《当サイト管理者から》
 革共同・中央派は2013年5月、荒川碩哉を権力スパイとして摘発、査問にかけた(5月8日摘発から6月4日荒川逃亡まで)。その査問での荒川の自白にもとづいて「荒川自白文書」が作成された。それは党本部である前進社で閲覧に付されたが、コピー禁止、持ち出し禁止とされていた。そのため、同文書の抜き書きが作成され、限定された範囲で共有されていた。この度、その抜き書きが当サイト管理者の元に寄せられたので、掲載する。
 荒川が自白している内容の記述については、語り言葉そのままであるため、抜き書き作成者によるかなり詳しい各種の註が入っている。また重要な部分には色マーカー塗りや赤字などの強調がされているが、とりあえずここでは太字、下線で示した。

荒川自白文書(抜き書き)

口述/荒川碩哉

memo
【〔〕内は、後から補ったもの。人物の固有名詞は原文に書かれていた通りで、本名、組織名などがランダムに不統一に使われ、間違いも含まれている。】

〔公安調査庁との最初の接触について〕
15年半の獄中生活の後に91年7月に戦列復帰した。43歳。
94年に一子をもうける。とたんに財政問題に直面した。

01年に〔公庁との〕最初の接触。〔集会の解散過程で〕上野で尾行に気づき鶯谷で電車を降りて誰何したところ、〔尾行してきたその男は〕「恐れ入りました。前進の読み方をお尋ねしたいのです」と応え、「権力か」と聞くと「お察しの通りです」。
「尾行するな」と言ってその時は終わり。

程なく2度目の接触があって、「お嬢様に何か買ってあげてください」と茶封筒を握らされ10万円が入っていた。

〔公庁は〕当時住んでいた都営住宅に訪ねてきた。「警察ではありません。法務省の者です」〔と自己紹介した。〕

〔最初の接触があったあと、定期的に密談をするまでに一気に関係が深まっていくのが、極めて不自然と思われるが、原文にもそれ以上のことは書かれていない。〕

その後の密談の場所。
品川プリンスホテル、高輪プリンスホテル、京王プラザホテル、などホテルの個室がある高級食堂〔で、そのつど場所を変えながら毎月定期的に会って、公庁に情報を渡した〕。

〔向こうから手渡された〕金は当初は月額10万。
担当者は01〜05川俣、05〜09森、09〜13藤浪と3人交代〔それぞれがそう名乗った〕。

相手の〔最大の〕関心事項は、「〔NCは〕本当に労働運動一本で行くのか、ゲリラに戻るのか」ということだった。
さらに中野〔洋〕さんについて〔の情報〕、清水〔議長〕浮上説、病気説〔の真偽について〕。〔NCの各メンバーの〕脱落、処分、逃亡の事案〔などについては熱心に聞いてきた。〕

情報入路〔権力に話す情報を誰から仕入れていたのかというと〕
藤本〔部落解放戦線〕、川添〔PB〕、甘糟、関西の津山、仙台の東、〔などだったが〕
最大の情報源は中野洋、特に02〜04年はそうだった。

05年に大動脈乖離で倒れた。内面もずたずただった。

相手〔公安調査庁の担当者〕は〔見舞いということで〕病院の外来にも現れて驚いた。

05年は〔自分は療養中ということで〕党との正式な接触はなく、06年から向山さん〔才谷、国労5・27臨大闘争弾圧被告〕と喫茶店でトーク〔をして基本会議の代わりとした〕。
3・14(党の革命)があり、〔自分は〕現場に身をおかぬまま事態は進行。
岩本〔慎三郎=筆名・杉田明〕、甘糟はこの時期重要な情報源になった。

〔岩本、甘糟との関係はどういうものだったのか、という問いに答えて〕
岩本と自宅で会ったことを坂木同志に追及されて4〜5年音信不通だったが、13年1月に〔岩本と〕会った。
甘糟とは同じ病気療養中〔の身の上〕ということで、1〜2カ月に1度会った。
〔甘糟から〕09年頃にフラクションをやりたいが出席しないかという誘いがあったが、断った。そこには今回の〔2013年、反中央フラクの件で処分された〕涌井〔=和久井、東京南部キャップ〕、広瀬らのメンバーがいた。
甘糟とは処分後2度会った。2回目に会ったときに大内文書〔木徹筆の資本論に関する文書〕を受け取った。

