労働者階級のまえに心から謝罪したい。
 今日、新指導路線の下で改憲阻止・4大産別決戦貫徹、戦争と民営化(労組破壊)の攻撃の粉砕のために、日夜闘いつづけている全国の同志のまえに心から謝罪したい。
 与田問題にかんする全責任が清水にあることをはっきりと認めます。のちに若干言及するように、06年3月にいたる「非公然部門基軸の非公然・公然指導体制」の下では清水と清水指導の責任は決定的なものです。この「政治局会議Uへの提起」ではこの視点を鮮明にして、清水としてのこの問題での自己批判を全力で遂行していきたい。
※なお、今回の「政治局会議Uへの提起」は3月の「政治局会議Tへの提起」や5月の「バーゼル(注:清水氏出席の非公然での中央労対会議)への提起」をふまえ、清水自己批判の深化という観点から書いています。多くの事象全体に言及できていないことは、この意味でひとまず了解してほしいと思います。

二】いまひとつ、この「政治局会議Uへの提起」のはじめにおいて、次の点をつよく確認しておきたい。それは3・14革命は革共同が新指導路線にもとづく革命的実践に突入していくなかで、まさにその革命的実践にとって直接的には与田体制が、しかし本質的根底的にはその与田体制を許容し助長してきた清水的中央指導のあり方そのものが桎梏化してきていることを直視して、前者のみならず後者をも批判・弾劾・打倒するものとして、関西地方委員会の労働者同志を基軸に遂行されたきわめて革命的なプロレタリア的蜂起としてあったということである。そして、じっさいにも、関西地方委員会の蜂起に全都・全国の労働者同志、全同志が呼応し、清水的中央指導そのものを打倒し、のりこえていくものとして、全国規模での決起としてかちとられていったのである。(この文書で以下叙述するつもりですが、新指導路線にとって自分自身が、そして清水指導そのものが、いかに桎梏化したものか、していたのかを切開し、自己批判し、のりこえていく立場をそれなりにつかみとっていくなかで、このようなことが自分から言いきれるということです。つまり、客観主義的にいっているのではないということを了解してほしいということです。)
 とすれば、3・14革命の遂行は、基本的に新指導路線(注:03年に打ち出された路線)の全面的物質化のための闘い、具体的には改憲闘争・4大産別決戦、8月闘争から秋の国会闘争、11月大集会へむかっての全力をあげた驀進へとつきすすんでいくことでなければならない。と同時に、3・14革命はきわめて奥深い全面的な党の革命としてあり、これからも深く、激しく、豊かに遂行されていかなければならないと思う。
 これは二重的にいえます。ひとつは、何よりも直接的な意味での3・14革命の全国的完遂の闘いの重要性である。与田および与田体制打倒の3・14革命に敵対をつづける九州平田一派との闘いは死活的闘いであり、まさに全力で闘わなければならない。動労千葉の階級的原則的闘いを民同路線と言う平田一派との闘いは決定的な非妥協的闘いである。決定的にうち破ることは3・14革命の成否にかかわる大闘争である。また、部落解放戦線の全同志の与田打倒・3・14革命支持の闘いへの全面的結集を真にかちとる闘いなども強力に推進されなければならない。しかし、いまひとつは、3・14革命自身がみずからをさらに開示し、何をどう革命していくのかについてさらに建設的に討論を組織化し、切磋琢磨していくということがあると思う。つまり、3・14革命の内延的な深化・発展の闘いである。
 清水自身としては、自己がいかなる意味で新指導路線の桎梏となったのかについて全力で自己批判的に自己切開していくことによって、3・14革命の意義を九州の平田一派にもつきつけていきたい。また3・14革命が真に党の新指導路線の爆発的発展への突破口となっていくことにすこしでも貢献していきたい。

