荒廃する革共同――高木徹氏(前議長代行)除名・追放が意味するもの

13・9・25(10・21一部加筆修正)

(0)
 党内権力問題にとらわれて、粛清に次ぐ粛清に明け暮れる革共同(中央派)は、労働者階級・人民大衆、被差別人民とも、被抑圧民族とも無縁な存在であり、全世界の人々の苦しみ、怒り、願い、そこから発する切実なあらゆるたたかいにたいする妨害物でしかない。革共同には、米・日の帝国主義体制およびその戦争と植民地主義と搾取と差別・抑圧の政策に立ち向かう何の戦略も、方針も、意欲もない。その機関紙誌や彼らの行動をみれば、それはあまりにも明らかとなっている。党内権力問題にきゅうきゅうとする革共同は、反帝国主義・反スターリン主義、反権力の立脚点を完全に喪失してしまった、抜け殻の存在でしかない。
 前議長代行であった高木徹氏の除名という新たな粛清劇は、そうした革共同の政治的、組織的、思想的な荒廃ぶりをもののみごとに表す事態である。以下、この問題をみてみよう(文中、敬称略)。

(1)
 9月6日、天田が高木徹を本社に呼び出した。そして、高木にたいして「除名に処する」ことを告げた。「党員として再生の見込みがない」ということが、除名の理由である。天田は、「この決定は、清水議長も確認しており、お墨付きを得ている」といった。さらに、高木除名は、党内外に公表する方針である、とほのめかした。
天田は、今年の2月段階で、高木をすでに三里塚の地から追い出し、党からの活動費支給を完全に打ち切るとともに、「誰とも会うな、家族とも会うな」と厳命して、都内のアパート住まいとさせていた。そして、9月6日をもって、7年前までは革共同政治局員であるだけでなく、清水に次ぐ議長代行の位置にあった高木徹を党から最後的に追放したのである。
1963年のカクマルとの分裂前に結成されたマルクス主義学生同盟の初代委員長をつとめ、その後も長く革共同を代表する古参指導部の一人としてあった高木を、天田や清水は、お払い箱にするという扱いにしたのである。
齢74となる高木にとっては、復権のかすかな希望も断たれた。かつて九州時代に税理士として働いたこともあったが、今や社会への適応力もなく、文字通り路頭に放り出された。除名されたのだから、党に残ったままの妻(婦民所属)ら家族と勝手に会えばいいはずだが、天田や木崎はそれも妨害することであろう。
 天田および清水が高木にやった仕打ちは、「野垂れ死にしろ」というものである。
 この高木除名問題は、中央派の内部にびりびりとした緊張と、あらゆる面での意気阻喪を生み出している。

(2)
 それにしても、「再生の見込みがない」という除名理由は、古今東西の運動史のなかでも、例がない。反中央分派活動をやったというのでもなければ、何らかの反党行為をやったというのでもない。それどころか、高木は、3・14党内リンチを全面的に支持し、それを「労働者の蜂起」として率先して美化してきたのである。懸命になって、動労千葉特化路線に支持を表明し、「観念的血債主義者」批判や「与田一派」批判をして、天田・中野への忠誠を誓ってきたのが高木なのである。
除名を公表するかどうかは不明だが、高木除名の公表は、さぞや傑作な声明文となるだろう。