丸田だったと思うが「吉岡〔塩川派〕が会いたがっているが会う意思はあるか」と聞かれ、同志は裏切れないという気持ちで会うことはできなかった。
権力には情報交換するのに、党派性と同志としての信義は裏切れないという背反は説明が付かない。〔権力と密会してスパイ活動を行いながら、塩川派の人間と会うと同志たちとの信義を損なってしまうと考える自分は、明らかに矛盾しているが、なぜそうなのかということについて、自分では説明できない、という意味。〕

2010年に夏合宿の誘いを甘糟から受けた。参加者は丸田、中野清一、高田純子〔裕子の誤り〕、川浦、尾形、伊藤ほか。断った。中野清一の逝去で看取ったのも彼らだったと思う。

2011年〔に自分は〕ガンの発症、三度の手術。膀胱ガン。
権力〔公安調査庁の担当者〕にはガン発症の事実は言わず、会うのをやめようとしたが、「何も聞かないから。会うだけで十分だから」といわれ、〔定期的に会う関係を〕続けた。

12年の秋口に妻から財務諸表を突きつけられ、「なぜこんなに金があるのか」と追及された。妻は権力との関係を疑っていたが、「甘糟、岩本と会っていた」と弁解し、これを隠れ蓑にした。

05年までは自分も現役だったので原資料を担当者に渡した。
向こうがほしがったのは○○総会とかの基調報告。集会人数、発言者、主催者の総括。特に三里塚と11月集会〔について関心が高かった〕。
さらに労働運動全般、都労連、国鉄。韓国民主労総との結合に異常な注目。
〔NCが〕武装闘争〔路線に〕回帰〔すること〕はないのか〔という点については常に関心が高かった〕。

今にして思えばこの頃の私は自分の持つ情報量の豊富さに担当者や権力が目を白黒させながらメモを取っていたことに酔っていたのかも知れません。講義して謝礼を受け取るという感覚に近かった。

中野洋サイドと、藤本を通した川添サイドの情報をとらえて私見とし〔て公安調査庁に自分の分析・意見を述べ〕た。
藤本は71〜72年からの隠れ家があり、岸〔川添〕らと組んで党内フラクを拡大しようという意思があり、草野〔与田、関西PB〕の意を受けて東京で動いていたのだと思う。
〔NCは動労千葉労働運動を前面に押し立て、労働運動基軸路線を推進していたが、これに川添、藤本、与田らが隠然と秘密フラクを形成し、対抗していた。荒川はその両方から得た情報を合わせて公安調査庁に流していた、ということ。〕

私はある時点で中野さんに与したので、藤本は私を組み込むことを諦めた。

このころの〔公安調査庁の担当者と会って交わす主な〕話題は、ゲリラ、非公然体制、本社移転、高井戸事務所(けしばがらみ)。

中野さん〔との関係について〕。〔中野洋さんから自分は、〕階級的労働運動の中軸に国鉄すえて労働運動を甦らせるとハッパをかけられて、私は信じた。権力との関係をしばし忘れるくらい。

〔この種の権力への「情報提供」と「お金」の魔力、そして「階級闘争に絶望した」後の中野路線は本質的に矛盾はなく両立するのだと思う。〕

〔奥村岳志(岡=元SOB議長、分裂後に塩川派から脱落)との関係はどういうものだったのかという問いに答えて〕
奥村とは東拘で重なっていたときに、資本論などで手紙のやりとりをしていた。

〔東工大のノンセクトグループとはどういうかかわりだったのかという問いに答えて〕
東工大グループとのかかわり。山根、石黒、田中。岩本が橋渡し。
〔東工大の活動家が主催する〕合宿に参加。東京の労働運動と石原都政について小一時間話す〔講演した〕。小田原紀夫とともに。
60人参加に衝撃。〔東工大グループのもとにこれだけ多くの学生活動家が参加していることに衝撃を受け、彼らを獲得すればNCのもとに学生運動のヘゲモニーをとれる、と思ったということ〕
〔東工大グループは首都圏と全国の大学のノンセクト勢力のセンター的な位置をもっており、一時期それがNCに接近し、全学連との共闘関係が成立していた。だが東工大グループは、NCとの交渉力をもってノンセクト学生運動を強権的に牛耳るという陰湿な体質を深め、権力の弾圧を契機に自壊していった。〕
その後〔東工大グループとの関係づくりは〕SOB指導に移り、〔自分は〕手を引いた。(担当山川)
その後の〔東工大グループの〕分解過程は知らない。
〔自分は〕東交青年部にも関与。中野さんに指導され。これらも〔公安調査庁の〕担当者に一般論として話した。

