《当サイト管理者から》
 水谷保孝・岸宏一著『革共同政治局の敗北』(2015年5月刊)が出版されたのに続いて、その9か月後に、著者らによる対談「自著を語る」が雑誌『流砂』に掲載された。これは著書で書かなかったことの補論になるとのことである。対談「自著を語る」が出るや、そこで初めて明らかにされた革共同政治局における組織問題の具体的諸相、とくに秋山勝行氏が起こした問題は、革共同関係者に当然にも大きな衝撃を与えたようである。書記長・天田三紀夫氏や議長・清水丈夫氏らは党内では「本も悪いが、対談はもっと悪い。もはや岸・水谷を許さない」と声高に言っているとのこと。そのため両氏の身辺を懸念する向きもあったが、何事も起こっていないようである。当サイトには、対談「自著を語る」を掲載してほしいとの要望も寄せられており、左翼運動の総括に関わる提起も多々あるので、全文をアップする。


自著『革共同政治局の敗北』を語る
――党概念のコペルニクス的転覆ができるか

                                                  2016年2月/水谷保孝 岸 宏一
                                                    『流砂』2016年/第10号所収

1 「敗北」の実体規定をより徹底的に


●二〇〇六年三・一四党内リンチの真実から逃げてはならない

 運動の先輩である味岡修さんのご配慮で私たちの共著『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』(以下、『敗北』とする)を語る場を与えていただきましたこと、感謝します。「自著を語る」のは少々やりにくいけど、ほとんど素っ裸になって恥をさらしたんだから、何でも来い、という感じでやりましょう。
水谷 そうだね。辛口批評や拒絶、反発がいくつか寄せられているので、それに答えないといけないしね。
 いいたいこと、いうべきことのほとんどは『敗北』で書いた。二〇〇六年三・一四U(関西でひき起こされた党内テロ・リンチ)とは何であったのか、首謀者たちの政治的思惑とその思想は何であったのか、革共同史上前例のない集団的・差別主義的な党内テロ・リンチが何ゆえにひき起こされたのか、与田問題とは何だったのか、清水丈夫、中野洋(故人)、天田三紀夫、大原武史らによる三・一四Uの支持・美化・扇動がいかに卑劣でおぞましいものなのか、そして三・一四Uの結果生み出された革共同ならざる革共同の堕落と反動化の極みがどのようなものか、これらについて満天下に示すことはできたのではないか。「墓場まで持っていく」ことをしなかったのは、三・一四Uへの自己批判を明確にさせなければならないと思ったからだ。
水谷 そうだね。自己批判としてのみ三・一四Uの全真相、全貌は語りうる。自己合理化では三・一四Uを語ることはできない。
 誰であろうと三・一四Uのようなことは二度と再び起こしてはならない。革共同関係者のみならず、およそ左翼たる者は絶対にあのような党内テロ・リンチをやってはならない。一九七一〜七二年連合赤軍事件をくり返してはならない、と誰もが肝に銘じているように――。『敗北』は「あれはまちがいだ、絶対にくり返すな」というわれわれの叫びを記したものだった。
 もし『敗北』を前にしてなおかつ三・一四Uを肯定する人、今後も三・一四Uをやるという人がいたら、堂々と前に出てくるべきだろう。
 そうなんだよ。天田、清水ら革共同中央派は、何と『前進』二〇一六年新年号の政治局一・一アピールで『敗北』にかんしてまったく言及していない。『敗北』の「は」の字もない。「岸・水谷は史上最大のスパイ」というデマキャンペーンであれほど騒いだのに、だ。異様な事態だよ。関西派(革共同再建協議会)にいたっては、いまだに何の態度表明もない。それぞれの構成員として残っている人たちには、三・一四U党内リンチの真実から逃げてはならない、といっておきたい。
水谷 『敗北』の第1部は三・一四Uのドキュメントだけど、やはり党の歴史と政治局指導の検証を試みた第2部を置いたから、第1部の意味が明らかにできたんじゃないか。
 第2部は第1部を書く以上につらいものがあったな。歴史的検証の作業は悪戦苦闘だったけど、自分を含めた革共同を突き放して客観視した。『敗北』はその意味で、革共同研究、とりわけ清水丈夫研究の書だといっていいと思う。
水谷 ある歴史家が『敗北』を読んで、「反スターリン主義の党がスターリン主義の党になったという歴史的な問題を提起している」と批評してくれた。『敗北』でどこまで深く掘り下げられたかは、課題として残っている。今後さらに検証を深めたいね。
 まあ自画自賛はこれくらいにして、次に、反省点は何なのか、ということをやりましょう。


