《当サイト管理者から》
 荒川碩哉『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』が発行されたのが2014年12月1日だった。ところが革共同の側は荒川本人(と称する人物)が「スパイは捏造だ」という主張を公にしたというのに、さらに加えて“権力と取り引きした”とあからさまに書いているというのに、未だに何の反応も示していない。また荒川の側もパンフレットを出すと同時に同パンフレット宣伝のためのウェブサイトを立ち上げたが、同サイトは一度も更新されず、それ以上何の行動も起こしていない。帝国主義権力および権力スパイ=荒川と革共同とがお互いに牽制し合い、馴れ合っているという奇妙な事態である。荒川スパイ問題についての革共同関係者(元党員を含む)の見解、コメントのうち水谷・岸両氏の見解を資料として掲載する。

荒川パンフは、なぜスパイ問題をはぐらかすのか

2014年12月12日 水谷保孝、岸宏一

はじめに――革共同は権力にたいし無力な存在になり果てた

 荒川碩哉が2014年12月1日付パンフレット『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』を発行した。発行主体が本当に荒川かどうか不透明な点があるとは言え、荒川本人とみなすならば、荒川が初めて対外表明をしたものである。その点で、荒川に公の場に出てくることを強く求めてきた筆者らは、荒川スパイ問題の真相が明らかになるかもしれないと大いに期待して同パンフを開いた。
 荒川はこのパンフの最初の方で「わたしは断じてスパイではない」と書いている。そのため、予断を排し、素直に虚心坦懐に検討した。何度も読み返した。おそらくは「荒川がスパイであってほしくない」という気持ちで荒川パンフを読んだ人が少なくないことであろう。

 思えば、荒川碩哉は70年安保・沖縄闘争を体現する数多くの活動家の一人であり、とりわけ71年11・14渋谷暴動闘争への重罪・重刑弾圧を受けた当事者として星野文昭、奥深山幸男と並ぶ人格的象徴であった。70年安保・沖縄闘争の歴史的な意義とそれをたたかった者たちの誇りとともに、荒川碩哉の名は刻まれている。
 筆者らの個人的な感慨になるが、かつて1969年7月、佐藤首相訪米実力阻止決戦=10〜11月決戦に向けての全学連(中核派系全学連)大会でのことである。水谷は全学連書記長・委員長代行として決戦の陣頭に立っていた。岸は大会選挙管理委員会委員長で、決戦をたたかいぬける全学連の指導体制を構築するべく約30人の中央執行委員を選出する任務をもっていた。荒川はその候補の一人であった。当時、荒川は再建された高崎経済大学学生運動の中心的活動家であったが、まだマルクス主義学生同盟(中核派)に加盟していなかった。そのため、荒川を中執に選出する以上はマル学同にオルグしようということになり、大会期間中に荒川にマル学同加盟を提起した。荒川は自分の思いを語り、加盟を決意した。その加盟をもって、荒川はそれまでの人生設計の志望と葛藤しつつも、革命運動に加わったはずであった。
 荒川がこうして革命運動の道に入る際に、たまたま筆者らは直接間接にかかわった。以来、たたかう場は別であっても心は一つと思ってきたのである。
 他方、荒川に関して懸念する思いもあった。荒川のいくつかの言動から、革命家としての思想性における不安、党員活動家としてのあり方への疑問をもって見てきたということがあった。
 その荒川がよりによって権力のスパイであったなどということは、とても信じたくないことである。何かのまちがいだと思いたい。腐敗をきわめる現革共同政治局のことだからその内的な組織的危機ゆえに荒川=スパイ説をデッチあげたのではないかと思いたい。