2006〜2012年
〔公安調査庁と〕何を話したか。世間話30分。自分は集会に出ておらず、向こうが話すことに感想を求められた。
流れ出ていた塩川派や水谷のサイトのコピーを受け取り、一部持って帰って、次回感想を言う〔というパターンで毎回会っていた〕。

金銭の授受は09年頃は1回10万円。そのほかに一時金と称してボーナス時に5〜10万上乗せ。誕生日とか入学祝とかで2〜3万別封筒をもらったことも。

09年から憲法研〔本社などで行われる数人規模のテーマ別の学習・研究会の一つ〕に入る。甘糟は百万署名事務局に入り、憲法研に。事前に彼から連絡で、親しそうにしないと口裏を合わせた。 中野清一とも時々〔会っていた〕。

椎名千恵子さん〔福島の反原発活動家〕とは仙台の八木同志からの連絡があり、「旧姓佐竹」の紹介があり、11月集会で40年ぶりに再会。佐竹明夫は早稲田二文でYだったことがあることを八木〔東北地方委〕に伝えた。

奥村が塩川派を離れて、相馬に移り住んだ〔ことを知った〕。

法大闘争については〔公安調査庁の〕担当者は異様に関心をもっていたが〔自分には〕前進以上の知見はなし。

吉岡〔塩川派〕が地下生活者の手記を出すと丸田から聞いて、「やめろ」と忠告した。湯本が自分史を出版するということを聞いたときもやめた方がいいと伝えた。

涌井フラクについて。
フラクをやることは甘糟から聞いていたが、メンバーは〔具体的に誰々なのかは〕尋ねていない。
彼〔甘糟〕が療養中に住んでいた古河の住居から〔反中央フラク活動の証拠となる〕文書を取られたとき〔甘糟から〕連絡があった。
私〔荒川〕に関する記載があるメモが含まれている可能性もあるかもしれないから、〔中央から〕追及されたらなんとかごまかしてくれと〔甘糟から電話で言われた〕。〔甘糟とは〕その後2度会っている。

〔甘糟が行っているフラクの〕路線上の問題では〔自分は〕違和感〔を感じた〕。支持する部分もあるが、組織的には問題がある。黙って引く人生もあると考えを〔甘糟に〕伝えた。このころはもっぱら自分の病状に関心。〔自分はこのフラクには直接かかわっていない、支持もしていない、という意味〕

体調を理由に〔公安調査庁との〕月2度の密談を1回に減らした。3月末には「今回限りにしたい」と切り出した。私も65歳。〔活動家として最前線への〕復帰はむずかしい。妻も退職間近。娘が大学に入り一定のめど。
〔公安調査庁の担当者は〕「上司に相談するので待ってくれ」と。「直接の上司が庁内調査を受けていて、異動がある」
新聞でどこかの局長の処分、辞職が書かれていた。(不正経理の問題。)
〔公安調査庁内部で不正が摘発され、組織問題として発覚し、担当者も焦っていた、ということ。〕
〔公安調査庁と〕最後に会ったのが4月24日。三里塚集会の記述などに言及。

金銭問題〔金銭・財政問題についての総括を求められて〕
95年までは定期カンパと家族の援助でやってきたが、93年に〔妻の〕出産のために荻窪にアパートを借りて、財政行き詰まる。

91年に出所すると父は〔遺産の〕相続権の放棄を迫った。それを飲んだ。
直後に父は遺言書を作成。次男〔荒川〕に対しては相続権を放棄する代償として金1億円を贈与するという一筆があったと後に知るが、兄によると金額が5千万、1千万、抹消と書き換えられていった。〔父の〕後妻によって。
兄が後妻に隠しながら、月々20万円くれた。これを現在の住居にあてた。
実母の遺産、換金性のある流動資産は3千万円くらい。これを生活費にあてた。自分が仕事につかなくてもよくなった。
都営住宅に当たって住居費は10万から3万に激減。96年頃。

権力から受け取った総額は2500万円くらいになる。
権力からの金の授受が始まったのは、困窮時ではなく、一定のめどがたってから。
金融にも少し手を出した。

両親の離婚後、母と名古屋の実家で母子家庭〔として生活した〕。経済的困窮〔を味わった〕。
学生運動時代の困窮。〔自分が活動を続けていくうえで財政問題での〕不安〔が募った〕。労働者の持つたくましさのない、学生あがりの常任の弱さか。

71年、国労高崎地本の専従書記の誘いに応募しようと相談したら、当時の地区委員長に「反革命!」と一蹴された。
中野洋さんにこのことを話したら、「だから革共同はだめなんだ」とさんざん諭された。