三】いま、3・14革命について清水が論ずるとき、出発点にしなければならないことは何であろうか。それは3・14革命に打倒された与田の与田―関西地方委指導部体制のもっていた全面的な腐敗、党と党活動の官僚制的疎外・抑圧体制化、党防衛体制の反革命的武装解除と裏切りといった現実を、他ならぬ自己の清水指導の歴史的所産としてとらえ返すということである。清水は長い間政治局として関西地方委員会議長と政治局会議などをともにし、またベルリン・ホッケー(注:04年および05年の清水氏主宰の関西地方委指導部会議の会議名)として直接に「関西地方委」指導部と中央非公然指導部の会議を行ってきているのである。また、何より議長として与田問題について全党・全階級にたいして重大かつ決定的責任を負っているということである。
 もっとはっきりいえば、清水の革共同指導は与田問題の爆発と3・14革命そのものによって歴史的に破産したことを直視することである。与田のおそるべき規模の、また計画的で体制的な財政的腐敗構造の形成と党の私物化、路線的・政策的な面従腹背的なあり方、さらに労働者同志等にたいする平然たる暴力的権力的支配、また中央指導部の団結の破壊、岸・水谷らの新指導路線への反対派グループの実質的基軸となって党中央指導部を実質的に分裂させてきたことを直視するとき、3・14革命によってこれが辛うじてギリギリのところで粉砕・打破されたとはいえ、革共同をかくも危機的な地点にまで迫い込んでしまった中央指導部のキャップたる清水の責任はちょっとした問題性などという次元のものではなく、重大で根底的な指導の破産として真っ向から把握されなければならない。清水としては、3・14革命によってつきつけられたものをうけとめるなかで、この自己の責任、自己の破産ということはそれなりに確認してきたし、それなしにいっさいの自己批判はありえなかったが、今回「政治局会議Uへの提起」を書くにあたって、少し時間をかけて考えてくるなかで、この清水指導の歴史的破産ということを全面的に真っ向からとらえることなしに決して真の再前進はありえないことを確信した。
 以下、この文書において、清水において、清水指導において何がどう破産したのかを何ものもおそれぬ精神で自己切開し、自己自身のマルクス主義を根底から再建するとともに、党の歴史的総括とこれからのあるべきすがたの明確化のために、革共同の一員として全力をあげて闘いぬかなければならないと思う。

四】ここで、今回の文書の基本的な考え方をあらかじめ知っておいてもらった方が読みやすいと思うので、この文書で、この間清水がたどりついたいくつかの視点(結論といってもいい)について、まず記しておきたい。

(1)ひとつは、あまりに当然のことながら、新指導路線の決定的革命的意義ということである。新指導路線を口先で、あるいは理論的・政策的レベルで言うことと、それを本当に革命的に実践するということはまったく別物だということ。共産主義運動を労働者自己解放闘争ととらえること、労働者同志を真に信頼し労働者の党として党を実体的に本当に建設することは 並大抵のことではできないのだということ。労働者同志の闘いとともに、その前進のなかで党をつくっていくという新指導路線の真髄を何としても主体化するために、自己の革命家的主体をかけて闘うのだということ。端的にいえば、ホッケー指導こそ、新指導路線を中野同志や中央労対同志とともに提起し推進した清水自体が、その新指導路線の核心を実践場面で自ら踏みにじってしまったものだということ。

(2)いまひとつは、党内民主主義(すなわち労働者民主主義を原理としての民主主義的中央集権制ということ)にかんする清水における歴史的偏向の問題が、清水指導の総括においてきわめて重要な契機であること。これは清水におけるスターリン主義からの思想的現実的脱却の闘いが、スターリン主義における一国社会主義論の決定的核心的意義をとらえたことにとどまり、レーニン党組織論のスターリン(主義)的歪曲の問題について思想的に対象化しきれないところがあったということ。この重大性ということ。これはホッケーにおける「岡田意見書」問題、宝塚闘争総括などにかかわることであり、かつ、政治局会議等々の細胞性ということにかかる組織論的問題性としてあるということ。

(3)さらに、いまひとつは、上記の第二点と関連することだが、PT・PU期(注:先制的内戦戦略の第T段階・第U段階期)またはその後の若干の過渡期の一定の時期に不可避となったこととはいえ、党中央指導体制が「非公然部門を基軸にした非公然部公然体制」として形成された現実にたいして、自然成長的に屈服する傾向におちいってしまったということである。この結果、党の本来のすがたとしてあるべき民主主義的中央集権制が官僚制的中央集権体制へと疎外されていく傾向と正しく闘いえず、労働者民主主義を原理とする党内民主主義を生き生きと発揚することができず、現場同志あるいは本社指導部同志との間で同志的信頼を土台として細胞性あふれる党組織・党指導部をつくりあげていくことができなかったということである。このため、5月テーゼ(注:91年5月に打ち出された路線)下の闘いがすすみ、19CC―20CC(注:第19回全国委員会総会―第20回全国委員会総会)がかちとられ、さらに第6回大会が戦取されていくなかで、主客の情勢変化をふまえて党指導体制の意識的再編にとりくみ、「非公然部門を基軸にした非公然・公然指導体制」から「公然部門基軸の非公然・公然指導体制」への転換を闘いとるべきであったのに、それが遅延してしまったということ。その結果、党指導部体系は一種の官僚制的ヒエラルキーと化してしまったのだ。党内民主主義の発動によって、腐敗したり官僚化した指導部やメンバーを人事的流動・再編をふくめて積極的に摘発・打倒していくという力を、清水と清水指導体制は失ってしまっていたのである。これこそが与田の腐敗を許し、3・14革命でそれが打倒されなければ打倒できなかった真の根拠なのである。