 しかるに、今回の荒川パンフは、筆者らが13年6月、『前進』報道直後に抱いた判断――荒川は権力のスパイ――を覆すに足りるものではなく、逆にその心証を強めさせるものであった。今、筆者らは荒川を権力のスパイ化の罠から救い出せなかったことについて痛恨の思いもなくはないが、それ以上に荒川が今回のパンフをもって権力のスパイとしての新たな政治行動を起こしたと考えざるを得ず、怒りを禁じえない。
 荒川パンフは、清水丈夫や天田三紀夫ら革共同政治局の腐敗と転落という虚を突いた権力がよりによってスパイを再活用して階級闘争、とりわけ革命的左翼関係の団体・個人を撹乱しようという陰謀の始まりではないのか。そうだとすると、おそらく前代未聞の策動といっていいであろう。
 ところが、当の革共同はと言えば、内外に「スパイ」と公表しながら、荒川パンフに対して真正面から対決、論駁することもできないでいる。権力を恐れてさえいる。実に恥ずべきことである。荒川スパイ問題が突き出したある意味で最大の核心は、革共同という政治党派が権力にたいしてまったく無力な存在になり果てたということである。

(1)荒川=スパイの心証はいっそう強まった

 荒川碩哉が12月1日付でパンフレット『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』(古挽社発行)を出した。読んでみて、“荒川パンフは荒川自身がスパイであることを自認したに等しい”という結論を得た。
 全体として大きな疑念がある。
 すなわち荒川にとってスパイと断罪されたことはこんなにも軽く、こんな相対的なものでしかないのか、革共同が荒川=スパイをもし捏造したのだとしたらその組織的犯罪への当の荒川の断罪はこんなにもいい加減な、希薄なもので済むのか、ということである。「記事の撤回と謝罪を求める」? 何と柔なことか。スパイという汚名を着せられた人物の態度表明だとしたら、何の必死さも、何の心からの訴えもないのはあまりにも不可解だということである。
 しかもスパイ問題なのに、それよりも「財産略奪話およびみずほ銀行脱出話」にすり替わってしまっているではないか。それに割かれているページ数の方がずっと多いのである。
 多くの人が同じように奇異に感じられたことと思う。

 また私たちの二度にわたる態度表明(「荒川スパイ問題にたいする私たちの謝罪と自己批判/13年6月」「荒川スパイ問題をめぐる新事実公表と革共同政治局断罪の表明/14年5月)」にたいする反論と弾劾が一言半句もない。それどころか水谷・岸表明で書いたロジックを借用している部分が少なくない。なぜ荒川は、具体的な物証を入手していないのにあえて「荒川=権力スパイ」と判断・規定した水谷・岸表明に怒らないのか、そこでの追及から逃げるのか、実におかしいではないか。

 また同パンフは甘糟義信が深くかかわっている。12月1日以前の時点で甘糟が「荒川パンフが出る」と触れ歩いていたことがわかっている。昨年末以来、「荒川=白」説を吹聴していたことからも甘糟の関与は明らかであろう。おそらく編集・制作は甘糟の手になるものではないだろうか。その意味で荒川=甘糟文書といってもいい。
 なお発行社の古挽社は、日本橋兜町のビルの一室にあるバーチャル・オフィスに登録されている架空の出版社である。そこには荒川の関係者は誰もいない。そのバーチャル・オフィスに登録している会社・個人は他にもいっぱいある。そういう所である。

(2)1年半の沈黙期間、荒川は権力と深く接触していた

 荒川は6月4日、みずほ銀行・貸金庫から権力の手を借りて脱出・逃亡して以来、1年半もの間沈黙していた。なぜ沈黙し続けているのかという疑念は、荒川への不信を強めさせていた。そのため荒川にとっては沈黙の1年半を弁明しなければならない。
 その弁明のなかで、荒川は、一つは自分の病状の問題、二つは権力の介入への警戒の問題、三つは家族の問題をあげている。二つ目の権力の問題について次のように書く。
 “権力は荒川監禁・査問という事態を革共同を潰す千載一遇のチャンスとして熾烈に追及した。その党中央への刑事弾圧を跳ね返すために、私はエネルギーの多くを費やした。かなりの時間を必要としたが、権力の動きを鎮静化させた。よってここに態度を表明する”〜〜と書いているのである(2ページ)。