●反省点は財政腐敗の問題を割愛したこと

水谷 『敗北』の反省点を項目的にいえば、政治局指導のまちがいとして二つの問題を書かなかった。ひとつは、財政問題について。つまり党費・機関紙誌代・各種カンパなどの収入面、非合法・非公然体制にともなう支出面、財政思想における問題ということだけど、秋山勝行に示される組織犯罪を含む財政問題では政治局はとんでもない過ちをしてしまった。この問題は、第11章のひとつの節にして書いたけど、紙幅オーバーで全部割愛した。
 とくに「Nビル建設資金」問題はずっと棘が刺さったような深刻な問題だった。
水谷 概要を説明してみて。
 党本部事務所である前進社の移転・増築・拡張のために「Nビル建設資金」集めが三回行われた。第一回目は一九八一年で、借りたカネは一年間据え置いたうえで二年目から五回に分けて利子(年五分)を付けて返済するという計画だった。一方的なカンパでないため、画期的な方法と受けとめられ、党員・家族・親族・支持者から予想を超える二億円の資金が集まった。返済はおおむね履行されたが、じつは返済原資は利子分ではなく、当時やや拡大基調にあった『前進』購読料が充てられた。巨額の資金運用による金利で返済するというやりかたには強い反対意見が出された。
 第二回目は同じ方式で一九八五年から始まった。日本経済のバブル期と重なったこと、同年一九八五年一一・二九浅草橋戦闘への激しい弾圧への危機感から必死に取り組んだことから入金が次第に膨らみ、予想を超える五億円が集まった。ところが膨らんだ金利をあてこんで党財政を安易に流用する傾向となった。そのなかで秋山による一億円の公金横領(この時点では発覚せず)もあり、財政管理に失敗した。約束通りの返済ができなくなった。そのため組織の支部段階や個人のレベルで苦労してカネをやりくりして返済したり、返済期限を延長したり、一部をカンパに切り替えてもらったりした。現場は財政重圧の矛盾を受け、貸付者からの抗議、離反に直面し、非常に苦労した。党中央への不信が募った。
 第三回目は九二年。これは本社中心で、三里塚現闘などには分担がなかった。
水谷 第三回目は、一九九一年五月テーゼにともなう軍縮小への対応、常任の増大傾向などから本部社屋の拡張の必要性を訴えるものだった。第二回目の失敗があり、集まったのは五〇〇〇万円だった。金利を返済原資に充てる方式はバブル崩壊でもはや成り立たなくなっており、財政管理も旧態依然だったため、返済が著しく滞った。約束違反の利子なし返済や返済期限の延長を出資者に要請するしかなく、現場は苦しめられた。一九八五年秋を頂点として党勢が減退していく時期に本部事務所の移転・拡張をしたのは、今思えば無謀で愚かな暴挙だった。党員と支持者に財政破綻のしわよせをするだけだった。
 第二回目では集まった五億円を清水、野島、秋山などに一億円ずつ各自に割り当てた。要するに複数の会計単位の一元的な財政管理がないこと、会計監査システムがないこと、財政支出の不公正、不透明が放置されたことなど、政治局の財政管理は無原則、無知無能、無責任そのものだった。そうした野放図が秋山の巨額抜き取り・横領に気づくことなく放置するという結果を許した。革共同の財政問題の誤りが秋山問題に凝縮している。恥ずかしいかぎりだけれど、じつに非常識で前近代的で、財政的腐敗の温床を自らつくってきた組織だったんだ。
水谷 Nビル資金問題は労働者人民への傲慢不遜、独善的自己絶対化を表わしているというほかない。まして返済不履行、その開き直りなど政治的詐欺であって、労働者人民の支持・支援を蹂躙するものだ。
 こうしたことを党員にも支持者にも明らかにせず、秘密にしてきた政治局がオレたちを含めて最悪の腐敗分子の集まりだったんだ。財政は党の姿をもっともよく映し出す。すべての党員、支持者の皆さんに土下座して謝らなければならない。
 本多延嘉さんはコミンテルンからの資金援助を自主的に拒否して独自の道を進んだユーゴスラビア共産党のチトーの財政思想を高く評価していた。『チトーは語る』(一九五三年刊)を読んでいただくとして、一言でいうと、財政規模は組織自らが日常的組織活動として集められる範囲を超えてはいけないということだ。われわれは革共同創業の初心を忘れたんだ。創業精神をおろそかにする党は大きくなればなるほど腐敗し堕落するということを、厳しく戒めなければならなかった。


●秋山勝行の驚天動地の組織犯罪

 関連する最大の問題は秋山問題だ。秋山は愛人(適切なことばがないのでとりあえず愛人とする)と子どもの問題を抱えて、隠し続けることが限界となり、一九九四年、清水に男女関係と財政問題を告白した。びっくり仰天する話だった。それも、さかのぼること一九七〇年代からの愛人関係であること、全学連委員長時代に別の女性たちを何と三人もレイプしたことがぼろぼろと出てきた。しかし清水は、いったん処分なしとしたんだ。その会議の翌日、財政の公金横領、私物化が一億円にもなることを改めて自覚し、とても容認できない、処分相当と判断し、秋山処分問題を決定するために政治局会議を招集したのだ。
水谷 右の事実関係ははっきりしていることだから、核心問題を確認しよう。
 清水主宰の政治局会議で秋山を同席させて、秋山問題追及の議題をやったが、その場の図柄は今から考えると、じつは象徴的だった。発言し追及したのはほとんど水谷さんとオレだった。水谷さんが主に秋山における政治路線の指導、組織指導のあり方を弾劾し、それが秋山の財政および男女関係の腐敗から発していることを追及した。オレが軍事指導のデタラメさを追及し、秋山の軍事的無方針とデタラメな思いつきで現場がいかに苦しめられたかを弾劾した。それらのことで新たにわかった諸問題もあった。
 清水は討議の勢いに押され、もはや最大級の処分を下すしかないと、まとめみたいな発言をしたが、口数が少なかった。高木徹も昨日まで秋山にへいこらしていたから、的外れなことを少しいっただけだった。
水谷 天田がだらしなかった。天田を、北小路敏が病気で倒れた後、前進社の責任者に任命したのは秋山だった。天田は自分を引き上げてくれた秋山を弾劾できるわけがなかった。
 じつは秋山はカクマルによる一九七五年三・一四本多書記長虐殺以降、天田(当時神奈川県委員長)と大蔵(当時東京南部地区委員長、その後軍事委員会へ移籍)を囲い込んできた。組織的に必要ないのに私的にもたれる秋山の会議の際に、天田と大蔵は、いつも付け届けをしていた。カネも出していた。これについては関係者の二人から証言がある。秋山は、天田と大蔵が自分にへつらい、隷属している現実を楽しんでいた。権力者特有の愉悦感に浸っていたんだ。迎合する方も迎合する方だけど、それを暗に強要していたのが秋山だった。
 秋山は軍指導に責任を負っているにもかかわらず、愛人との生活に相当の時間とエネルギーを振り向けた。愛人を遠隔地の九州に住まわせ、脈管の任務についている周囲をだまして愛人の元に通う生活を約二〇年間にわたって続けた。非公然といいながら、自分は寝台夜行特急で九州まで行き帰りしていた。「防衛戦争」もへったくれもない。さらに問題は、Nビル資金をマンション購入関係などに費やしたんだ。
 清水は秋山問題についてじつに軟弱だった。後日、清水=岸会談があるのだが、清水は「女性問題だけだったら処分は控えたが、財政問題で許せなかった」と発言した。
水谷 秋山は軍事委員会を形成する前段階から軍の責任者であるという組織的地位を利用して、かつ非公然部門にいることを隠れ蓑にして、自分の権力的世界をつくった。対カクマル戦第一という路線ゆえに軍の責任者であることをブルジョア的な名誉欲を満足させるものとして悦にいっていた。それはお定まりの「地位と名誉を得た人間はカネと女性をほしいままにしていい」というとんでもない堕落の姿だった。秋山が悪いのははっきりしているが、それを点検もしない清水の責任は大きいものがある。


