政治局会議Uへの提起(その3) 【付属文書】

[06.7.〇〇] 清水丈夫

(承前)
九】清水指導体制の歴史的あり方についての自己批判的総括のために

1)与田の財政的腐敗と党の私物化(官僚主義的・権力主義的党支配、暴力的支配)の進行・深化をみずから告発し変革できず、逆にホッケー(ベルリン・ホッケー)では、その与田・関西地方委体制の強化に加担してしまい、3・14革命によって糾弾・打倒されることによって、非公然部門基軸で非公然・公然指導体制を形成してきた清水指導体制自体も打倒された。この厳粛な事実を基礎として先のバーゼル(→その後の新ローレンシア)では、すでに新指導路線にとって桎梏と化した非公然部門基軸の非公然・公然体制としての清水指導体制を断固変革し、公然部門基軸(その下での新たな非公然部門・公然部門関係を模索することをふくむ)の革共同指導体制を新たに構築することを確認し、次の正式の党的確認にいたるまで暫定的に活動を開始していくことが決定された。

2)清水はこのバーゼル・ローレンシアの決定(確認)を断固支持し、新しい公然部門指導部の下に固く結集し、その勝利的確立のために全力で闘いぬく決意である。ここではこの立場から革共同のPT・PU時代、5月テーゼと90年代、第6回大会、21世紀初頭の現在(03年新指導路線)などの主客の歴史的情勢展開を踏まえつつ、今日的な自己批判的観点(立場)にしっかりたって、この間の革共同中央、あえて端的にいわせてもらえば清水の指導について総括をこころみたい。

