《当サイト管理者から》
 2006年9月、天田三紀夫氏が政治局の先頭に立ち、結柴誠一氏と新城節子氏に対して、こじつけの理由で即時議員辞職を強要した。結柴氏が当初から3・14党内クーデターに反対したことがその真の理由であった。なお、新城氏は判断を留保するという態度であったが、3・14反対派とみなされていた。両氏への即時議員辞職の強要をめぐって、結柴氏と新城氏の属する東京西部地区委員会が論議するも、その強引なやり方に疑問や反発が続出し、地区委員会決定に持ち込むことができなかった。それに苛立った政治局は、大原武史氏が乗り出す形で、西部地区委員会に介入した。しかし、大原氏の歯切れは悪い。(注)は投稿者によるもの。【 】内は管理者による註。

杉並2区議問題について

06/10/15 大原武史

 東京都委員会総会、関東地方委員会総会から首都圏常任総決起集会を経て、現在においても杉並2区議問題についての混乱が止揚されず、一致に至らず、前進に転じていないことを憂慮しています。それだけ歪みが深い故に「党の革命」が核心においては理解されず、拒絶されているということだと思います。問題の根本的解決、一致に向け、私の意見を出すこととします。これまで新指導路線を正に命がけで切り開いてきた中野洋同志は、常々「困ったときは原則に戻れ」と言います。まず、虚心坦懐に原則に立ち戻って欲しいと思います。そこからしか一致は勝ち取れません。

 第一に、党員個別の歴史的苦闘がいかほどであったかという事に思いを寄せつつも、まずはっきりさせなければならないのは革共同とは何であり、いま何であらねばならないのかということです。戦前スターリン主義=党の裏切りと敗北が何をもたらしたのか。幾たびか確認してきたことを、日米同盟下での安倍政権による北朝鮮侵略戦争の発動という情勢下で今こそ鮮明に再確認されなければなりません。2000万人のアジア人民、300万人の日本人民、沖縄戦、広島・長崎の大虐殺、さらに戦後革命の敗北を正に(スターリン主義)党の問題として「党の敗北」として主体的に総括したところから革共同は革共同として立ち上がったのです。今や、完全な戦前に入り、護憲派も含めて総翼賛で「北朝鮮非難」=帝国主義への屈服と戦争ヘの荷担に突入しています。ここで革共同が決定的なところでたじろぎ、敗北することが一体どういう結末をもたらすことなのかを根本的に考えるべきです。これは、誰がどうのという個人レベルの問題ではありません。正に党としてどうなのかということです。3・14労働者蜂起は、最高指導部の変節・腐敗のために党を私物化し、スパイを招きいれ、これを擁護したという恐るべき革共同解体の危機を、労働者党員の決起によってギリギリで粉砕した闘いでした。3・14労働者蜂起がなかったら革共同は半世紀にわたる一切の死闘、ここに人生をかけた党員の苦闘を灰燼に帰する所まで来ていたのです。これを許した場合、私党化グループとその同調者によって3・14労働者蜂起が敗北させられた場合どうなったかを、再度よく考えて下さい。西部地区委員会の議論はあたかも「3・14労働者蜂起支持」が前提とされている様ですが、ここの押さえ方が全く甘いとしか言いようがありません。大原論文で「党の敗北は、階級の敗北なのだ」ということを金科玉条にするのではなく、一切の言い訳や責任転嫁を捨てて一個の共産主義者として全ての党員に向き合って欲しいと思います。党の敗北は、一切を飲み尽くす帝国主義戦争の道なのです。これを曖昧にしたところで、部落差別や沖縄差別を対置することは、部落民や沖縄人民を血の海に沈めていくことへの承認にしかならないのです。とてつもない惨劇の道です。いま杉並2区議問題で語られていることは選挙が主語に置かれ、この労働者階級人民に対する党としての決定的責任が曖昧にされています。選挙のために、党の責任と原則が投げ捨てられてきたことが「犯罪被害者支援条例」や「民営化」賛成にまで行き着いてしまった。これは、決定的な党の敗北なのです。しかし、辞任問題も含めて、問題の大きさの前にたじろぎ、それでも尚かつ曖昧な「決着」を求める議論が吹き出しているのです。これが3・14労働者蜂起で問われた階級の党としての解体的危機の核心なのです。要するに3・14労働者蜂起では部落解放運動を例外とする、杉並2区議では選挙を例外とするという形で、党の生命線としてある階級的原則をねじ曲げ決定的な「党の敗北」が準備され、そのことによって階級と全人民を敗北に導こうとしていたということを、党として根底的自己切開し、自己批判するということなのです。こう考えたとき「犯罪被害者支援条例」に賛成したこと一点だけをとっても、「坂口【結柴誠一】同志が党内に自己批判したことで済んだ。」などということが言えるはずがないのです。党の労働者階級と人民に対する根底的責任を「選挙」のために曖昧化するベクトルが働いているのです。「辞任」が支持者に対する責任の取り方ではないという意見もそれです。では、帝国主義と反動勢力に敗北し総翼賛体制に屈服し、侵略戦争に荷担することが党としての支持者への責任だとでもいうのでしょうか。そんなつもりはなかったで済むのでしょうか。「犯罪被害者支援条例」は戦争に向けた治安弾圧の強化を正当化するための攻撃なのですよ。「民営化」は、戦争に向けて労働者階級の背骨をへし折るための核心的攻撃なのですよ。誰が何と言おうが反対を貫くのが革共同としてイストとしてのあり方なのです。実際桑原【西村綾子】議員は、議会でたった一人でどの様な嫌がらせを受けても民営化に反対し続けて来たではありませんか(注1)。西部地区委員会だけは特殊だとでも言うのでしょうか。 3・14労働者蜂起によって、その様なあり方を完全に打倒する闘いが不退転ではじまったのです。これを真っ向から捉えることができないということは、最早革共同たり得ないという階級からの峻厳な突きつけなのです。