●秋山問題は清水問題=天田問題

 われわれは自分への評価にかかわることだから遠慮してはっきり書かなかったけれど、清水は岸書記長構想をもっていた。そのため、秋山処分・更迭の直後に清水=岸会談をもった。その際、清水は最初に「オレは軍事にコンプレックスがある。不入斗(いりやまず)事件の失敗はオレの責任だ。軍事能力がないことを痛感している。だから軍事委の責任をとるのは無理だ。あんたが秋山の後をやってくれ」といった。それは分かりましたと返事したら、続いて「オレはKG主義(神奈川県委員会主義、つまり天田指導スタイルのこと)は嫌いだ。一種独特で党ではない。組合主義、社民主義だ」と露骨に批判し、さらに「本社の責任もお前がとってくれ」といってきた。オレは「その話はやめましょう」と断った(第7章第2節を参照)。
水谷 木崎冴子が岸さんに「熊沢さん(天田の組織名)は病気もあるし、本社責任者を長く続けられない。だから、岸さんやってよ」と語りかけていたことがあったね。本社政治局会議の休憩時間にも、非公然会議に向かう過程の雑談の際にもあった。他の政治局員にも聞こえるように話しかけていた。
 そうだったよな。天田からも「書記長は持ち回りで次は頼む」ともいわれていた。オレは笑い飛ばしていたんだが、あれはなんだったのだろうかね。
水谷 おそらくこうだよ。天田は清水から次期書記長=岸構想を聞かされていたんだよ。木崎は、近い将来の岸権力から天田前書記長が飛ばされないように岸にすりよった。あたかも「書記長職の禅譲」という形にしようとした。あるいは来たるべき書記長権力の抗争を想定して、左派を武装解除しておこうとした。木崎はじつにずるい人間だということだよ。
 それに比べて左派が何と呑気だったことか。政治局とか党指導部を一個の権力としてとらえる認識がまったくなかったね。そういう見方が嫌だったというのが真実に近いだろうね。組織的日和見主義そのものだった。権力亡者にならずに、それでよかったとも思うけどね。
水谷 その「天田書記長」生みの親は秋山なんだ。天田はかつての親分だった秋山を、二〇一一年八月、政治的・組織的に復権させた。天田は以前の腐れ縁を復活させたわけだ。ほんとうにおぞましいかぎりだ。
 天田自身も憶えているはずのことだが、秋山について組織的な復権はありえないことを政治局は決定していた。党の管理下で罪を償わせた後はどこかでひっそりと暮らさせることにしていた。それが適切な方針だったかは再検討されなければならないけど、組織に戻すことはしないという確認だった。少なくとも、われわれが党にいた二〇〇六年時点までは。
水谷 秋山問題を抱え込み、事実を隠蔽し続け、「伝説の全学連委員長の復活」話をしている天田ら革共同。腐敗・堕落の極致じゃあないか。


●男女関係の歪み問題を直視できなかった

水谷 反省点のもうひとつは、財政問題と重なるんだけど、組織内での男女関係の歪み、何人かの政治局員が犯した犯罪、その解決の指導放棄という問題だ。
 この問題は関係者のプライバシーの問題があるから、論じ方を慎重にしなければならない。とはいえ政治局やそれに準ずる組織的位置にあった人間については犯した罪の責任は厳しく追及すべきだった。
水谷 オレが知っているかぎりでは、歴史的には秋山以前に小野田襄二、田川和夫が問題を起こしている。さらに高山(西山信秀)、晩年の中野洋を挙げることができる。われわれも問題のあまりのおぞましさゆえに踏み込むのを避けてきてしまった。本多さんも含めて政治局として指導放棄した、と認めなければならない。
 このテーマをオレは少々毛嫌いしてきた傾向があるので、水谷さん、しゃべってよ。
水谷 オレも、「こんな事態を放置して何やってたのよ。政治局は見識がない」と連れ合いから弾劾され続けてきた立場だから、大きなことはいえないよ。
 確かにね。水谷さんがこの問題を論じると道徳主義的に弾劾しているように受け取られる。
水谷 うん。性・恋愛・結婚・離婚・妊娠・出産・育児・教育の問題を左翼の政治・思想問題として、革命党の固有の組織問題そのものとしてつかむのが弱かったからだと反省している。


●腐敗と歪みをどう組織的に克服するのか

水谷 党内での数々の事例はここでは省くとして、理論的・実践的に整理してみよう。一方では、腐敗した党の権力者=男性指導部がその指導的地位を利用して男女関係の歪みを起こすという問題、他方では、運動と組織の内部で自由恋愛主義、「一杯の水」論(「性的欲求を満たすことは喉が渇いた時に一杯の水を飲むようなものでなければならない」という理論・思想)が絶えず発生し、それを口実に男性指導部が性的腐敗を起こしかつ開き直るという問題ということではないか。
 性・恋愛にかかわる問題を共産主義者と労働者人民がブルジョア的疎外、ブルジョア的束縛からどう解き放つかは、共産主義の普遍的テーマであり、そればかりか現在的に日常直面する問題にほかならない。革命運動においてこのテーマをどう解決するかは、古今東西いつでも、どこでもぶつかってきたことだ。
 問題はレーニンが強調しているように、「共産主義者も一皮むけば俗物である」という認識を踏まえることに尽きるんじゃないか。
 確かレーニンが『青年・婦人論』でいっていたね。
水谷 そう、レーニンがクララ・ツェトキンとの対話やイネッサ・アルマンドへの書簡の中で、「恋愛の自由」や「一杯の水」論を厳しく批判した。そのなかでのことばだ。この認識をもつということは何なのか。組織的実践としては階級社会に生きているかぎり男女関係の歪みは起こるという認識に立って、指導部間・同志間の相互点検・相互報告と告発・通報・調査と審査・処罰のシステムを党組織のなかに編み込むということなんだ。男性指導部によるレイプ、レイプまがいの行為は明らかな犯罪なんだから。本多さん風にいえば共産主義の掟≠ェ必要なんだ、財政腐敗と歪んだ男女関係には――。
 革共同にはそれがなかったな。むしろそうした腐敗がすべて「革命」「非合法・非公然体制」の名で、「同志的信頼」という名目で放置され、温存され、隠ぺいされてきた。党組織それ自体が男女関係の歪みの温床となってしまう。
水谷 要するに、『敗北』では党のあり様のいかんが集中的に露呈する財政腐敗の問題と男女関係の歪みの問題の検証を欠いたということだ。
 政治局の敗北≠フ実体規定が不徹底だったといわざるをえないな。


