《当サイト管理者から》
1.長文のため3分割して掲載します。今回は【中】です。 2.※印は原筆者によるもの、【 】内は管理者によるものです。

全党回覧(改訂版)

3・14労働者蜂起の経緯
〜フェニックスとしての報告と総活【中】

06・07・15:文責・毛利

(9)第9回フェニックス〜1月26日。

(i)大阪府委員会、A細胞、戦線、社etc.のオルグ状況を集約した。  社はかなり進展したが、大阪府委員会労働者については、数人の確認にとどまっており始まったばかりという現状であった。A細胞は石野同志のオルグが成功したにとどまっていた。立ち後れの危機を克服することを最大の課題として、あらためてオルグ分担をおこない、大阪府委員会・A細胞の工作に全力をあげることを確認した。

(A)「分派規定撤回」後の新たな攻防情勢への突入。 @1・17関西地方委指導部会議での「分派規定」の「撤回」の情勢に踏まえた次の闘いをどうするかが問題であった。それにたいする方針として立てたことは「分派規定→その破産→撤回」とその関西地方委指導部会議内部での隠蔽をめぐる与田の謝罪と自己批判とその公開要求であった。
 そのうえで、「分派規定」がホッケー【2005年の清水丈夫氏主宰の関西指導部との会議】に向かっての、またその討論現場そのものにおける与田・遠山の「兵庫県委員会=分派」デマゴギーとひとつながりの・一体のものであることを徹底的に暴露することが必要であった。筆者は、ホッケー論議自体のある種の異様さ、さらに05・10・18「分派規定」とそれ以降の関西地方委指導部会議論議のなかで、ホッケーで起こった事態について「与田・遠山ら私党集団による前代未聞の中央会議ジャック」としかいいようがないものと考えてきた。ここから「06・1・29 毛利報告書」は、清水議長をデマゴギーに陥れることをたくらんだ党史上でも類例のない大陰謀とホッケー直後の「分派規定」とを一個の全体としてハッキリさせ、与田の階級的犯罪を徹底的に暴露し、自己批判を断固として要求することを目的とする内容で出すこととした。
 これはベルリン【2004年の清水氏主宰の関西指導部との会議】・ホッケーの討議・決定の問題性を徹底的に利用し、それを決定的なよりどころにして自己批判=屈服を迫ってくる与田・遠山らの逆上的凶暴化を呼び起こす攻防上のエスカレーションであったが、情勢の成熟を積極的に促進する立場からこのような方針をとることを決断したのであった。

A1・31関西地方委指導部会議は予想どおり、与田の「ふざけるな。オレがPB【政治局】や地方委員会の責任者なんかやってなかったらブッ殺してやるところや」をはじめ、「これが自己批判する者の言うことか。絶対認められん、許せん」etc.etc.とこれにたいする筆者と塩川同志の与田・遠山への弾劾、断罪の2時間にわたる激しいやりあいとなった。われわれは徹底的に「分派規定」の謝罪と自己批判、その公開を要求し、与田はついに「お前ら、党の分裂を望むのか」「オレは絶対公開しない。墓場まで持っていく」などと必死の形相でわめくことしかできない有様であった。
 そのうえでなお非妥協的に「公開要求」を突きつけるわれわれにたいし、与田はついに採決による決着いがいに打開の方途を失ってしまったのだ。賛成は塩川、中西、毛利の3名、反対が与田、遠山、西島、久保田、広山、加藤の6人であった(※武藤は欠席であったが当時100%の与田派)。中西同志は、かねてからの与田・遠山のあり方の問題性にたいする批判的立場に加えて、兵庫県委員会における宝塚「つくる会」教科書阻止闘争、関トラの闘いなどへの参加、県委員会や県党総会での討論への参加などの経験に立って、05・10・18関西地方委指導部会議において与田の「分派規定」に反対を表明した。以来、その姿勢を貫き、この日の採決においても与田の恫喝を粉砕し断固として「公開賛成」を表明した。また、そうした立場から4大産別決戦、岡田意見書、etc.をめぐる兵庫県委員会の討議の真実を報告・提起することを通して与田・遠山の「兵庫県委員会=分派」のデマゴギーを暴き、彼らを追いつめ、また在社諸機関における3・14決起の重要な軸をになった。

 こうして、関西地方委指導部会議における敵味方の分岐と非和解的対立は完全に明示のものとなったが、結局この〈3対7〉の関係は3・14まで変わることはなかった。
 今ひとつ情勢が煮詰まりつつあることは明らかであった。

(B)与田がプロレタリア革命とは無縁な正真正銘の経済主義であることについての革命的批判。
@塩川同志が、この関西地方委指導部会議直後の報告書で、「なになす」【レーニン著『なにをなすべきか』】においてレーニンが「…わが『経済主義』のはなはだおもしろい一特徴」として「それは、公開を恐れることである。これは、ひとり『クレード』の筆者たちに限られる特徴ではなくて、まさに『経済主義』全体の特徴である」と言っていることを挙げて、与田・遠山への屈服を拒否して闘う者を「経済主義」のレッテルを貼って攻撃する与田こそが実は正真正銘の経済主義であることをあばきだしたことは、与田に大きな打撃を加えた重要なたたかいであった。
 与田は、「岡田意見書にたいする批判(試論)与田」なる文書で、岡田同志が経済闘争を闘うことの重要性を強調していることをもって「経済主義」だと非難している。これひとつとっても、与田がマルクス主義者かどうかを疑うに十分なことである。
 しかも、この事実は、与田が「なになす」をはじめレーニンの著作をまともに読んでいないことを浮き彫りにしている。レーニンは、経済主義というのはもっぱら経済闘争を闘うことだと言っているのではない。ラボーチェ・ジェーロらの政治的・組織的活動の幅の狭さを指して「経済主義」といっているのだ。
 与田は、当該の兵庫県委員会・京都府委員会の労働者とその指導部にも、拡大地方委指導部会議にも、党中央にも「分派規定」したことを知らせることを拒否し、「分派規定→破産→撤回」の事態の一切の公表を拒否した。世界革命運動史上、前代未聞の事件である。「政治的・組織的幅の狭さ」どころの話しではない。まさに、他を寄せつけない比類のない経済主義という以外にない。
 権力、反革命の弾圧や攻撃にたいする防衛が貫徹されているかぎり、党のあらゆる機関で、路線問題から思想的・組織的問題にいたるまでのすべてを公然と論議してよいし、またすべきである。こうしたありかたを前提としてはじめて、中央集権的民主集中制の党が生き生きと形成されるのだ。逆にこれを欠如すると、集権化された官僚主義が発生し、党内民主主義を圧殺し、労働者党員の生き生きとした細胞活動を抑圧し、細胞と階級大衆との結びつきが失われ、結局党は別のものに変質するか、衰滅してゆくしかないのである。(関西の)党は、そうした危機に直面していたのである。

A「経済主義」と「公開をおそれる」との関係について、もうひとつ。
 それは、与田の12・7私信(※「与田レター」)問題である。
 「与田レター」の反労働者性は、兵庫県委員会にたいする「分派規定」を指導行為として実際に発動したことである。
 その上でもうひとつの重大な問題は、これがまぎれもない私信であったことである。それは、塩川同志(※椿同志が所属する地区委員長・労対会議の責任者)、中西同志(※関西地方委指導部会議の兵庫県委員会担当)のいずれをも通さず、与田から指示された西島が12月9日に、椿同志を社に呼び出して渡したという事実で明らかである。  また、レターが「お元気に活躍のことと思います」で始まっている事実ひとつとっても、これが公的文書であるわけがない。
 つまり与田は、「分派問題」をめぐる党内闘争を、かの黒田=カクマルが第3次分裂に際してやったのとまったく同じ、非組織的な私信というやり方でおこなったのである。与田は、椿同志にたいして誰にもわからない形で「路線上の根本的不一致がある」などと恫喝し、屈服を迫ろうとしたのである。これが、椿同志と兵庫県委員会の労働者同志の「12・12返信」をはじめとした大反撃によって完全に破産したことは周知の通りである。

