《当サイト管理者から》
 革共同の各地方委員会が提出した原稿類をもとに、刊行委員である政治局員が政治的に加工したもの。ここでは、組織的実体の事実を隠ぺいしたり、都合よく糊塗したりしているが、完全に隠すことはできていない。
 06年3・14党内クーデターとその後の組織内対立をめぐって、九州、関西、中四国、北陸での党の分裂がもっとも激しかったこと、それ以外の北海道、東北、東海、沖縄でも著しい分解と組織衰退がつくり出されたことが、浮かび上がっている。全国の諸組織において、長年にわたって指導層、中堅層を担ってきた党員たちが次々と排斥され、粛清されていったのである。なお、「党中央と直結している首都圏・関東圏とは異なり」と記され、首都圏・関東圏では組織的な分裂や離党がなかったかのようにしているが、ここでも指導層の排斥と入れ替えがかなり行われたという。
 これを読むと、革共同・中央派が今後ともいっそう分解し、縮小していくであろうことが火を見るよりも明らかとなろう。

現代革命への挑戦――革命的共産主義運動の50年
全国単一の党の復権(第3章第四節の(2))

第3章 91年5月テーゼ以来の闘い

四 「党の革命」が切り開いた勝利

……(前略)……
 「党の革命」はあまりにも激しかったがゆえに、党の基本組織建設の闘いから逸脱し、地区党のもとへ結集して闘うことを忌避する傾向も生まれた。しかし、これらの傾向にたいし原則的・階級的に闘い、大恐慌と闘う革命的労働者党の骨格を形成した。

(2)全国単一の党の復権

 「党の革命」が最も激しく闘われたのは、血債主義派の指導部が牛耳っていた一部の地方委員会においてであった。党中央と直結し、動労千葉労働運動とも日常的に接しながら活動してきた首都圏・関東圏とは異なり、血債主義派が支配してきた関西や中四国・九州などの一部の地方委員会においては、中央との意識的な分断のもとに地方委員会を丸ごと血債主義派の「私党」に変質させる動きが進行していた。だがここにおいても、労働者党員はみずから決起して腐敗した指導部を打倒し、自分たち自身の手で地方委員会を再建し、党の全国的統一を達成していった。
 それは文字どおり、革共同を「全国単一の党」として再確立する闘いであった。「党の革命」はこれによって最終的に完成した。そのもとで実現された各地方委員会の変革と飛躍には巨大なものがある。

▼関西地方委員会

 「党の革命」の震源地は関西だった。
06年の関西での決起は、5月テーゼに反対し、エセ「部落解放闘争」を旗印に労働者自己解放の闘いを徹底的に弾圧してきた与田支配を突き破るものとして爆発した。国鉄闘争の前進に始まる階級の革命的決起の足音が労働者党員の自己解放を求める決起を生みだし、それまでのあり方ではもはややっていけないところに行きついた。そして、ついに労働者党員の根底からの決起で与田支配を打倒した。
 また与田派に代わって関西地方委員会の実権を握った塩川派は、労働者党員の怒りと解放への思いを見すえることができず、「党内民主主義」を標榜して小ブル自由主義に転向し、党の解体を推進した。さらに、弾圧に直面して権力への露骨な屈服に走った。他方では07年7月テーゼへの反対を契機に血債主義の本質を前面化し、07年秋、関西地方委員会からの公然たる分裂・逃亡を強行した。闘う関西の同志たちは、労働者同志を先頭に07年12月、関西党員総会を開いて塩川一派の打倒を宣言した。
 その中心には、5・27国労臨大闘争弾圧裁判を不屈・非妥協で闘いぬいてきた国労共闘の同志たちの存在があった。国労本部の裏切りを許さず、国鉄分割・民営化と絶対非和解の闘いを貫くなかで形成された階級的魂と団結が、与田や塩川らを打倒する決定的な力を発揮した。
 与田派や塩川派の思想の根本には血債主義による労働者自己解放の闘いの圧殺があった。「帝国主義足下の労働者は腐敗しており、そのままでは革命の主体にはなれない」とし、一方、被差別人民は自己変革しなくていい存在であり、労働者は被差別人民から学ぶことによって初めて革命の主体になれるとしてきた。被差別人民との分断を組織し、労働者階級の存在をとことんおとしめ、闘いを封じこめるのが血債主義派の思想にほかならない。
 だからこそ彼らは、動労千葉労働運動に一貫して敵対し、あらゆる産別の闘いを破壊してきた。しかしそのなかで、多くの労働者党員が傷つきながら必死で闘いぬき、「党の革命」に決起した。この闘いをやりぬいた関西の同志たちに、あらためて敬意を表したい。 2013年、「党の革命」から7年をへて、闘いは血債主義と完全に決別し国鉄決戦で革命をたぐり寄せるところまで到達した。そしてついに大阪・西郡(八尾市)の地において全国水平同盟の創立大会を開催した。階級的労働運動が新自由主義と闘う部落解放闘争の新たな全国組織をつくりだすことに勝利したのだ。これこそが血債主義をのりこえた革共同の姿である。