2 三里塚基軸路線のもつ誤り


●革命の全体性を崩壊させた

水谷 ある旧友の読書感想が寄せられた。「『敗北』で一番なるほどと思ったところは、党(革共同)が一九八〇年代から三里塚闘争に急角度で入っていった。三里塚農民のたたかいに応えて力を尽くすのは必要なことだ。それはいいんだけれど、安保闘争、アジア侵略との対決の方はどうなるの、と思っていた。なぜ三里塚基軸になったのか。説明を受けても『前進』を読んでも不明だったので、その理由や事情が今度の本でよくわかった」とのことだった。
 それはありがたいね。二人の共著だったから、問題の核心をつかむことができた。一九七七年段階で三里塚基軸路線に異を唱えたオレが三里塚闘争基軸への路線転換の先頭に立ったわけだけど、じつはそこに潜在的疑問を抱いていたこと、総括にあたってもう一度こだわろうとしたことがあった。他方、水谷さんが獄中にいて不在のときの革共同第五回大会の問題性への疑問をもっていて、第五回大会を白紙の状態から徹底究明しようとこだわった。その両者のこだわりが別々の視点からの検証となってぴったりと重なった。
水谷 第五回大会以降の三里塚基軸論について端的にいうと、日本革命・アジア革命を展望する革命の路線ではない、ということだね。三里塚二期決戦はあくまでも三里塚農民の農地死守、開港阻止のためのたたかいなのだから。
 革共同の三里塚基軸路線は本質的に党の利害を三里塚農民の利害の上におくものだった。土地と農業と生活を全面的に破壊してくる者らにたいして怒りをもって立ち上がった三里塚農民の利害が何であり、それをどうやって実現するかという実践的観点を、党がどう生き延びるのか、他党派との党派闘争をいかに制するのかということに従属させるものだった。
 三里塚農民、とくに青年行動隊の多くは、そうした革共同の姿勢を政治的利用主義として嫌い、ときに猛反発した。青行との関係は最初からずっと厳しいものだったね。
 オレの個人史的にいわせてもらえば、着任して最初の一年間はほんとうに苦しいものがあった。反対同盟と青年行動隊には東峰十字路闘争(七一年九・一六)への重罪攻撃の重圧が加えられており、青行は中核派を信頼していなかった。党の体重が三里塚にまだかかっておらず、現闘は孤軍奮闘の感があった。それが先制的内戦戦略の第二段階への移行、つまり三里塚基軸路線に舵をきったことで、これで党の力が三里塚に投入されるということだから、ホッとした。オレは以後、党全体を三里塚に引っ張りこもうと全力を挙げたわけだ。麻生浩論文を熱心に何回も書き、それが党の基本路線論文として全体に下ろされていった。
 自分が先頭にたってやったことだから誤魔化さずにいわなければならないけど、革共同が三里塚二期決戦を基軸にして組織と運動を動員すればするほど、革共同本来の革命の全体性が崩壊していった。


●産直を起こしたことの積極的意義

水谷 一九六六年以来の成田空港建設・農地強奪に加えて、一九八〇年代は日本帝国主義の農民・農業切り捨てが強まる一方という時代状況だった。臨調行革路線が日米経済摩擦の激化を背景に農政転換をおし進めた。三里農民にとってたたかいのなかでの営農はほんとうに切実なものだった。
 現実に生きてたたかう農民を前にして、オレたち現闘は、日米争闘戦をもテコとした日本帝国主義の農業破壊のすさまじさを実感していた。今まで専業農家でやってきた農家が米作と農協出荷では食べられなくなってきたんだ。一般的にいわれる農民殺し≠セ。農民は生活自体がほんとうに大変だった。
 それだけに「空港を絶対に造らせない」という願いと執念が強まっていった。
 三里塚基軸論への反省は尽きないんだけど、現闘が必死になって産直を立ち上げ、敷地内農家を支え続けたことは、積極的に総括したい。
 三里塚二期決戦の厳しい状況下でたたかう農民の営農をいっさいの基礎にすえ、知恵をふりしぼり、そのために党組織を動員した。それができたのは、三里塚二期決戦基軸論があったからでもある。
水谷 ほんとうは労農同盟論の立場なんだよ。本多さん以来の革共同は……。清水の三里塚基軸路線はこれとはちがったんだ。清水は産直のもつ切実な意義と位置をわかっていなかったね。
 労働者階級による農民への犠牲的援助なしには農民は獲得できないという労農同盟論は、学生時代の若いときから本多さんにたたきこまれた理論であり、農民の生活に触れてほんとうにそれを実感した。
水谷 今まさに日本帝国主義の農民殺しがTPPをもって一挙的に強まっている。
 三里塚農民のたたかいの意義は依然としてというか、ますます大事なものになっている。


