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政治局会議Uへの提起[その2] 【付属文書】

[06.7.〇〇] 清水丈夫

(承前)
八】ホッケー(ベルリン・ホッケー)における清水の決定的誤りとその組織論的根拠について(仮題)

1)実際の階級闘争と関西地方委員会諸組織のこの間の現実をきちんとみれば、清水のホッケーでの「塩川―兵庫県委員会・京都府委員会」にかんする議論の誤り、清水の指導上の破産はあきらかである。

2)また、清水の誤った指導が与田の反対派狩り的分派攻撃を助長し、促進し、3・14関西地方委会議(注:同日の朝に設定されていた)での毛利・塩川同志の追放・一掃のクーデターへと暴走させる起点となってしまったこともまたあきらかである。

3)つまり、清水は与田の反党的行動の共犯者となってしまったということである。すなわち、「3・14」において与田、遠山らの打倒と串刺しにして打倒しなければならない存在・妨害者・敵対者となってしまったということである。このことがどんなに不本意で痛苦なことであろうと、イストとして階級的真実を直視し、自己切開・自己批判をし、その思想的根拠をえぐりだし、自己のあり方そのものの現実的変革の方向をつかみとらなければならない。そしてそのなかから革共同建設のための実践的教訓を引き出さなければならない。

4)清水は自分自身、中野同志、中央労対同志とともに新指導路線を提起したものとして、その党としての路線化に全力をあげ、当時の関西の指導部(与田)が新指導路線を拒否しているという現実を打開するために04年のベルリンを開催した。しかし、その闘いの展開のなかでホッケーにいたってはあからさまに新指導路線に反する、誤った指導を強行し、新指導路線への敵対者に転落してしまった。このように今日、自分でも信じがたいような目も当てられぬ誤りをじっさいに犯してしまったのはなぜか、どうしてそうなのか、を何としてもはっきりさせなければならない。

5)ベルリンのなかにホッケーでの誤った指導の原因があった。
@たしかにベルリンは、これまでの関西の党建設についての中央的な研究や学習を一定程度行い、そのうえでなおかつ関西での党建設が新指導路線とそれにもとづく4大産別決戦論(これはそれを軸点とする労働運動全体への革共同の方針としての本質的ひろがりをもっているが)をうけいれていないこと、それは間違っていること、このままでは関西地方委員会を労働者階級の党として本格的には建設できないことを真っ向から提起した。そして、そのためにも与田の労働運動論・労働者階級自己解放論における歪み(大きな歪み)を決定的に変革しなければならないことを討議し確認した。そして、「ベルリンへの提起」と討論の結果は、大きく関西党組織にはさまざまなかたちで伝わり、全体としての関西地方組織が新指導路線にむかって動きだすという契機としては大きな意味があったといえる。しかし、このベルリンは決して見逃すことのできない根本的欠陥があった。一言でいえば、与田の新指導路線拒否(中野同志と動労千葉の評価および天田同志の評価の決定的誤り)についての血反吐をはくような真の自己批判をかちとれなかったということである。このことを清水(高木もといっていいのではないか)は見逃してしまったということ。いや、それ以上に、与田(関西地方委指導部)との路線的一致はかちとられたものとして確認してしまった。重大な階級的誤認をしたということ。たしかにベルリンの討議はB組合細胞の岩城同志との真剣な討議として展開されたし、内容的にも深まったが、これ自体04年11月にむかっての意志一致・政治的一致という目的性につよく規定されていた。新指導路線下で労働者の党としていかに党を建設していくのかという原点的討論を基本にすえきることは不十分なものにとどまった。
A与田は結局、ベルリンを真の自己批判にもとづく思想的大変革としてうけとめようとはしなかった。これは本来党の作風上の革命としても遂行されるべき大変革であった。労働者同志を党の真の主人公として、労働者同志への無限の信頼を土台にして工場・経営・生産点・職場での労働運動づくり、労働者細胞づくりを、現実の労働者同志自身の自己解放的主体的決起として実現していくという新指導路線。これをとらえきっていくということを、与田は依然として思想的に、また実践的にしようとはしていなかった。与田は関西の労働者同志にたいして自己の血を流す自己批判をしなければならなかった。だがかれはこのことから逃亡した。結局、与田はベルリンをとおして、党官僚として、関西の党のキャップとして党を牛耳っていく“新しい路線”をのりうつり的に手にしたということにすぎなかったのだ。新指導路線は路線的確認にとどまる限り党官僚支配の道具にすぎず、この新指導路線は現実の階級のど真ん中に飛び込み労働者同志の苦闘と一体化して汗水を流して労働運動づくり・細胞づくりのために闘うとき、はじめて真の着手となるということ。
Bこのような与田の本質をベルリンをとおして見抜けなかったことは、清水自身の新指導路線の主体化が、まだまるきり路線確認、理論的確認といったレベルを何らこえきれず、徹底的に地べたに足をつけて必死で闘っている労働者同志の立場・スタンスからものを考え、闘いをくりひろげきれないということを鋭く示すものであった。
C以上から、清水はベルリンの結果として、与田(関西地方委指導部)が一定の討論をへて新指導路線をうけ入れたので、関西の党はこれから前進する(うまくいく)、いっていると考えていってしまったのである。
※〔いうまでもなく、こうした清水の与田評価の誤りは、【四】【五】【六】で述べてきたような与田の腐敗した反階級的本質を見抜くことのできなかった清水指導の問題性と一体のものである〕

