《当サイト管理者から》
 革共同再建協議会、いわゆる関西派の理論機関紙『展望』第18号(2016年7月刊)に同派前議長・橋本利昭氏の「革共同私史」が掲載された。橋本氏は同派最古参という位置から、「体験に裏打ちされ、真摯な自己反省に立った」「革共同の歴史を叙述」するとした。しかし関西派内外では、「随所に『革共同政治局の敗北』からの盗用がある」「橋本氏は一貫して関西地方委の最高指導部だったのに、自らの責任への言及、反省、切開が何もない」「橋本氏は結局、上意下達の見本でしかなかった。それを問わず語りに認めている」など、辛辣な批判が出ている。
 全体として表面をなぞるだけとなっている。「対カクマル戦」を「対カクマル闘争」と言い換えるなど、カクマルとの戦争の清算主義が強いこと、80年代・90年代の三里塚基軸路線や五月テーゼへの総括がないこと、自らが先頭に立った「06年3・14決起」についてトーンダウンしていること、党組織論では何のための党なのかという点が欠如していること、等々が特徴としてあげられる。
 その中で橋本論文のほとんど唯一のオリジナリティーは、権力スパイの荒川碩哉を「シロ」であると断定し、「彼の名誉回復の闘いを断固支持する」とした点であろう。16年2月に同派首都圏委員会の「荒川=白」との見解が出て、この度は橋本論文を正式に機関誌に掲載した(文末の「編集後記(関連部分)」を参照)ことからすると、関西派が組織として「荒川を支持する」と決めたものとみなし得る。そうであるなら、ことがスパイ問題なのだから、関西派としての党派声明がない、というは無責任きわまる。関西派にとって対権力の関係はことほどさように軽く、いい加減に済ませていいものなのだろう。いずれにせよ、橋本論文は関西派が公に権力のスパイと手を組んだ証と批判されても仕方ないであろう。


革共同私史

付)「編集後記」(関連部分)

                                     『展望』第18号(2016年7月)掲載

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 自分史と結びつけて、革共同(革命的共産主義者同盟)の歴史を書くことを試みたい。新しい党や運動をつくるには過去の何を継承し、何を乗りこえるべきかを明らかにする必要があると思うからである。
 「自伝を書くような人は革命家ではない」というトロツキーにたいする批判がある。単なる党派の歴史、個人の歴史を書こうとは思わない。階級闘争全体の視点をもって書きたい。体験に裏打ちされ、真摯な自己反省に立った過去の叙述は、過去の言葉を借りて、現在と切り結ぶものがあると思う。
 党も運動もつまるところ担うのは個人である。個人の体験や思いを大事にする。党派を異にする人からであれ、戦闘的労働者やインテリゲンチャの営為からも学び、世代を異とする人たちにも届くようにしたい。

                                                橋 本 利 昭

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第1章 創成と加盟


私にとっての革共同

 私は、高校生のとき、60年安保闘争を経験し、62年に大学に入学した。革共同の創設や60年安保闘争を身近に感じる位置にいたが、 50年代から60年安保闘争を闘った人たちとはもちろん、70年安保・沖縄闘争を闘った人たちや、それ以降運動に参加した人たちとは異なった体験と思想遍歴を経ている。世代論で思想や党派選択を論じても成功しないと思うが、私の以上の経歴を抜きに、思想形成も党派選択もなかったことは確かである。
 革共同とは何か、何であったか? 創成期の革共同(全国委員会としてカクマルとの分裂の前後)にたいする私の受けとめは以下のようなものであった。
 戦略戦術のブント(共産主義者同盟)にたいして、思想と組織の革共同というのは、60年代前半の当時いきわたった評価であった。さらに60年安保後には総括をきちんとする党派で通っていた。70年代以降はこの「伝統」と美点は喪失したとしか思えない。1975年3月14日以降の対カクマル闘争への本格的突入では総括などを主張する者は絶えてなかったし、80年を通して対カクマル闘争主軸の局面(P1) から対権力闘争を主軸とする局面(P2)への転換でも総括はなかった。91年の5月テーゼの提起に当たっても、2001年の第6回大会でも、階級・大衆に通じる総括は出せなかった。「転換」だけが恣意的に強調されたに過ぎない。
 革共同の特質として当時強調されたのは「自分の頭で考える」ことであった。そういった特質は総括だけでなく、階級闘争の実践の中でも生きていた。
 私が、中核派と革マルの分裂後に、中核派を党派選択したのは、戦闘的労働運動の防衛と地区党建設、統一戦線の推進という3全総(革マルとの分裂の契機となった1962年の第3回全国委員会総会)の路線に共鳴したからである。
 それまでの革共同の活動スタイルであった、学習会などの積み上げによるケルンづくり+反ダラ幹闘争などに自己限定せず、労働運動の責任党派として登場する。そのために、民同や日共など他党派が主導する運動であっても、そこに階級的闘いがあるならば、革共同の党員はその防衛の先頭に立つということである。学生戦線における統一戦線の推進も同様の発想に立つものであった。現在、江戸川に本社をもつ革共同自称集団(安田派)は、この3全総路線を投げ捨てている。情勢は異なり、力関係は異なっても、3全総路線こそ私にとって原点であり、投げ捨てることはできないものである。
 革共同が、国鉄新潟闘争や三井三池闘争などの戦闘的労働運動を継承発展させる方針を持ったこと、および64年、65年の2度にわたり、革命的左翼の全党派を結集した反戦集会を大阪で開催したこと(日韓会談反対、ベトナム侵略戦争反対、憲法改悪阻止などを掲げ、1600人を結集)が、当時、運動を始めたばかりの私にとって大きな意味を持った。