67年10・8羽田、佐世保を転戦。68年に〔高崎経済大学〕自治会の再建に集中した。
党の指導方針と自治会執行委の方針がぶつかり、自分は党籍を返上して自分の方針を貫いた。この時党へのゆがんだ考えをつくり出したかも。

もう一つのコア〔自分の腐敗・変質の原因となる核心点〕は獄中15年。11・14渋谷をやりきって獄中に入ったという感覚がない。指導部、指導上の敗北の結果、獄中生活を強いられた。15年はこれとの葛藤だった。
星野をふくめ7人の殺人罪での下獄、16人の逮捕起訴につながった。
群馬学生運動の壊滅。本来担うべき対カクマル戦を獄中に回避したとも言える。

星野が3年後に逮捕され、4年後に統一裁判に合流。統一方針の欠如、弁護団の混乱。
私は現場不在、実行行為なしだが、統一公判では現場指揮者実行行為で闘われているのです。
だから獄中闘争も、耐えたというのが現実で、学習に没頭して現実を見すえきれず、満期出所して自分的には決着した。
〔荒川は、星野同志とともに渋谷の闘いの輝けるシンボルとして獄中に送り出されたのだが、実は、自ら担っていない渋谷の現場現場責任者としての罪を着せられ、獄中では骨が折れてしまった状態だったということ。〕

〔自己批判〕
階級的裏切りと党破壊〔を自分は行ってしまった〕。
昨秋一端を暴かれ妻から追及〔された〕。〔だがその時は自らのスパイ活動をそのまま〕口に出せなかった。
〔今回それが暴かれたことで〕腐った自分を打倒する最後のチャンスを与えられた。〔妻に〕感謝する。自分を素直に表現できない。ごまかしてきた。
妻からの指弾を受け続ける。
〔彼のこのような表現は、当時党内において「自己批判すれば許され、活動家として復帰・再生できるかのような口調」として厳しく弾劾されながら、会議などで報告された。そして実際に彼は、査問が始まって一定期間(少なくとも1週間以上)を経た上で、もう一つの権力機関とのかかわりについてやっと自白し始めた。〕

内閣調査室とのかかわり。
最後まで秘匿し続けたかった今ひとつの権力機構との接触について〔以下に明らかにします〕。

94年に実父他界。後妻から688万の銀行振り込みあり。
その後兄、姉と3人で会う。兄、姉にくらべて〔自分、碩哉の〕相続が不均衡〔少ない〕で、姉は兄を「どうにかしてあげられなかったのか」と責めた。
当時労問研として労働問題の学習に励んでいた。
〔そのことを兄に話すと〕兄「そんな漠然としたことでは食っていけない。本当に調査や研究をやるつもりなら、誰か何とかならないか検討してみよう」〔と兄が言った。〕

後日、日比谷松本楼で〔兄から〕紹介された人物と会う。渡部と名乗り、立派な名刺。
銀座、新宿、などで一般的な学習対象の話をした。

会い始めて2〜3カ月、母が倒れ逝去。
渡部は「みんなから集めた霊前だから」と120万円をくれた。「上司からお母様のことは十分に配慮するよう言われていたのに何一つして差し上げられないうちに突然の訃報。せめて受け取ってくれ」
最初の金銭の授受は「お母様の薬代にしてくれ」だった。

翌年自宅に招かれて、料理をごちそうになった。
村山政権の基盤などについて話をしていた。

〔兄から紹介された渡部というこの男が、内閣調査室の人間だったというわけだが、荒川はどの時点で渡部をそう認識し、自分が権力機構に情報を流しその対価として金を受け取るというスパイ活動を始めたのか、その点については原文にも具体的に書かれていない。また文書の冒頭では、権力=公安調査庁との最初の接触が01年とされていたが、それに先立って内閣調査室との接触が始まったことについては、何も言及していない。〕

〔以下、内調の担当者が列挙される〕
2人目の担当者は青山。体育会系の空手自慢。

転換点は3人目の高柳から。(99年頃から02か03年に血液癌で死ぬまで。)

テーマは我々〔NC〕が既成労働運動とどうかかわりむすびつくのか。若手が同席。
一番の興味は中野洋さんとDC運動。松崎とJR総連との比較など。
〔内調は〕20労組などとの関わりにも興味〔を示した〕。
このころ〔自分は〕全労連、全労協、自治労本部、日教組、社民党などの人間と関係があった。