6)だが、現実に04年ベルリンから05年ホッケーにいたる1年余りの期間に関西で進行したことは、与田のまやかしの新指導路線のもつ矛盾・危機性を鋭く露呈するものとしてあった。
〔a〕
イ)03年11月集会をめぐる問題について、これを「一部労働者細胞の問題」として与田自身の自己批判を中心にすえずに、岩城同志、長崎同志等に一方的におしつけるあり方は、当然にも大阪市委員会・大阪府委員会の同志たちにとって納得いくものとならなかった。遠山の自己批判の回避も断じて許されるものではなかった。
ロ)他方、やはりベルリンの結果をも契機として、関西地方委員会に新指導路線の息吹はどんどん入っていった。
・中野同志の下での産別(4大)委員会活動の全国展開
・『前進』』の内容・報道
・何よりも現実の全国的闘争の展開
〜〜こうしたなかで、与田、遠山などの活動スタイル・あり様は依然として現場に密着しての労働者同志を中心軸にすえての真の組織活動のスタイルとはかけはなれていた。
ハ)こうしたなかで、与田が関西地方委→新関西地方委化のなかで外した兵庫県委員会、京都府委員会の同志をふくむ地区委員長会議での討議が、兵庫県委員会、京都府委員会での新指導路線の独自的展開を基盤に激しく展開されていった。そして、それは関西地方委内にもち込まれ、対毛利(塩川)との討論として激化していった。
〔b〕しかし、ホッケーにいたる1年間で〔とりわけ05年において〕、関西において特質すべき闘いが4大産別を構成する教労・全逓を軸にして展開されていった。それは、ひとつは宝塚教科書闘争の勝利的展開であり、いまひとつは小包配達の下請労働者が全逓(JPU)加古川分会の支援をうけて立ち上げた関西トランスポート分会の闘いである。この関トラの闘いは全逓加古川分会の闘いと内的に結合して、解雇反対の二波のストライキなど、全逓での民営化反対の全逓労働運動の血路をきりひらく闘いとして全国的にも注目される闘いであった〔『月刊交流センター』06年7月号P12〜13参照〕。
 とりわけ宝塚教科書闘争は01年教科書闘争以来の闘いを継承し、当初は主として学校選択制導入との闘いとして市民団体形態(「一致バラばらの会」「日の丸・君が代強制反対阪神連絡会」「百万人署名運動阪神連絡会」「教科書ネット21」など)をとおして労働者・市民を幅広く結集するものとして展開された。そして東京の石原都知事を尊敬するという渡完市長が教育委員会構成をお手盛りで変更し、東京と似た構図で宝塚市―関西の教科書反革命の突破口としてねらってきていることが鮮明に把握されていくなかで、7月を契機に学校選択制反対の闘いは「つくる会」教科書採択阻止闘争と合流し、両者は結合した。以降、この教科書闘争は7〜8月に数次の大衆行動を成功させ、決戦日の8・10にはついに参加者数270人に達する大闘争に発展し、ついに「つくる会」教科書採択を阻止するという完全勝利をかちとった。しかも、この教科書闘争には関西地方委員会の教労組織のメンバーが各分会オルグのかたちで結集・参加した。また、8・10には全関西の労働者・学生・市民が支援闘争に総決起していった。つまり、全関西の革共同組織が宝塚市現地の闘争の流れとその形態を尊重しつつ、総決起していくという闘いが実現されたのである。また、この闘いは東京杉並区の教科書闘争の7〜8月的発展と直接間接にはっきりと連帯しあって闘いぬかれたということ。この意味では05年の教科書闘争は基本的に東京杉並区とこの宝塚市の闘いを二つの軸として闘われたと総括していくべきものとしてあるといって過言ではない。
 また全逓の闘いも、関トラの闘いは『前進』などでもとりあげられているように、全逓加古川分会の闘いと内的に結合して、今日の全逓郵政民営化情勢にたいしてブツダメ・ストにむけて全国から可能的闘いの火を最大限あげていくという革共同の全逓での闘いの力強い一環を形成しているものである。