 ところで、ここで重要なことは与田が、椿同志=兵庫県委員会との「路線的根本的不一致」あるいは「分派規定」を公然たる党内討論(論争)として扱うのではなく、「公開を恐れ」、それゆえ黒田とまったく同様に私信政治に走らざるをえなかったことだ。「大衆運動と革命運動の区別と連関」論、「場所的現在においては党づくり」論、「経済闘争→反政府闘争→反権力闘争→革命闘争」の4段階論という黒田=カクマルと同様の〈「なになす」的意味における経済主義〉的本質から与田の「公開を恐れる私信政治」が生起したのである。
 そして、「公開を恐れる」、「私信」として現れている経済主義は、与田と黒田がともに権力に綱領的・イデオロギー的に屈服、投降していることを最深の根拠としている。

(C)「岡田意見書」をめぐる、岡田同志×塩川同志の討論(1月25日)について。
@ホッケー及び関西地方委指導部会議における議論について、若干。
★「岡田意見書」については、周知の通り、ホッケーにおいて「宝塚請願書問題」とともに、関西の党における深刻かつ重大な組織問題として扱われた。また、それを生み出したものが「毛利の経済主義、解党主義、追随主義、自然発生性への拝脆」であるとの批判が行われた。「岡田意見書」は、100%の経済主義と解党主義に転落し果てたものとして徹底的に断罪され、さらにこれが何らの根拠も明らかにされることなく基本的に兵庫県委員会全体の見解であると事実上断定された。要するにホッケー討議は、「兵庫県委員会=分派」と明示に断定はしなかったものの、ほとんど「兵庫県委員会=分派」規定を下した会議であった。こうした恐るべき事態が「与田・遠山ら私党集団によるホッケー・ジャックのもとでの激しい「兵庫県委員会=分派」デマゴギーの扇動のもとに行われたのであった。

★そして与田は、05年10・18関西地方委指導部会議において「宝塚請願書問題」「岡田意見書問題」をめぐるホッケー討議を決定的なよりどころとし、かつこれを徹底的に利用して「兵庫県委員会=分派」「岡田意見書は分派の綱領」なる反動的大攻撃に突っ込んでいったのである。以降関西地方委指導部会議においては、与田のもとに、われわれ(塩川、中西、毛利)を除く、遠山・西島もとより全員がそのデマゴギーを丸飲みし、唱和し続けたのであった。
 筆者は、「岡田意見書」について、ホッケーに向けた報告書、あるいはホッケー討議の場、さらにその後の関西地方委指導部会議討議において、「新指導路線、4大産別決戦、経済闘争、党と階級との関係、etc.について表現上、言葉足らずの面や誤解を招きかねないところはある、また労働者が経済闘争でしか決起できないかのように言っているなど何点かすぐには賛成できない部分もある。しかし、岡田同志が本当に言いたいことは、革命的情勢の急追と党の現状にたいする激しい危機感から『党中央はもっともっと労働運動・労働組合運動に突っ込め、もっともっと労働者の現実の生活と意識に徹底的に肉迫するための努力をせよ。そして、党を中央を先頭に労働者の党として自己変革するためにとことん格闘せよ。そうして、党中央はわれわれ労働者をもっともっとしっかりと指導せよ』ということである。外在的な立場からの客観主義的評論は断じて許されない。彼が言っていることで、不十分や誤りではないかと思われる部分はしっかり討論すればよいことであって、何よりも重要なことは彼が要求していることを全面的に受けとめ、全力で応えてゆくことである」と主張してきたが、これ自身がホッケーにおいても、関西地方委指導部会議においても「毛利=経済主義、解党主義、追随主義」の証明であるとされ、激しい非難の的となった。

★この問題は、今では清水議長の本当に身を切り裂くような真摯な、根底的な自己批判によって、正しく総括されつつある。そして、それをも踏まえた「岡田意見書」をめぐる中央における一定の議論と正確な評価の作業も端緒的に開始されつつある。フェニックスにおける「意見書」をめぐる議論も、ほとんど真っ二つに意見が対立し、何度かの討論を経てなお一致を見るには至らなかったが、この問題は、実際の新指導路線の実践をどのように前に進めてゆくかという観点からしっかりと取り組むべき重要な現在的課題である。

A1・25岡田同志×塩川同志の討論(4時間)について。
 「岡田意見書」が若干の言葉足らずや誤解を受けかねない表現を含んでいることは事実である。しかし、よく読めば岡田同志が真に言わんとすること、あるいはそれが積極的に主張していることが何か、ということは誰が読んでも十分にわかる。それは、兵庫県委員会の労働者同志たちの討論や諸同志の意見からも明白である。
 問題はただ、ホッケーでの議論における問題性とこれをまさに「奇貨」とした与田らの「岡田意見書」にたいする全面否定と「分派綱領」なるデッチあげデマゴギーの党内キャンペインだったのである。しかし、労働者同志でこんなものに唱和したひとは誰ひとりいなかった。これを支持・賛同したり、騙されたりしたのは、関西地方委指導部会議の多くの部分とその他わずかな同志だけであった。
 しかしその上で、「岡田意見書」がホッケーにおいて党中央の権威を背景に、いわれのない誤った評価を受け、何よりも「奇禍」という言葉をめぐる誤解があったにせよ、05年都議選の敗北を喜ぶ党員がわが党内にいるかのような議論がなされ、いやそれどころか岡田同志が「敗北を喜んだ」などという議論が行われたという重大な事実がいまなお放置されていることは、決して見過ごすことができない。また、このような状況の放置が「岡田意見書」にたいする重大な誤認識あるいは偏見を生み出しかねないことから、塩川同志の討論報告を以下に掲載する。

★相互の問題意識etc.に関わる討論。
 「最初に、塩川同志の方から、岡田同志の意見書は、労働者党員が生き生きと活動できていない、党が労働者の党になっていない、まだまだ労働運動に内在化できていない、新指導路線が定着していないことにたいする、激しい危機感と熱い思いをもって提出されたものと考える。自分は、関西地方委を代表して討論に来た。議長宛に提出されたものとはいえ、議長に下駄をあずけて無対応ではいけないと考えるし、内容的にも関西地方委にたいする批判もあるから、受けとめるために、どういう思いをもって書いたのか聞きたいと切り出した。岡田同志は、自分の革命歴などを切々と語ったうえで、病気もあって、このままでは死にたくない、くやしい、党が階級と切り離されている現状を何とか変えなければいけないと考えて書いた(直接には都議選)、実践的に党が変わってくれることが望みだから、返事は必ずしも期待していない、ただ議長に届いたかどうかだけは知りたいので、返事を求めると書いた。…」