(注1)その後の首都圏党員総会で、ある党員から、結柴氏・新城氏が民営化に賛成したというのは事実に反するのではないかという疑問が出された。むしろ西村氏がはっきりと民営化に賛成している事実があることが暴露された。そこに出席していた西村氏は沈黙し、婦人民主クラブ全国協議会のメンバーが「西村さんは党員として頑張っているのだから、そんな問題はいいのだ」という開き直りの発言があった。

第二に、したがって「トカゲのしっぽ切り」などという見方で、坂口同志、雪野【新城節子】同志を擁護する議論も根本的に誤っています。これは雪野同志を大切に思う同志からの発言であったとしてもやはり間違っています。これは、階級と切断された私党化グループの発想そのものです。少なくとも私が参加するようになって以降の政治局において、この様な発想に基づく議論や決断は一切ありません。特に、大原論文発表以降は、これを土台に一切が進められています。この論文の基本思想と路線は三全総から第三回大会に至る過程で形成されてきた革共同本来のものです。この間この過程の捉え返しが行われ、「機関紙担当者会議」でも本多書記長の指導下のこの過程で何が言われて来たのかを明らかにしています。全ての党員が自己自身の営為として原点的再構成を求めたいと思いますが、ここで五全総第三報告の抜粋が出されていますので、これだけでも読んで欲しいと思います。ここで出されている党内闘争の核心は「真の獲得」ということです。「切る」などという発想はどこにもありません。「犯罪被害者支援条例」や「民営化賛成」はどんなことを言っても事実なのです。この決定的敗北を共に見据えはっきりさせ、これを曖昧化しようとする傾向を打倒し、同志として真に一致を勝ち取り獲得するということなのです。ここで巻き起こる一切の新たな苦闘を共に断固として引き受けようということなのです。こうした立場を抜きに、擁護することは根本的に誤りであり、実は非同志的であり、また二人の同志への不信の表明でしかないのです。それは二人の革共同としての真の屹立、自己解放の道を遠ざけることでしかありません。天田三紀夫同志は、3・14労働者蜂起以降一切を引き受けて革共同の最高責任者として屹立しています。特に大原論文を受けて「党は階級そのものである。」「党の敗北は、階級の敗北である。」ということを深くかみしめる中で、杉並2区議問題についての決断【註 06年9月に結柴氏と新城氏に対して、07年4月までの区議の任期を待たずに、即時の議員辞職を強要するという決断を指す】をしてきました。それはこれまでの選挙問題での「たじろぎ」の本質を見据え、如何なる困難があろうともこれを引き受けて前進するという決意によって進められているのです。責任を引き受けることによって自己批判を貫徹しているのであり、そこに権力主義的発想はみじんもありません。この過程を共にした者として、これは断言します。何故天田同志が書記長であるのか、私党化グループが何故天田同志打倒闘争を組織したのか、天田同志そのものを同志として真っ向から見据えるべきだと思います。言うまでもないことではありますが私は権力や権威にひれ伏すような人間ではありません。同志や人間に対する見方が、私党化グループに端的に現れたように歪んでいるのです。自分を外在化させて「中央」を語るあり方を自己と党の中から一掃しようではありませんか。