(3)
 では、天田はなぜ高木を除名にしたのか。
天田にとって、高木は「天敵」であった。一番憎い相手であっただろう。

 06年3・14党内リンチの支持を政治局が決定したとき、天田は、これで高木を追いつめることができると考えた。
天田たちは関西派と結託して、「与田や岸、水谷の存在とその役割を容認してきた」として、清水と高木を追及したのであった。
清水は、2度の自己批判書で、ずる賢く自己批判をパスした。自己批判などできず、する意志もない天田や中野らは、清水が政治局を代表して自己批判したのだとして、自分らの固有の責任を隠ぺいし、頬かむりした。
だが、その際にも、高木は天田や中野がみとめるような自己批判書を書くことができなかった。高木は、自分の責任を棚上げして、すべて岸、水谷、あるいは平田に責任をおしかぶせ、岸や水谷を罵倒することで、すりぬけようとした。それはあまりにも無責任な態度であり、誰から見ても納得できるものではなかった。浅尾(高杉)スパイ問題でも、高木は責任を追及されたが、すべて他人ごとにした。
 そうした高木をめぐる度々の責任追及と自己批判執筆の繰り返し、その却下という過程が続き、06年11月〜07年2月には、天田と中野は、高木を政治局から更迭し、三里塚の地で「学習せよ」と、事実上の党員資格停止、活動停止に追いやった。これ自体、非常に激しい処分であり、党内での高木の抹殺への道であった。
 清水も、1960年代の学生戦線時代以来の戦友であり、とくに1994年以来、政治的・組織的にもっとも近い存在であり、無二の盟友でもあったはずの高木を切り捨てた。清水の意向により、政治局は、1997年の20全総で「議長代行」という異例のポストを設けて、高木をその職責に着けた。つまり、高木はナンバー2であり、書記長・天田より格上の大書記長だったのである。その高木を、清水は、天田の異様なまでの高木排斥方針に迎合して、見捨てたのである。人間として、これ以上恥知らずなことはない。
 にもかかわらず、革共同の変質と転落を見抜くことができない高木は、自分の復権の余地があると大錯覚し続けてきた。

 そして、高木は、今年1月に「宇野理論の根本的批判」と題した11万3000字にのぼる意見書を提出した。それを提出しただけでなく、「これを党の内外に公表させていただきたい。……塩川派や結柴・水谷・岸・岩本、そしてツンドラで脱落した連中(註 昨秋除名された4氏のこと)に対して打撃を与えたいという強い思いがあるからです」と要求したのである。
高木意見書を受け取った天田は、当然のことながら逆上した。そして、新たな重処分に付すとともに、除名のカウントダウンに入った。

 そうして、06年11月処分から7年近くたって、天田らは、ついに高木を除名にした。7年間が経過しており、必ずしも単純な経過ではなかったが、この高木除名は、3・14党内リンチの直接の帰結であり、7年前の党内クーデターとその肯定・美化という党的大分裂事態の余震である。
 天田にとっては、議長代行として目の上のたんこぶであり続け、自らの名ばかりの書記長職をも剥奪するのではないかと戦々恐々としてきたその高木を排除することで、ようやく天田党ができたのである。ぎゃくにいえば、天田にとって、高木除名をやりとげなければ、「党の革命」にならないということなのであった。
 詳しくは別途にするが、13年夏季特別号掲載の天田論文は、今回の高木除名と表裏一体であり、その二つをもって、天田は自らの手で革共同の歴史を断ち切ったのであり、「中野なき天田党」を宣言したといっていい。

(4)
 天田夏季特論文から、その本質を示すフレーズを書き出しておこう。

 「革命的共産主義運動50年の歴史で最高の勝利は、革共同破壊の工作者・希代のスパイ分子荒川碩哉を、革共同が自らの手で摘発し打倒したことだ。…であった。」
 「5月テーゼは、『闘うアジア人民と連帯し、日本帝国主義のアジア侵略を内乱へ』の戦略的総路線を、労働者階級が労働運動・労働組合のなかで実現する路線、闘いへと大転換した。」
 「一つは、プロレタリア革命は、労働組合を通して、労働者階級の党と労働組合の相互作用、緊密な関係を通して労働者階級が政治権力を獲得していくものであることをはっきりさせた。」

 「しかし、90年代国鉄決戦を闘いとる過程は平坦ではなかった。5月テーゼ反対派=血債主義派との激しい組織的・政治的・路線的闘いを不可避とした。……血債主義派の主張は、労働者階級自己解放闘争を蔑視して否定する反マルクス主義の思想として登場した。運動的には、組織建設を後景化させ否定する政治決戦主義に純化していった。…」
 「日帝国家権力中枢は、5月テーゼ推進=階級的労働運動推進派と5月テーゼ反対派=血債主義派とが激しく対立している革共同を二つに分裂させ、解体する機会を狙っていた。……2006年の『党の革命』は、関西を先頭に全国の労働者同志の激しい根底的な決起の中で、5月テーゼ反対派=血債主義派の恐るべき腐敗を徹底的に暴き出し、弾劾し打倒し、闘う労働者党員の手で革共同の全国的統一をかちとっていった。」