☆具体的論点に関わる討論。
◎「冒頭の『奇禍』について、書いた経緯を開いた。彼いわく、『自分は漢字などは十分知らないが、一太郎のパソコンで打ったらこの字しか出なかった』。塩川同志から『奇貨』の意味を説明し、都議選の敗北を歓迎しているととらえる人がいるがどうか、とたずねたら、真っ赤になって怒って、一体誰がそんなとんでもない解釈をするのだ、字面を見れば、『禍』となっているのだから、歓迎していないことは明らかではないか、選挙の敗北を真剣に受けとめて、党が変わるべきだと思って書いたのだ、党の敗北を喜んでこんな文書を書くはずがないではないか、と怒鳴った。ちなみに、塩川同志が関西地方委指導部会議で述べた解釈も間違っていて、『奇禍』という単語は存在して、広辞苑などにも『思いがけない災難』の意味と説明されている。辞書も調べずに、岡田同志の書いた意図や経緯を、正反対に解釈することなど許されるものではないと、改めて考える」
◎『R【革命】の主体が労働者階級であり、党ではありえない』と書いている点について、および2〜3ページの本多さんの党組織論の否定について。これでは、党はなくてもよいという意味になるではないか、と言うと、彼は、『えーっ、そんなように書いていましたか?』と聞いて、『それは間違っています。自分は宣言のベースに戻ってくれ、と言いたいので、NC【革共同全国委員会】に本当に階級の党になってもらいたいという思いで書いたのだ』と強く言った。ただ党のみをRの主体と強調することが、否定的現実をもたらしている点は、強調していた」
◎「経済闘争の一面的重視や、非正規雇用労働者の存在(だけ)を、Rを実現する条件を備えている、と書いている点。経済闘争も賃金制度全体の廃絶の闘いと切り離すことはできないこと、革命戦略や権力闘争のために革共同は4大産別を重視していることを話すと、彼は、非正規の闘いが4大産別と分断され、F【『前進』】などでもあまりに軽視されていると思うから、逆の意味で強調して極端に書いたが、自分は学習会などでは、DC【動労千葉】の意義や4大産別などを強調している、もっと階級全体を対象化して、民営化との闘いなども階級全体の闘いとして展開してほしい、非正規の労働者は現に最も食えない状況にあるのだから、ここから爆発する可能性が高い、分断されている4大産別の闘いと双万から埋めていく努力をもっとしてほしい、と述べた」
◎「完全な批判の自由・少数意見保特の権利、さらに分派を形成する自由」などと小泉本【小泉義秀同志著『スターリン主義と農業の強制集団化』前進社刊】を引用する形で書いている点。『行動の統一、中央集権、中央委員会と細胞との相互関孫』など、党組織論にとって重要な点を無視してこれだけいうと誤りに転化すると述べると、彼は、『え! そのことについて一言も書いてなかった?』と言ったうえで、『その面を書いていないのは間違っていた、自分はその面を否定しているのではない。ただ軍令で何でもやってしまう傾向を批判したかったのだ』と述べた」
◎「軍令主義について。岡田同志は、『細胞が生き生きと動くためには、軍令を解除すべきだ』というので、『必要なときに軍令で止めることはできない。しかし組織運営を何でも軍令でやってしまう内戦期の歪みは正さなくてはいけないから、軍令主義の廃止と表現するなら一致できる』と応えておいた。……」

(D)なおわれわれは、以上に見てきたような「分派問題」とそれに関連する関西地方委指導部会議での様々な議論において、特別の主張をしたわけではなかった。労働者自己解放とそれにもとづく革共同の組織原則・組織思想にたって〜可能な限り説得的に提起することに努力を払って、かつ同志的に〜批判をおこなったにすぎない。にもかかわらず、与田・遠山は別として最後まで(3対7)が変わらなかったという事実の中に党(関西)指導部のすさまじい変質と反動化がすでに現実となっていたことが明らかであろう。これだけでも労働者にとって与田・遠山の打倒と関西地方委指導部会議体制の打倒・解体は絶対知量必要であったということである。

※1・17関西地方委指導部会議前後から与田・遠山らの乱調化、凶暴化が急速に進んできた。われわれは、気のゆるみをいましめ構えていた。この頃以降の毎回の関西地方委指導部会議の前夜は、塩川同志は他の同志のベッドで寝、わたしは「合法的武器」を手元に置いてやすんだうえ、靴を履き替え、腹巻きに新聞紙を詰め込んで関西地方委指導部会議に出席するという塩梅であった。

(10)第10回フェニックス〜2月3日。

(i)戦局認識についての討議。
@政治的にはフェニックス陣営の優勢・攻勢の局面が切りひらかれている。しかし、本質的には危険が切迫している。与田・遠山の乱調化、凶暴化をしっかりみすえることが大事である。実力打倒という目標をあらためてハッキリさせなくてはならない。
 サザンクロス的不正・腐敗の隠蔽・防衛、そのための党の私党化が与田・遠山の目的である。そのためには、与田は「分派規定」の「撤回」だってやる、遠山は「与田レターは撤回・謝罪すべき」(※05・12・14地区委員長・労対会議での発言)というようなことさえ言う。他方で「自分がPBなどでなかったらブッ殺してやる」(与田)etc.と恫喝する。これらは別々のことではなく、連中の破産と危機の深まりに決定された乱調化、凶暴化という一つの本質から発する二つの現れにすぎない。この点をしっかりと見すえて、現在かちとっている関西地方委指導部会議内外での政治的優位やヘゲモニーは断固守り抜き、さらに強めてゆく。しかし、関西地方委指導部会議や拡大地方委指導部会議などでの議会主義的な押せ押せの延長線上に勝利は絶対にないことを厳格に確認し、完全打倒の戦略を打ち立てることが現局面においてはもっとも重要である。

A与田は、1・31関西地方委指導部会議に「毛利問題(06年1月)について」という11ページの文書を出してきた。
 これは、1・17関西地方委指導部会議における「分派規定」問題のペテン的総括にもかかわらず、「分派規定→その破産→撤回」自体がつくりだした党破壊、その全過程の関西地方委指導部会議内密室処理策動という反労働者的行為に関わる与田の思想的・組織論的切開と自己批判、一切の事態の公開を要求する塩川同志と私による報告書〔※それぞれ1・27、1・29付け。私の報告書は,「与田・遠山のデマゴギー政治によるホッケー・ジャック策動」の暴露に重点をおいた)に追いつめられた与田のあがきの顕著な始まりであった。
 与田は、「分派規定」問題にかかわる責任追求【追及】と自己批判から逃れるために、一切を「毛利のホッケー自己批判問題」に封じ込めるべく血道をあげはじめたのである。

 曰く、「今回の『毛利報告書』はホッケー討議のひっくり返しである」「毛利、塩川同志の今回出された報告書は、ホッケー討議の基本線からの逸脱だと言わざるをえない。あらためて討議の土俵をホッケー討議・決定と、その実践というところにしっかりと据えなおして、ここでの毛利自己批判の深化をかちとることを関西地方委指導部会議討議の獲得目標としていきたい」「毛利、塩川同志に訴えたい。ホッケー討議・決定の貫徹ということをあくまで基本に討議しよう。ホッケーで出された問題は何一つ解決してはいないのだ。与田の党運営に大きな批判が出されていることは百も承知であるが、この与田指導の変革問題とホッケー討議をごちゃごちゃにしたら解決すべきことも解決できなくなると思うのだ。とくに、毛利から出されている与田批判で、『私党的運営をしている』とか『デマゴギー政治をやっている』といった批判は、いい加減なつもりで毛利も言っているとは思えないので与田も真剣に批判を考えてみたい。しかし、ホッケー討議・決定である毛利自己批判の戦取がいまだに勝ち取られていない現状で、ここを外して与田問題にずらしこんでいくことには、率直に言って重大な疑義を感じる」