 第三に、「杉並2区議問題」や「アレグロ問題」(注2)について選挙闘争だけの歴史的変遷をたどったり、個別事象をはっきりさせただけでは見えてこない問題があるということです。

(注2)部落解放戦線の松井氏(田中れい子氏)が長年にわたって新城氏に対する沖縄差別にもとづく排斥や個人攻撃を繰り返し、新城氏の告発により組織的な検証の課題となり、松井氏が自己批判を課されていた問題。

 それは、80年代90年代の革共同の状態―指導内容がどうであったのかをはっきりさせないと問題の核心に迫れないのではないかということです。勿論一労働者党員であった私が、つぶさに解明できる訳ではありません。しかし革共同の労働者党員として、階級的試練を引き受け続けてきた立場から明らかにできることがあります。
 私は、革共同と動労千葉の階級的要請に応えるべく78年レール【国鉄】に入り、79年の動労千葉独立を受けて80年から国労からDR【動労】に転戦し、DRY【動労カクマル】との壮絶とも言える激突に突入します。二重対峙・対カクマル戦の原型ともいえるこの激突を通して動労水戸の骨格を形成していきました。この激突過程で動労千葉防衛を絶対的基軸において、本多思想・マルクス主義思想で自己を核心的に打ち固めながらDRYに根底的に勝利していきます。細々とは追いませんが85年10・20三里塚にはDR青年部から50名動員を実現するまでに力をつけていました。この力で、分割民営化攻撃と激突していくのですが、この過程―DRYとの激突を通じて革共同とは何かという点での強烈な自己形成を成し遂げたと思います。ここから85〜86年頃「南千束戦闘」をもって「Y戦勝利」の宣言が成された時点で、私は当然にも「三全総へ回帰する」べきと考え「三全総へ帰れ!」と訴えました。ところがこの時の党員総会(89年)では、動労千葉決戦を当初から共に担ってくれた大下【藤掛守】同志をはじめ何人かの指導部(いわゆる労対グループだったのでしょうか?)が「自己批判」させられていました。また、後年2波ストを前に中野同志が非公然会議から抗議の退場したことがあった(注3)とも聞きました。私は更に、86年暮れの動労水戸結成、87年初頭からの壊滅的配転攻撃との激突、その渦中でのDRY戦闘(3連打)の爆発、90年決戦下での権力の攻撃との正面対峙という空前の試練を次々と受けながら、全国―地方センター【労組交流センター】建設運動に踏み込んでいきます。この激闘下で動労水戸を維持するだけでも凄まじい苦闘であったのですが、92年の部落解放同盟全国連合会結成から93年の茨城県連丸ごと加盟を受け、中野同志の「お前しかいない」という要請で東日本解放共闘の事務局長を引き受けます。そして翌94年11月集会の原型となる9・18集会での路線提起者の一人となり、さらに全国センター事務局長を引き受けていくことになります。羅列するのは簡単なのですが、ひとつひとつが自分にとっては凄まじい試練と飛躍が求められた過程でもありました。この間は、労働運動だけでなく部落解放運動、障害者運動、在日滞日運動、沖縄闘争―在本土運動に学びつつ、主体的に関わる過程としてもありました。こうした過程を、それこそ七転八倒しながら革共同として階級として一歩も引かないで屹立してきたという自負があります。80年にDRYと激突を開始してから退路は断ってきました。ところが、この間長野の部落解放戦闘同志会レポートなどで明かになったことですが、私大原は、「武装闘争路線に反対し90年前に骨が折れていた」などという認識がどこから生まれているのかということです。動労水戸結成以降の私たちの苦闘と革共同は別の所にありました。これが動労水戸細胞の崩壊的危機―動労水戸そのものの危機に転化していました。何が厳しいと言って、これが最も厳しかったのです。だから、88年ないし89年頃本多著作選を読み返し「党内民主主義は脱党の威嚇によって維持される」ということを受け、再び「三全総へ帰れ」ということを「脱党の威嚇」をもって突きつけました。これが「百田意見書」として全党回覧されたことを後に茨城の同志会の元2同志から聞いて知ることになりました。そして91年に「5月テーゼ」が出されていきます。恐らくこの「百田意見書」をもって大原は「武装蜂起反対派」と規定され「除名要求」まであったと聞いています。それが私党化グループの中では、新指導路線に反対する論拠として、今日まで隠然と活きてきたのであろうと推察されるのです。さて、どうして私がこの様なことを展開するのかと言えば、選挙闘争の歪み―核心的変質の起点がどこから始まっているのかを明確にしたいからです。あえて明示なターニングポイントを置くとすれば、85年段階からあったということです。平田グループが明示に主張している「動労千葉の否定」、「職場を捨てて命がけの反戦闘争へ」という階級無き革命論は既にこの時からあり、政治局に置いては多数派を成していたのです。そして彼らの路線思想の総破産を突きつけ、最後的に引導を渡す決起として3・14労働者蜂起があったということなのです。正にこの20年間にわたる革共同の思想と路線をめぐる党内闘争に階級の側から決着を付ける蜂起として3・14労働者蜂起があったということなのです。したがって、この路線をめぐる党内闘争の核心的出発点と帰着点を明確にすることなく、「何年の選挙ではどうだった」「その責任は…」という議論をいかに緻密にやっても解決点は出ないのです。自分たちこそが革共同主流と信じて疑わなかった私党化グループは、自らの思想的路線的破産を革共同第6回大会―新指導路線によってより厳しく突き出されつつ「選挙」と「ゲリラ戦」そして政治局そのもので切り返そうとしていたのです。この場合「自覚」とか「無自覚」とかは問題になりません。自らの思想の問題であり路線の問題なのです。