五】以上の点を大きくおさえつつ、以下、3・14革命によって暴きだされた諸問題の具体性にそって、清水の下でのこの間の中央指導の問題性を自己切開的、自己批判的に明らかにしていきたい。
 3・14革命は何よりも与田の財政的腐敗の現実への怒りの爆発として展開された。この財政的腐敗はあまりにも深刻なものであった。与田が党と党の事業(医療機関経営etc)から、党の最高指導部としての権威や権力をつかい、さらには中央の非公然活動のための資金づくりなどということをふりまわして、党からかすめとっていた財政の総額はじつに巨大なものであった。
 与田が自認しただけでも与田は月々79万もの財政的「収入」を得ていた。しかし、これは全部ではなかった。この間6月末に関西地方委員会のB委員会の「与田・遠山の財政的不正・腐敗にかんする中間報告」がだされた。これによれば固くみても与田は月110万をこえる財政収入を手にしていた。この他、与田は関西地方委荒本センター建設や医療関連の事業にからんで、合計2200万の公的財政を略取している。したがって、与田は96年以降06年3月までの10年間について合計するとじつに1億5300万円もの公的財政を略取している。
 この他、与田はその実弟Tを「センター」や「〇〇建設」などの建設に強引に引き入れ、Tによる合計4450万円もの公金流用について実質的に協力している〔流用して返済などする気がない、その力もないことを知っていて、Tを建設事業にかませたのである〕。
 与田はその小ブル的二重生活のために○○に自宅を建設したが、これについて親の遺産を使った云々と弁解しているが、建物の建設費については〈現金払い〉を云々しており、上記の1億5300万円の内からそれが充当されていったことは間違いない。
 与田の財政的腐敗の問題はこうした金額上の膨大さとともに、さらに何よりもこれが革共同の最高幹部という地位をフルに活用し、革共同の医療機関経営事業への指導性を排他的に独占し、いわばその分野を私物化し、巨額の財政の個人的略取のメカニズムに仕立てていったということである。
 ここでしっかりおさえるべきことは、財政的腐敗は決してそれだけとしてあるものではないということ。財政的腐敗はある意味で政治的・組織的・思想的・倫理的な全腐敗の集中的表現だということである。財政的腐敗とはある意味でブルジョアジー(とそのイデオロギー)への屈服ということである。つまり、与田の共産主義の完全なる変質ということである。この3・14革命のプロセスで、一部の同志は財政的腐敗はたしかに糾弾・弾劾されるべきだ、しかし路線論争を財政問題にすりかえるのはおかしいといった論点を主張した。いまなお九州で3・14革命への反革命的敵対をつづけている平田はこんな主張をしつづけている。しかし、これは絶対に誤っている。与田の財政的腐敗と小ブル的二重生活、「3日・4日」体制といったあり方とは不可分一体である。これは労働者階級の党・労働者の党として革共同をつくりだし、近づく革命的情勢に対応していこうとする新指導路線と絶対に両立しない。
※遠山の財政的腐敗etcはやはり大きい問題である。与田の党の私物化、党の抑圧的暴力支配はすぐれて遠山の手によって遂行された。労働者同志の遠山への怒りはきわめて深いものである。だが、ここでは略させてもらいます。乞う了解。ただ、与田の「党指導」なるものが実質的に反対者・批判者への暴力的テロル的支配であったことは、財政的腐敗と勝るとも劣らぬ大問題であり、革命的に打倒するしかなかったことはがっちり確認しないといけない。  3・14革命のいわば原点のひとつとして財政的腐敗の問題をさらに徹底的に究明し、与田責任をどこまでも追及し、与田にこれらの1億5300万に達する略取金をあらゆる手段をつかって返済させることは絶対にゆるがせにできない革命党の任務である。
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 このことをしっかりとおさえたうえで、この文書のメインのテーマとしては、この与田の腐敗という問題と清水をキャップとしてきた党中央のあり方の問題やその責任という問題としてはっきりさせていきたい。この問題をめぐっては、党中央とりわけ清水は、どうしてこの与田のこの腐敗をなぜもっと早くつかみとり、中央指導の力でメスを入れていくことができなかったのか、という疑問(というより弾劾的詰問)が出されている。  だが、この問題で核心に迫っていくためには、いわばその前提として上記の与田の財政的腐敗・生活的腐敗は度はずれのものであり、与田を政治局として政治局会議の一員としてかかえてきた革共同中央指導部そのもの、とりわけ清水の中央指導そのものがここにおいて破産していたのだということ。与田の腐敗をここまで許容し、自らの力では阻止・転覆できなかった清水指導体制は、すでに中央指導として破産していたのだということをまずきびしく確認しなければならない。
 与田を構成メンバーとしていた政治局会議が真に革命的で生き生きした細胞性を実現しえてこなかったということである。だからこそ、与田の存在を容認し、彼の関西地方委員会での中央指導部としての権力をほしいままに行使する構造にメスを入れることができなかったのだ。別のいい方をすると、清水が主観的には懸命な政治局づくりの活動なるものを行ったとしても、労働運動・大衆運動のなかに建設される労働者細胞(基本細胞)を原点とし土台として、そこでの闘いを総括軸にして、党の民主主義的中央集権制が生き生きと働くあり方へと本格的に突入していく、そしてその下で政治局会議自身が組織的に自己の細胞討議をとおして、また下部組織からの提起によって厳しく点検されるあり方へと踏みこむことができなければ、真に問題を解決する力にはなりえなかったのである。むしろ、これまでの清水的政治局会議討議では革共同の官僚制・疎外を補強し維持してしまうものとして働いてしまったということである。