7)05年秋のホッケーがもたれたのはこういう背景の下であったのである。
@本来、ホッケーでの討議は、前回ベルリン以来の関西での闘いの発展や党建設についての総括を全体的に行い、ベルリンの提起と討議を検証しつつ、当面する党建設の課題や党内での討論(一定のかたちの党内闘争をふくむ)を行うべきものとしてあった。
Aまた、清水、高木同志にとってみれば、各種の報告や事前のトーク(政治局会議etcをふくむ)をとおして、上記@の内容の大要をつかんで会議にのぞむのが本来のすがたであった。〔*高木同志はこれを一定していた〕 Bしかし、ホッケーでの討議は、全党的レベルの総括や方針について提起した清水の報告について一定の討論を行ったのち、関西地方委員会的組織建設についてのテーマの討論となったが、与田は基本的にここで〈関西の新指導路線の前進のためには関西地方委員会の細胞的一致がカギだが、毛利同志にはこの点で問題がある〉という方向で問題をだした。これは同時にじつは〈地区委員長会議etcでの兵庫県委員会、京都府委員会の同志の中央方針・路線への独自の見地からの批判・異論の提起が討論を「混乱させ」ているが、これと闘わない、むしろ容認している毛利同志の問題〉という問題と一体化してだされた。

 一定の討論のなかで、兵庫県委員会の岡田同志の「意見書」の問題に討論が及んだ。清水自身、このホッケーの直前にこの文書を読んだこともあり、きわめて積極的にこの討議に加わった。否、むしろ討議を主導したといっていい。本来なら上記Aで書いたようなスタンスで、ホッケーにかかわるべきだし、@で述べたような内容にしっかりとふまえて討議は行わなければならなかった。そうでなければ与田の関西地方委員会指導の総括と点検という根本がすっ飛ばされて、毛利問題へとすり替えられてしまう。それは断じて正しい方向ではなかった。したがって、上記の討論に清水がストレートに竿さすように発言していくこと自体正しくなかった。また、それ以前に、今回のホッケーへの準備として関西の現状研究・分析が十分されていないことは、清水の討議参加とその発言に大きな制約と限界を与えるものがあることを、組織者として明確に自覚してかかるべきであった。しかし、「岡田意見書」について、この文書のあまりにも激しい諸断定と徹底的・全面的ともいえる党中央批判の内容に、清水としては率直にいって感情的になってしまっていた。オルガナイザーとしてみて最低だと言われるであろうが、率直にいってそうであった。
 ホッケーでの自己のあまりにあきらかな誤り、暴走としていい誤りというものは、今日ふり返ってみるときわめて恥かしい。しかしこの「意見書」を読んで激しく感情的になり、いわば理性を失ったという事実の裏に何があるのか。どんな思想的・組織論的問題がひそんでいるのかをきちんとつきつめていくことはきわめて大切なことだと考える。その否定的教訓のなかから、じつはきわめて肯定的なものが示唆されてくるのではないか。

8)清水はこの岡田意見書が冒頭から05年の東京都議選闘争を教科書問題で闘ったことの誤りという弾劾からはじまって、徹底的に党中央批判のトーンで展開されていることに激しく感情的に反応してしまったこと(ここには権威主義的な感情がはらまれていることは確か)によって、この意見書のポジティブな本質的エレメントを見失ってしまい、この文書を典型的な経済主義者のものと断定してしまった。さらにこの「意見書」が兵庫県委員会指導部のコメントがつかないまま送付されてきたことから、最低兵庫県委員会委員長同志もこの意見書の内容に実質的に異論がないのだと推論し、ついにはそのように断定してしまった。
 ここからこのような傾向のグループが基本的に存在しているとほぼ確信してしまった。そしてここからさら怒りにまかせて、こうした傾向・グループというのは断じて許せない、徹底的に批判し組織的に粉砕していくべきだ(もちろん清水の場合、これはイデ闘(注:イデオロギー闘争)を通しての打倒ということで、党からの排除とか除名とかいう手段をまったくイメージしていなかったが)としてしまった。そしてこうした発想の延長線上で、例の宝塚教科書闘争での「請願書」の文面について、現実の闘いのなかでのあり方やその意義といったことを忘れてしまって、文面のみ読んだだけではなはだしい逸脱として断罪することにのめり込み、宝塚闘争全体の圧倒的勝利の階級的意義をも見失って(または見ようとしないで)、事実上全体的に否定的にとらえてしまうというとんでもないところまで行ってしまった。
 ここでは問題は二つあると思う。ひとつは、岡田意見書は経済主義的本質をもつというように読んでしまうのは、やはり重大な読み違いであるということ。その場合、文面での展開をそれとしてとらえるとともに、それを自立化させてしまうことなく現実の運動の判断との関連で論じてゆくべきこと。いまひとつは、党中央(または指導部)にたいしてかなり系統的な批判がうちだされ一定のグループが形成されている現実にたいして、どのように組織的に討議を組織すべきかについて清水自身として本当に正しい考え方を歴史的に獲得し体得してきているであろうか、あるいは分派問題でのスターリン主義との決別を本当になしとげ体得してきているであろうかという次元の問題である。これらの二つの件についてさらに考えてみる。