●第四インターへのテロルは政治局会議で決定

水谷 第四インターの『かけはし』紙上で『敗北』の第9章第1節が厳しく批判され、事実上拒絶された。あの表明は第四インターとしての組織決定にもとづくものではないと思われる。というのは、二〇〇九年の関西派の態度表明ならぬ態度表明に際しては、JRCL中央委員会声明を発表しているが、今回はL・Lという個人署名なんだ。とはいえ、第四インター組織構成員に共通した応答であると受け止めなければならない。
 L・L氏の強調点は二点。ひとつは、内ゲバ主義・赤色テロリズム論の路線・立場を維持したままの自己批判は自己批判ではない、受け入れられないということ。もうひとつは、テロル行使の組織決定過程をつぶさに明らかにせよということ。
 『敗北』で明らかにしたことを前提として答えられるかぎり答えたい。
水谷 第四インターへのテロル行使は一九八四年一月の場合も、同年七月の場合も清水主宰の政治局会議で決定した。
オレは、一九八三年一〇月に下獄を終えて外に出てきた。しばらくは心身ともに休養するということで、すぐには活動に復帰しなかった。しかし約三年半の政治的空白期間があるからむしろ非公然政治局会議には出席するだけでいいから出るということになった。任務は担当していない状態だったので、記憶は漠然としているけど、一九八三年一二月の非公然政治局会議で第四インター問題を議題にし、そこでテロル行使を決定した。別の人が「決定してから実行されるまでの間は早かった」と証言しているから時期はまちがいないと思う。提案し推進したのはいうまでもなく清水である。
 第四インターせん滅戦の決定と同時に、一坪再共有化運動への賛同団体・個人にたいする賛同撤回オルグを全党挙げて展開することを決定した。撤回オルグといってもテロル行使を背景にした恫喝を加えるということを意味するものだった。これらは現地の党、つまり岸とは無関係に政治局だけで決めたんだ。
 当時の政治局会議の議論とその雰囲気は、今だからいえることだが、非常に粗暴なものだった。この件も議論らしい議論は何もなかった。政治を軍事で総括するという転倒した清水のえせ「理論」のために、政治的困難は軍事で突破するのだ≠ニいうスタンスがほとんどだった。まして先制的内戦戦略第二段階で対権力武装闘争を展開している革共同にことあろうに反対するなど許せない、そんな第四インターはせん滅してしまえ、というものだった。
 水谷さんは事態を理解していたの。
水谷 清水ら他の政治局員にいわれるままという、何も考えていない状況だった。ただオレとしては一九八一年の先制的内戦戦略第二段階への移行は対カクマル戦の棚上げではないかと疑問をもっていた。政治局としては水谷は党の路線を何もわかっていない。水谷にわからせろ≠ニいうことで、野島三郎が二、三回、時間をとってオレの説得に出てきた。政治局忠誠人間だったオレは、従順に従い、その先頭に立ったんだ。
 第四インターへの組織的テロル行使について現地のオレには何らの相談も、事前通告すらもなかった。今の話を聞いても、やはりなと思うけど、第四インターへのテロルをやったら現地でどんなリアクションが生まれるか、青行や農民、他党派がどう対応するかなど何も検討していなかった。少なくともオレと水谷さんは、改めて革共同の犯した誤りを誤りとしてはっきりさせておきましょう。
 第一点目については、『敗北』で書いたのでくり返さないが、対カクマル戦は今でも必要で、必須のたたかいだったと思っている。対カクマル戦をやったから他の諸々のまちがいも起こしたのだ、とは即いえない。われわれとしては、対カクマル戦自体を内在的に検証することで、どこが誤りかをそれなりに明確にさせたし、革命的テロリズムの正しいあり方を創造しえたはずだったと総括した。
水谷 この第四インターへのテロルで革共同への大衆的信頼は基本的に消滅したといえる。水戸巌さんを始め、革共同を知る人たちの怒りはすごかった。「中核もカクマルと同じになった」と批判された。
 そうだった。そのことを思うと、ニーチェのことば――「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである」(『善悪の彼岸』)という通りだな、と今は感じている。カクマルという反革命との戦いをやっているなかで、左翼諸党派の党派闘争にテロルを持ち込むというカクマルと同じ考えになっていたことを近年思い知らされた。


3 荒川スパイ問題のその後


●スパイ自認に等しい荒川碩哉の現状

水谷 荒川スパイ問題は重大な問題なので、再度、簡潔にふれておきたい。一番大事なことは、荒川碩哉本人が「スパイではない」というなら労働者人民の前に現われて身の潔白を示す行動をとるべきなんだ。それをやっていないということだよ。二〇一三年五〜六月に荒川スパイ問題が表面化して以来、すでに二年八カ月。姿を隠していること自体が荒川=権力のスパイを自認するに等しい。そもそも娘さんに会ったのか。
 変な話だが、水谷さんとオレは『敗北』を出して、革共同から「史上最高のスパイ」呼ばわりされている。われわれは当然にもスパイのレッテルはデマであると即座に態度表明した。さまざまな場に顔を出し、もし「あなたたちはスパイなのか」と訊ねる人があったら、革共同の流すデマへの全面的反論をする構えでやってきた。誰もそんな質問をする人はいなかったけどね。ぎゃくに「スパイだなんて、革共同も愚かだね」「本で書かれていることが事実だと認めることになっているよ」と激励されてきた。革共同の岸・水谷スパイ説などだれも見向きもせず、笑い飛ばされている。
 だから荒川よ、表に出て来い、ということなんだ。それができないのはスパイの自認なんだ。
水谷 付け加えると、問題発覚から一年七カ月後の二〇一四年一二月、甘糟義信が編集にかかわった荒川署名のパンフレット『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』が発行された。それにたいしては、われわれが詳細な論駁を加え、むしろ荒川がスパイを自認したも同然である、とした。それなのに、それにたいする反論も何もない。
 甘糟にもいう。いつまでスパイ荒川の片棒を担いでいるのか。われわれはもちろん、甘糟を知る多くの人たちが甘糟へのスパイ疑惑をもつのは当然ではないか。甘糟自身が態度表明を迫られているのだ。
 『敗北』執筆の過程で、荒川スパイ問題にかかわる新証言を得ることができた。荒川は未決拘留中に権力との取り引きに応じていた可能性がきわめて濃厚だというものなんだ。

 

●荒川は未決拘留中に権力と取り引きした?

水谷 荒川がスパイ化したのは、革共同中央派の『前進』声明では一九九五年に内閣情報調査室のスパイ、二〇〇〇〜〇一年頃に公安調査庁のスパイになったとしているんだが、じつは、それよりはるか前の一九七〇年代半ばにスパイ化していたかもしれないという疑惑だったね。
 どういう証言か紹介する。一九七一年一一・一四渋谷暴動闘争の件で翌一九七二年四月に逮捕・起訴された荒川は一九七四年九月、一審段階で保釈される。保釈され群馬に戻った荒川は、革共同群馬県委員会の人たちに迎えられた。それまで二年五カ月間の未決拘留の疲れを癒し、今度は外から裁判闘争に取り組むとともに、予想される長期下獄への備えをすることとなった。そうしたなかで、荒川は群馬県委の指導的同志(当時。Q氏とする)に次のように語った。 「オレは党の情報をいっぱい知っている。権力と取り引きできる。完黙≠ニいうことにして(註 調書には書き記さないで)、話すことができる。」
 Q氏は荒川が何をいい出したのかと当惑した。しかも調書には書き残さないで取り調べの権力と話したことを、何と自慢げにいったのだよ。Q氏はまさか、という気持ちがあったが、そのまま聞き捨てた。その後、長い間、この荒川との会話は封印してきた。しかし、荒川がスパイであるという革共同の声明に接し、封印してきたとはいえ、ずっと引っかかっていた記憶を反芻し、他の元同志に打ち明けたのだ。
 はっきりいって、これは重大なうえにも重大な証言だ。当時の中核派の学生指導部で「党の情報をもって権力と取り引きする」「権力(この場合は検事であろう)と調書に残さない話をした」などということを口にすることは考えられないことだ。驚くべき事実だ。Q氏が憶えていた荒川の自慢げな様子とその発言は、まぎれもなく権力と取り引きしたことを意味する。
 ではどのような取り引きか。同じく起訴され裁判闘争をたたかっている星野文昭さん、奥深山幸男さんと切り離して荒川だけ保釈となったこと、一審判決で星野=二〇年、奥深山=一五年にたいして荒川=一三年であったこと、二審で星野さんだけ刑が加重されて無期になったことを考えると、権力側は荒川による革共同内部情報提供と引き換えに保釈を与え、減刑を操作したのではないか。
水谷 彼ら三人は事後逮捕だった。星野さん、奥深山さんが現場に行っていたのに対して、荒川は現場に行っていない。しかし荒川は一一・一四渋谷暴動闘争における群馬軍団(群馬・栃木で構成)の政治責任者だった。星野さんは当時三里塚九月決戦で指名手配されており、一一・一四当日、国鉄中野駅で初めて群馬軍団と合流した。つまり彼は、荒川が組織した群馬軍団の上に当日になって舞い降りてきただけだった。渋谷暴動闘争の遂行主体の側からみると、荒川は群馬軍団の統括者であり、その政治的・組織的責任の位置は星野さんより高く、重い。権力側からみると、群馬軍団による機動隊せん滅戦を殺人罪として追及しているのだから、荒川の役割は、当日ぱっと出てきただけの星野さんの役割と同等ないしそれ以上のものがある。
 ところが、一審の検察の論告求刑および判決文を、Q氏証言を踏まえて今読み返すと、たしかに荒川の役割への言及に甘さがあると読めなくもない。求刑も判決も、荒川への刑罰適用には匙加減を変えた可能性がある。
 もちろん推察のレベルだが、荒川は未決拘留中に党の情報を権力に売ったのは事実なんだろう。とすると、この時点でスパイとなっていたんだ。その後、下獄し、一九九二年六月に出獄した荒川を権力が手放すわけがない。改めてスパイの道に引き込んだという流れなんだろう。
水谷 Q氏証言が示す事実は直接証拠ではないにしても、荒川を権力スパイと断定しうる、ダメ押しといっていい。
 革共同は一九七〇年代半ば以降、敵権力への内通者=荒川を内部に抱え込んでいたことになる。われわれの敗北は深刻なうえにも深刻だ。荒川には烈火の怒りをたたきつけねばならない。荒川スパイ問題の事実関係を隠ぺいする革共同中央派は権力に迎合する奴隷に成り下がった。オレたちは改めて労働者人民に謝罪し、この問題を追及し続けたい。