(A)(@)の論議と確認の上であらためてフェニックスとしての獲得目標について確認した。
@与田・遠山を絶対に逃がさずに労働者党員を先頭とした全党の総決起で実力打倒する。そのためには、蜂起の瞬間までは、いたずらに「議会主義的過激化」などに走らずにどこまでも「平和革命」を追求するもののごとく装って行動することに徹する。 A党の私党化を徹底的に粉砕し、ボルシェビキ的な労働者党を指導部的機関と現場労働者の闘いの双方から再建する。
Bベルリン、ホッケーの革命的乗りこえ(※フェニックス派としての「与田による私党化」の視点からのベルリン・ホッケーの洗い直しと総括)、あるいは私党化のための与田・遠山によるその利用主義的利用を許した党中央とその指導の現状の変革。これは、中央をはじめとした党全体の根本的変革の気概ぬきには問題にならないほどの大テーマである。与田・遠山打倒を〈党の革命〉の開始としてかちとるためにここへの挑戦を断固はじめる。

(B)労働者党員をはじめ全党、全戦線が総決起できるテーマの検討と方針。
〜〜「分派問題」「与田レター」問題では狭すぎ、私党問題のトータルな暴露以外にないことを再確認し、私党化の歴史的総括など、以下の執筆分担をおこなった。
・サザンクロス問題【「与田不正問題」】(早瀬)
・ロザリオ問題【A細胞における志賀氏による佐田氏追放、その後の与田氏による志賀追放問題】(神山)
・拡大地方委指導部会議・関西地方委指導部会議の私党的再編(塩川)
・ベルリン問題(毛利)
・ホッケーと「分派規定」問題(椿)
・4大産別決戦、ミリオン【百万人署名運動】、戦線的諸課題をめぐる路線的背反と無指導(西坂)
・与田・遠山による労働者同志の蔑視、暴力行為はじめ非同志的諸言動、「芹=スパイ」規定など。※高杉スパイ問題(芹【吉岡】)

(B)オルグについて
@大阪府委員会オルグが進み始めた。社・戦線は相当程度前進。マル青労同の指導的同志のオルグが実現した。兵庫県委員会・京都府委員会での与田・遠山批判の組織的討議が進捗(※兵庫県委員会は12・7「与田レター」批判以来の討議で〈打倒〉への気運が日ごとに高まっている)。
A大阪府委員会の4大産別、拠点職場を軸とした労働者党員の組織化、A細胞、WOB【労対】、SF【学生戦線】、DS【部落青年戦闘同志会】、戦線、社、マル青労同など主要戦場のキー・パースンの設定とオルグ分担をおこなった。
 A細胞については、与田の財政的腐敗の最大のよりどころであり、打倒後は医師問題、経営問題など存亡の危機の到来が予想される。また、万が一実力打倒が不成功に終わった場合A細胞が、ここに逃げ込んだ与田・遠山らとの最大の決戦場となる可能性がある。そうした諸点に鑑み、特殊に重視してオルグを強化することを確認した。
B大阪府委員会、A細胞の蜂起派労働者のフラクをそれぞれ,毛利、芹同志の責任で組織する方針を検討した(※これは、3・14前の決起集会として実現することとなる)。

(C)フェニックス派の総インフ化【情報収集員化】のたたかい。
 与田・遠山・西島・種田、および津田・阿部・沢田同志らの動向の掌握
@あるゆる情報網を総動員してすすめることを確認した。
A堂本同志とは毛利が、1月以降2週に一回、2月以降週一回TALKし【討議し】、与田・遠山のセンター【東大阪事務所】出入社の日時、会った人物と会話内容、西島(※毎週月曜日、塩川・毛利の動き、在社関西地方委指導部会議の討議状況、社内情勢などを与田・遠山に報告していた)及び与田の私兵らの動向などについて詳細な報告を受けた。また、堂本同志は、大阪府委員会の会議レジュメはじめ内部文書の入手(※彼は、大阪府委員会事務局であったためほとんどの文書の入手に成功)と提供などを、危険とたたかいつつ貫徹した。さらに彼は、3月13日19時の最後のTALKでの与田・遠山らの動向報告、3・14当日朝の書記長と与田らのセンターからの出発の時刻と状況に関する電話報告など、3・14蜂起にとっての決定的な情報をもたらし続けた。
Bさらに、在社の諸同志は西島のスパイ的活動(※塩川同志と私の出入社の日時調査をはじめとした動向インフなど)について、自発的に報告してくれた。

(11)第11回フェニックス(2月10日)、第12回フェニックス(2月17日)、第13回フェニックス(2月24日)

(i)蜂起の時期の問題〜この3回のフェニックスの期間中の最大の問題として集中的に議論された。
@最終的に、3月14日が蜂起の日として決定された(※2月24日、第13回フェニックス)。
A時期の問題は、12月〜1月過程の論議と同様に、いやそれ以上に簡単には決まらず、フェニックス会議以外の場でのメンバー間の討議をも積み重ねながら進められてきた。その中で、2月の半ばようやく2・28を決行日とする意見が有力となっていた。むしろその時点では、2・28案はいったんはフェニックスとしての事実上の「決定」と確認されたと言ってよいものであった。
★われわれ全員が与田・遠山のとてつもない不正・腐敗、党の中枢からの変質の急速な進行への怒りのかたまりとなって一刻でも早く連中に大鉄槌をうち下ろし、革命的決着をつけなければならないという思いを胸に必死になって闘ってきた。
 さらにわれわれには、サザンクロスをめぐる権力の先制的弾圧の切迫と改憲決戦情勢の急迫、2月に入ってからの私党集団との攻防情勢の一挙的激化からもはやこれ以上時期を遅らせることはできないという共通認識があった。
 こうして、労働者同志の決起の組織化の遅れをどう突破するかをめぐる論争と直結して時期を繰り延べ、繰り延べしてきたこれまでの経緯のなかで、ようやく蜂起の日取りが決まり、そのことでまた蜂起のイメージが急速に具体化し始め、2・28の一点にすべてを集中する過程に突入しようとしていたのである。
 付言すれば、この時点では蜂起の主体的条件の準備は急テンポで進展を見せ、私党集団との政治的攻防も1月段階とは比較にならないレベルで激化・拡大・発展しつつあった。すなわち、連判状方針によってこれまでの大阪府委員会労働者党員のオルグの前進のうえにそのさらなる急速な拡大の展望を得たこと、兵庫県委員会・京都府委員会の討議と政治的・組織的うち固めの前進、マル青労同、社、戦線などでの組織化の進展、「与田打倒」を目指すDSの革命的同志達の蜂起陣営との結合と合流、他方で関西地方委指導部会議での分岐・対立の激烈化(※1・31関西地方委指導部会議での塩川同志と私とによる「分派規定」問題にたいする与田への自己批判と関西地方委指導部会議討議の公開要求をめぐるやり合い、与田の私への「ブッ殺してやる」発言、「公開」をめぐる採決強行と3対7(※100%「公開反対」問違いなしの武藤同志〔※欠席〕を加えて7)という結果、2・14関西地方委指導部会議での与田の塩川同志への殴打事件(※「ベルリンで問われた自己批判を与田・遠山はしていない」という塩川発言に大打撃を受け、逆上した与田が机をひっくり返して飛びかかり、殴った事件)、2・13の兵庫県委員会による「与田同志および関西地方委指導部会議の諸同志に謝罪と自己批判を要求します」という文書の関西地方委指導部会議・拡大地方委指導部会議全員への配布など、あるゆる面での情勢の発展etc.〜こうした主客の条件の成熟と展望から2・28案を決定したのであった。
☆しかし「2・28蜂起」の決定のうえでなお、それが真に妥当であるかどうかの検討はつづけられたのであった。
 「2・28案」における全国連【部落解放同盟全国連合会】大会問題はやはり極めて重要な問題であった。
 全国連の成功をかちとることが、労働者階級の党としての絶対不可欠の階級的責務であることはあまりにも明らかであった。全国連大会の成功にたいして打撃や妨害を与えることになるいかなることも許してはならない、いやまったく逆に今日の民営化と戦争の時代への突入の下での部落差別の歴史的激化という情勢のなかで、今まで以上に党の責任をハッキリさせて大会の大成功をかちとるべきときであることを断固再確認することが必要であった。
 さらに、それと表裏の問題として、3・5〜6全国連大会直前での与田・遠山の実力打倒がどのような情勢を呼び起こすかという問題は極めて重大であった。
 これらの諸点についてあらゆる角度から検討したすえ、蜂起の日程の3・14に変更することとその理由を提起し、塩川、芹同志と討議した。芹同志からは、A細胞労働者の組織化をめぐる立ち後れの突破のために2週間の延期を望む意見が出された。蜂起の時期の変更要請ということがらの重大性をめぐる短い議論のうえで「3・14蜂起案」を即決した。同時に、「3・28」では完全に時機を失し、少なからぬ犠牲と損失が不可避であること、従って主客のあらゆる情勢から考えて「3・14」はギリギリ最後の、また積極的には最大の好機であることを確認した。