9)まず岡田意見書をどううけとめるのかということについて。
@岡田意見書をあらためて読み返してみて、新指導路線の下で革共同が真に前進していくためには、この意見書についてきちんとした組織的討議が組織できる党になっていかなければならないのだとつよく感ずる。
Aこの意見書は革共同のこれまでのあり方・闘い方について、全般的にきわめて批判的(否定的といってもいい)な論調で一貫している。しかしよく読むと、この文書で岡田同志はこれまでの党のあり方・闘い方を岡田同志独自の観点から鋭角的に否定することをバネとして、新指導路線の提起の内容を純化して強調していることがわかる。
 じっさい岡田同志がこの文書で一つの基調ともしている「革命の主体は労働者階級であって(α)、党ではない(β)」という論点も、党を革命の主体としてずん胴にとらえてしまう傾向にたいして、この間新指導路線の中で、あるいは05年『前進』新年号などで、(α)について鮮明におしだすかたちでくり返し強調されてきたことである。また政治闘争をとおして党をつくるあり方についても、いわゆる三大決戦論の止揚として新指導路線はうちだされたわけです。労働者細胞を生産点に確立することを基軸に労働組合運動を決定的に位置づけ、そこでの闘いの前進を総括軸にすえて時々の階級情勢のなかで必須不可欠となる政治闘争をもそのなかで正しく位置づけて闘うという方針をとっていくことにしたのである。また労働組合の革命論的意義を明確化し、党―ソビエトとしてのみ革命が論じられるあり方にたいして、党―労働組合―ソビエトとして革命における労働組合の決定的意義をとらえ返し、『賃金・価格・利潤』(マルクス)をすぐれて労働組合論として読み、そこから経済闘争についての意義をこれまでの理解をはっきりとこえて確認してきた。またレーニン研究的には、レーニンの「工場法」「新工場法」時代の闘いや「社民党の綱領草案と任務」などの文献を今日的にとらえ返し、『なにをなすべきか』の正確な理解をかちとるために努力してきた(『12年間』etc)。
*なお岡田同志が論じていることで、この間中央的レベルできちんと論じてくることのなかった重要な事項は「党内民主主義」にかんする部分である。これはきわめて重要だが、のちにふれることにする。
 ただ岡田同志は、党が全体として新指導路線の物質化にむかっていまだ決定的に不十分にしか突入しえていないという激しい危機意識から、新指導路線=革命の主体としての労働者階級=労働組合=経済闘争=労働者細胞建設というかたちで問題を激しく純化する方向で意見書を書いているということである。
Bたしかに私自身がホッケー直前に読んで読み違ってしまったように、岡田同志の意見には、そのまますんなりとのみ込めないような叙述になってしまっているところがあることは事実だと思う。主な点をいくつかあげてみるならば――。
イ)「革命の主体は労働者階級である」は圧倒的に正しい。しかし、「革命の主体は労働者階級である、党ではない」というとき、「党こそ革命の主体」という意見の否定としては有効であるとして、では党とは何か、なぜ労働者階級はみずからを党に組織しなければならないかetc。
ロ)経済闘争の決定的重要性の強調は本質的にも現実的にも圧倒的に正しいと思う。と同時に、政治闘争のもつ決定的重要性もまた明白である。この階級闘争総体の構造をおさえて、そのなかで経済闘争の本質的重要性をおさえることは必要である(ここはこれ以上いわずとも岡田同志にも明白だと思いますので略)。
ハ)労働者階級の現状、とりわけ90年代央以降の急変のなかで非正規労働者が登場していることなどの具体的現実に踏まえていくこと。そのなかで非正規労働者の階級的組織化の重要性を強調していることは圧倒的に正しい。まだ革共同としてこの点では決定的ブレークスルーをかちとっていないという岡田同志の指摘は重要である。しかし同時に主張されている、いまや本来の労働者らしい労働者は非正規労働者であり、革共同の工作の中心をここにおくべきだという趣旨のことがやはり主張されていて、これはやはりストレートには納得できない。この場合、労働者階級の規定が「無産者」という規定でおさえられているが、労働者階級は単なる無産者ではないわけです。それこそ「賃労働と資本」の関係である。労働者階級は自己の労働能力を労働力商品として販売し、「資本と賃労働」の関係のなかで資本の賃金奴隷として働く以外に生きられない階級として世界史的に生み出されてきた階級である(以下、やはりここでも岡田同志にとっても自明と思われるのでくり返しません)。
ニ)4大産別決戦論について、岡田同志はどうも4大産別をめぐる大きな階級的対立が生じている以上当然といったかたちの理解をしているように見える(すくなくともホッケーで討議した第一回目の意見書では)。しかし革共同としては、日本の労働運動の歴史と現状のなかで既存の労働組合のなかでの闘いから召還してはだめだという立場をまずもってきた。そのうえで4大産別は戦後労働運動における戦闘的労働組合の流れを今日さまざまに残し継承しているところがあり、80年代後半〜90年代〜2006年の過程では支配階級の全階級への攻撃の焦点としてこの4大産別が設定され、次々と攻撃が行われている。しかもこのなかで、革共同はじつは創設以来の労働戦線での努力の集中的結実として動労千葉を位置づけることができる。したがって動労千葉―国鉄戦線というルートで労働運動の焦点にかみ込み、日本階級闘争の活性化にかかわっていくことが一定可能である。またこの間の教労、全逓、自治労の闘いを見ても、そこには依然として闘いの炎が燃えつづけ、あるいは新たに掘り起こされている。早い話が、先に言及した宝塚闘争あるいは全逓の加古川や関トラの闘いetcを見ても、じつに4大産別にからんでいるわけです。もちろん日本労働者階級6000万が革共同の対象である。しかしなおかつ「4大」というところで労働者階級とブルジョア階級の闘いの炎が燃えていることは6000万労働者のそれぞれの地点での闘いにとっても重要なのであって、じっさいにも動労千葉を軸にして三労組が共闘していることを見てもあきらかです。B組合、C組合という組合にとっても「4大」のもつ意義はあきらかな面があるからである。また宝塚闘争自体も大きくは教育労働者の運動の歴史と現状のなかで、「日の丸・君が代」不起立・教育基本法改悪阻止・「つくる会」教科書etcをめぐる教労の闘いが全国的=現地的にもコアのコアを形成し、これのもとに市民団体的形態をも駆使して多くの産別をふくむ労働者人民を結集するものになっていると思う。