3)まずPT・PU時代については、やはり第6回大会的な確認を前提にして討論しなければいけないと思う。PT・PU時代をただ単に上意下達の官僚的指導体制が成立した唾棄すべき時代というようにのみいってはならないと思う。もちろんそのもっている否定面やその歴史的止揚ということを決して軽んじてはならないが、PT・PU時代を勝利的にくぐりぬけることができなければ革共同そのものが存在していないということをおさえない議論は絶対避けるべきだと思う。
 第6回大会で確認したように、三全総路線を推進し70年決戦を闘いとった革共同はカクマル反革命(それはK=K連合として警察権力と結託していた)による党絶滅攻撃をうけた。じっさいにも本多書記長をはじめとして多くの同志が倒され、革共同は基本的にせん滅・一掃されようとしていたのである。これにたいして革共同がこれを二重対峙・対カクマル戦として一個の戦争としてとらえ、党組織の力をいったん軍事力に転化して死力をつくして反撃し、逆にカクマルを一掃していく戦争をやりぬくことが絶体絶命的課題となったということである。しかも、この激闘がじつに20年もつづいたということなのだ。すさまじい消耗戦だったということができる。ではこれをもっと短縮できたのか? これは第6回大会でも討議したが、やはり簡単ではなかったのだ。革共同が反帝・反スタの党としてマルクス主義・レーニン主義を奪還してプロレタリア党として立っていくためには、カクマル反革命という未曾有の反革命と長期間闘いぬく必要があったのだ。また念のためいっておきたいことだが、このPT・PUの間、戦争のみしていたのではないということ。正確にいえば、戦争をこれだけつづけるには戦争だけしていたのでは勝てない、つづかないという面が当然にもあったのである。三里塚闘争、入管闘争、狭山闘争、反戦・反安保闘争、反天皇制闘争などの大衆運動はやはり革共同にとって死活的だった。また労働戦線的にも動労千葉の防衛を軸にしてカクマルの攻撃と全面的に闘いぬくことが求められていた。そして何よりも決定的なことはイデオロギー闘争であった。カクマルとの闘いは反帝・反スタの仮面を被ったファシスト的な民間反革命との闘いであり、反帝・反スタ綱領をめぐるすさまじいイデオロギー闘争が不可避だった。そして革共同はじつはこの20年間のイデオロギー闘争でカクマル・黒田寛一を基本的にうちやぶったのだ。だからこそ革共同はついに5月テーゼを闘いとり、動労千葉の対カクマル戦的勝利を先頭に90年代へとつきすすみ、今日の新指導路線への道をきりひらくことができたのだ。  このPT・PU体制は、指導体制として非公然部門基軸に非公然・公然体制を不可避とするものであった。革共同は二重対峙・対カクマル戦を一つの戦争としてとらえ、これに対応する非公然体制を徹底的に構築することによって、カクマルとの全面戦争を長期にわたって闘いぬくことができた。革共同はこれまでの公然指導部体制だけの経験をこえて、ひとつの新しい指導のあり方をつくりだすことができた。第6回大会でも確認したが、これは革共同にとってひとつの財産であり、戦争と革命の激動の時代への突入にあたって、これは再び革命的意義をもってくる。
 しかしここで確認すべきことにとって、以上はじつは前提にすぎない。やはり20年にもおよぶPT・PU時代のこの体制は、直接的には党的な組織力をさしあたって戦争勝利のため軍事的にギリギリまで動員するものとしてあり、軍事的戦争的方針の貫徹が第一義的となる傾向がつよく、中央指導部からうちだされる戦争方針(路線)を上から下へ一定の党の指導系列をとおしておろし、それを何としても実現してもらうといった指導のあり方にどうしてもなりがちであり、基本細胞を起点とした下から上への提起といったエレメントはなかなか働かないという問題性を根づよくもっていたことである。しかも何よりも革共同の党のエネルギーが軍事上の一切の兵站の調達にかたよって投入されるなかで、党と労働者階級・学生・人民との関係が個人的な戦争への協力者の組織化、財政的カンパ網の組織化など、いわゆる人民の海的闘いにしぼられる傾向がつよく、動労千葉で一定の労働組合運動の闘いを堅持して苦闘していることをこえ、全産別の労働者階級の中に現実に根をはっていく本来の党的任務において、革共同の指導体制を戦時下的に創造するというイニシアティブを中央的にはとれなかった。
 また戦争の緊張と激務の連続のなかで、『前進』などをとおして革共同的に戦争的意志を確認し団結を固めるという以上には、党員としてのマルクス主義的学習の組織化などを系統的に遂行できなかった。これは党指導部形成という点からみると、党組織を軍事的に団結させ動員する、そのための討議を組織することが中心となり、イストとしてのマルクス主義的自己形成、労働者階級の中での闘いをとおして自己を労働者党の一員へと感性的につくりかえていくといったこと、総じて労働者細胞を労働者同志に学びつつ形成していくという三全総以来のあり方を継続し発展させていくという点で、10年、20年といった単位で希薄化し立ち遅れるという事態を生み出した。
 もちろんPT・PU時代に戦争中心で革共同がつっぱしる以外になかったといっても、戦争論からして当然のことであるが、戦争の力の真の根源は党であり、労働者細胞の同志たちであり、根底的には労働者階級である。したがって、戦争への支持、戦争への納得、戦争への協力、戦争への継続的決起をかちとるためには、さしあたって全党の同志に訴え、中央方針について同意と賛成を得ることが決定的である。この意味では『前進』、とりわけ新年号については一種の公開の大会議案であるという考え方で、中央指導部としての総力を投入し、新年号の全党討論およびそれへの読後レポートについて必死に取り組むということは意識的に行った。
 また、PTからPUへの移行は対カクマル戦を第一の任務から第二の任務に変えるという大きな転換(10年後の5月テーゼの前提を形成するものでもあった。あとからいえば)であったので、大規模な特別の方式で5回大会を開催した。もちろん当時の対警察上の恐怖からして代表選出は指名方式だった(もっとも各地方の自主性にかなりまかせたものも多い)。
 PI・PU時代を総括するとき、非公然部門基軸の非公然・公然指導体制というあり方は不可避であったことは事実であり、それは戦争上、その勝利のために一定機能したということは間違いないと考える。しかしそのうえで、党が戦争(方針)の貫徹の指導体系(きびしくいえば上意下達の官僚体制)となり、党としての本来のオルガナイザーとしての形成という点では非常に問題性をもったものになっていったことについて、歴史的に仕方がなかったとしていいのかどうか。これは第6回大会でもある同志から指摘があったことだが、今日ふりかえってみてきびしく考察してみる必要があると感じている。
 やはり非公然指導部のキャップであった清水の革共同の組織者としての限界、幅の狭さ、思想的未熟性、総じていえば党創成以来、三全総以来の本多書記長をはじめとする先輩同志のもっているものを十分継承しえていないことがあったため、その結果、戦争指導中心の党のあり方を不断に止揚しつつ闘うという大きさを党は本来もっていたのに実現できていかなかった――ということがあるのではないか。この点では何より党を労働者の党としてつくっていくという本来の三全総的なものについて、70年闘争やPT・PUを強烈に闘うなかで、清水自身に本当に身につけきれていなかったのではないか。また清水のマルクス主義の理解はまだまだかつての大PB(注:大政治局)の人々に比して不十分であり、清水自身が党内の多くの理論家たちや学習会組織者たちのもつ大きな力に無自覚で、戦争下に労働者組織をこつこつとつくっていく闘いを創造的に提起しつくりだしていくといったことについてイニシアティブをとっていくという点で、一種の日和見主義があったのではないかと思う。
 清水自身はPT・PU的な戦争的あり方だけでつっぱしることの不可能性をつねに意識しながら、90年三里塚・天皇決戦での大勝利をテコにこれを期して中野同志との討議をとおして5月テーゼを提起した。そしてその際、革共同はPT・PUに勝利した。そして勝利して5月テーゼにたどりついた。しかし同時に革共同はいま満身創痍である。5月テーゼはいわば生態防御反応の側面をもっているともいった。これ自体は客観的にそうだったと思うが、PT・PUを〈党は労働者の党〉〈党をマルクス主義の党としてつくる〉という原理を戦争的困難のなかにも貫くいまひとつの組織者としての深さ、大きさをもちえていたら、戦争下の党内民主主義という点でもいまひとつ大きな枠組みを創造していくことができたかもしれない。これは逆もいえる。党内民主主義について思想的にしっかりしていれば、党の指導のもつ幅と深さをもっと増すことができたということもできるということ。