(A)第13回フェニックス(2・24)は、如上のような論議の経過にふまえて蜂起の時期問題についての最終的検討と決定をおこなう会議となった。
 また、蜂起の目的の最後的明確化をかちとり、労働者党員の要求にもとづく3・14蜂起の基本的性格、労働者党員を基軸とした全党の同志の共同行動綱領、蜂起計画の全体像と戦術上のイメージ、残り2週間余の任務・方針etc.について、徹底的に討議した。
@その結果、蜂起の日を「3・14」とすることをフェニックスとして正式に決定した。
A蜂起の目的について、2ヶ月近くの労働者同志、兵庫県委員会・京都府委員会の地区党指導部、労対の諸同志との論議を踏まえてさらに明確にし、それを達成するための諸条件について討議した。
★第1に、労働者的主体の再生・確立をかちとることを3・14蜂起の最大の獲得目標とする。
 与田・遠山私党集団の打倒のたたかいは、連中による分断と抑圧を労働者党員がみずからの手で粉砕し、生き生きとした活動を取り戻し、新指導路線を本格的に実現することのできる党に党を再生するためである。そうして06〜07年、4大産別の民営化・労組解体・改憲勢力化をめぐる決戦とそれを土台とした改憲決戦を階級決戦としてきりひらくためである。労働者党員同志が実体的主体・主力となる蜂起の形態の創造を総力を結集してかちとることが核心的課題である。
 労働者党員同志にたいして、厳格な秘匿と防衛の基準を提起しつつ、断固たる決断と決起を訴え、その当該所属細胞の同志にみずから大胆に決起アピールと連判状を持ち込み、労働者自身の力で与田・遠山打倒をきりひらくたたかいを促すために闘うことがフェニックスのもっとも重要な任務である。
★第2に、DSさらには全国連の「分離・脱落」をなんとしても防ぎ、どんな困難と曲折を経ようとも結合・再結合をかちとらなければならない。その目的を達成できるギリギリの戦術をたてなければならない。
 その上でしかし、これまでの戦術上のあらゆる選択肢の検討の上で、与田・遠山の打倒は断固とした○○【せん滅戦】以外にいかなる結論もありえないことを最終的に確認した。
 同時に、与田実力打倒闘争の成否の鍵は何よりもこの蜂起への労働者党員同志の圧倒的決起と支持が握っていること、労働者の総決起と怒りの大爆発はわれわれが想像することのできないようなものとなることは疑う余地がないこと、DS・全国連問題の解決の道筋はここからかならず開けることに確信をもってたたかうことについて明確にした。そして労働者の総決起は、中央・全国を獲得するうえでの鍵を握るものでもあることを確認した。
★そのうえで第3に、中央を獲得するための努力を最後まで追求しなければならないことを確認し、あらためてその具体的検討にはいった。
◎すでに2月前半のフェニックスでは、数人の政治局メンバーをリストアップし、オルグ分担を決め、それぞれを調査・検討した。しかし、あるいは「○○【木崎】がみずからの責任で与田に立ち向かうとはおもえない」「新庄同志のケースのように、彼の必死の直訴を与田にタレこみ、パッシングに差し出したものさえいる。△△【坂木】も五十歩百歩の人物ではないか」「□□【高山】の場合、与田への売渡しはしないと思うが、自分の権力闘争の道具に使いかねない」などの意見が続出するなかで断念せざるをえなかったのであった。
※上記の「新庄同志のケースのように…タレこみ、…」について〜〜これは現在、“個人的に扱ったのではなく、政治局の討議にもとづいて組織的に処置したのだ”と伝えられているが、与田は当時、ある特定の同志が個人的判断で与田に報告したのだと言っていた。