 これは何なのか。
 まず問題は、権力が革共同潰しの千載一遇のチャンスと判断したというが、荒川が拉致・監禁・査問の実態を権力に通報・密告したからではないか。荒川が完全黙秘すれば、刑事弾圧のきっかけすら権力はつかめない。
 だから上の言辞は、荒川が権力の懐に飛び込んだということ、そこで5月8日から6月4日までに起こったことの実態をしゃべったということではないか。それ以外のことを意味しない。

 次に問題は、病気を抱えて孤立する荒川がどうやって革共同への権力の追及が熾烈であると知り得たのか? 刑事弾圧を跳ね返すために具体的に何をやったというのか? その結果、権力の動きを鎮静化させたとはどういうことか? ということである。
 それはたとえば、権力サイドが荒川に拉致・監禁での刑事告訴を促し→荒川は身をさらすことになる危険を恐れたためにそれに尻込みした→それについて協議した→その結果、刑事弾圧が沈静化した、ということを意味する。つまり権力のスパイとして権力と接触することがなければ不可能なことなのである。

 そのように権力の動きの実態をつかみ、それを左右させ、ついには沈静化させることのできる荒川とは何者なのか。すなわち1年半の間、荒川は権力と交渉し、協議し、権力の当初の方針を変更させるだけの判断を与えた、ということになる。
 そのように権力と交渉・協議する関係があるということはスパイであることの何よりもの証明にほかならない。荒川は権力スパイとしてやるべきことをやったということになる。正直言って、ここまであけすけに書いているのはビックリである。

 なお弾圧の問題について10ページでは似たような表現で別のことを書いている。おかしな中身なのだが、ここでは略する。

(3)荒川は妻と娘の前からいまだに逃亡、音信不通

 1年半の沈黙の理由に、家族の問題をあげていることは前述した。荒川は、妻が党中央の側に立っていること、家族との連絡が遮断されていること、娘が人質にとられていること、自宅が監視下にあることをあげ、この事実を見極めるために手段を尽くした、決断を要した、そのため時間がかかった〜〜と書いている。
 意味不明な脈絡だが、要するに、妻、娘とはまったく連絡をとっていないということである。では、それがなぜ1年半の沈黙となるのか、今になってなぜ沈黙を破ることとなるのか、さっぱり説明になっていない。

 妻は党中央の側に立っている。このことは少なくとも査問開始時点で荒川は完全に理解している。それなのに荒川は「監禁に至る契機は「妻の密告」と党内には流されていた。そうだとすれば深刻な家族問題に発展する」などと呑気なことを書いている。おかしいではないか。荒川からすれば妻の重大な裏切りであり、即離婚という類のことである。妻からすると荒川による自分および党への決定的な裏切りである。夫婦は非和解的な関係になったということである。荒川がそこをごまかすのは自らの側にやましいことがあるからだ。

 他方、党中央が娘を一時的に監視下に置いたことはあるだろう。しかし大学生であり、二十歳ぐらいの女性を監視し続けることなどできない。仮に党中央が娘の周りに張り込んでいたとしても、荒川が娘と連絡をとり、会う方法はいくらでもありうる。「手段を尽くした」というなら、そのためにこそ手段を尽くすのが当たり前の行動であるはずだ。
 荒川が娘を大層可愛がっていたことは有名な話である。娘も父親を尊敬していたと聞く。もし荒川がスパイではなく、冤罪の被害者であるならば、何をさておいても娘に「お父さんは無実だ、スパイの汚名を着せられた、冤罪を必ず晴らす、お父さんを信じてくれ」と告げないはずがない。
 しかし荒川はいまだにそのことを娘に告げていない。今回のパンフにしても娘に向けて書いてもいいはずなのに、娘は対象外となっている。こんなおかしなことはない。
 妻にしても、たとえ党中央の側に立ったとしても、結婚以来、15年3カ月の獄中闘争を支えてきたかけがえのない存在であり、長年連れ添ってきた女性であり、同志である。スパイではないというなら、その妻に「裏切りを許さない」とでも「オレを信用してくれ」とでもいい、語りかける言葉は必ずあるはずだ。それもまったくない。