イスト(共産主義者)として自己確立する契機

 イストたらんと、いつ、なぜ決断したのか? その究明が、1人ひとり大事である。私の場合は、次の3つの契機があった。
 第1に、大学入学直後の62年、63年の諸闘争を1人の大衆活動家として闘ったことである(憲法公聴会反対闘争、米ソ核実験反対闘争、大学管理法反対闘争など)。
 第2に、中学生時代のM先生の影響とそれと決別するうえで、米ソ核実験反対闘争と「反帝国主義・反スターリン主義」の綱領的スローガンの意味は大きかった。
 第3に、当時の中ソ論争に逐一対応して、マルクスやレーニンの古典をむさぼり読むことが重要な契機となった。初期マルクスとともにサルトルやフロイトなどをさかんに読んだ。それまでは高校生の時に毛沢東の「実践論」、「矛盾論」を読んだ程度であった私にとって知的世界が開けた思いは大きく、図書館とデモに通う日々であった。
 M先生は、世界史の授業を、パリ・コミューンとロシア革命だけやって、「後は教科書を読んで自習しておきたまえ」というような人であった(勤評が実施される前にはこういった教師がかなりいた)。
 このM先生は、フルシチョフのスターリン批判が商業紙で最初に報じられたとき、「帝国主義によるデマだ」と言い、それが事実であると分かっても、「それでもスターリンは正しかった」というような人であった。こうして、「社会主義」とソ連にたいする憧憬は、私の中に大きな位置を占めていった。これに初めて疑問が生じたのは高校生の時の安保全学連の闘いであった。サークルや生徒会に大学生のオルグ(組織者)が来ても当時は受け入れる態勢になかったが、共産党や社会党に代表される既成左翼に初めて疑問を持った。


戦争責任と戦後民主主義にたいして

 M先生は、日本史の授業で、黒板に、聖徳太子が小野妹子に託して隋の皇帝煬帝に宛てた「国書」を書いて意味を説明したことがある。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや、云々)というものである。
 当時クラスの級友の多くは、この説明に快哉を叫んだ。しかし私は釈然としないものを感じた。後にこのような歴史観が「国民的歴史学」という日本共産党系(所感派)の歴史学会の見解であることを知った。私が釈然としないものを感じたのは、敗戦後の対米コンプレックスを対中国のナショナリズムで代償するねじれた心性にたいしてであった。
 侵略や排外主義、植民地支配にたいする批判が明確であったわけではない。しかし戦争責任にたいする批判は幼い時から感じていた。それは、私にとっての戦争の原風景が関係している。父がビルマに戦争で行って英軍の捕虜になり、計5年間も帰らず、帰ってきたとき、私が、「どこのおっちゃん」と言ったと後で聞いた。そんなことも関係していると思う。
 戦後民主主義や戦後憲法には中学生の時からうさんくさいものを感じた。理由は戦争の反省が明示になされていないことと、天皇制に無批判であることであった。小学生のとき天皇の行幸に説明もなく旗を振らされたらしい。また「日の丸・君が代」に共産党の教師すら応じていたことの記憶がある。このようなことへの反発が関係していると思う。逆に、戦後民主主義や戦後憲法の「個人主義」にたいして反発する家族主義、共同体主義の古い感覚も含まれていたと反省して思う。ブルジョア的でない個の尊重は大事なことである。
 統治形態としての「民主主義」の限界や欠陥は明らかである。とくに決定と遂行を統治者に委ねる委任民主主義はろくでもないものである。しかし改めて考えると、民衆の自己決定、自己組織化としての「民主主義」は大事である。革命党や革命的権力機関の個々の行為もそれを基準に判断すべきであろう。
 62年?63年の京都大学の教養部のクラスでは、「平和共存か、革命的反戦闘争か」「一国社会主義か、世界革命か」などを、中ソ論争の諸文献やトロツキー選集を持ち寄ってクラスで討論する雰囲気に満ち溢れていた。そのような大衆的議論の沸騰の中で運動主体の形成があった。私がマルクス主義学生同盟中核派と革共同に加盟したの は、「そこに革共同があったから」などというものではなく、60年安保闘争の運動が分裂や衰退せずに続く京都の学生運動の中で、ブント、日本共産党(後に構改派や中国派に行った部分を含む)、第4インターなどの党派が存在するなかでの意識的選択の結果であった。ソ連社会とスターリン主義にたいする批判はこのころまでに明確に なっていた。ただ本当の意味での旧ソ連の労働者人民、日本とアジア人民の立場に立った内在的批判は今後も継続的に深化していかなければならない。