 今回は、天田同志および◇◇【中野】同志について検討した。全国連大会2日目(3月6日)に佐藤芳夫氏への恒例の見舞いをする天田同志に、往復いずれかの車中(※ドライバーは京都府委員会・室井同志)あるいは途中で直訴する方針を徹底的に検討した。しかし、極めて残念ながら直訴とその内容に対して天田同志が受け入れない可能性はやはりあるという結論となり、断念せざるをえなかったのである。苦渋の判断であり、選択であった。さらに、◇◇同志についても子細に検討したが、天田同志直訴路線と比べても奏功する可能性ははるかに低いと判断した。
★われわれは、05・10・18「分派規定」以来、天田同志はじめ政治局は、また清水同志・高木同志はこの事態をどう考えているのか、いやそもそも知っているのかという深い疑問を持ち続けてきた。「政治局でどのような議論をしているのか、関西地方委指導部会議に報告せよ」という要求にたいして、与田の「討論にはなっていないが、報告はしている」との返事は、当然ながら全く信用できず、「報告している」ことが事実ならそれを誰もとりあげず、議論しないという政治局とは何かという疑念も率直に言って深かった。政治局・非公然政治局が、サザンクロス問題では高杉問題という決定的な肉迫の切り口があったにかかわらず、まったく問題性を察知することなく、むしろ与田にたいする高い政治的評価をつづけているとしか見えないことは到底納得できるものではなかった。  また特に、ホッケーにおける清水同志・高木同志の態度が示した与田に対する信頼の厚さ、なによりも全議事終了時の清水同志の「つぎのホッケーは与田君に基調報告をやってもらうよ」という言葉は極めて大きな衝撃であった。
☆われわれは、労働者党員の命がけの決起と勝利に責任をとりきるものとして、中央の獲得を蜂起の成否にかけてたたかいとることに全力をあげてきた。そのため、中央の直接的獲得のあらゆる方途を蜂起の直前まで検討してきた。しかし如上に見たような状況の中でそのすべてを断念せざるをえなかった。こうして、この蜂起の階級的大義とそのもとへの労働者党員同志の根源的怒りを解き放った圧倒的決起、それを通しての〈党の革命〉への突入というみずからの力で実現した事実にのみ依拠して勝負し、中央を逆転的=現実的に獲得する立場を確認・再確認して、3・14に決起していったのである。
B3・14蜂起における要求項目の基本を以下の4点とすることを決定した。
・与田・遠山の党の全役職からの解任と除名を要求する。
・関西地方委指導部会議の解体と全員の罷免。
・中央政治局の責任を明らかにすること。
・拡大地方委指導部会議が決議・執行権を持つ関西地方委員会であることを確認すること。
C労働者同志にとって「党内民主主義」の復活・奪回のたたかいが第一級の問題として闘われつづけていることを徹底的に重視し、蜂起の政治綱領においてこれを鮮明に打ち出すことを強力に確認した。
 われわれは、与田・遠山の支配と抑圧のもとで苦闘する労働者同志たちとの討論のなかで、この問題は本当に切実な課題であることが突きつけられた。
 萩原同志(※関西国鉄委員会議長、5・27弾圧被告団副団長)は次のように訴えた。「これまで産別委員会の会議は、その時間とエネルギーの9割を遠山、広山など関西地方委指導部会議の連中の不当なデタラメな介入を排除することに費やし、残り1割で産別としての課題と方針を議論してきた。この間ようやく、彼らの介入を許さず労働者が本当に言いたいことを言い、どう闘うかを議論できるところまできた。党内民主主義なんかまったくなかったんだ。ここまでもってくるのにどれだけ苦労したか。この大変さをほんとにわかってほしいんや」と。他の多くの大阪府委員会労働者もまた、与田・遠山による分断と団結破壊に怒り、党内民主主義の復活のための苦闘をつづけていた。 党内民主主義の復活は、しかし大阪府委員会労働者にとどまるものではなく、全関西の労働者同志の必死の要求であった。岡田意見書、2・13の兵庫県委員会による関西地方委指導部会議への自己批判要求の第1項目はそのことをハッキリ表していた。
 この問題がこれまでの党のありかたを根本から問う極めて重大な事柄であること、プロレタリア自己解放に立脚した党、新指導路線の党の建設にとって最重要の課題のひとつであることは明らかであった。党内民主主義は、単に形式やシステムの問題ではなく、単一の綱領路線の実践をめぐる批判と自己批判の日常的闘いおよび徹底的なプロレタリア民主主義とを土台とした同志間の完全な同格性の確認と、その実際の確立のための・とくに党指導部あるいは常任の真剣な思想的・実践的格闘が媒介となってはじめて形成され、確保される。つまり党内民主主義は、このようにして形成される「革命家たちのあいだの完全な同志的信頼」を条件として実現される。同時にわれわれは、党内民主主義の確立のたたかいにとってレーニンが、「真の革命家の組織に不適当な成員をとりのぞくためはどんな手段も辞さない」ことを指摘していることにふまえ、与田・遠山の打倒・一掃の闘いを推し進めることを確認していった。
D第10回フェニックス(2・3)で決定した全党総決起の論理構築のための諸テーマの報告書が各同志から提出された。
〜サザンクロス問題(早瀬)、ロザリオ問題(神山)、私党的再編過程(塩川)、ベルリン問題(毛利)、ホッケーと「分派規定」(椿)、改憲・四大産別決戦(西坂)、与田・遠山の反労働者的言動と「芹=スパイ」規定問題(芹〉
〜これを塩川同志が与田・遠山打倒への決起を呼びかけるフェニックス派のアピールとして簡潔に文章化し、次回フェニックスで討議し完成させることを確認した。
Eまた、この過程の論議においては、くりかえし高杉問題の重大性がとりあげられた。 ★ベルリンにおいては、清水議長みずからスパイ高杉問題を今ひとつの重大議題として、与田の問題性を怒りをこめて弾劾した。
 スパイ・高杉が与田の「側近中の側近」として入手した党の最高機密文書、PB【政治局】としての与田の行動etc.の情報を長期にわたって権力に売り渡し続けたことを許したこと、それが党を非公然部壊滅、党中枢のガラス張り化と解体の危機に陥れたこと、中央決定に反して高杉を私的に「制裁」して逃すという許し難い行為に走ったことなどを激しく批判したのである。そして議長は、高杉スパイ問題の革共運動史上空前の質量的重大性と与田の問題の深刻性を語気激しく提起しつつ、「今日は、皆さんも来ているところだから堤起はここまででとどめるが」と括ったのであった。
☆フェニックスの議論では、次の諸点を徹底的に解明しなければならないことを確認した。
 この問題が中央においてベルリン後どのように処置、決着させられたのか。与田は中央の議論においてどのような態度をとり、どのような自己批判をしたのか。ベルリン後の関西地方委指導部会議に川添【岸】同志が来ておこなった中央提起と「関係者」からの事情聴取についての問題性は何か。スパイ摘発委員会なる機関の実体、活動実態は何か…etc.
 さらに、与田問題の核心は権力への全面的屈服・投降であること、不正・腐敗とそのための党の私党化こそその最深の根拠であり、また高杉スパイ問題を必然化させた根源である。フェニックスにおいて、与田らの「『高杉問題についての討論は関西地方委指導部会議までとする』が中央決定」という反動的方針を粉砕し、蜂起の呼びかけオルグにおいてサザンクロスと高杉スパイ問題を完全に一体で強力に暴露してゆくことを強く確認した。
☆その後、さらに重大な事実が判明した。
 与田は、A細胞の野村同志にたいし3月5日、全国連大会の場で次のようなことを言ったのである。「お前は閑職におるから、A3支部に引っ張って来ることを考えている。医療大衆運動をやって欲しいんや。高杉、種田のようにオレに尽くしてくれ。オレには敵が多いんや」
 与田は、高杉に「オレに尽くしてくれて、心から感謝している」と言っているのだ! 権力のスパイに「尽くして」もらって喜んでいる! 与田が相手にして戦う「敵」とはなにか。党と同志である! 不正・腐敗を摘発、責任を追及する「敵」にたいし、これを隠蔽し、防衛し、党とその事業から甘い汁を吸い続けるためには、スパイだろうが何だろうがオレの盾になってくれるんだったら、何だっていい、と言っている! 党と労働者階級を権力に売り渡した憎むべきスパイにたいする怒りが髪の毛一筋もないどころではない! 高杉問題は、与田が単に国家権力のスパイ攻撃に敗北したというような問題ではない。この与田の発言は、全国連大会の時点のものである。このときすでに与田は、完全に思想的にも感性的にも、国家権力とスパイ高杉の側の人間なのだということである。「高杉スパイ問題」の発覚は、そのわずか2年足らず前のことである。「高杉スパイ問題」と上記の与田発言とをあわせ考えれば、与田の権力との直接の関係が存在した(している)と判断することが妥当である。いや、絶対にそのように判断すべきである。一億5千万円余の償い問題は無論、この問題の完全な解明と革命的処断のためにも断固として闘わなくてはならない。