4人目の担当は山口(02〜05)
自分の持っている情報量の豊かさと分析が事態を動かしているという実感。権力内抗争なども理解できた。
私と内閣官房調査室との距離が一番近かった時。
若手にレクチャーしている感覚。謝礼が跳ね上がった。

私見に過ぎませんが、〔権力は〕革共同(中核派)、革共同(カクマル)両派とも路線上の対立を抱えていて、分裂の可能性があるのではないか、もしあるなら、そこにくさびを撃つ込み、国鉄分割・民営化以来の難題を一挙に解決できるのではないか、そのように考えていたようなふしがあります。
〔この部分はほぼ原文どおり〕

5人目は月岡と名乗っていた。実名は違っていた。労働運動分析の専門家。
これに交代した直後〔自分は〕倒れて、のちに連絡を入れたら、お見舞いをもってきて、神社の境内で会った。
党の革命について、尋ねてきた。

09年に6人目の担当の山城。10年くらい前に同席していたこともあり「〔荒川の担当者となることを〕希望してきた。」と表明。沖縄出身。早稲田。内閣府の職員か。
沖縄についてよく議論。なぜ〔NCは〕知花〔昌一〕を切ったのかなど。

12年に現在の担当、中野に。
中心話題は50年史〔本の出版〕。武装闘争の記述、労働運動との整合はどう表すのかなど〔について関心を表した〕。

以下は〔荒川の〕私見。
中野洋さんの弱点をしらべ、革共同中央と中野さんDCとの間にくさびをうちこみ、あわよくば分裂、対立、不協和音をつくり出し、革共同を衰退させようと言う戦略があったのでは。これは完全に失敗したと思います。
〔この部分はほぼ原文どおり〕
〔スパイ荒川打倒の声明などで、Fにおいては「権力は動労千葉と党の分断を図ったが、完全に粉砕された」といった総括が繰り返し書かれているが、元をただせばこれはスパイ荒川自身の見解だったということになる。〕

〔尋問の内容は再び、一連の過程で党から追放されていった人々と荒川の関係を問いただす、という方に向けられていく。それに答えて、荒川は尋問者から提示された名前を挙げながら答えていく。〕

反革共同策動について〔自分とのかかわりを問われたので、以下に述べていく。〕
岩本に最近会ったのは1月に新宿で。反原発テントのことなど〔を話題にした〕。

岩本と岸、水谷とは接点がある。岸は党中枢の限られた人しか知らない文書を直に手に入れている。水谷はその点は〔そういうパイプは〕まったくない。

涌井フラクについてはかかわっているのは大きく言って岩本学校の生徒たち。

涌井フラク発覚後に最初の連絡〔最初に自分に連絡してきた人〕は甘糟だった。

私は涌井とはまったく面識はありません。連絡手段もない。
石丸〔金丸の誤り、EB〕、本間〔三里塚現闘〕についても接触はない。常盤、大河、大江、北山と名前が挙がっているが、集会であいさつなどしたが、直接連絡はない。
大江〔労対、月刊労働運動編集〕とはパンフ購読申し込みなど〔で連絡すること〕はあるが、本件とは関わりのない関わり。
〔反中央フラクのメンバー、さらにいわゆる組織建設委員会問題でやり玉に挙げられた人たちの固有名詞を出して、「関係を明らかにせよ」と尋問されたということ。〕

甘糟について
06年に党の革命。彼が〔病気で〕倒れ〔彼の活動が〕暇になると、彼と積極的に意見交換した。
泊まり込みで話すことも。年に1〜2回佐久の中野清一宅などで。
全般的に討論。党への不満も。

09年にフラクをやりたいので出席しないかとの誘い〔を甘糟から受けた〕。涌井を中心、若年中心に場をつくる、と。病状を理由に断った。

路線的にはDC特化論はおかしく、反戦運動を推進すべきといった反中央の色を鮮明にしていった。
私は、新自由主義、最末期帝国主義論、恐慌、特に「世界恐慌を革命に」という私の理解を越える情勢論にとまどい、批判を述べた。
〔「甘糟とそういうやりとりをしていたということは、反党活動に加担したということではないのか」という尋問に答えるなら、〕甘糟とペーパーをやりとりしたことは、反党行為に加担したことになる。
「恐慌→革命」論、「侵略を内乱へ」との整合性、そこには戦争問題を巡る深刻な欠落があるのではないかと。
「ゼネスト→革命」ではなく、「ゼネスト→蜂起→革命」ではないか。〔そういう議論をした。〕
2回のうち1回は尾形も同席した。