反帝国主義・反スターリン主義と米ソ核実験反対闘争

「米ソ核実験反対」闘争は、単純な両体制同時打倒論でも、いかなる国の核実験にも反対の一般論でもなかった。運動の実践的展開のなかで、やむにやまれぬものとして生まれたものである。
 61年8月、原水禁世界大会は、日本共産党の主導で、「(今後)最初に核実験を開催する国は、人類の敵として糾弾されるであろう」というアピールを採択した。その直後の8月30日、ソ連が核実験を再開すると発表、10月には50メガトン級の水爆実験を強行した。日本共産党は、ソ連核実験支持の大々的キャンペーンを展開した。「ソ連の核実験は平和の目的」「ソ連の核実験から出る死の灰はキレイ」などというデタラメ極まるものだった。
 私が革共同の運動に参加した当時、「反帝国主義・反スターリン主義、社共に代わる労働者党をつくろう!」という呼びかけは、鮮烈な意味を持った。単なるセクト的区別建てのための紋章とは違っていたのである。
「反帝・反スタ」は直接には、第4インター(革共同関西派)の「労働者国家無条件擁護」にたいするものであった。同様に、「職場・生産点に社共に代わるたたかう労働者の党をつくろう」というスローガンは、独自の党的結集方針を放棄した第4インターの加入戦術への批判としてあった。
「反帝・反スタ」は全国委員会の独占物ではなかった。安保ブントの書記長・島成郎など、60年代にもブントのかなりの部分がこの綱領的スローガンを掲げていた。長崎造船社会主義研究会などもそうである。同時に、このスローガンは閉ざされた綱領ではなく、「開かれた体系」として位置づけられていた。逸話を紹介すると、キューバ革命について「スターリン主義革命」と言ったカクマルにたいして、 革共同の本多延嘉書記長は、「未完結なものに完結した規定を与えるな」と言ったと聞いている。
「反スタ」は同時に反省規定でもあった。すなわち、スターリン主義を、「国際共産主義運動の疎外態」として内在的に批判する視点であった。スターリン主義の発生を許したことを共産主義者の自らの責任としてとらえる視点を欠いた外在的批判は役に立たない。
 私は、「反帝国主義・反スターリン主義」が永久不変の綱領などという立場には立たない。現代世界認識と国際共産主義運動の総括を踏まえた、より的確なスローガンをわれわれは求める。その場合も、「反帝国主義・反スターリン主義」が当時持っていた豊かさと深さを再生して、盛り込まなければならないと考える。


第2章 70年安保・沖縄闘争


10・8羽田闘争以降の激闘

 70年闘争の前史として、ベトナム反戦、日韓会談反対の闘争があった。この闘いは、70年代以降の7・7自己批判の立場にも引き継がれていく。
 米帝のベトナム侵略戦争にたいし、日本の労働者は総評のゼネストという形で抗議した。全学連・反戦青年委員会と革命的左翼は、侵略戦争への加担、日本の出撃基地化を弾劾して、「この米侵略機をベトナムに飛ばすな」というスローガンを掲げて、沖縄基地、王子野戦病院、米空母エンタープライズ佐世保入港阻止、三里塚闘争を闘った。
 また日韓会談反対闘争においては、社共が、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を排除した韓国だけとの条約締結の面だけを反対の理由にしたのにたいし、日本の36年間の植民地支配、とくに土地調査事業による土地取り上げから、朝鮮語の使用禁止や創氏改名、強制連行、3・1独立運動までの広範な植民地支配、民族抑圧と植民地収奪の歴史を学び返し、南朝鮮人民の日韓条約反対運動との連帯を明確にして闘った。ブント系の諸君が戦後の経済進出を問題にしたのにたいして、この時の革共同と中核派の立場は重要である。戦争と植民地支配(戦後の新植民地支配を含む)をテーマとするうえで、日本の (労働者人民を含めた)戦前以来の加害性を問題にしたのである。