*たしかに「4大」という表現が「6000万」を即自的にのみ込んでいない表現であることについての自覚は強烈にもつべきだと思う。内容的に「6000万」の闘いとしての意義をおさえていくガイストなしに「4大」をさけぶなら、反発もうけると思います。しかしなお、いま「6000万」にとって「4大」の攻防がみずからの攻防となっていることは、それこそ党としての革共同がきちんと説得しAP(注:宣伝・扇動)していくことだと思う。
ホ)都議選闘争総括上の諸問題。
*都議選闘争を教科書闘争で闘ったことは基本的に間違っている――ということはないことについては、すでに岡田同志も了解されているのではないかと思い、略とします。いくつかの前提的説明の必要。
へ)以上の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)はもっと簡単にすべきと思っていたが、やはり岡田意見書についてきちんというべきことはいうという真摯な討論をふっとばし、大きく見てポジティブであるというようなうけとめ方はやはり失礼だし生産的でないと思い、あえてすこし書いた。
C岡田意見書には、一読するときすぐに思いうかぶ以上のような「ストレートに納得できない」部分、またはそういうようにうけとられてしまう叙述があることは事実であると思う。しかも討論に際して、その契機は大した問題ではないとする整理をするのも若干政治主義的だと思う。疑問があればドンドン討議すべきなのだ(もちろん同志的信頼を基礎にして!)。だが、にもかかわらず今日的に熟読するなかで、次の諸点(岡田同志がある意味でもっとも強調している点でもある)などについては今日の革共同にとってきわめて重要な主張であり、Bで述べたようなことをもって否定したり軽んじたりしてはならないと思う。
  第一にやはり決定的に重要なことは、新指導路線にとっての経済闘争の位置づけである。労働組合を決定的な軸点とすることを考えるとき、経済闘争を圧倒的に重視しない限り、成り立たないといっていいものがあると思う。もちろんマルクスの『賃金・価格・利潤』からしてそうであるように、経済闘争は同時により大きな総括軸をもって闘われる。それは賃上げの闘いを闘いぬきつつ、同時に究極的には賃金奴隷制の鉄鎖を断ち切っていくという革命的立場から、団結論として総括していくことを提起している。また今日、日本の現実の階級闘争は06年通常国会を契機にはっきりと改憲をめぐる攻防に大きく突入した。その意味で改憲闘争としての改憲闘争をいまこそ労働者階級の闘いとして組織していかねばならない。その意識的先頭に立つのは革共同でなければならない。まずはじめは百万人署名運動の300万署名運動への突入としてあるにしても、改憲闘争としての改憲闘争にいま突入しなければならないことは明白。じつは前回のバーゼルの方針討議は、中野同志のこうした改憲決戦論をもって11月を闘うという内容を軸にして行われた。
 こうした確認をしっかりするとしても、なおかつ革共同としては労働組合の闘いにこだわり、4大産別決戦にこだわり、別言すれば経済闘争に全面的にこだわっていかなければならない。また岡田同志が自己の経験もふくめて言っているように、労働者の中で組合づくりをにない経済闘争を闘うのはなまやさしいものではない。たとえていえば、いま動労千葉の同志が闘いぬいている反合・民営化反対、安全無視のリストラと労働強化、事故責任の現場労働者への転嫁との闘いは、それ自体は労働条件の悪化阻止、改善要求、労働者の権利の防衛の闘いだ。範疇的にいえば、大きくは経済闘争に入るものだ。しかしこれ自体、資本との死活をかけた決戦であり、労働組合の存続がかかっている闘いである。それは改憲阻止の主力としておどりでる労働者―労働組合の闘いを今日的に圧殺するものである。本質的にいえば、侵略戦争を内乱へ転化する労働者の基本細胞が生産点に根づくことを断じて許さない超階級的な攻撃である。革共同は全階級の中でこのような闘いを闘いぬくことのなかで、それ自身が改憲阻止の闘いと直結していることを自覚しつつ、しかし同時にそのままで改憲闘争にならないこともはっきりさせ、また労働者階級は直接に政治闘争に決起する階級的本質と能力をもっていることを確信して、4大産別決戦、経済闘争――と改憲決戦を結合して闘いぬかなければならない。
 以上、新指導路線は労働組合を基軸にすえているし、それは経済闘争を絶対条件ともしていることについて、革共同の歴史的な弱さ(政治闘争主義)をするどく修正することを提起しようとしているものとして基本的にはとらえるということである。
 岡田意見書で第二に決定的なことは、非正規労働者問題の圧倒的大きさを直視せよと言っていることである。これは先にBで述べたような点をおさえたうえで、今日の日本労働者の状態を革共同はもっともっと学び、研究し、分析し、また暴露していかなければならないということ。この点でたしか04年の『前進』新年号か何かで、労働者階級を戦争に追いやる帝国主義という暴露とともに、労働者階級を食わしていくこともできない帝国主義ということをもっと暴露すべきだという確認をしたことを想起したい。じっさい、あの討議以降、『コミューン』の内容はどんどん改善されていったと思う。また『前進』もその方向で必死の努力をはじめていると思う。しかし岡田同志の目から見ると、こうしたレベルでは問題にならないとされている。やはり率直にいって、まだそうしたレベルにあると自覚すべきだと思う。自分自身まだあまりにもそうした暴露の力をもちえていないことをこの間痛感している。とくに具体的には、労働組合の闘いをつくっていくとき、その職場で働く非正規労働者との関係をいかに闘争論化するかは、これからますます大切になると思う。
※この他のいろいろな論点はとばさせてもらう。乞う了解。
 岡田意見書で第三に決定的なことは、党内民主主義の問題である。これについても革共同の歴史的総括、また清水個人の思想的総括としても、基本的に革共同は党内民主主義を貫徹する立場にしっかりと立つべきだという主張は基本的に正しいと思う。
 →ただこれについては次のテーマとして論じさせてもらう。