4 どのような党を構想できるのか


●権威主義との意識的闘争こそ

水谷 「組織論における反スターリン主義の不徹底」と書いたわけだが、これだけでは何もいってないに等しい。未整理だけど、現在の段階でもいえることがある。
第一に、われわれは権威主義とのたたかいを意識的な組織活動として措定してこなかった。じゃあ、党における権威主義とは何か。
 それは単なる官僚主義的傾向とかではなく、党の本質の疎外化が権威主義である。官僚主義、行政主義、上意下達や独善性は権威主義の結果なんだ。何かとよく官僚主義うんぬんといわれるけど、『敗北』のわれわれ筆者としては、権威主義との闘争と定義づけたい。
 党はさまざまな個性をもった共産主義者の政治的結集体である。この本多規定はまちがっていない。党の究極目標の達成の過程では指導・被指導関係が必要となり、それが前提に置かれている。そこまではいい。だが党が究極目標を忘れ放棄し、たたかわない党になるやいなや、あるいは権威主義とたたかうのではなく党指導部自ら権威主義の権化に逆転するやいなや、共産主義者間の指導・被指導関係とその基礎である対等な組織的人間関係が、〈支配と隷属〉の関係に必ず疎外される。
 なぜ必ず疎外されるのか。それは、近現代の人間社会、あるいは帝国主義段階にまで進んできた資本主義社会、近現代ブルジョア社会にわが身を置いているからだ。ブルジョアイデオロギーに汚染されているからだ。加えて国際階級闘争のなかでスターリン主義が発生し、スターリン主義が歴史的・社会的・精神的にいわば所与の存在様式と化してきたからだ。
 日本の場合は、ブルジョア社会の支配秩序とその論理プラス天皇制・天皇制イデオロギープラス日本共産党のすさまじい権威主義が沁みこんでいる。日本の左翼の伝統的体質・文化になってしまっている根深いものがある。
 その通りだよ。だから権威主義とのたたかいを排外主義・差別主義と並べて本多さんは強調した。権威主義とたたかうには、どうしたらいいのか。難しいけど、やはり権威主義と闘争するという意識性をもつということしかないだろうね。
水谷 うん。共産主義者としての組織的・個人的意識性をもつことだね。清水政治局体制のもとで権威主義を強めさせた自分の堕落した姿を見直してみると、権威主義の対極は理性である、という気がする。われわれにおける理性、知性の後退はひどいものだった。

 