60年安保闘争と比較した70年安保・沖縄闘争

 2015年、戦争法案反対闘争の歴史を画する高揚の中で、それに好意的なマスコミや学者も多くは、60年を押し出して、70年を無視した。しかしここで、70年闘争の意義と限界をはっきりさせなければならない。
 なによりも、60年と70年を、グローバルに一体でとらえる必要がある。とくに60年闘争は相当の程度、日本に特殊的であるのにたいし、70年闘争はグローバルな運動の面が強い。60年闘争にあたるものはヨーロッパにはない。しかし韓国では李承晩を打倒した学生の運動があった(「4・19革命」)。60年4月の安保条約改定反対のデモでは、「韓国の学生に続け」というスローガンが登場した。また植民地・ 新植民地主義体制諸国ではキューバ革命とアルジェリア革命が先行している。
 60年と70年の2つの闘争の中に、今日の階級関係を規定する要因がある。日本的には、60年は経済的高度成長の始まりの時代であった。それに比べて、70年はその終焉(の予兆)の時代で、前後を画する。ともに「55年体制」と闘った。支配階級の側は安保の双務化と自主憲法制定、日本の再軍備が目的であった(50年代の鳩山も岸も、70 年代の佐藤も)。
 60年と70年を連続・一体の闘いとして、「反乱の60年代」と位置づけると、革命的左翼と革命的共産主義運動の創成は、ヨーロッパとくにフランスでは1968年5月革命によってであるのにたいして、日本では1960年闘争の過程であった。世界的にはトロツキー反対派的存 在しかなかった段階で、日本の革命的共産主義運動は誕生した(世界史的意義)。30年代の敗北(しかもまともに闘わずに)と、戦時中の抵抗の不在(エピソードでしかない)、さらにトロツキー反対派の不在という「負の歴史」を逆転的にのりこえたのは、50年代と60年代の先輩たちの闘いであった。夜郎自大ではなく、1960年直前に創設された革命的左翼の世界的先進性、アナーキズムやトロツキズムと異なる新しい共産主義運動の意義を再確認できる。
 60年、70年を通じた革命的左翼の役割は、日本の政治運動、政治党派で初めて日本帝国主義(日本政府、日本ブルジョアジー)を主敵として終始一貫闘いぬいたことにある。対米従属論や、米対中ソの代理戦争論にぶれることがなかった革命的左翼のあり方が今日的にも重要である。
 もうひとつの教訓は、大衆的支持と共感に支えられた闘いは、一時的に少数であり孤立したとしても、時代を先取りすることができる。その場合、独りよがりや代行主義に陥らない保証は、ラデイカルな (根源的な、あるいは根底的な)現状批判を持っているかどうかである。


「1968年世界革命」論について

 60年と比較して70年闘争の意義は、60年が持っていた国民運動とその急進派という構図を打ち破り、革命的左翼が職場・学園闘争および街頭闘争の主体として公然と登場し、国際連帯を意識化して闘ったところにある。70年安保・沖縄闘争を、世界史的・世界大的に見る必要がある。「68年革命」とは欧米などの学生運動が高揚した時点を指した名称であるが、1975年のベトナム革命から1979年のイラン革命などの後進国、新植民地体制諸国の巨大な民衆決起を含めてとらえるべきであろう。
 他方で、「1968年」は「革命」などとは言えないという人もいる。経済危機や資本蓄積の行き詰まりがまだ顕著に表れていないこと、権力の階級間移動という意味での「革命」でなかったことを指して言うのである。しかし1848年革命も、1871年のパリ・コミューンも、現在 では、「革命」と言われる。革命とは階級間での権力の移動があったかどうかや、前提としての経済危機や破局があったかどうかを指標とする古い考えは破棄しなければならない。労働者人民が全人民規模で決起したかどうか、新しい社会の萌芽を模索、希求する動きがあったかどうかを軸として規定すべきと思う。世界的にスターリン主義体制にたいする幻想がかなりの程度払拭されていたことひとつをとっても、この世界的人民決起を「革命」と呼んでもいいと考える。
 他方で、「1968年革命」の世界的限界もある。70年闘争を無視することの誤りに踏まえて、世界的な限界をおさえておくことも重要であろう。
 まず世界的にはスターリン主義(の幻想)がまだ完全には崩壊していなかった。とくに毛沢東・中国にたいしては、革命的左翼が毛沢東主義に転向した総括をきちんとする必要がある。
 さらには、資本主義・帝国主義も高度成長の最終局面にあったことも踏まえておくべきであろう。そこで生み出された労働者・農民・学生・被抑圧民族人民の巨大な自然成長的運動の意義と限界について踏まえる必要がある。
 さらに革共同の国際主義の限界である。アジア、それも東アジアの労働者・農民との連帯に限定されていた。中東・イスラム圏や先進国の労働者人民との連帯をいかに形成するのかという現代的課題が問われている。