10)ホッケーにおける清水(指導)の誤りをひき起こしたいまひとつの大きな〈思想的〉〈組織論的〉問題性――清水における党内民主主義にかんするスターリン主義的なものからの脱却の不十分性――
 この間、とくに「政治局会議Tへの提起」やさらに「バーゼルへの提起」を踏まえて今回の「政治局会議Uへの提起」を書いていくうえで、ホッケー指導における清水(指導)の破産を直視することに徹底的にこだわって考えることにひとつの重点をおいた。そのなかで長い自問自答の末、やっと重要な問題の核心(のひとつ)ではないかと思う事柄にたどりついた。それは清水自身が非常に長い、党や運動の最高指導部に位置してきたなかで、知らず知らずのあいだに官僚主義的なものに犯され、党の組織的あり方の原則ともいうべき民主主義的中央集権制ということについて結局、思想的・組織論的に把握し身につけてくることができてこなかったのではないかということである。
 たしかに自分もレーニンはよく読む方だし、もちろん『左翼空論主義』(注:レーニン『共産主義内における「左翼」空論主義』)についてもくり返し熟読している。またレーニンが大会とその決定ということを強調し、党内における選挙制、報告制などについて、05年の革命後から17年革命にいたる過程でも、また17年から21年の過程でもくり返し言及していることも知っている。他方でレーニン・ボルシェビキのこの問題での考え方のなかには、彼ら自身必ずこのテーマは「歴史的諸条件」によって具体的な党内民主主義のあり方は変動していくとしていて、非常に大幅なおどろくほどの党内民主主義が措定されている場合から、『なにをなすべきか』における「民主主義以上のもの」もあるとか、10回大会での分派禁止にいたるまで大きな振幅もある。またレーニンの主張の場合、そのときどきの階級情勢、とりわけ党内情勢のなかで、レーニンとレーニン派がいかに現実的に勝利していくのかということと、いわば原理的・理論的に本来どうあるべきかについて、かなり密接不可分になって論じられているので、今日の革命党をめざすものが党内民主主義についてどう原則的に考えるのか、またいまの革共同のおかれている現状のなかでどうすべきかについてはレーニンの言葉の断片をとりだしてつなぎ合わせるといった方法にはちょっと問題があることもあきらかであった。
 たしかに日本の反スタ運動の創成期では、JCP(注:日本共産党)の中でギリギリまで党内闘争をするということがあり、トロツキーを手がかりにレーニンも読み直しつつ、ボルシェビキ党では分派やグループは禁止されていなかった、10回大会の分派禁止は内戦下、プロ独の危機の下での例外的なあり方だったという主張をかなり重要な主張として、スタ党のしめつけと闘った。そしてそれはその後の革共同の考え方としても原理としては継承された。しかし当時をふり返ったとき、分派の自由を主張した〈トロツキスト〉側は、そもそもJCPをもはや大きくぶっこわすことを考えており、本来の党内闘争というものとはすこしずれていたので、党内闘争の本来的あり方として〈思想的〉レベルでゴリゴリに確認されるという点は、現実の問題として弱かったと思う。清水自身についていえば、この点は明白だったと思う。
………………
 しかし今回、ホッケーにおける岡田意見書問題等々についての討議をふり返ってみるとき、革共同がいま新指導路線で労働者階級や人民大衆の中で生き生きと闘っていくためには、行動上の統一という大きな前提の下で、中央批判の討論もふくめて討論が自由に展開できる党組織としての〈文化〉を確立していくことが大切であるということをつくづくと感ずる。すなわち党は、民主主義的中央集権制の下で党内民主主義をきちんと展開していく力・経験・〈文化〉をもたなければ、本当に階級の大地に根ざしてダイナミックに自己変革(変更)を実現していく党にはなれない、党としても大成できないということ。