▼東北地方委員会

 東北地方委員会は1995年秋に地方委員会として新たに出発した。91年5月テーゼを受けて、東北でも労組交流センターが各地で結成され、労働組合運動での新たな格闘が開始された。それは連合結成直下での資本、体制内指導部との激しい党派闘争だった。 解雇撤回闘争の原則を不屈に貫いて闘う全金本山労組が中心となり、94年から「新潮流運動」が開始され、全金本山闘争勝利と国鉄決戦勝利を軸に、動労千葉とともに闘う階級的労働運動の旗がついに掲げられた。このような労働者同志の決起を受けて、95年に東北地方委員会の設立=新たな出発を実現した。
 90年代後半、地方委員会の新たな出発と階級的労働運動路線の実践は、19全総・20全総と軌を一にして、国鉄決戦にまさに頭から突入するなかで切り開かれてきた。それは地域の労働運動全体を巻き込む大攻防であったが、その攻防のなかで、革共同内の方針上の不一致・不統一が、路線的対立やプロレタリア革命観の差違、すなわちマルクス主義をめぐる綱領的対立であることを顕在化させていった。
 国鉄決戦と拠点労組建設の階級的労働運動の前進は、05年全金本山闘争の完全勝利をへて、今日の国労郡山工場での外注化絶対反対・被曝労働拒否の闘いの前進、全逓や自治労での労働組合の再生へ向けた闘いの前進へと結実している。とりわけ国労郡山攻防は、福島県党、東北地方委員会―労働者組織委員会建設の到達地平である。ここにいたるまでには悪戦苦闘・紆余曲折があったが、党は国鉄労働運動の拠点であった国労郡山工場支部を守りぬくというその責任から絶対に逃げなかった。
東北大学生運動は、2000年の独立行政法人化攻撃と闘ったバリケードストライキに続き、有朋寮廃寮攻撃との激突など、実力闘争を軸とする創造的闘いで、新自由主義と闘う学生運動をつくり出してきた。
 2011年3月11日の大震災と福島第一原発事故は、新自由主義が生みだした災厄であり、帝国主義による虐殺である。それは労働者人民の命まで奪う新自由主義のむき出しの姿だ。東北地方委員会はこの生きていけない現実を、プロレタリア革命に向かって生きぬく闘いとして総力で決起した。
 歴史的試練は歴史的飛躍を生みだす。国鉄決戦と反原発でプロレタリア革命を実現する党と労働組合の必死の闘いが切り開かれている。3・11以来の攻防は、5月テーゼ以来の格闘と「党の革命」によってつくられた革共同の単一の党としての綱領的・階級的団結があればこそ実現できた。歴史的分岐点としての3・11と対決しているがゆえに、地区党の団結が日々問われ、強められ、革共同のもつ力が遺憾なく発揮されはじめたのだ。