(B)この過程は、大阪府委員会の産別委員会、民間職場の中心的労働者同志たちの決起、兵庫県委員会・京都府委員会労働者党員の組織的決起、さらにA細胞の先進的労働者同志の決起、DS【同志会】の革命的同志たちの決起などが決定的に開始された期間であった。
@大阪府委員会では、橘同志をはじめとした国鉄戦線、土橋同志をはじめとした全逓戦線、有田同志など自治労の闘う同志、および吉住同志をはじめとした教労戦線、1月中旬に決起した長崎同志につづいて立ちあがったB細胞の戦闘的労働者同志たち、同下旬の泉州地区委員会・円同志などの革命的決起が確実に前進し、労働者の間で連判状が確実に広がっていった。
A京都府委員会は2月18日、室井・西坂同志の全力あげた討議の組織化のもとで、いち早く拡大京都府委員会(13名)おいて上述の4項目について決議をあげていた。
B兵庫県委員会でも、2月過程で県委員会、さらに各地区委員会での討議が急速に進められ、2月終わり〜3月はじめには4地区(※尼崎、神戸、西東播、淡路)すべてで決議をあげていた。
Cマル青労同は、安達同志が決起の先頭に立った。
DA細胞の闘いにおいては、与田がみずからの不正・腐敗の最大のよりどころとしてきたA3支部で、新たな発展が切り開かれつつあった。
 関根・五井両同志は、この職場における与田の私兵=種田との長年にわたる日常的対峙の中で、革命的出口を求めて苦闘してきた。種田は、ここから持ち出す与田へのカネなどあらゆる資金を部落解放運動や非公然部のためのもののように言ってごまかそうと腐心してきたが、ここに働く労働者同志たちはみな「おかしい」とずっと疑念を持ち続けていた。サザンクロス問題の告発は、瞬時にして、ロザリオ問題と結びつけてつかまれ、A3支部は両同志の怒りと決起によって決定的攻防の戦場へと転化した。関根同志は、1月下旬から3月にかけ3回にわたって財政帳簿をフェニックスに提出、これによってサザンクロスの実体解明が飛躍的にかちとられた。
 A細胞においては、すでに1月上旬〜中旬段階で森村同志、安倍同志、石野同志が決起していた。ここに1月22日の討論で決起を決断した関根同志が結びつき、4人の連絡文書のルートがつくられ、革命的分派のフラク形成に向かって進んでいった。これが、3月12日のA細胞フラク12名の決起に結びついていったのである。また1月23日、早瀬同志が町田同志と討論し、ともに闘うことを確認した。さらに2月下旬、三上同志が決起した。戦友・宗像同志(※後述)との真剣な討議の中での決断であった。60年代なかばに革共同に結集以来、一貫して不屈に闘い、80年代中期から十年にわたってA2支部の事務長を献身的に担いながら、与田がA細胞を私物化・私党化する中で排除されてきた三上同志の決起と決断は、A細胞労働者同志の3・14への蜂起的決起、3・14後のA細胞の原則的再建にとって決定的であった。
E2月上旬、DSの新庄同志が三浦同志・藤尾同志(※いずれも沖縄戦線)を介して塩川同志と会い、最初の討議をおこなった。新庄同志は、すでに1年前に差別糾弾闘争の圧殺者として与田を徹底弾劾し、与田の同志会指導の問題性を根底から批判し、打倒を決断し、前原同志とともに決起していた。新庄同志はとくに、寝屋川支部の闘いへの権力の弾圧にたいする部落大衆の決起が権力・行政との激突となって発展してゆくことにたいして与田が、これを恐怖し制動と抑圧を加えたことを怒りを込めて弾劾した。
 2回目の討論から前原同志が加わり、両同志は、サザンクロス問題をめぐる不正・腐敗とそのための党の私党化の革命的暴露の提起を受け、与田・遠山打倒のたたかいにともに断固決起することを決意した。3・14蜂起まで、計4度の討議がおこなわれた。与田による暴力支配の足下で命がけで先駆的に与田打倒闘争を闘ってきた同志会の同志たちのあたらな決断に立った蜂起勢力への革命的合流であった。
 さらに2月下旬、同志会の宗像同志が決起した。サザンクロス、ロザリオ、「分派規定」などの諸問題の暴露と与田・遠山打倒の堤起に、同志は「解同のやりかたと一体どこが違うんだ。絶対に許せない。分派攻撃をしていたのか。これも絶対にゆるせん。ものすごい党の危機だ」と即座に蜂起への決起を決断した。さらに、「おれとナベさん(※A細胞の三上同志)とは戦友なんだ。すぐオルグするよ」との決意を語った。反スタ・革命的共産主義運勤を半世紀近くにもわたって最先頭で闘い抜いてきた同志の、激しく鮮烈な革命家精神であった。同志会において長年、マルクス主義に立脚した革命的部落解放闘争論のもっとも優れた理論的リーダーとして、講演・学習会などによる運動への労働者、部落大衆の結集に大きな寄与をなしてきた同志の決起は、A細胞の地平の上に今、ますます決定的な役割を果たしつつある。

(C)2月下旬の時点では、拡大地方委指導部会議(戦線+地区委員長・労対会議)においてフェニックス派は過半数を超えていた。(※3月上旬には3分の2以上を確保し、与田の政治局と党からの中央への除名要求、遠山の除名を決議することが可能となっていた)。
 さらに2月中旬には、社内において社細胞、救対細胞の会議はそれぞれ中西同志、住田同志のもとにそのまま革命的分派の会議として行われていた。

(D)3・14当日の闘いの検討。
 休暇を確保できる労働者党員の早朝からの結集を含めた決起体制をつくり、与田・遠山の実力打倒の上で、関西地方委指導部会議全員に決議・連判状を突きつけ、3・14関西地方委指導部会議〜3・15拡大地方委指導部会議を連続的・一体的な蜂起として貫徹する。
 4項目に立脚した新たな労働者権力樹立を宣言し、ただちに全関西・全国への支持と総決起をうったえる。中央工作としては3・14関西地方委指導部会議での打倒闘争の決着直後に中西同志を特使として本社に派遣、天田・中野同志はじめ政治局への訴えと諸文書回覧、即座の関西入りの要請などをおこなう。

(vi)全段【前段】決起集会についての方針。
@大阪府委員会労働者の決起集会の計画〜3・3(LC【各細胞の指導部】的同志)、3・5(結集可能な同志)
AA細胞労働者の決起集会の計画〜3・12