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 ホッケーに即して反省的にとらえれば、岡田意見書がもっていた中央批判の直接的激越性に感情的となり、その結果内容も正確に読みとれず、純粋の経済主義だなどとして徹底的に粉砕すべき対象として断定し、そのように対応できない毛利同志などをいわば党路線からの逸脱者として徹底的な自己批判を迫るというような展開となったのであるが、こんなやり方では党は建設されるどころか破壊されてしまうということである。たとえ激しい中央批判の文書であろうと、あるいはあえていいきれば、よしそれが分派やグループという形態をとったものであろうと、一定の党的前提下での討論と行動の原則の下であるならば、それは力の分散や浪費になるのではなく、より意見書提出者やそのグループや同じ諸条件で闘っている諸同志・諸組織の叡智の網のなかできちんと討議されることで、内容的検討はよりすすみ討論は深化し生産的結果が生み出されるということ。今回のホッケーの場合も、この間05年のホッケーの後から06年3月にいたる過程での関西地方委指導部会議の討議・確認録などを通読すると、与田は毛利同志・塩川同志らに分派規定などをはりつけ追放しようと全力をあげているが、その間の与田の言動を見ていると、兵庫県委員会・京都府委員会の諸同志などと直にどんどん討議していくことをなぜか逃げまくっているのである。もっとも破綻的なことは、地区委員長会議で関西地方委方針が通らずグジュグジュになっているといって毛利同志の責任を追及しているが、与田自身がイーグルをやればいいではないかということには逃げているのである。