●なぜ党大会なのか――その必須性と絶対的意義

 権威主義とのたたかいの意識性を保障するものが党大会であり、それしかないといっていいのではないか。もちろん党大会をただやればいいというものじゃない。だけど、党大会を毎年行うこと自体の決定的な意義があることを積極的に確認すべきだ。
 わかりやすくいうと、党執行部の活動、その姿の可視化ということかな。党員からみた党の透明性が保障されなければならないし、それを担保するものが党大会であるといえる。その上で、組織論の考え方として権威主義との闘争が重要なんだ。
 日本共産党は宮本顕治体制の出発点となった第七回大会(一九五八年)以降は大体二〜四年に一回、その間に何回かの中央委員会総会をやっているが、自由な討論などまったくない。大会も総会も権威主義をセメント化するための道具にしている。日本共産党の書記局長代行を務めたこともあり、共産党の顔として登場していた筆坂秀世が書いた『日本共産党』(新潮新書)を読んだけど、筆坂の政治的スタンスが日共より右寄りで、何の信念もなく、無内容そのものだった。ところが、党大会の叙述だけは権威主義の極致のままで、まったく同じだなと笑ってしまった。
水谷 トロツキーがロシア共産党およびコミンテルンのスターリン主義への一挙的な変質を目の当たりにして、スターリンの官僚主義的独裁に反対し、毎年必ず開いていた党大会を開いてもいない≠ニいう点を強調していることは想起されていい。官僚主義との闘争の場として党大会が意義づけられることを、トロツキーはわかっていた。当時のロシアの革命家たちは激しい党派闘争と党内闘争の経験則からも、それがわかっていたのだと思う。
 『敗北』では、それらのことを意識して「党員の権利行使の場としての党大会という位置づけが確認されるべきであろう」(第11章第4節)と書いた。
 そこを補足すると、政治権力論・統治論との関係で党の基本的性格やあり方の特徴を、本多さんが論じていたのを聞かされたもんだ。
 つまり、ブルジョア民主主義の三権分立論がある。大統領制にしても議院内閣制にしても、立法府は行政府にたいして実質的に独立した権力ではなく、行政府を多かれ少なかれ補完する機能でしかない。いざというときには必ず行政権力の肥大化、独断専行となる。「国会は国権の最高機関である」という日本国憲法の規定ほど空疎なものはなく、国会は独立の活動能力を付与されていない。そのため国会が時の支配政党および官僚機構に牛耳られるだけなことは、日常、見せつけられているところだ。今の安倍政権の独裁政権ぶりは、ほかならぬ憲法が規定する議院内閣制という統治機構のゆえにもたらされているものだ。「国民主権」など絵に描いた餅なんだ。
 それにたいして一九世紀のマルクスが、コミューン型国家の四原則の一つとして「議会風の機関ではなく、同時に執行し立法する行動機関でなければならなかった」(「フランスの内乱」)と問題を突き出していた。そのことがもつ意味を重視していた本多さんは、党大会は議会ではないんだ、「全国大会は同盟の最高議決機関である」という革共同規約の一項は特別の重要性がある、しゃんしゃん大会にしてはならない≠ニ強調していた。レーニンのいう中央集権主義の党は、最高議決機関としてフル展開する党大会を基礎にすることで、じつはもっともよく建設できる。党大会が本来の機能を発揮すれば、党の中央集権主義が盤石のものになる。だから、党大会をしないということは、党の執行部が党員から遊離・乖離し、つまり集権ではなく独断専行することをもたらす。党指導部が一個の権威主義的権力と化し、党全体が〈支配と隷属〉の権力関係にすり替わってしまう。清水政治局体制はそういう政治局絶対化の党をつくってしまった。オレたちはその先頭に立っていたわけだ。
水谷 その通りだね。ブルジョア民主主義者以下だった。「政治局の顔が見えない。そんな党でいいのか」という党員の叫びは、まさに至言だったのだ(第8章第3節)。
 一言追加する。清水が党大会開催にネガティブであったことは敗北本でも書いたとおりだけど、じつは秋山が党大会開催に激しく反対していた。いつだったか、清水は「オレは十数人の会議を開きたいんだが、秋山がそれでは防衛戦争ができない、やめてくれ、と強硬にいい張った」と弁解気味にいっていた。すでに大きな組織的犯罪を犯していた秋山の立場からすると、党大会や十数人の会議を開くことは自分の秘密がさらけ出される予感がして、拒絶したんだ。秋山は自己の秘密の防衛に汲々としていたんだよ。この点でも、革共同を内部から腐らせる役割をした秋山の罪はあまりにも重い。


●三派連合の統一戦線は党≠ノなりえたか

水谷 「組織論における反スターリン主義の不徹底」ということの第二に、われわれ革共同の党建設論は党派闘争と党内闘争の規定をもたなかったということがある。また同時に統一戦線の本質論を欠如させていたということがある。
 レーニン『なにをなすべきか』の扉には「党派闘争こそが、党に力と生命をあたえる。党は、自身を純化することによってつよくなる」というラッサールのことばが置いてある。しかし、その本文では党派闘争と党内闘争それ自体をテーマにしていない。
水谷 そうなんだ。ちょっと話を変えるようだが、他党派で三派全学連時代の旧友が年賀状をくれた。そこには「昨年は久し振りに話せてよかった。党派の鎧がなければ、かくも真率な話ができるものを、と返らぬ後悔が――。」と書かれていた。胸が詰まる思いだった。まったく同感だ。
 一九六〇年代半ばから一九七〇年代初頭にかけてのいわゆる三派・五派・八派時代の他党派のなかには、権力やカクマルにたいしてともにスクラムを組んだ戦友と呼べる人たちが少なくなかった。それがお互いを罵倒し、いがみ合った。あの戦友関係はどうすれば維持・発展できたのだろうか。
 われわれが脱党した後、三派・五派・八派時代の他党派の人々がわれわれをほんとうに温かく迎え入れてくれた。何もいわなくていい、時間がかかっても心の傷を癒せばいい、と激励し支えてくれた。三派・五派・八派時代にお互いに培った人間関係は独特のものがあったのだ、と改めて思ったものだ。
水谷 マルクスの時代の第一インターナショナル(国際労働者協会)は、それ自体がまだ党とはいえなかったが、マルクス執筆のれっきとした綱領と規約をもつ、新たな党をめざすものだった。組織分裂し十余年の短命ではあったが、革命闘争の激闘の過程をとおして労働運動のセンターという以上に世界革命の本部となっていた。また初期コミンテルン(共産主義インターナショナル)は、ロシア革命の勝利を土台にして世界各地の諸党派・諸勢力が結集し、現代革命の第一線の激しい論争をとおして複合的=単一的な世界革命党をめざすものだった。議長ジノヴィエフが第一回大会(一九一九年三月)の席上、コミンテルは十人十色だ、これが新しい党だ、という趣旨の発言をした。
 それらは挫折、失敗し、あるいはスターリン主義的に歪曲されていった。けれども、われわれがめざすべき党は第一インターや初期コミンテルンがめざした同じものに重なるべきであり、それぞれの党派が来たるべき党の一分派として自らを位置づけるという考え方が求められるのではないだろうか。
 レーニン『なにをなすべきか』は、創り出すべき党を構成する分派組織論として読むということかな。
 実際、ボルシェビキは一九一七年ロシア革命の過程でどんどん変わっていった。メンシェビキのコロンタイが結集し、時代遅れとなった古参ボルシェビキを尻目にただ一人、レーニン「四月テーゼ」を熱烈に支持した。一九〇三年のロシア社会民主労働党の第二回大会以来、レーニンと一貫して対立してきたトロツキーがボルシェビキに合流し、混迷する古参ボルシェビキを圧倒してソビエト組織化と武装蜂起を主導した。またレーニンは革命の農業綱領にエス・エルの「土地社会化」綱領を位置づけることで農民革命を鼓舞し、農民の支持を得て初めて蜂起・革命を達成した。だから一九一七年ロシア革命のボルシェビキはもう旧来のそれではなくいうなれば脱ボルシェビキ化した新しい型の党だった。革命的ダイナミズムのなかでの党とは革命的に変貌しうる党なんだ。そうした党だけが革命的蜂起を準備・貫徹してプロレタリア独裁を樹立できるということを、一九一七年ロシア革命は示した。
水谷 だから、あの三派全学連を想起するとき、あそこにめざすべき党の萌芽があったと思うんだ。旧友のことばを借りれば、「党派の鎧のない、かくも真率な人間的組織関係」を発見し、それを培い、育てていく道はなかったのか、と思うね。
 本多さんのことばでいえば、「革命の緊迫化のなかで党―大衆―階級の具体的結合をかちとる」(「七〇年安保闘争と革命的左翼の任務」。後に「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」でも引用)、そのなかでこそ党は創造される。ある固定された党が革命を実現するんじゃない。プロレタリアートの権力獲得のたたかいのなかでそれを可能とする党へと拡大・発展し質量的に変化する党ということじゃないか。清水政治局体制の革共同は、非常に固定化された閉鎖的な組織になってしまい、そうした内的なダイナミズムを喪失していた。それでいて、革共同が唯一正しい、革共同の周りを世界が回っているという革共同中心天動説に陥っていた。
水谷 そうだったんだよ。党概念の地動説へのコペルニクス的転覆が絶対に必要だね。