 「70年7・7は歴史的分岐点を形成した。このことが5月テーゼ反対派=血債主義派が生まれた思想的遠因となっている。/それは、日本階級闘争に牢固として存在する日共スターリン主義への屈服でもある。第2次帝国主義戦争の戦争責任は帝国主義そのものにあるのだ。このことを徹底的にはっきりさせなければならない。」
「党と階級の歴史上、重要なことは、血債主義では民主労総との連帯は築くことはできなかったという事実だ。」
 「『国鉄決戦の全面的爆発でプロレタリア世界革命の道を切り開こう』という革命戦略のスローガンを真っ向から掲げて闘うことが求められる。」
 「労働運動のできる党に何としてもなろう。ある意味でこれがすべてである。/党と労働組合の一体的建設は、その中でのみ可能だ。」
 「沖縄の今日の歴史的な激動を根底において規定しているのは国鉄決戦であり、動労千葉の闘いなのである。」
etc

 これら引用に明らかなように、天田は、革共同の歴史は、国家権力が階級的労働運動派と「血債主義派」とに分裂させる攻撃との闘いの歴史であり、その「血債主義派」を打倒する党内闘争の歴史であると描くのである。スパイ荒川をそこに位置づけているのである。
 謀略史観といっていい。
 そして、天田は、「連帯し内乱へ」の戦略を破棄したこと、労働組合路線=動労千葉特化路線に転換したことを明言したのである。
 転換した路線はといえば、“労働組合をとれば政治権力をとれる”という路線である、とはっきりと記しているしまつである。
 あまつさえ、70年7・7を、それが「血債主義派」の遠因とすることで、否定し去っているのである。「7・7自己批判」ということばそのものを消した。華青闘やすべての在日朝鮮人・中国人の存在とそのたたかいをことごとく否定し去ったのである。
 それは、同時にまた、今日の民主労総を冒涜するものにほかならない。
 天田は、“第2次帝国主義戦争の戦争責任は、帝国主義に帰すとすればいいのであって、帝国主義国の労働者階級人民には何の責任もない”と言い放つにいたった。これはもう、7・7自己批判以前のレベルであり、ベトナム反戦闘争以前のレベルであり、「血債主義」は自虐史観とほとんど等置されている。

 その他、いろいろあるが、これは「中野なき天田党」の宣言とみなさなければならない。

 他方、天田が夏季特論文で書かなかったことも、非常に特徴的なのである。

 一つには、天田は、夏季特論文で、「血債主義派」問題に熱中するあまり、「党と労働組合の一体的建設」というフレーズをほとんど記していない。それは、政治局決定違反と指弾されるような性格の問題である。
 二つには、革共同50年史うんぬんとのたまいながら、また動労千葉うんぬんと強調しながら、何と、故中野洋への言及が一言もないのである。06年3・14党内クーデター以後も中野からがみがみいわれつづけてきた天田は、中野が死んで、やっと重苦しい気分から解放されたと思っているから、中野という言葉を書き記さなかったのだ。
 三つには、8月冒頭の時点でありながら、年間最大の方針であるはずの11・3労働者集会の位置づけがゼロ、11・3方針の提起ゼロというありさまなのである。見せかけにせよ呼号しなければならないはずの「11・3に1万人結集」ということばも、もちろんない。これが書記長というのだから、党員の誰からも軽蔑されているのは、当たり前である。
天田が書かなかったこの三つの点は、ないがしろにできない大きな失態である。そのことで、天田が政治責任を問われても不思議ではない重大問題なのである。
 このことは、田中・辻川と天田の間で、錯綜した組織矛盾があることを反映している。天田対田中・辻川の組織的葛藤は、深刻なものであり、今回の天田論文の責任問題が、それを加速するであろう。
 現に、周知のように、『革共同50年史』刊行の大幅遅延と、全内容の書き直し、編集方針の抜本的変更という、これまた前例のない異常な事態が起こっている。

(5)  天田夏季特論文と高木除名という事態となって、なお中央派内に残ることは何を意味するだろうか。それは、革共同抹殺、プロレタリア革命運動抹殺、共産主義抹殺に加担することしか意味しない。天田が裸の王様であることを見ながら、おべんちゃらをいう臣下たちでしかないということである。
腐りきった人間の集団と、その一員になりさがった者たちは、もはや救いようがない。

以上

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