▼中四国地方委員会

 中四国地方委員会は、広島を拠点に革共同全国委員会創成の一翼を担った。反戦反核闘争の世界的中心である広島の拠点化は、革命的共産主義運動の発展にとって決定的であった。70年代〜80年代の対カクマル・対権力の死闘戦において、中四国地方委員会は全党の先頭で勝利を切り開き、党全体の闘いを決定的に支えぬいた。だが、この過程において労働運動からの後退を強いられるなかで、血債主義と政治決戦主義の傾向が強まった。
 しかし、中四国の労働者党員は、動労千葉とともに階級的労働運動を求めて闘っていた。5月テーゼと動労千葉を先頭とする国鉄決戦、労組交流センター建設の闘いは、中四国の労働者党員が待ち望んだ方針であった。これにたいし、部落解放運動を「拠点」にしていた与田派とそれに屈した指導部は、5月テーゼ反対と血債主義で中四国地方委員会を組織し、国鉄決戦を軸とする階級的労働運動に敵対しようとした。しかし血債主義派は、中四国の労働者党員の5月テーゼ実践の闘いを完全に抑えつけることはできなかった。この労働者党員の不屈の闘いこそが、06年の関西に続く中四国の「党の革命」の主体を形成した。
 中四国の「党の革命」は全面的にラジカルに遂行された。5月テーゼ反対派=血債主義派の指導部は打倒され、労働者党員が地方委員会・各県委員会の中心にすわった。これにたいし与田派残党が07年9月、「党の革命」と7月テーゼにたいする反動として「広島差別事件」をデッチあげた。それは全国連幹部の腐敗と権力への屈服にたいする批判を「差別事件」に仕立てあげ、党を「糾弾」するというものであった。 「党の革命」以来、マルクス主義の労働者自己解放論、動労千葉労働運動への圧倒的確信を固めてきた広島・中四国の労働者・学生党員は、この血債主義派のあがきを一撃のもとに粉砕した。与田派残党らは、党内議論において一言の反論もできずに脱落・逃亡した。

▼北海道地方委員会

 北海道における革命的共産主義運動は1960年代前半から開始された。北海道地方委員会は2003年に結成された。
地方委員会の歴史はけっして平坦な道のりではなかった。その過程で、政治決戦主義・血債主義という非マルクス主義的な傾向が混入した。そこから脱却するための党の自己変革の闘いは、直接的な意味での国家権力やカクマルとの闘い以上に困難なものがあった。 その根底的なところでの突破の道をさし示してくれたのが06年の「党の革命」だった。それは「労働運動のできる党」「党と労働組合の一体的建設」「青年の獲得」の実現をめざす現在進行形の闘いとして前進している。
 国家権力・カクマルとの死闘が続くなかで、北海道は国鉄分割・民営化攻撃と対決する清算事業団闘争の一大焦点となった。地方委員会は国鉄分割・民営化攻撃と対決し、国鉄解雇者と連帯する闘いを貫いてきた。しかし、動労千葉労働運動を地区党みずからが実践することとの距離はまだ遠かった。
その過程では、国労闘争団、そして「闘う闘争団」を支援する活動が主になり、階級的労働運動を実践して正しく党派闘争を展開する闘いは弱かった。ところが、2010年の4・9政治和解はこの構造を全部吹き飛ばした。4・9反革命は国鉄闘争を裏切るだけでなく、北海道教組をはじめとする国鉄闘争支援陣形においても決定的な変質、体制内労働運動への純化を一気にもたらしたからだ。
 ここで地方委員会としてはどんなに小さくても革命党として、国鉄決戦のみならず労働運動のすべてに責任をとりきる覚悟が問われた。それへの回答が国鉄闘争全国運動・北海道の立ち上げの先頭に立つことだった。
 JR北海道の安全崩壊は、国鉄分割・民営化とは何だったのかという広範な議論を巻き起こしている。わが北海道地方委員会は闘う労働組合の不在こそが問題なのだという大宣伝戦に総決起し、なんとしてもJR労働者を戦列に獲得する決意である。

▼北陸地方委員会

 北陸における革命的共産主義運動は、60年安保闘争をブントの一員として闘った青年国鉄労働者が革共同に結集して始まった。職場における闘いは、国鉄当局との闘いであると同時にカクマルとの党派闘争であった。また金沢大学細胞、富山大学細胞の本格的形成がかちとられ、70年安保・沖縄決戦を学生戦線が全力で闘い、これを背後から襲撃してきたカクマルとの激闘を闘いぬいた。多くの同志がこの過程で、全人生をかけて非合法・非公然の闘いに決起していった。
 富山大の学生運動は新樹寮を拠点に、85年10・20三里塚戦闘には50人をこえる寮生が決起し、大量逮捕と長期投獄を引き受けて闘いぬいた。88年に教養部自治会の執行部を大衆的に選挙で確立。93年の教養部廃止攻撃と全力で闘い勝利した。98年には反革命カクマルの武装襲撃策動を摘発・撃退して、以後、全国でカクマルが政治的襲撃・武装襲撃ができない力関係を強制した。
 しかし、こうした闘いは平坦には進まなかった。それはなによりも党内における血債主義との隠然とした闘いがあったからだ。新自由主義攻撃が激化するなかでそれに屈服した血債主義指導部は、労働者階級を信頼せず、党を長年にわたって地方分権的連合党に変質させて私物化し、党中央との分断を意識的に組織していた。また日帝国家権力に屈服し、革共同の情報を売り渡すことで権力との共存政策をとっていた。
しかし、91年5月テーゼは血債主義者の本質的破産を暴きだすものとなった。彼らは5月テーゼに反対するものとして、不二越闘争や「もんじゅ」闘争、体制内労働運動との協調を対置し、隠然たる反中央の立場からさらに進んで、公然とした反中央の運動的実体をつくりはじめた。このことは、きわめて明確な形でその反ボルシェビキ的体質を浮かび上がらせ、彼らは最終的に「党の革命」によって放逐された。