5 二〇一五年安保闘争は「次は何か」を問うた

●安保闘争は日米軍事同盟との闘い

 戦後七〇年で最大級に重大なたたかいであった二〇一五年安保闘争について、『敗北』と重ねて考えてみたい。
水谷 日本革命・アジア革命において日米軍事同盟とのたたかいが革命戦略の基軸である、このことが再び三度明らかにされたんではないか。安保法制はそれに先立つ四月2プラス2(日米安保協議委員会)で決定された新新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)の国内法化だった。ネーミングすれば日米侵略戦争法制だ。
 この意味で、革共同が歴史的には一九八一年第五回大会において、安保・沖縄闘争という革命戦略の本質的次元で逃亡したことの誤りの大きさを無念の思いで噛みしめざるをえなかった。
 三里塚基軸路線という名目で安保・沖縄闘争から逃亡した。
水谷 忘れてはならないことは、三・一一福島原発事故への怒りと反省をテコとする広範な労働者人民の反原発運動が形成されてきていた新たな政治的・社会的・運動的な土壌の上に、巨大な国会闘争が登場したことだ。一九六〇年代、一九七〇年代の安保・沖縄闘争、反戦運動を担った層がこぞって立ちあがったことの意味は大きい。オレはとくに経産省前テントひろばの存在が安保闘争でも運動センターの役割を果たしたこと、決起した数十万のなかにあってかつてのラディカル左翼たちの存在が歩留まりの高さを示したことは、ほんとうに嬉しいことだ。


●SEALDsの位置と役割

 このなかでSEALDsが、マスコミによるクローズアップの要素を除いても安保国会闘争の前面に躍り出て、牽引役を担った。SEALDs運動の核心点をまとめると、憲法第九条第二項の改定に賛成しているように装いを変えた改憲派である、日米安保肯定派、日米安保体制下の日本の個別的自衛権容認派である、歴史認識においては侵略肯定であり、その意味で反七・七路線派である。政治的には第二改憲論に立っている。それらは、彼らの設立理念やその都度の発言をみれば明らかだろう。SEALDsメンバーが書いた論文、千葉泰真「若者はこの国の政治を変えられるか?」(『Journalism ジャーナリズム』二〇一五年一二月)にもそのへんはよく出ている。そういう運動が若者を捉えたことを、ラディカル左翼の立場からは自己批判的に総括せねばならない。
水谷 SEALDsを総じていうと、保守派青年の決起といっても過言ではないだろう。彼らは反戦運動団体ではなく、戦後体制の秩序を守る運動団体なんだね。本年になって議会制民主主義の補完物になる方向を強めている。
 そのSEALDsを支え共闘してきたのが、レイシストをしばき隊を前身とするCRAC(クラック)だった。彼らは首都圏反原発連合から出てきた人たちでもあった。CRACは反原発を掲げながら放射能による被曝、汚染問題をまったく重視しない。それどころか被曝の被害を訴える人たちを攻撃する。あるいはSEALDsの侵略肯定史観を批判する人に排外主義的・差別主義的な悪罵を投げつける。CRACの構成員には天皇主義右翼も含んでいる。一九六〇年代・一九七〇年代のラディカル左翼、とくに七・七論にたいする強烈な拒否反応をその成立の動機にしている。
 それは、左翼が衰退したという大きな空隙があり、そこに発生したCRACのような支離滅裂な保守的運動体に民衆が体制変革を期待するという事態だった。ファシズム前夜になりかねないという危機すら感じた。


●沖縄の自己決定権行使のたたかいへ

水谷 二〇一五年安保国会闘争は一方では沖縄・辺野古新基地阻止闘争と並ぶたたかいだった。もう一方では、二〇〇七年以来の、二〇一三年以来の在特会の異様な登場とのたたかいが進行してきたなかでの運動だった。二〇一五年は、原発問題を全体のベースとしながら安保問題と沖縄問題と差別・排外主義問題が同時進行するという時代状況だった。さらにいうと天皇・皇后前面化問題が同時進行したことの重大性を看過してはならない。天皇の国家元首化の動きをみすえなければならない。
 そのうち在特会との対決という反差別運動がCRACによって牽引されたという問題は、じつに複雑な難問を提起している。たとえば新大久保コリアタウンでの在特会のヘイトスピーチデモ=襲撃に際して現存の新左翼党派はどこも駆けつけなかった。差別・排外主義とのたたかいの戦場を反七・七路線派であるCRACに乗っ取られたといわなければならない。ここに左翼の危機、日本階級闘争の深刻な主体的危機がある。
 その通りだね。沖縄問題だけど、沖縄県民自身がかちとってきた沖縄闘争・辺野古闘争のグレードアップはほんとうに偉大なことだ。やはり安保闘争はイコール沖縄闘争なんだ。沖縄が本土の階級闘争の危機を救い、たたかいをリードし、安保闘争全体を決定的に励ましている。
 革共同は本多さんを先頭にして「沖縄問題は独特の民族問題の契機を含む」と位置づけてきた。その問題が本土復帰以後の段階において決定的に現実化してきたのが翁長雄志知事登場だといえる。沖縄の自己決定権行使が現実のものになっている。これは沖縄―日本の近現代史において初めての事態であり、前人未到の試練に挑戦するものだ。
水谷 二〇一五年安保闘争は「次は何か」を突き出した。皆さんの総括から学びながらさらに考えていきたい。
 時間がきたので今日はこれまで。またやりましょう。
水谷・岸 『流砂』の貴重な誌面を割いていただき、御礼申し上げます。『敗北』を読んでくださった全国の皆さん、ありがとうございます。ぜひとも厳しいご批評をお願いします。

  (おわり)
INDEX
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