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 ホッケーにおける清水のあり方の誤りにとって、中央批判の意見書やそれを支持するようなグループ(あるいはたとえ分派でも)があっても、それについてきちんとした討議を行い、それについてホッケーのその場で決着などつかずとも、しっかりしたルールの下で正規の組織的討論をつづけていくことを確認すればよかったのである。ましてやこの「意見書」の粉砕について強引に毛利同志の責任と決めつけ、毛利同志の自己批判が完成するまでホッケーをつづけるというようなことはせずともよかったのである。またそうすることによって、清水が与田の毛利(塩川)同志らを追放する方向で強引に反党的な行為を進めていくねらいに同調したり、あるいはそれを助長したり共犯者化していくこともなかったのである。

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 いずれにせよ、十分に書けないが、党内民主主義の重要性ということについて、清水は政治活動の歴史のなかではじめて本格的に自己の思想の根幹にかかわるものとして自覚することができる。「民主主義的中央集権主義」のあり方を事実上中央集権主義に圧倒的に重心をおいていた清水のあり方にとって、コペルニクス的大転回としての意義をもっている。「3・14」をとおしてこのことを決定的に学ぶことができたことは、清水にとって自己変革上巨大な意義をもつと考えている。

11)ホッケーにおける宝塚問題の討議での清水の大脱線は、それ自身清水が、新指導路線の真髄をなし、現場で闘う労働者同志の闘いの場に身をおき、一切の討論をそこから行うというイロハをふみにじったところにまず問題があるが、直接的には岡田意見書問題での討議のなかで、激しい中央批判やそうした主張をするグループにたいして反対派的に位置づけてひたすら徹底的粉砕の対象とするというあり方、あえていいきってしまえば分派的なものへの中央指導部官僚としてのスタ官にもひとしいような憎悪の感情にひきずられて、あらゆる契機をつかまえて批判してしまうという方向につっぱしってしまったものということが核心だと思う。
 そのうえで問題になった「百万」の請願書の条項の問題についていえば、この間送付してもらった宝塚闘争の資料集を見る限り、「つくる会」教科書採択阻止の闘いとしては99パーセント阻止の方向にもっていっていたと思われるが、なお闘争の当事者として絶対にも絶対を期すということは必要でギリギリのかたちでも「百万」の請願書を通すことにこだわったというのは、ひとつの実践的判断としてありうることだと思う。そのうえで「共産主義者は運動全体の利害を代表する」「プロレタリアートの現在と未来の利害を代表する」という観点から、ともに闘った人民大衆、とりわけ教育労働者、教労産別委の同志たちのこの闘いとそのなかでの請願書の文面についての自由な討論を通して率直な感想を聞いて参考にしていくということはあっていいと思う。  ただ闘争全体が圧倒的な大衆性と戦闘性をもって実現され、あの「請願書」がそのなかでネガな意味をもっているということはまず感じられないということは明白で、ホッケーでの討議が「請願書」のあの文面を云々して、宝塚教科書闘争の現地的・関西的大高揚、そして全国的にも4大産別決戦全体に与えた積極的インパクトを無視するような議論をしたのは本当に間違っており犯罪的であったことを心から自己批判したい。
 なおあえてつけ加えさせてもらうならば、06年の宝塚教科書闘争の総括において、やはりかなり大きな節々での討論があったと思います。そうしたなかで、イ)宝塚教科書情勢の緊迫化のなかで、学校選択制反対の闘いから教科書阻止闘争へという当面の目標の転換をかちとっていったときの諸問題。ロ)宝塚教科書闘争が現地攻防を軸にしつつ、あきらかに全国焦点化していくなかで、全国的(さしあたって全開西的)闘争へと展開していくなかでの諸決断、諸問題の総括。ハ)さらにいえば、東京杉並区を軸にしての関東・全国での「日の丸・君が代」不起立闘争決戦から教科書決戦の展開が宝塚現地といかに交叉していったのかにかかわる諸問題〜〜などについて、すでに現地同志(大久保同志などの文書)から総括が出されていますが、清水としてもいますこし資料を読み込んで考えていきたいと考えています。(つづく)

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