4)5月テーゼ以降の大きな区分け。
(1)5月テーゼから95年まで
(2)(95年)19CC〜20CC〜第6回大会
(3)第6回大会〜新指導路線〜06年3月3・14革命
(4)06年3月3・14革命〜

5)5月テーゼについては詳述するまでもないと思う。ただ次の点はおさえておきたい。
@5月テーゼはPT・PU時代の終わりを基本的に宣言し、革共同がレーニン的オーソドキシーにのっとってこれからすすむことをあきらかにした。
A党組織論的および路線的には中野×清水にもとづく全党への提起として、PT・PUをとおして守りぬき生きぬいてきた「動労千葉細胞と党中央(委)」という原点にたって、労働運動、労働組合運動、大衆運動をとおして党をつくっていく路線をとることを大きくうちだした。
Bしかし5月テーゼの提起は一直線で物質化することはできなかった。まず対カクマル関係は一定の過渡的時期をなし、結柴同志への殺人的白色テロル(注:91年4月7日)などが95年まではつづいたし、何よりも主体の側で対カクマル戦争モードをのりこえるのは一朝一夕ではいかなかった。決定的なことは、革共同はすぐれて労働者党としてありマルクス主義で党をつくっていくという点で、PT・PU以来の党的体質をのりこえてイスト、オルガナイザーを形成していくという点で悪戦苦闘をつづけなければならなかった。
Cまたこの時期はのちに言及するが、PT・PUの20年の激闘のなかで非公然部門指導が疲労困憊し、病気、死亡、思想的転向分子の逃亡(白井朗)などの激動にみまわれた。5月テーゼ時代を主導する革共同指導体制の模索と形成の闘いの時期であった。