 荒川はいまだに妻および娘の前から逃亡したままである。音信不通のままなのだ。家族問題を理由に1年半沈黙し続けたと言うが、それは本末転倒もいいところではないか。家族問題を理由にしていることが、逆にスパイだから家族に会えないままでいる、という現実を立証するものとなっているのである。

(4)告白文書の存在を認めている

 荒川は「告白文書」なるものがあることを認めている。ただしそれは筆記補助者のSが作成したものであり、自分は同意も署名もしていないと主張している(15〜16ページ)。つまり、「告白文書」のなかに内調との接触、公調との接触というスパイ活動が書かれていても、それは要約者Sによる捏造であるというのである。
 そうすると、荒川が1995年に内調のスパイとなり、「特別職員」のような位置づけでスパイ活動に手を染め、13年まで毎月多額の「報酬」を受け取り続けていたこと、その18年間に7人の担当者が引き継がれていたこと、00年から公調と直結し、やはり多額の金銭を受け取り、13年間に4人の担当者が引き継がれたこと、さまざまな情報の分析をやり、それを売りつけていたことなどはすべてSが捏造した架空の話だということになる。
 S単独ではなく他にも誰かが知恵を貸したとしてもいいが、Sはそれほど大したストーリーテラーであるというわけである。
 Sが誰かを知っている筆者らとしては、荒川の主張はお笑い草である。そんな架空の話が何の根拠も何の素材もなく書かれるということはありえない。荒川の反論は反論になっていない。

 しかもその告白文書は荒川逃亡後に作成されたのではなく、査問中に作成されている。荒川もそれを認めている。そうすると、「6月4日に荒川を逃すという大失態を演じたために、そこで初めて天田たちがスパイ話を捏造した」という荒川のストーリーは、それ以前の段階で荒川=スパイを確認した文書が存在したという事実への反論としてはまったくなっていない。
 告白文書の存在に対する荒川の反論は完全に破綻している。

 また荒川は自筆の文書を複数、作成したことも認めている。「意見書」であると書いている(16ページ)。それら意見書の中味について、荒川は明らかにしていない。
 ただ別の個所では、荒川は「様々な立場の意見を聞いた」と明記し、かなり多くの党員と会って三人組私党化への批判を語り合ったという。しかも「誰といつどのように会っていたかは、当然にも活動基盤とフラクション形成に深くかかわる」と、反三人組フラクションをもっていたことを示唆している。そして反三人組の「意見書」を出したという(13ページ)。(註 荒川の言う「三人組」とは天田三紀夫、坂木=高原洋三、木崎冴子のこと)。

 このように荒川は、査問に対して自分が反中央のフラクを形成し分派活動をしていたことを認めている。そこまでは荒川も認めているのだが、さらにわざわざ「自分の生命維持を優先させたため妥協はした」(16ページ)と書き加えている。微妙な表現であるが、こういう場合、「妥協してスパイであると書いた」という意味になる。
 それならそうとはっきり書けばいいのである。
 “劣悪な環境で命の危険があったため、やむをえずその場しのぎでスパイであることを認めてしまった。密室内での拷問みたいな状況で心ならずも嘘を認めてしまった。坂木の捏造したストーリーを認めなければどうなるかわからないという恐怖があった。だが私はスパイではない。無実だ”……と叫ぶのが当たり前ではないのか。それが真実であれば、いくら嘘の供述書を出されても恐れることはないはずだ。
 だが荒川は、天田ら革共同政治局が荒川告白文書を公にすることをひどく恐れている。そのため「妥協した」と予防線を張っている。

 “査問中に反革命分子として扱われたのであってスパイ嫌疑での追及はなかった”という荒川の話が、あまりにも不自然なのである。あまりに無理があるため、スパイであることを記した告白文書の存在を認めるという破綻をきたしたのである。