(注3)02年7月に中野氏が政治局会議への出席を無断でネグレクトしたこと。当時、中野氏は政治局員としての責任のとり方をめぐって政治的・組織的にぐらぐらとなっており、党から離脱しかねない内的な崩壊的危機にあった。

 第四に、こうした時、仲西【仲山良介】同志の3・14労働者蜂起に対するあり方、この間の杉並2区議問題に対する関わり方は根本から批判されなければならないと思います。仲西同志は雪野同志を「擁護」し、3・14労働者蜂起を持って開始された「党の革命」から雪野同志を遠ざけ、何より自分自身を擁護しています。労働者階級の決起に「沖縄差別」を対置し闘う沖縄人民を革共同から遠ざけ、その解放の道を閉ざそうとしています。そもそも革共同の理論的中軸にあった者が「アレグロ問題」が核心であり、沖縄差別が問題なのだなどとどうして展開できるのでしょうか。差別概念そのものが、ブルジョア的自由と平等に規定されて存在しているのではないのですか。ブルジョア社会ブルショア思想を階級自身の闘いという精神的物質的力で解体すること、その道を提示すること無しに、部落差別や沖縄差別、あるいは民族差別を対立概念的に並べて何の解決になるのでしょう。「アレグロ問題」の核心は沖縄差別にあるのでありません。直接的にそう見えるだけです。労働者階級人民の自己解放と切断された「政治決戦主義」それを踏みつぶす「武装蜂起主義」、そして党員自身の自己解放を抑圧する「私党化」とその結果としての「腐敗」にこそ一切の原因があるのです。直接的にも与田の部落解放戦線指導、水谷の戦線指導の結果ではないですか。松井同志は、中川同志の援助によってはじめてこのことを自己切開し、革共同とは何であったのかという自己の再構築に着手し始めています。私は、松井同志の自己解放性に基づく雪野同志への根本的自己批判が必ず貫徹されると信じています。仲西同志の主要な任務は、雪野同志や芹沢同志を真に「党の革命」に獲得するためにも「沖縄差別」を盾に自己の固定化を図ることではなく、今こそ3・14労働者蜂起の地平から「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の綱領的スローガンの深化を図り、沖縄人民在本土沖縄人民の解放の道を鮮烈に指し示すことであると考えます。そもそも沖縄の闘い、在本土の闘いの存在と歴史を私に直接的に伝えてくれたのは、芹沢同志【沖縄青年委員会委員長】です。沖青委―沖縄闘争組織委員会の解体状況に、私は心を痛め続けてきました。地区委員長として戦線展開で在本土戦線だけが、未だ運動的に根付かせることができていないのですから。これは沖縄闘争組織委員会―沖青委の解体状況と無縁ではありません。この解体状況の責任が仲西同志に無いとは言わせません。この直接的責任を別において、「沖縄差別」を盾に雪野同志を「擁護」することは、実は自己の破産を擁護しているだけなのです。それ故、雪野同志、芦沢同志を革共同外に追いやる最後的役割を果たしているのが仲西同志の現在的在り方であることを強く批判します。
 いつもながら、取り急ぎ作成しました意見ですので、不十分な点はお許し下さい。雪野同志、芹沢同志とも改めて心を割ってお話ができればと思っています。

INDEX
inserted by FC2 system