6)95年の19CCから20CCをへて第6回大会にいたるプロセスは、今日からみてきわめて大切な時期であった。この時期は三つ(三つにしてじつはひとつ)の点できわめて重要。
@ひとつは、19CC・20CCの討論は、CCという公式の重要会議で労働者同志をふくめて具体的な国鉄産別での闘いのあり方をめぐって本格的な真剣勝負の討論が行われ、共産主義運動をすぐれて労働者階級の自己解放闘争としてとらえること、また党を労働者党としてつくっていくことについて一定の確認が行われたということ。19CC報告決定集、20CC報告決定集を見れば、そこに第6回大会の基本的方向がすでに示されているし、新指導路線やさらには今日的な3・14革命で提起されている諸思想が論議されていることを確認できる。そしてそのうえでかちとられた第6回大会は議案はもとより、それ以上に討議をとおして、革共同は「労働者の党」として党を建設する、これこそ革共同が飛躍的に前進する環であると党大会の圧倒的決議として確認・決定したことである。またこの第6回大会が大会T・大会Uとしてもたれ、大会Uは大会T以上に上記の「労働者党としての党づくり」ということを圧倒的に確認するものとなったということ。
Aいまひとつは、上記の@と一体のことであるが、このプロセスにおいて公然部門からすぐれた同志が政治局となって5月テーゼの新指導部建設の担い手となったことである。とりわけ決定的であったことは中野同志の政治局化と非公然政治局会議への参加であった。これは率直にいって、革共同指導部形成史上決定的なことであった。これは党中央と革共同の最大の基本労働者細胞とが、組織的・人的に一体化することをも意味しており、政治局会議、その討論、そのテーマはあらゆる意味で一変したといっていい。中野同志が労働組合運動の鉄火の現場に身を屹立させたなかで、党の政治闘争をふくむ全テーマに労働者革命家として高度な判断力、決断力をもって政治局会議に加わってくるあり方は、党にとって革命的変革といってよかった。この中野同志の政治局会議参加によってついに革共同はPI・PU期のPBの限界をこえ、ようやく5月テーゼを実行できる新指導部体制を形成していったといえる。第6回大会自体の開催もその内容の戦取も、この中野同志の政治局会議参加なしにはありえなかったといっていい。
 第6回大会の討議自体も中野同志が最高指導部として第6回大会に参加したことをぬきにはありえない。そして、その第6回大会の過程からバーゼルという画期的な組織が生まれた。
Bさらにいまひとつには、中野同志の参加は革共同のあり方、とりわけ革共同の指導部のあり方について、労働者民主主義――党内民主主義の精神を圧倒的にもち込んでくるものとなった。CCの開催や第6回大会の開催は本質的に中野同志の要請をうけたものとしてあった。“大会によるきちんとした選出なしに労働者はやはりPBを自分の最高指導部とは本気で認めないでしょう”という趣旨の発言をしている。

7)第6回大会I、同大会U、バーゼルをへて03年の新指導路線の確立、さらに04年、05年、06年3月にいたる闘い。
@第6回大会(I、U)をひとつの到達点、出発点として、さらには03年の新指導路線の確立をバネとして、革共同の指導体制は大きく変動し、新指導路線の爆発的発展のためにはすでにひとつの基軸として生み出されてきた公然部門指導部(中野同志を先頭とする労働者同志の諸提起と、それをうけて立ち、それを全本社指導部・全公然部門・全革共同のもとに実行・実現していく天田同志を先頭とする公然部門・ローレンシアの同志たち)が革共同の指導的基軸となり、その下で新たな非公然部門・公然部門関係を模索していくべきときをむかえていたということができる。
Aしかし、清水はこうした新指導路線で進行している積極的な指導体制の根底的変動にたいして、やはり正しく対応しきれてこなかったと反省している。本質的にいえば5月テーゼ以降、しかし一定の過渡期の存在を認めるとしても95年以降、19CC〜20CC〜第6回大会とすすむなかで、清水は基本的にこれまでの非公然部門基軸の非公然・公然体制から大胆に公然部門基軸の非公然・公然体制(形態は模索)へと移行することを措定し、中野同志をはじめとする労働者細胞の同志を階級的党的に心から信頼するとともに、その中野同志とがっちりとタイアップして労働者同志の存在と意識をしっかりふまえて中野同志を支える本社指導部・公然部門体制を必死で構築しようとしてきた天田同志(および公然部門指導部の同志たち)を心から信頼し、自由に自己を自己権力として展開していくことを百パーセント認め、それを援助し、支持していくこと、すなわち中野同志とともに天田同志の圧倒的な苦闘をみずから同じ立場において認め、百パーセント支持していく立場に立つべきであったということである。
 ところが清水は、天田同志たちの欠陥や足りないところをきびしく点検し、修正を求めていくというようなスタンスを意識的、無意識的にとってしまっていた。そのため本社指導部の自立がなかなかできないことを“なげき”つつ、それをカバーするためということで、より完璧なブレチンや「しかるべく」などを書き提起するというようなことに全力をあげてきたのである。そして、PI・PU時代と違って非公然部門という存在のもっている一定の時間的余裕を活用し、全力で文書作成に死力をつくすというようにしてきた。この非公然部門というかたちで与えられた一定の空間と時間はまさに労働者同志たちの血と汗のうえに成立していると思えばこそ、一時間も無駄にしない精神で文書の作成等に力を入れてきたのである。しかし、ある意味でここにこそ落とし穴があったといえる。
 やはり中野同志と天田同志たちの公然部門での基軸的な自己権力の行使を認め、それを百パーセント支持し、援助するという立場で、さまざまな試行錯誤があっても大きく見守っていくというスタンスなしに、またその彼らの苦闘を心から尊敬し信頼するということなしに、一見「完成された文書」がどんどん提出されてくるのでは、じつはかえって真の自己解放的決起を妨げてしまうということである。また同志的前提的に一体感をもてないから、心をひらいてどんどん本来の討議をしていくこともできないということになってしまうのである。
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 このことは党内民主主義という点でも大きな問題点をかたちつくることになる。公然部門基軸でいくということがあれば、非公然部門的限界をこえて党内民主主義をさらに圧倒的に展開していくこともできる。すでに第6回大会Uが公然部門で圧倒的にかちとられたこと自体が、中野=天田同志基軸の公然部門体制で党内民主主義や情報の公開制をしっかりと実行に移していくならば、労働者の党としての革共同の底力がそこでは発現され、ますます活性化と切磋琢磨の党内討議が可能となっていくのである。
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 こうした感覚、考え方で政治局づくりや政治局会議討議が行われるとき、与田問題などについても清水個人の力をこえた力が働き、ひとつの組織力として与田の腐敗を暴く力をもつこともできる。また党の労働者同志への信頼感を基礎に党内民主主義を生き生きと働かせていくなかでは、与田的腐敗にたいして、あらゆる角度から肉迫し暴くことができるということである。