 もう一点、付記するならば、荒川は「反革命規定は重いものである」(35ページ)と書いている。ではスパイ規定は重くないのか。スパイでないのにスパイ規定されることは、共産主義者にとって存在そのものの抹殺であり、「重い」と形容するレベルとは比べものにならないことではないのか。ところがスパイ規定のもつ意味への言及がゼロである。
 ことほどさように、スパイ規定された本人でありながら、スパイ問題にこだわっていない、むしろ避けているというのが荒川パンフの全体的基調なのである。それは荒川が正真正銘の権力スパイだからではないのか。

(5)荒川は預金通帳の記載内容を公開せよ

 スパイの報酬とされている金の入金についての荒川の反論が、これまたまるで説得力がない。
 荒川は「妻の協力で財務表や通帳などは押収されていた」と書いている。そして革共同が荒川の「スパイ活動開始の時期」を内調=1995年、公調=2000〜01年としている「根拠は押収した入金記録である」と書いている。そして「父母の遺産を「多額の報酬」と置き換えたのである」というのが荒川の反論である(14〜15ページ)。ここが非常におかしいのである。
 荒川の言う通りだとすると、坂木らは入金記録を見ている。荒川は実父からの遺産が実兄の方から「順次入り始めた」と書いている。荒川は書いていないが、実父と実母はずっと別居している。実母からの遺産については直接受け取ったのであろう。
 その入金記録をもって天田、坂木らはスパイの報酬と断定したということになる。なるほど坂木や天田は非常識で、何ごとにも的確な判断ができない人たちである。もし荒川の言う通りだとすると、彼らのやったことは漫画である。
 通帳には入金日、振込人名、金額が記入される。だから荒川はそこにある記載内容を明らかにして、天田らに事実はこうだと突きつければいいではないか。その漫画ぶりを満天下に示せばいいではないか。また荒川にスパイの疑惑を抱いている多くの読者に対して、預金通帳にある入金記録の記載内容を公開すればいいではないか。荒川はどうしてそれをしないのか。ちなみに荒川は銀行印を確保しているのだから、預金通帳が革共同の手にあっても、通帳の再発行はまったく可能である。
 そうしないでおいて、「調べてみればすぐにでも判明することである」と書いている。「調べてみれば…」などと言うが、天田、坂木らは調べたのではないのか。それ以外の読者には、荒川が明らかにする以外に調べようがない。おかしな話だ。
 入金記録の問題について、荒川はそれを争点にしながらも実のところ事実――入金日、振込人名、それぞれの金額――を語っていない。争点から逃げている。変ではないか。

 加えて入金日という点では、「1995年は父の相続を受けた年である」と書いているが、2000年については何も書いていない。2000年はどんな入金があったというのだろうか。荒川は自分で言い出しておきながら、2000年問題をあいまいにさせている。ここも実におかしい。

 荒川の通帳など見る術のない読者にとっては、荒川が「1995年―2000年―それぞれの入金記録」の関係について事実をもって明らかにすることを期待している。パンフレット発行に踏み切りながら、どうしてその期待に応えようとはしていないのか。まったく理解できない。荒川には隠さなければならない何ごとかがあるとしか思えない。
 お粗末な「三人組」にまともな反論もできない荒川はもっとお粗末である。