▼東海地方委員会

 東海地方委員会における階級的労働運動路線の確立と前進は、「党の革命」をもって本格的に開始された。東海地方における70年代〜80年代のカクマル反革命との死闘は、その全国的勝利の地平の上に、マルクス主義と国鉄闘争をもって青年労働者と結びつくことのできる地方委員会と労働者細胞の建設に、ついにたどりついたということだ。
 東海では、70年安保・沖縄決戦に三重大学・名古屋大学をはじめとするマル学同中核派の学生と反戦派労働者が決起し、社・共に代わる労働者党建設が開始された。カクマルは71年、三重大学を武装襲撃し、武藤一郎同志虐殺に手を染めた。カクマルの反革命暴力が闘う人士や学生に襲いかかるなか、80年代にはそれを突き破って、名城大学を拠点に三里塚闘争に決起し、そのなかから革命的・戦闘的な隊列が生みだされた。それが5月テーゼ以降の労働者党建設を支える土台となった。
 しかし、5月テーゼ以降の闘いが東海の地に根をおろし労働者階級と呼吸していくためには、つまり真の労働者階級の党へと「階級移行」をかちとるためには、いくつもの挑戦と試練、変革をかけた自己との格闘、全党的な血債主義との闘いの勝利が必要だった。 マルクス主義を歪め糾弾主義・血債主義として純化していく傾向、カクマルの反革命的・セクト主義的な「労働者主義」への反発から市民主義に流れる傾向は、動労千葉労働運動が切り開いてきた階級的地平に学ぶ闘いを「動労千葉特化論ナンセンス」として投げ捨てるものだった。日帝国家権力が総力をあげてマルクス主義とその階級的実践に襲いかかってきたときに、労働者自己解放の主体としての労働者階級に不動の信頼をもたない者、あるいは党派は、容易に資本家階級による分断の手先に転落していく。
 「党の革命」を転機に東海地方の戦闘的・階級的な労働運動の再生と結集にむけ、労働者党員が自分の職場から階級的労働運動を創成していく闘いに踏みだした。長らく労資協調主義の害毒を流しつづけてきた体制内労働運動の内外から、「トヨタ資本主義打倒!」「動労千葉とともに闘おう!」「労働運動の力で革命やろう!」を掲げた労働組合の鮮烈な登場をかちとった。血債主義に連なる部分は、ここで最後的に脱落・逃亡した。

▼九州地方委員会

 旧九州地方委員会は、06年から始まった「党の革命」を拒否し、丸ごと集団脱落・逃亡した。これと対決する労働者同志を先頭に、現在の九州地方委員会が再建された。
 九州の血債主義派=平田派は、みずから脱落・逃亡しておきながら別組織をつくって陰に陽に敵対し、九州支社まで売って金に変えた。平田派は、5月テーゼ反対派=血債主義派の急先鋒であった。5月テーゼについてほとんど無視し、動労千葉を憎悪し、動労千葉を「民同」とののしっていた。また平田への忠誠を軸に成り立つ家父長的官僚主義を特徴にしていた。再建された九州地方委員会は、一致団結してこの平田派と対決して闘いぬいた。
 地方委員会再建の闘いは、「創成期の苦闘」とも言うべき苦難の連続だった。それまで九州の「顔」であった国労小倉地区闘争団員の松崎博己は、02年の5・27国労臨時大会闘争弾圧による投獄で骨が折れ、動労千葉敵対の最先兵に転落した。松崎は、5・27裁判闘争陣形の分裂策動の先頭に立った。
 2010年の4者4団体による政治和解にたいし、九州では2人の国労闘争団員が和解を断固拒否して決起した。だが、松崎と平田派はこれにも敵対し、4・9政治和解に率先して屈服した。これが平田派の行きついた姿である。また「国鉄闘争全国運動・九州」の結成が彼らにとって大きな打撃になった。この闘いで平田と松崎は完全にぐらぐらになり、平田派との力関係は大きく逆転していった。
 もうひとつの重大な攻防は、全国連の残党分子との闘いであった。彼らは、「党の革命」の突撃路となった06年の関西の労働者同志による与田打倒の蜂起を、「部落民襲撃」と宣伝して回った張本人である。彼らは当初、平田派とは一線を画す態度をとっていたが、07年に出された血債主義批判の「7月テーゼ」に真っ向から反対し敵対した。そして最後は、広島で与田の残党がデッチあげた「広島差別事件糾弾の闘い」を支持して敵対し、全同志の猛烈な批判をあびて追放された。
 こうした闘いの前進に立ちはだかったのが日帝国家権力である。権力は07年に九州大学学生運動へのデッチあげ弾圧をしかけ、九大生をスパイとして育成し、長崎でも地区党の再建を進めていた同志に弾圧をしかけた。これらを粉砕し、08年には決定的な証拠を押さえて九大スパイ分子を摘発・粉砕・追放した。
 この過程で、労働者同志が先頭に立って九州地方委員会建設を進める道に大きく踏みだした。