「沖繩奪還、安保粉砕・日帝打倒」

 革命的左翼の全潮流が、「安保粉砕・日帝打倒」を掲げた。日米安保同盟が日帝の存立条件であり、戦後世界体制の全矛盾がこの同盟関係に集中しているという基本認識においては共通していた。革共同は、66年第3回大会で戦後世界体制の根底的動揺の開始と日本帝国主義の危機の深化ととらえ、70年闘争への準備を完了した。革共同はさらに、沖縄の分断軍事支配にたいする沖縄人民の闘いを日本革命の不可欠の課題として包摂する「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」のスローガンを掲げた。今日的には、沖縄の自決・自己決定の闘いにたいするより深化した立場が要求されるが、当時の沖縄人民の基本的要求を受けとめ、「本土」でこのスローガンで闘った意義は大きい。
 70年闘争は沖縄、国鉄、大学の3つ領域で闘いを爆発させた。労働運動的には、70年安保・沖縄闘争と一体で闘われた国鉄反マル生闘争に勝利したことが、70年闘争の核心の1つをなしている。これを基礎に街頭における反戦青年委員会運動の発展を切り開いた。同時に、大学闘争においては、「真理の大学の回復のために」という提起があって、学問や大学のあり方を真剣に考えるという契機を重視し、その中から「帝国主義大学解体」というスローガンが生み出された。
 70年闘争の過程で、われわれは抑圧民族である(現にあり、過去にもあった)日本人民の内部で闘うものとして、同時に共産主義者としての立場から、華青闘(華橋青年闘争委員会)からの糾弾を受けとめ、 7・7自己批判を行った。民族問題、差別抑圧の現実と闘う共産主義論としてこの自己批判の立場をどう発展させるかが今改めて問われている。なによりも世界革命の主体として被抑圧民族人民を措定することである。それと日本の帝国主義的な侵略と植民地化の歴史と現実を知り、被抑圧民族人民の存在と闘いに学ぶことが問われている。さらに実践的に支援・防衛・連帯のために、具体的な在日被抑圧民族人民の存在と闘いの防衛としての地域闘争と、入管攻撃を政治的にうち砕くための全国政治闘争との「両輪論」をうち出したのである。
 いま、革共同を名のる諸君の中に、このような立場を「血債論」「贖罪論」と呼び、それを「反革命」と規定する諸君がいる。これこそ、被抑圧・被差別人民を世界革命の主体と措定できない歪小な「労働運動」主義である。このような立場をもたらした原因はさかのぼれば、 革共同政治局員であった清水丈夫の血債論にたいする利用主義にある。機関紙「前進」666号(1974年1月14日号)阿部繁(清水政治局員のペンネーム)論文「狭山闘争への反革命的介入ねらうカクマルを血債にかけて粉砕せよ」なる論文では、初めて「血債」という言葉を使いながら、その内容についての説明や受けとめがなく、ただただ「対カクマル戦争」のために利用する立場で書いている。かつてのわれわれがこのような卑劣で間違った立場に陥っていたことを厳しく総括し、「7・7思想」の再々確立のために闘わなければならない。
 70年闘争の過程でわれわれは三里塚闘争への取り組みを開始した。軍事空港論、農民解放闘争論、現地闘争・現闘の組織化など未開拓の分野を切り開いた。とくにわれわれがそこで確立した労農同盟論は、「小所有者としての農民に階級移行を促す」といった傲慢なものではない。労働者・学生が自己犠牲的に闘うことで、まず農民の信頼を得るところから始まるのである。