(6)荒川は常に「党員名簿」を頭に入れている

 荒川パンフには驚くべき記述がある。(2)で書いたように荒川の権力との接触にもビックリしたが、それ以上にビックリしたのは次の箇所である。
 「2001年第六回大会で選出された中央委員30名中、すでに18名は除名・排除され、政治局員は13名中、大半はいない」という下りである(35ページ)。
 後段の政治局員うんぬんは党の中堅どころであれば大体わかる数字である。しかし数を数えるという党員はあまりいないし、正確に言い当てる者はそうそういるものではない。政治局員の氏名と数を気にかける荒川でも間違えている。実際は◯◯人である。その◯◯人のうち死んだ人もいるから、残っているのは清水、天田、坂木、木崎の4人だけである。
 しかし中央委員(革共同の場合、中央委員とは呼ばず全国委員と称する)30人中、除名・排除が「18人」だというのは、筆者らも知らない。選出された全国委員は30人ではなく◯◯人であったが正確な氏名は記録に残さなかったし、現在時点では思い出せない。ましてや、そのうち誰が除名、降格となったかは、全国にまたがっているし、その後の消息を調べるのは至難の業であり、いろいろ数えてみても数えきれない。
 しかも荒川(甘糟も)は第六回大会の代議員ではなく、したがって大会に出席していない。第6回大会は非公然形態で開催し、清水丈夫が出席し、代議員だけが出席した。そこで全国委員を選出し、政治局員を選出した。その後、大会を受けての報告会議を、清水を始め非公然部門の党員は出席せず、他の出席者全体を大幅に増やす形態で開催した。だが、そこでは全国委員の氏名は明らかにしていない。第6回大会を6J、前者をJT、後者をJUと呼称した。両方とも大会であり、いわば前者が第6回大会・基本会議、後者が第6回大会・報告会議という位置づけとした。その前者にも後者にも荒川は参加していないのである。参加人数が比較的多かった後者の様子を聞けたとしても、全国委員の氏名はわからない。そもそも全国委員の名簿は作成していないのである。それなのにどうやって全国委員の氏名を特定しえたのか、謎である。おまけに除名・排除が誰々なのかをどうやって特定しえるのだろうか。
 当時の政治局は対外公表において「第6回全国大会を2001年前半期に開催した」と打ちだした。それはJT(大会・基本会議)の存在を秘すためであり、権力に対してフェイントをかけたのである。それに権力はまんまと引っかかった。荒川はJTの存在に気づいておらず、JUが6回大会のすべてだと誤認している。
 何のことはない。荒川は党内事情に通じていると思って得意になっているが、重大な誤認を犯している。その荒川が権力と一緒になって作成した全国委員名簿なるものは実は相当いい加減なものであるとみていい。自分を高く売りつけるために不確定情報も適当に脚色して確定情報かのように報告するのがスパイの常であることは、古今東西の革命運動の常識である。

 公調や警察が左翼党派の内情調査のポイントおよび目標を党員名簿、役職特定に置いているのは、周知の事実である。すべての調査を名簿作りに集約するのである。
 一方、革共同の党員は、恒常的に破防法弾圧と対峙する対権力の姿勢として、党員名簿づくりとか、それに連なる名簿づくりをしない。記録に残さない。機関紙誌管理や財政のために名簿は不可欠であるが、別の方法でそれを処理する。
 政治局員は数も少ないから氏名、人数の大体はわかる。またあえて隠すことはしていない。それでも正確な人数を数えるのは簡単ではない。
 ましてや全国委員となると容易にはわからないし、その氏名や人数を意識するという作風、習慣がない。いや、逆にそういう作業をしないように意識化している。
 ところが荒川は坂木から査問を受けている最中に、手元に何の資料もない状況で、ぱっと「30人」「18人」という数字を口にしたと、自分で言うのである。荒川の頭の中には党員名簿関係が常に入っているということである。これはもう荒川の恒常的な精神構造が公調型・警察型のそれとなっていることを意味するとしか考えようがない。

 ちなみに岸は第6回大会実行委員長として代議員選出から2度にわたる大会運営まですべてに責任をとった。その岸にも、離党した現在ではわからないことを荒川は「わかっている(?)」のである。
 この一点でも、荒川の言動は疑わしく、怪しげと言わざるをえない。