 のちに、いまいちどまとめて論じたいが、中野同志の政治局会議への参加は労働者の党としての革共同の中央指導部づくりという点では歴史を画する大変革であった。中野同志は「基本労働者細胞と党中央」という党の生き生きとした関係こそ党組織の原則ということをストレートに体現する存在であった。中野同志はそうした存在として全力で政治局会議の歴史的変革の闘いを展開してきたといえる。清水としては、この中野同志の一貫した提起を基本的にうけとめつつ、5月テーゼを出発点として、天田同志、高木同志の全面的協力の下、19CC―20CC―第6回大会をかちとり、中央労対という現場労働者の指導的存在との真剣な会議という場のもつ力をバネに新指導路線をうちだしてきた。しかし、中野同志から一貫してだされていた現実の労働運動の推進を基準として世代交代を大胆に行っていくべしという政治局人事の革命的断行については、清水自身大賛成だったが、いまひとつ慎重を期して断行しきれないままにきた。革共同の中央指導と指導の体系(地区委・地方委・全国)が、歴史的に官僚制的ヒエラルキー構造をつくりだしていて、それがこの間の党建設の妨害物・敵対物になりさがっていること、清水の活動はいくら必死にやったとしてもその構造を補強しつよめるものにしかなっていない、このことへの自己反省的自覚がやはり決定的に弱かったのである。
※ここでのこれまでの展開はまだ弱いが、このあとの【六】以降の展開中でも同一のテーマととりくむので、そこでいまひとつ深めていきたい。