涌井については、イストの国鉄論文を読んだ。吉野君は「彼が主筆で私は補筆」と〔言って和久井のことをほめていた〕。

岩本について。
「松本〔=岩本〕意見書」を出して党を離脱する前後に何回か会っている。

涌井フラクについては、発覚直後彼の逃亡を援助したのは南部の同志と聞いた。吉野、井上のどちらかか両名が宿泊場所を提供した。
涌井はいったん関西へ、石丸は京都の自宅へ、本間は逃避しないで意見書を書くとなり。

今年の甘糟との会話では、甘糟は水谷に相談、涌井は九州に、石丸は京都に、「長期戦のため兵站獲得しなくては持続できない」〔と甘糟が言った。〕

引き際ではないかとの私の話に甘糟は頷いていたが、「涌井がなあ〜彼がやる気である以上、俺びびり逃亡するわけにはいかないだろう」〔と言った。〕
〔尋問者の意図は、荒川と反中央フラクとを強く関係付けようというものであることは明らかだが、それはあまり成功していない〕

溝の口病院の服部史雄とは11月集会の後方で会話、連絡先を確認。その後、〔自分は〕妻の追及受け連絡せず。

権力との会話の内容。
11月集会の動員が減ったのはなぜか。5・1独自メーデー。鈴コン。根津さん。全逓、銀座局。郡山工場橋本さん。郵政〔非正規〕ユニオン。〔これらのことについて会話した。〕

〔自民党・谷垣との関係への追及〕
谷垣禎一さん〔自民党元総裁〕について。
兄、姉は善意の人だと思っている。
兄の大学時代の同期同級同部同ゼミ、ともに司法試験をめざした。
兄宅で偶然お会いした時は財務大臣かなにかの要職。私のことをどこまで知っていたかはわからない。そういう話はしていない。
〔荒川はブログ・パンフの中で「私の部屋のガサで谷垣とのツーショット写真が出てきた」ことから追及を受けたと言う。確かに当時党内では、自民党トップとツーショット写真を取り、「谷垣さん」とさん付けにする荒川への弾劾が強調されていた。〕

〔自己批判〕
労働者階級への裏切り。この事実を痛苦に受けとめ一生背負っていく。

〔財政問題についての自分の反省〕
学生活動家時代、生活の基礎は両親の援助だった。
獄中から出て財政能力を個人として高めるしかないと考えていたが、常任費をもらってびっくりした。党からお金をもらうことなど想像していなかった。
個人の能力という考えは間違っていたと思う。

日本共産党の〔財政問題にかんする〕問題点。
〔具体的批判が書かれていたが、略。〕

〔このあたりになると、尋問する側のある種のネタ切れ状態が伝わってくる。すでに荒川の大きな罪状については自白を得た。その上で尋問側は「あれについて書け」「これについて見解を言ってみろ」と質問を追加し、迫るわけだが、荒川に日共批判など書かせてみても、あまり意味があるとは言えない。〕

〔さらに「自己批判を深めよ」というような尋問・追及だったのかどうか、荒川の筆は自分をそういう裏切り・スパイ行為に及ばせた党内事情の歴史的詳述へと向かっていく。この領域においては、党の内情暴露的な様相を呈して、書いている荒川のある種の「高揚感」のようなものまで伝わってくる。〕

裏切りに及んだ理由の今ひとつは、党のあり方、考え方、情勢判断、路線性に違和感をもったから。
5月の転換はスターリン主義崩壊情勢に対応した正しい判断だと今言えるが、そう断言した指導部は〔当時においては〕いなかった。91年の出所から何人かの指導部に会ったが、明確な解答なかった。〔それぞれ言うことがバラバラで〕「武装闘争へ回帰するためのいっときの時間稼ぎ」「財政破綻こそが5月テーゼの核心である」「動労千葉の脱落をくい止めるため」と言いきる指導部もいた。

〔そうした混沌とした状況の中で、ある時〕70年当時の学生指導部が奇跡的に一堂に会した。獄中から、裏から、地方から。誰もが70年−80年代の総括に大混乱していた。総括を提示できる人が自分も含めて誰もいなかった。結束していたのは党への忠誠心だけだった。

03年、中野さんは階級闘争に「絶望」に誓い感情をもったのではないか。1047名支援闘争を通してDC労働運動が復活するという〔中野さんの〕確信と展望が揺らいだ時だと思っている。