大衆的実力闘争と党派軍団化の問題

 大衆的実力闘争の端緒的試みを総括することが大事である。マッセンスト(大衆ストライキ)か街頭での実力闘争かという論争があった。社会的反乱の条件形成(革命的階級形成)と大衆的武装闘争の発展の契機を対立させるべきではない。現に革共同は、70年闘争において、両者を相互媒介的にたたかいぬいた。独自の武装闘争の発展 はその1契機として位置づけるべきである。70年闘争では、革命的左翼の諸潮流は実力闘争の自立的展開にこだわりすぎた。「敵に臆せず、敵から離れず」といった武装闘争の大地性にたいする配慮、観点が希薄であった。
 他方で、今日の日本共産党は50年代の武装闘争をなかったことにするうえに、闘った党員・戦士を見殺しにし、ひどい場合は党内の査問でスパイ呼ばわりするようなことを積み重ねてきた。他方での、70年闘争について、「結局、自分たちの闘いはテロリズムであった」としてなんの痛みもなく、清算する総括が革命的左翼の中にある。これでは大衆的実力闘争は組織できない。
 各大学全共闘や各地区反戦がほとんど個人加盟制であったことを強調する見解があるが、事実を必ずしもとらえていない。全共闘と反戦が党派の軍団化の影響を受けて囲い込みの水路になっていた。日本において初めて大衆的実力闘争を闘う党派軍団が生まれたことはそれとして意義があるが、現実にはそれが大衆的実力闘争の発展にとって阻害要因になっていったのである。ちなみに党派軍団化は、革命的左翼の諸党派の中で、革共同が一番遅れた。早かったのは、第4インター、解放派、ブントが(この順で)先んじ、中核派が一番遅れたのである。
 私の個人的体験として、69年11月決戦の過程で、爆取(爆発物取締罰則)で逮捕されている。60年代以降の階級闘争では新しい地平であった。爆発物取締罰則とは明治の自由民権運動を圧殺するために太政官布告でできた法律である。違反した場合の法定刑が「死刑又は無期若しくは7年以上の有期懲役又は禁鋼刑」と、著しく重い。天皇制の延命のためのこの「法律」が戦後憲法の下でも合憲とされ、生き延びた。ところが私は、この事件で起訴されたときは、爆取ではなく火取(火薬類取締法)違反であった。通常の罰則は1年以下の懲役刑である。私は、このなかに、大衆的実力闘争の発展と結合して爆弾が使われることにたいする国家権力の恐怖が表れていたと思う。爆発物取締罰則をめぐって、権力と労働者人民が運動と裁判の両面で全面的に争うことになることへの、権力の側のたじろぎがあると感じた。
 革共同の本多延嘉書記長の「暴力論」(著作選U所収の「戦争と革命の基本問題」「暴力の復権のために」など)を、われわれが武装闘争一辺倒になったこと、および「内ゲバ」への契機をなしたととらえる見解がある。時代風潮的にはそうなった面があることを認めたうえで、内容を再吟味することで、暴力が国家の反革命的暴力や、戦争およびプロレタリア組織間の暴力として発現することを阻止する論理を反省的に打ち立てたい。
 本多書記長自身、対カクマル闘争の過程において、カクマルと見誤って在日青年を攻撃し、傷つけてしまったことにたいし、その全責任を認め、当事者、家族、友人、仲間、60万在日朝鮮人民に謝罪し、つぐないのためのあらゆる努力をはらうことを誓っている(「本多延嘉著作選第4巻』所収の「戦略的総反攻――その勝利の展望」)。
 このように、本多暴力論は単純な暴力賛美論でも、技術的手段論でもない。暴力を人間の本質、共同性に内在的なものとしてとらえたところに核心がある。こうとらえることによって初めて、革命的暴力を階級の自己解放性の表現ととらえることも、革命的といえない暴力の発動を抑制することも、可能になる。
 日本共産党やカクマルが自らの暴力を「敵の出方」論や「革命的暴力」論で合理化する論理である、「暴力=手段」論は、暴力を人間的本質ときりはなし、技術的に統制できるものであるようにとらえる。 政治の延長であり、経済的(社会的・技術的)基礎に規定されている暴力を、階級・大衆の自己解放的な闘いときりはなし、自由に操ることができると考えることが、暴力の発動や抑制について腐敗を生むのである。カクマルのように、「組織的に」行使された暴力が「革命的」というなら、帝国主義の正規軍が一番革命的であることになる。
 結論として、非合法・非公然の闘いや武装闘争を階級闘争の発展から切り離して自立的にとらえるのではなく、階級闘争、大衆闘争の発展に内在してとらえることが、とくに必要であると考える。他方で、革命運動を国家権力奪取に解消する誤りを指摘するあまり、国家権力の存在を無視し、国家権力の打倒と死滅を目ざす闘いを放棄することは、プロレタリア自己解放の事業としての共産主義の放棄につながるものである。


第3章 70年代・80年代の総括

 困難な時代を総括することは困難である。しかし新しい共産主義を打ち立てるためには70年代、80年代の痛苦な総括が不可欠である。それはかならず階級の自己組織化に役立つものである。たんなる清算主義や「なかったことにする」ではなく、この時代にまともに向き合う必要がある。