▼沖縄県委員会

 革共同沖縄県委員会が結成されたのは、「復帰」闘争が沖縄全島で激しく闘われている1971年1月である。
沖縄では琉球大学を拠点に設立された「沖縄マルクス主義者同盟」が、カクマル・黒田と結びつくことで初めから沖縄階級闘争の反革命的疎外物となっていた。彼らは社・共=復帰協指導部の「左の支柱」の役割を果たしており、真の革命的左翼が不在のなかで沖縄の労働者階級の闘いは69年2・4ゼネストまでのぼりつめた。
 このゼネストの挫折を深刻に受けとめた青年労働者の中から、69年4・28沖縄県民大会に、たった1人の労働者が「那覇地区反戦」の旗を掲げて公然と登場し、同年10月に沖縄県反戦青年委員会を結成した。さらに10・21国際反戦デー闘争が琉大全共闘に結集する学生によって琉大カクマルと激突しながら闘われ、71年4月には沖縄大学自治会が中核派とともに闘う自治会権力としてうち立てられた。
 生まれでたばかりの沖縄県委員会は、全軍労牧港支部青年部をはじめ多くの青年労働者や学生とともに71年5・19ゼネストから11・10ゼネストを闘い、激しい弾圧のなかでその傷が癒えないまま対カクマル戦に突入する。これにたいし、全国の同志が沖縄にはせ参じて真栄城隊を結成し、沖縄県委員会を守りぬく闘いを貫いた。
 70年代から80年代の沖縄県委員会と沖縄の労働者階級の闘いは、日帝の沖縄圧殺政策=新自由主義攻撃とその先兵であるカクマルとの厳しい内戦として闘われた。
95年の米兵による少女暴行事件弾劾の10・21県民大会の10万人決起と96年から始まった辺野古新基地建設阻止の闘いは、沖縄の階級闘争の新しい時代を切り開いた。辺野古新基地建設阻止闘争は、21世紀の沖縄と日本の階級闘争に「実力闘争」を復権させた。またその発展は、体制内指導部の限界と裏切りを鋭く暴いた。
 彼らは辺野古の闘いを「非暴力抵抗闘争」に切り縮め、さらには「民主党政権への交代で辺野古闘争は終わる」と民主党への幻想をあおった。そして、辺野古闘争が沖縄と全国の労働者階級の決起として闘われたことを否定し、とりわけ労働組合との分断に血道を上げた。
 このような激戦激闘のなかで沖縄県委員会は、階級的労働運動を沖縄の地で再生し発展させ、体制内指導部を打倒して闘う労働組合をつくりだすことが辺野古闘争の勝利を切り開くのだと確認し、「母なる労働者階級の中に思いきり飛び込むこと」を決断した。これは動労千葉の闘いとどこまでも一体化していく闘いのなかでつかみとった路線である。 まさにこの闘いこそ、「復帰」闘争のなかで沖縄の労働者階級の中から生まれた沖縄県委員会がめざした闘いなのである。かつての牧青と動労千葉青年部の闘いは沖縄と本土の分断をのりこえて一体の闘いであった。沖縄県委員会は、新自由主義と闘う青年労働者と学生を闘いの戦列に加えて、基地労働者の闘いを先頭に国際プロレタリアートの団結のさきがけを担い、「基地の島」を「国際連帯の島」へ変革し、21世紀革命の勝利を切り開いていく。

(第四節おわり)

INDEX
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