〔NC〕5回大会後、イデオロギーが階級の現場と別の所に存在していた。イデオロギー担当者の集まる会議で、自分以外は現場労働者と接触する者がいなかった。
〔自分は〕「新自由主義の概念を取り入れるべきではないか」など提起したが「わが党には新自由主義という概念はない」と一言で一蹴された。

公調の目的〔は何だったのか。〕
破壊活動防止法の適用団体に指定したときのための組織実態調査。

〔私と会う時、公調が〕私に質問するさいにカンペのようにのぞく、組織構成員ファイルがあった。議長、副議長、書記長、政治局員に始まり、地方委員会、県委員会、本社部局にいたるまで、氏名、経歴、本籍、現住所〔などが詳細に記載されていた〕。

19−20cc〔全国委員総会〕の時期、次期書記長ポストに川添擁立の動き〔があって、それ〕に私にも〔同調を求める〕声がかかった。折田さん〔深谷邦男〕か藤本だったか、堀内日出光も同様なこと〔川添を次期書記長に推薦〕を言っていた。

93年新年号をめぐり、清水さんが秋山論文を批判して〔秋山さんが〕失脚したと聞きました。事実はわかりません。

93−97〔年において〕政治局は機能停止し、いつどこでだれが決めたか分からない「裏からのペーパー」が権威をもち決定権があった。〔ペーパーの主は〕清水さん高木さんだと考えていた。

その過程で水谷、川添、草野、けしば、関西地方委員会、中国地方委員会、九州地方委員会のフラクが形成された。今思うに〔このフラクは〕中野洋労働運動路線反対ブロック〔という性格のものだった〕。

各地方委員会の実情〔はどういうものだったか〕
関西。草野、西島、遠山、高山〔これらが関西地方委の実権を握っていた。〕
中四。青島夫妻中心で、それに対し四国などの反発〔が存在していた。〕
九州は宇谷〔平田〕・尾上と酒井・和田が路線上の不和〔があった。〕

白井新党問題。
新党構成メンバーを記したメモが発覚して、尾形史人が書記長になる人事案があると藤本か甘糟から聞き、人に漏らしたところ、水谷に伝わり「誰から聞いたのか」と追及され「川添」と答えたことがある。「他言無用」と注意された。
〔権力は〕白井新党には強い関心を持っていた。「同調者はいるのか」

尾形に直接ただしたところ、「何度か会ったのは事実。法大の先輩後輩ということが最初。新党構想は知らない。白井が勝手に書いたもの。いかにもメモ魔の白井さんらしい」
これらのことも〔公調に〕当然話したと思う。
〔この「白井新党問題」についての記述が事実だったとして、これをまとめなおしてみると、白井朗(最古参PB、のちに自己批判を拒否して逃亡)が、どういう意図でか「新党」を構想し、その人事案を書いたものが、不用意に露呈して問題になった、ということ。これだけでは不明瞭としか言いようがない。〕

97年に政治局再建。〔政治局に〕中野さん、高山、草野が加わり画期をなした。直後から中野さんの愚痴が始まった。
「政治局会議に行きたくない」「話が通じない」「清水さんと話した方が早い」
このころ強烈な川添フラクが活発化していた。
私も藤本と会う機会が増えていた。千束のB研の部屋で。
やがて川添本人と神田で月一回会うことになり、これは坂木同志の忠告でやめました。

〔NC〕6回大会について。〔開催されたのは〕01年。
開催から4〜5カ月たってから日時、場所もつかみ、〔そのことを権力に話すと〕質問責めにされた。発表された人事なども伝えた。
白井除名、規約改定、カクマル勝利宣言。
最大の関心は人事構成。

6T〔NC第6回大会で発表された人事は〕、議長清水 同代理高木、副議長中野、北小路 書記長天田。
 〔政治局員は〕水谷、岸、草野、高山、天田純子、坂木、向山、奥村

岸書記長案はこれでつぶれた。新生革共同の息吹感じた。
〔天田〕書記長人事の実現には中野さんの推挙が大きいと伝え聞いた。岸フラクの蠢動は途絶えないが、いったんは中野・天田体制の確立〔がなされた〕。

2001年都議選前後で、候補者擁立をめぐりけしばと区議控え室で話した。学生時代からの関係がある。
〔候補者として〕長谷川さん、けしば、白崎、鎌田などの名をあげていた。「けしばチャンピオン論」で区議から都議に立つ経過も大体理解した。