対カクマル闘争

私にとっても、われわれ全体にとっても、対カクマル闘争を決意し、改めてカクマル認識(「K= K(警察=カクマル)連合)規定、後に 「カクマル=反革命」となる)をもった原点は、71年12月4日である。この日、関西大学のバリケードを襲撃したカクマルが、世にもまれな残虐さで、辻敏明・正田三郎の両同志を虐殺した。参加、現認した活動家全員が心身に深い傷を負った。他方で、カクマルを打倒するだけで人生を終えていいという膨大な活動家を生み出した。当時、われわれは、71年10月から11月にかけて、沖縄闘争の渋谷―日比谷を頂点とした激しい闘いで、2000人以上の逮捕者を出し、戦闘主力を奪われたことに重ねて、国家権力は破防法を発動し、屋内集会すら禁止するという超戒厳体制のもとにおかれていた。そのとき70年闘争から逃亡し、「戦力」を温存したカクマルは、満を持してこの時を待ち受け、革共同攻撃に絞って、準備を重ねてきた兇行を行使したのである。
 もうひとつ重要な節目に、72年9月17日、慶應日吉校舎での事態がある。この日、カクマルは青へルをかぶり、社青同解放派の隊列と見せかけて奇襲し、中核派の学生をめったうちにした。それ以前にも、70年8月、法政大学で中核派に変装して中核派学生数人を襲撃したことをはじめとして、72年驚谷で、73年、74年には法政大学に数度にわたって、同様の卑劣な襲撃をかけている。これらも「カクマル= 反革命」規定をおこなう契機となった。
「中核派がカクマルにたいする内ゲバの引き金を引いた」とされる 70年8月3日の海老原問題について真相を語っておく。当時8・6ヒロシマ反核闘争に向けて街頭宣伝をしていた首都圏の中核派の学生たちが、街頭カンパの先々で連日カクマルに襲われ、名簿・金を奪われた。しかも決まってカンパ集約の時だ。この日、池袋の現場に、東京教育大のカクマルNo2と言われていた海老原俊夫が通りかかった。当時の中核派メンバーの怒りは抑えることは困難であったとしても、海老原がその後、死に至ったことにたいする指導部の責任は重い。
 私のカクマル認識に今一つ重要な転換をもたらしたのは、74年12月1日のカクマル関西中枢殲滅戦闘の現場に、カクマル指導部が所持していた、『北支の治安戦』(1・2)(防衛庁防衛研究所戦史室編集、朝雲出版社出版)とその研究ノートがあったことである。同書は、日中戦争での旧日本軍と中国軍(国民党軍・紅軍)の間の相互の政治・軍事戦術を主に日本軍の側から分析したものである。当時、日本軍(「皇軍」)は、政略・戦略・謀略を合わせて3略と呼び、中国人民にたいする 「戦争」に主に「謀略」で勝つことを追求していた。そのため自らと中国軍の双方の謀略戦術を集大成したものが本書である。カクマルはこれを丹念にノートにとり研究していた。カクマルの反革命的執念に驚愕するとともに、中国人民を謀略で圧伏できると考えた旧日本軍の浅はかさと同じものをカクマルに見いだすことになった。
 その後の考察を通じて、カクマルの「謀略」の主要な手段が、盗聴とスパイ政策の意識的採用であることが次第に判明した。盗聴は権力の手口をまねた電話盗聴であり、スパイ政策は職場やキャンパスに 「クサ」のように埋め込むだけでなく、革共同の基本組織である地区党の中に計画的に潜入させることもあった。われわれが摘発した最大のスパイ、北方正昭は当時大阪の最大の地区党であったH地区党の指導部の1人であった。これを粉砕したことをカクマルが党内闘争や分派闘争であったというのは虚偽である。激しい闘争の中でも 当時のメンバーが命を懸けて実行していた機関紙拡大闘争に、この男が1度も取り組まなかったことにその証左がある。