六】与田における財政的腐敗と党の私物化、党の暴力的テロル的支配とがまさに一体のものとしてあったことを示す決定的なメルクマールが、いわゆるA細胞における組織問題である。与田の関西地方委員会の党支配がいかにおそるべき反プロレタリア的本質をもっていたか、をしっかりとおさえないと3・14革命の革命的意義はわからない。与田は93年からA細胞にかかわりはじめた。その際、部落解放運動の歪んだ利用をテコにA細胞の指導権を強権的に掌握していったのだ。この場合、今日ふり返っておそろしいことは、与田において医療機関経営事業を革共同の財政づくりの手段にするということを大胆に自己目的化すると同時に、それを本能的ともいうべきかたちで自己の私的収入源としてつくりあげていくということを、いわば平然たる感覚で遂行していったということだ。そして、財政的腐敗のもつおそろしい魔力は、財政的収入の確保のメカニズムとしてA細胞をとらえていくという百パーセントの転倒を意識、無意識に進行させていくということである。こうした与田のあり方から、A細胞指導体制から労働者(同志)を排除し、与田の支配できるかたちで自由にその指導体制を形成し、それを牛耳っていったのだ。そうした体制のもつおそるべき凶悪性を示したものがA細胞組織問題である。
 これは、□□□□管理のズサンさがあきらかになり、大きな問題になった際、本来責任をとるべき志賀―与田が、その責任を回避して無実の○○同志に罪をなすりつけ、ついには公金横領犯にまで仕立てあげ、過酷な処分を強行したものである。そして、多くの関係同志を処分攻撃でふるえあがらせる恐怖体制をつくりあげたのだ。与田はいっさいは志賀の犯行としてのりきったが、与田はじつは志賀がみずからの悪事を暴露するかもしれないという恐怖から、志賀の権力犯罪とわかってからもすぐには処分を断行しなかった。与田と志賀はじつは本質的に一蓮托生の関係だったのだ。与田はこの問題の責任を結局は、志賀へのA細胞指導の丸なげであったなどというかたちで逃げたのである。
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 革共同中央・清水指導部はこの問題でも、無実の同志の公金横領犯へのデッチ上げと追放というような事柄がもっている百パーセント限界をこえた党的官僚制的腐敗にたいし、与田の「志賀への丸なげの誤り」論などという説明を結局は容認してしまった。党が労働者同志にたいして行ったこれほどの権力犯罪について、絶対的に事態の本質を究明せずにはおかないという革命党としての本来的体質をすでに鈍磨させ、失っていたということだ。この点についてもA細胞関係同志をはじめ関西地方委員会同志に、また全党の同志に真剣に自己批判しなければならない。

七】次に高杉問題について。ここでも、この問題をめぐっての中央指導とりわけ清水の問題性について自己切開していきたい。この高杉問題においても清水の中央指導は決定的な破産を示している。このことを自己批判的にあきらかにしたい。
 高杉問題は革共同が歴史上経験したなかで最大の公安調査庁による革共同中央へのスパイ攻撃である。高杉は○年余り、与田の「秘書」(これ自体革共同としておかしなことだが)的な存在として与田にもっとも近い存在であった。これが何と公調の手先であった。○年近く党中央の文書の「実質的内容」が権力に手渡されていた。また、高杉は非公然部門・清水などに特別の注意をむけており、与田がでる政治局会議のスケジュールを権力に実質的に漏らしていたとみていい。
 そのうえ、さらに大きな問題は、すでにこの間の文書で暴露されているように、与田は高杉の正体が判明したのち、直後の本社政治局にはこれを報告しなかった。さらに、その後、関西地方委指導部(与田ふくめて)で討議され、《高杉に気取られないようにきちんと中央的に掌握してから査問を行う》という方針が決まったのにもかかわらず、与田は勝手に二人のメンバーに高杉の査問を実行させ、ボコボコにしたうえで逃亡させたのである。
 これは百パーセントの利敵行為であって、革共同の公調権力にたいする闘いを妨害する裏切り行為であった。この事態は革共同にとっても政治局にとっても戦慄すべき事態であった。
 「バーゼルへの提起」において、私はこれについて、この事態こそ与田が許すべからざる限界を超えたということであり、ここで階級的原則的に与田に対応し、与田を処分して徹底的に闘っていたならば、財政的腐敗をふくむ与田の全問題を中央指導部自身の手であきらかにして闘うことができたであろう、その決定的機会であったと述べた。そのうえで、当時清水は政治局会議として2回もこのテーマで徹底的に討議しながら、与田への思想的批判と徹底的な自己批判の要求ということしか行いえなかったことについて、@新指導路線の貫徹をめぐる七転八倒のなかで、○○○○すなわち警察権力との激突に突入して全面的に闘うことに党の組織的エネルギーの膨大な投入の必要性を前にしてひるんでしまった、また、A与田の打倒がつくりだす関西地方委員会の党組織、部落解放戦線etcでの組織的混乱の予想のまえにひるんでしまった、もちろん、当時政治局会議で明示しそのように立ち入って討論したわけではない。しかし、清水についていえば、率直にいって深層心理としてそうであったということである。
 しかし、こうした当時の清水の態度(そうした考え方で政治局会議討議も行ったのであるが)は、すでに完全に腐敗したものであったということはあきらかである。ある意味で、ここで清水は与田の腐敗のまえに結局屈してしまったのである。そうした与田を容認し延命させてしまったのである。ここでも清水の中央指導は大きく破産しているということである。この問題を今日さらに思想的政治的に切開してみるならば、次のような重要な諸問題がよこたわっていると思う。
 第一。まず第一は、一種のしのびよる合法主義への無自覚的な屈服ということ。長いPT・PUの激闘。5月テーゼ以降も90年代前半(95年)まではいわば過渡期的情勢の展開。19CC、20CCをへて、ようやくかちとった第6回大会(T、U)。そして03年の新指導路線の提起。――という流れのなかで、清水自身はすさまじい非公然生活をくりひろげてきた。そうしたなかで、90年代後半から第6回大会への展開、第6回大会以降の展開では直接的なPT・PU的戦闘は一部を除いてなくなった。直接的には公然面での労働運動・大衆運動・市民運動が主要な闘争形態となった。しかし、すでに明確にされているように、権力の攻撃はいまや労働運動・学生運動・市民運動などにむけられ、いわば戦前的治安弾圧へのラセン的回帰として情勢はすすんでいる。革共同にとってはPT・PU、90年代の過渡期などの直接的戦闘情勢がほとんどなくなってきたことは対権力の革共同防衛闘争の手をゆるめていいなどということはまったく無縁である。権力はこのような公然的闘争形態を大いに展開している革共同が、階級の中に根を張り、不抜の労働者細胞をつくりだしていくことを死のようにおそれている。したがって、公安警察・政治警察との闘いは日々激化しており、今後はさらに圧倒的なレベルにむかおうとしている。