 加えて、荒川が前記のように「中央委員」という呼称を使っていることは実は決定的なことなのである。
 革共同に所属する人は「中央委員」という用語はけっして使わない。マルクス・エンゲルスの時代の第一インター以来、レーニンにも引き継がれている中央委員に当たるのが革共同の場合、全国委員であるが、あえて中央委員とは呼ばない。そうしない歴史的なゆえんは省くが、規約には全国委員と規定している。党名は革命的共産主義者同盟全国委員会なのであり、中央委員会総会ではなくて全国委員会総会(あるいは全国委員総会)なのである。したがって、労働者党員も、学生党員も、常任も、1年生党員も皆、日常的に革共同を全国委員会を意味する英語略記である「NC」と呼ぶのである。それは慣習となっていると言っていい。
 他方、権力は日本共産党における呼称が中央委員であること、権力の左翼教本に中央委員とあることから、革共同に対しても一貫して中央委員と呼ぶのである。つまり革共同が全国委員と称する独自性を認めず、革共同のその独自性の意義が何なのかわからないのである。
 そういう中で、荒川はぽんと「中央委員」と書いた。革共同の党員ではありえないことを書いてしまった。つまり荒川の頭の中も、心の中も、革共同ではなく、権力のそれとなってしまっているからではないのか。

 補足すると、荒川は「党中央を牛耳る三人組(天田三紀夫・純子夫妻、坂木)」と書き記している(6ページ)。「純子」とは木崎のことである。党員は「天田、木崎、坂木」とは呼ぶが、「天田・木崎夫妻、坂木」とは呼ばないし、ましてや「天田三紀夫・純子夫妻」などとは呼ばない。というのは、木崎は逮捕歴・起訴歴がないため、裁判にかかると知られる本名を救援対策部なども知らない。旧姓や純子というファースト・ネームを知っている党員は非常に少ない。だから、これも権力サイドからの呼び方そのものである。

 荒川が何か書けば書くほど、やはりスパイなのか、と思わせる類がいっぱい出ているである。

(7)逃げまくる荒川、その荒川を恐れる革共同政治局

 荒川パンフでは、スパイ荒川が党内でどのようなスタンスで活動し、党内情報を得ようとしていたかを問わず語りに書き記すものとなっている。筆者らは、なるほど荒川のスパイとしての役割はそういうことだったのか、と初めてわかった次第である。この問題は重要な問題であるが、別途論及することにする。

 以上のように、荒川パンフは「スパイは捏造である」という反論の書であるはずなのに、いわば冤罪被告の無実の訴えというものとはまったく異なるものでしかない。何の反論にもなりえていない。スパイの汚名を着せられた革命的共産主義者の心からの怒りに溢れた態度とも、まったく相反するものである。
 荒川パンフには無実の叫びがないだけではない。スパイとデッチあげたとする革共同中央への追及がまったくない。もしデッチあげなら、それだけで革共同は謝罪・解散すべき、とてつもない組織的犯罪、階級的大罪を犯したことになる。荒川は堂々と名乗り出て、革共同を階級的な方法、手段を尽くして告発しなければならない。
 それなのに荒川パンフの結語は何と「諸君! 旧弊を打破して、前進しよう!」という党内闘争の呼びかけで終わっている。冒頭のあたりでは「反対派狩りをやめよ」と訴えている。おかしいではないか。「旧弊」などというものではなく、革命党を名乗る政治組織が犯した一大犯罪なのである。なぜ党内闘争の呼びかけなのか。なぜ党の存在を前提にした反対派狩りうんぬんとお茶を濁すのか。
 要するに荒川は逃げまくっているのである。

 その一方、荒川パンフが出版されたことは、革共同中央が権力のスパイからはなはだしく侮られているということである。筆者らだけではなく党内外からさまざまに追及されたにもかかわらず、革共同は荒川スパイ問題で基本的な諸事実をほとんど何も語ってこなかった。革共同は荒川を恐れており、スパイ荒川を野放しにしてきたのである。
 哀れ、革共同。ついにスパイからも見下されたか。
 スパイによって党内を撹乱されるとは、革共同政治局のなんと愚かことよ。

 その他、荒川パンフの不自然なところ、辻褄の合わないところなど指摘すべき問題点は多々ある。いずれにせよ、荒川パンフがスパイ自認に等しい文書であるということは以上で明らかであろう。

INDEX
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