〔自分は〕出所後10年、労対着任8年、自治労担当7年目にしてさまざまなパイプが形成された。
〔労組関連では〕都労連、東交、東京清掃、都庁職。
陸海空の主軸労組、全国港湾、全港湾、海員組合、全国自治体港湾協、村中日航、国労の日共(鈴木勉)。

カクマル東京の自治体労働者委員会が分解。中央市場で山田護拉致事件。再建会議の基調メモがすぐ手に入った。〔権力と会った時〕カクマル分析などひとしきり話す。重宝がられた。

岸フラクは政治局では多数だが、労働現場は交流センターを通して中野さんを代表に労働運動への傾斜論〔の方がまさっていた〕。盛んに党と労働組合の関係の論議になり、中野さんは労働学校など独自の教育養成学校をつくる。労働者の団結、ゼネスト、革命論〔などの議論が活性化した。〕

〔こうした中野路線は〕水谷・岸らの従来の革共同の「内戦・内乱――蜂起」論と衝突〔していった〕。「侵略を内乱へ」の綱領的路線の根拠は帝国主義間争闘戦、戦争の必然性論。
〔こうした反発に対して〕中野さんは「ゼネストも組織できずに革命なんかできるか」と一喝〔して労働運動路線を進めた〕。

03年6月全国WOBを前に中野さんは「一種のクーデターをする」と決意を語った。
政治局少数派が実体的路線を造るには、全国WOB〔会議〕に中央委員、地方責任者を呼んで、そこで路線をつくり、決定、それをもって新たな前進をはかるというもの。
呂嘉民〔ろかみん、中国のレーニン研究家〕の労働組合論学習で〔学習運動を進めることで〕、労働組合と党の関係の修復〔転換〕をはかった。
中野さんは労働運動、労働組合が党の下に見られ、職革が組合運動も知らぬのに組合を指導しようとしている、笑止千万!と怒っていた。

03年6月合同WOBは、関西、中四、九州を追及するという異様なもの。草野、宇谷は事前に察知して欠席。事情を知らずに代理できてたり、代わりに答弁に立った者は気の毒だった。
Fには「新指導路線」と唐突に出たが、読者には〔それが何のことか〕理解できなかった。

公調の担当者は理解し、庁内で〔NCの新指導路線とは何なのかについて〕説明したと得意がっていた。

岸フラクにとっては全国WOBで路線が決まるということは、許されざる事態だが、驚くほど腰砕けだった。公調はあわよくば分裂・分派にいたるチャンスと考えても不思議ではない。情報集めに奔走したはず。特に全国連はじめ戦線運動。

中野さんは次々に新方針を出した。
労働学校、マル青〔マルクス主義青年労働者同盟〕再建、四大産別〔重視〕、国際連帯〔11月集会に米韓の労組を招くなど〕、ランク&ファイル運動。
本社改編、現場オルグに動員。日の丸君が代〔不起立闘争〕、全逓ビラまき。

国労、及び国労闘争団とのかかわり
各闘争団との接触。
DCの国労祭への参加、2002年。
03年、DC訪米。民主労総来日。

中野さんは国労臨対闘争弾圧を目の当たりにして、国労への見方、スタンスを03年から変えたと思う。これが03年全国WOBへ。
国労に一切の期待を寄せなくなる。

解体〔「国労解体」スローガン〕だけではまずいので、「国労の解体的再生!」を発言。11月集会もにわかに「1万人集めて勝負しよう!」〔というスローガンになった。〕
画期的な11月集会。その過程で、私の〔担当する〕自治労も「新綱領不採択」〔となり〕、〔教労では〕10・27都教委〔による〕日の丸・君が代〔強制〕通達〔が出されるなどして、労働運動推進が活気づいた〕。

〔荒川は、中野顧問の名代であるかのごとく、中野顧問の政策、行動、アイデア、などを紹介し解説し、その指導力に賛辞を送っている。そしてそれらを最もよく理解している者としての自分を誇らしく売り込んでいる。「どうだ」と言わんばかりである。「新指導路線」を公調の担当者が庁内で説明したことを得意になって自分に報告した旨を荒川は書いているが、明らかに荒川自身が「それを伝授したのは俺だ」と得意になっている。〕

01年は記憶が希薄だったが、1月から選挙対策に入って給食民託化阻止、つくる会教科書採択阻止に集中し、8月まで杉並に張り付いていた。
〔記述はここで終わっている。〕

〔ここでは省略したが、尋問者の「一体どれだけ金、預貯金、財産などを持っているのか、洗いざらい書き出せ」という質問に答え、かなりの分量で詳しく述べた部分が途中にあった。〕

[以上]

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