 このことは十分自覚していても、PT・PU的直接的な激闘とは違った戦闘形態への移行のなかで、長い激戦期や非公然部門的な“惨憺たる”生活期の反動から、ともすれば気がゆるむ傾向が不断に生みだされ、しのびよる合法主義に知らず知らず侵されていく危険があったということ。このような気分を根底からふっとばし、PT・PU時代のギラギラした戦闘精神を内に燃やして闘いぬくことが政治局・政治局会議に求められていたということである。この点ではのちに若干言及するつもりだが、時代はまさに戦争の時代・革命的情勢の到来の時代へと突入しつつあるのである。公安警察との死闘はこれからますます重要になっているのである。
 第二。高杉問題において、当時の清水が与田の限界をこえた対権力上の腐敗にたいして原則的に闘い、政治局の罷免や党内(とりわけ関西地方委員会)での情報公開に踏みきってトコトン闘いぬくということを日和った理由として、関西地方委員会etcの党組織の混乱をおそれたということは、党組織の本質についての百パーセント官僚主義的な思想に侵されていることを示しているということ。また、今日の革共同は労働者の党をめざす党として長い激闘を闘いぬいてきた労働者同志を基軸に多くの鍛えられた常任集団を擁しており、問題が組織的原則的に提起されればきわめて強力に対応していく力をもっているということである。そして、これから労働者の党として革共同を建設するという闘いが展開され実を結んでいけばいくほど、革共同の党的堅固さと正しい階級的な対応能力はどんどん増していくということだ。この点では、今日の3・14革命をとおして党内民主主義・情報公開などの問題が鋭くつきだされているが、まったく正しいといわなければならない。
 第三。与田の腐敗を徹底的に追及し原則的に闘いぬくことが革共同の部落解放戦線指導に混乱をもたらすといった考え方(これも清水的になかったとはいえない)について。これは「第二」で論じたことと同じ側面をもっているが、これは裏返してみれば、部落解放戦線のためには腐敗した与田でもつづけさせていくということで、とんでもない誤りである。部落解放戦線で闘う同志たちは断じてそんなヤワな存在ではないのだ。それぞれに主体的革命家として闘いぬこうとしているのだ。腐敗・堕落したものをたたきだす力と、それをこえて新しい指導者をつくりだし前進していく力を、自力で腐敗分子をたたきだす闘いのなかで獲得していくことは明白なのだ。
※なお、この高杉問題と先の【五】で言及した与田の財政的腐敗を中央指導部と組織の力で暴き打倒していくという闘いは密接不可分である。財政的腐敗は革命家的なトータルな腐敗であり、高杉問題という限界をこえた裏切りを革命的精神で敢然と暴き弾劾していく組織的闘いをやりぬくならば、必ずやそれは財政的腐敗をふくむ与田の全面的問題性を暴露し粉砕していく闘いに発展することもできたということ。

INDEX
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