8)3・14革命の決定的意義。
@結局清水指導は、一面では5月テーゼ―19CC―20CC―第6回大会―新指導路線というものを中野同志の提起をうけとめつつ、革共同の路線として形成してきたといえるが、他面では現実の実践では、新指導路線を労働者同志または階級の自己解放の力を解き放つものとして実現しえず、むしろ党の官僚的ヒエラルヒーの維持強化のための路線的武器の提供へと転化してしまうものとしてあったということ。
Aだからこそ与田の腐敗や反党行為の本質を見ぬくことができず、逆に加担することになってしまったのである。
Bこうしたあり方を根底から一掃し、新指導路線を労働者階級と労働者同志の自己解放性への無限の信頼を基礎とし、それと密着して闘う指導部への信頼と支持を基礎として、革共同を労働者民主主義を原理とする党内民主主義の生き生きと働く党へと開放していくこと。まさに3・14革命こそは新指導路線の全面的爆発への道を最後的にきりひらく党の革命であるといわなければならない。

9)先に中野・天田同志の公然部門の自己権力的確立をめぐって政治局会議のあり方の自己批判的分析をしたが、じつはここにこそPI・PUにおける政治局会議運営の問題性の思想的根拠があるといえると思う。いかにPI・PU時代が戦争期であり一定の実践的結論を超短期間の会議で一挙に出さなければならないということがあっても、清水が事前に考えぬいてきた一定の方針体系を全面的に展開し次々とその承認を得るというあり方では、やはり政治局会議・メンバーの自己再生産と自己形成はできず、方針が正しくともひたすら疲労するということが生じてしまうと思う。仮に「一定の方針体系の提示」自体が必要であっても、これの承認をもって会議が終わるということはあってはならないのだ。何らかのかたちで政治局会議・メンバーのかかえている問題を具体的に出してもらい、きちんと話し込む、悩みを真に共有するということがなければならないと思う。率直にいって、清水が○○(健康上の対策)をしているということが、こうした点で非常にネガに働くことも事実であるが、また清水自体バテバテ、ヘトヘトであったこともあきらかだが、断じて政治局会議を上記のようなあり方で終わらせてはならなかったのである。どんなに激戦激闘であっても戦友感覚に本当にあふれているなら疲労困憊がただ蓄積するということはなかったのである。労働者同志を信頼し労働者民主主義を原理とする党内民主主義の発揚ということは、政治局会議の内部においてもまた、いや政治局会議の内部においてこそ必要だったのである。

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