(F)なお関西地方委指導部会議〜拡大地方委指導部会議および大阪府委員会では、新たな情勢が生まれていた。
@与田は、兵庫県委員会労働者からの12・12「椿返信」以来の拡大地方委指導部会議(SCHUIBERT)をまきこんだ強力な要求のなかで、「ホッケー議事録」の公開に追い込まれた。しかし与田は、12月中旬の関西地方委指導部会議で毛利自己批判と一体で1月末〜2月はじめに公開すると表明したものの、「分派規定」をめぐる塩川同志と私による徹底的な自己批判要求のなかで、「一体で公開」路線は、破産したのであった。  与田は2月10【日】頃、公開することの了解を求める「関西地方委指導部会議への稟議要請」なる文書を回覧のうえ、2・14関西地方委指導部会議において「ホッケー議事録」の公開を提起した。その上で、ベルリン・ホッケー決定を拒絶する毛利への自己批判要求の党内世論を扇動し、塩川・毛利による与田自己批判追及闘争を圧殺し自己保身と延命をはかるために、新たなあがきを始めたのである。すなわち、「ホッケー議事録(組織問題部分)の公開にあたって」(13ページ)、「兵庫県委員会から与田、ならびに関西地方委指導部会議への謝罪と自己批判の要求に対する与田の応答」(11ページ)、「拡大地方委指導部会議で提出された諸意見への応答 関西地方委指導部会議(与田)」(6ページ)、「毛利自己批判問題〜関西地方委指導部会議討議のために 与田」(7ページ)などの膨大な文書を書いて臨んで来た。そして、前3点の文書と「議事録」について、大阪府委員会はじめ各組織において指導部から順次討議を開始することを「関西地方委指導部会議決定」としたのである(※「関西における反中央の歴史的堆積物」なるデタラメな総括にたいする私の反対意見、塩川・毛利による上記諸文書にたいするさまざまな批判は、すべて基本的に無視、却下)。
 重大な反動の始まりであった。
Aこれに対応した大阪府委員会における諸動向。
☆2・15拡大地方委指導部会議〔※戦線+地区委員長・労対会議の合同会議)の翌日、16日には遠山が大阪府委員会3役会議(遠山、岩城、牧瀬、桐生、一条、国賀。鬼塚、高瀬両同志は欠)を開き、与田による上記諸文書回覧の目的・意図に関する意思統一をおこなった。
★さらに22日、夜10時半から3時間にわたって緊急の大阪府委員会常任会議が開かれた。ここで諸文書を回覧の上、「ホッケー議事録(組織問題部分)」「ホッケー議事録の公開にあたって」を読み合わせ、討議し、さらに踏み込んだ意思統一が行われた。出席者は、遠山の他、岩城、牧瀬、桐生、国賀、石山、江崎、堂本の諸同志(※一条、円の両同志は欠席)。討議状況は要旨、以下のようであった。
〜「読んで驚いた。毛利はおかしいと思っていたが、読んでよく分かった」「岡田意見書は問題だ」「岡田意見書は京都府委員会では公開されている。兵庫県委員会・京都府委員会は相互浸透している。兵庫県委員会は新指導路線について錯覚している。これまで拡大地方委指導部会議で路線討論ができなかったが、読んでよくわかった。この提起で拡大地方委指導部会議での路線闘争をやる」「兵庫県委員会は新指導路線について、自分たちは正しいと思っている。とんでもないことだ。国鉄、全逓委員会での意見を聞くと新指導路線についてのスタンスが全然違う」「大阪府委員会だけが4大産別基軸を実践している」etc.etc.
 遠山は最後に、宝塚問題や岡田意見書問題に現れている兵庫県委員会問題は以前から財政不透明問題としてあったと、兵庫県委員会へのデマゴギーを述べ立て、与田の意を体して上述のような徹頭徹尾反労働者的議論のもとに大阪府委員会の常任同志を組織していったのである。その上で遠山は、牧瀬同志の管理のもとに上記の与田の諸文書を大阪府委員会メンバー回覧に付し、3・7大阪府委員会で討議するという反動的方針を堤起した〔※実際は、3・7での討議は延期となった〕。
☆さらにこうした状況を背景に、以後3・14にいたるまで「ベルリン、ホッケーで与田・遠山は中央の軍門に下ったのに、彼らを右から、つまりベルリン・ホッケーの立場から批判するのではなくこれを否定する立場からやってるとこが椿のタコなところや」といった、実践約には与田・遠山の反中央的正体を隠蔽・免罪し、連中の「毛利自己批判要求」の反動的党内キャンペインの旗振り役を買って出る意見、あるいは「ホッケー討議断固支持、毛利は直ちに自己批判せよ、椿と兵庫県委員会は新指導路線から逸脱している」など与田・遠山の反動的策動に棹さす主張が次々と出てきたのであった。
☆われわれは、与田・遠山が不正・腐敗を隠蔽するために、関西地方委指導部会議において生起している事態があたかも「路線的不一致、あるいは対立」をめぐる問題であるかのように描き出し、この一大デマゴギーのもとに大阪府委員会の常任同志のみならず、労働者党員同志をも引きずり込もうという反動的策動を重視し、これを徹底的に粉砕するために、ベルリン、ホッケーにおける与田・遠山の言動の革命的暴露をとうして、その反中央的私党としての正体を全力をあげて労働者の前に暴き出していった。
☆われわれは、大阪府委員会の常任諸同志が総体としては決して単純に与田・遠山に屈服しているものではない、いやむしろ連中の「指導」や問題性にたいして様々な疑問や批判を抱きつつ、しかし長い間バラバラに分断され、抑圧されるなかで自立した共産主義者としての主体をスポイルされる中で結局、基本的には連中に組み伏せられてきたと言わざるをえない状況をみずから許してきたのが実相に近いと考えていた。またこうした状況が、これまでの党指導の歴史的・構造的問題性とそこに足がかりを得、生成し、登場し、巣くうに至った私党集団による党支配を長きにわたってうち破ることができなかったわれわれの責任に深く関わっていることも自覚していた。
 われわれはそうした点を踏まえつつ、しかし上述したような現状を真正面からみすえ、直接のオルグは危険と判断したのである。そして、しかし与田・遠山打倒の貫徹とその階級的犯罪の事実とを一体的に突き出した時点では大阪府委員会常任同志全員が例外なく即座に蜂起を支持し、総決起することを絶対的に確信して闘っていったのである。

(G)さらにこの過程では、追いつめられあがきを深める与田に対して労働者同志からの強力な批判が突きつけられた。
 大久保同志(※兵庫県委員会、尼崎地区党)は2月26日、与田の「兵庫県委員会からの与田ならびに関西地方委指導部会議への謝罪と自己批判の要求にたいする与田の応答」(2・16)にたいして即座に「『懸案事項の第二は、宝塚要望書(ママ)問題の党的総括の深化である』について」と題する6ページにわたる全面的な反論を提出した。  これは、与田による宝塚「つくる会」教科書阻止闘争の反動的歪曲にもとづく「兵庫県委員会=分派」規定のデッチあげ策動を、一貫して宝塚の現地で闘ってきた当事者が宝塚闘争の真実を詳細な事実をもって明らかにすることによって完全に粉砕した重要なたたかいであった。
 大久保同志は、「宝塚『つくる会』教科書闘争・教育闘争の総括資料 05・9・11 740A 大久保」をはじめ、宝塚闘争の闘いの意義に関する重要な提起をくりかえし行ってきたが、この全面的反論は労働者同志たちによる「請願書問題」をも含む実践的総括論議をも巻きおこしつつ、関西教労戦線をはじめとした労働者同志の決起をさらに強力に促すものであった。

(H)なお、この期間に与田の党からの活動費支給が月額25・2万という破格のものであることが判明した。この事実は、中西同志(※社キャップ、地方委員会の財政委員)からもたらされた。

(I)「私党化を許さない決議と連判状」について。
 ある同志のかつての経験を聞いてヒントを得た塩川同志がフェニックスで提案し、労働者自身が労働者の決起を主体に組織し、労働者党員同志が蜂起へ大衆的に決起する決定的な方針として直ちに採択された。「連判状」は2月11日から労働者同志への配布が開始され、3・14労働者蜂起にとって極めて大きな威力を発揮した。
 連判状の文面は以下のようであった。
★メインスローガン〜労働者の怒りを爆発させ、与田・遠山ら私党集団を打倒・一掃しよう!
★われわれの目的
・私党化をうち破り、労働者党員が生き生きと活動できる、徹底的に中央集権的で、徹底的に民主主義的なボリシェビキ党を再生するために、
・日本革命・世界革命を切り開くため、新指導路線をになう党的実体・党的団結を形成するために、
・06年・07年改憲限止決戦と4大産別決戦(民営化・労組破壊)を闘うことができる党への再生をかけて、
★以下の項目を決議し、要求する
・与田・遠山を、党の全役職から解任し、除名すること
・関西地方委指導部会議を解体し、全員を罷免すること
・この問題にたいする全国委員会・政治局の指導責任を明らかにすること
・拡大地方委指導部会議が決議・執行権をもつ関西地方委員会であることを再確認すること
(xi)さらに、早急に詰めるべきことがらとして、以下の諸点を検討した。
・3・14〜15の政治的・軍事的・組織的体制〜動員、指揮体系と任務、etc.
・当日の朝〜昼結集の労働者同志の具体的組織化。
・与田・遠山の邸宅のCM【カメラ】撮り体制。
・3・14直後からのセンターをはじめ拠点をめぐる攻防問題の検討。

(つづく)

INDEX
inserted by FC2 system