「カクマル=反革命」規定

 黒田哲学ゆえにカクマルは反革命(に転落した) という考え方に反対である。それなら革マル派は最初から反革命であったことになる。2001年の革共同6回大会では、「黒田哲学を批判しきったから対カクマル闘争は勝利した」と強弁した。現に、第6回大会の報告決定集は、300頁以上が黒田哲学批判に当てられている。黒田哲学ゆえに革マル派は反革命に転落したのではないし、黒田哲学を批判すればカクマルに勝利できるものでもない。
 革マル派は、本質は小ブル自由主義であって、それが70年安保・沖縄闘争からの逃亡と敵対をもって反革命に転落したととらえるべきである。社会主義を名のり、労働者政党を名のる集団が反革命に転落することは歴史に例が多い。ナチスは、「国家社会主義ドイツ労働者党」という紛らわしい党名を掲げていたし、イタリア・ファシズムは、イタリア社会党のもっとも急進的な分派から発生した。
 反革命が台頭したとき、革命党が武装して闘うのは当然である。その決断によってわれわれは革命的共産主義運動と階級闘争を守り抜いた。対カクマル闘争を、「やるべきでなかった」とか、「なかったこと」にして見すえない人々に言いたい。70年代前半、われわれと解放派がカクマルに掃滅されていたら、日本の階級闘争はすさまじい閉塞状況に陥ったであろう。当時の早稲田大学の情況を思い浮かべればわかる。30年代から40年代にかけてのスターリン独裁体制やナチス支配下のドイツを考えればわかる。それでも闘う方法はあったというのは言い訳にもならない。
 しかし「先制的内戦戦略」という形で、対カクマル「戦争」の延長上に革命があるかのような過大な位置づけを与えたことは間違っていた。対権力の闘いと対カクマル闘争を分離していずれも段階的に防御→対峙→反攻と発展するという考え方は間違いであり、しかも政治的包囲や全人民的反撃をほとんど考慮しない闘い方は最悪であった。階級闘争全体に責任を持つ立場から言うと、対カクマル闘争の戦略化、戦争化は、一種の「内ゲバ革命」論というべきものに行きつく。
 以上2点の総括と反省から、われわれは、今日のカクマルですら、共同闘争の一翼を担うことを、彼らの存在ゆえに、拒否したり、排除したりはしない。現に、すでにいろいろな場面で共闘することがある共産党にたいして、われわれは「スターリン主義反革命」という規定を撤回したわけではない。この点では、ナチスと闘うためには、悪魔とさえ手を結ぶと言ったトロツキーの言を学ぶべきである。統一戦線とは紙に書いた政党間の協約によって成立するという考えからは発想しにくいことであろうが、全階級・全人民を結集する統一戦線とはそのようにして形成されるべきである。
 対カクマル闘争を「内ゲバ反対論」の立場で批判する人々に言いたい。対カクマル闘争を「内ゲバ」と規定することにあえて反対はしない。革マル派が、革命的共産主義運動の中から発生したこと、および反革命に転落した背景と原因にはわれわれ革共同や中核派の責任もあるからである。60年代の党派間闘争の節操のなさ、例えば64年の7・2事件で早稲田革マル派を攻撃したことなどは明らかにそうであった。階級的正義と運動の大衆性、自立性(あえて言えば「プロレタリア民主主義」)を破壊する党派間闘争が、階級闘争を毒する最大のものであることをわれわれは反省的に確認するものである。
 そのうえで、「内ゲバ反対」論をとる人々が、カクマルが70年安保・沖縄闘争や当時の大学闘争に敵対し、バリケード破壊集団として登場したこと、国鉄分割・民営化の先兵となったJR総連カクマルの存在を批判しないのはどういうことか? 労働組合だから許されるとか、生き延び方として理解できるなどというのは独善的な弁解である。これは黒田寛一や松崎明の人格や思想とは別のことである。階級闘争には超えてはならない一線があるのである。


70年代〜80年代全体の問題

 総括の基本視点としては、20年以上の期間、非合法・非公然体制を維持し、世界革命史上でも激烈な闘い(戦い)を闘いぬいたことを第1に挙げる。この過程で、権力もカクマルも、あらゆる弾圧・攻撃・謀略の手口、手段を出し尽くし、労働者人民がそれを教訓化し、のりこえる経験を蓄積した。そのなかで、われわれは、極限的閉塞、階級の大地からの長期の断絶が新たな抵抗と反撃の芽を大事にする志向と運動を生み出したことに着目する。戦闘と非合法・非公然の経験蓄積を無駄、妨害物としてネガにとらえるのではなく、根底から抉り出し、新たな革命運動の資産とする。そのためには、清算主義と激しい戦闘過程からの逃げとしての総括ではなく、国鉄・三里塚・狭山闘争のもっていた全階級的意義を今日的に明らかにする必要がある。しかしながら、対カクマル、対権力の激烈な闘いのなかで、貫き通した国鉄闘争をはじめとする労働運動へのかかわりの問題性、および沖縄闘争や入管闘争の完全放棄は真摯に総括しなければならない。
 他方で、この期間の闘い方の問題点としては、階級闘争・革命運動全体に目が向かない内向きの姿勢、党にたいする物神崇拝的あり方と腐敗した官僚主義、逆にすべてを自分で考えない党依存主義、セクト主義と階級闘争の閉塞状況などを、われわれ自身がつくりだしたものとして総括することが必要である。
 70〜80年代の「3大テーマ」として以下の3点がある。
  (1)現代戦争テーゼ→以下に問題点を述べる
  (2)先制的内戦戦略→対カクマル闘争を路線化した問題性(先述)
  (3)非合法・非公然体制の問題性→後述
 その中で76年に提起された現代戦争テーゼは以下のようなものであった。

「帝国主義が帝国主義であり、スターリン主義がスターリン主義である限り、帝国主義の侵略戦争、帝国主義間戦争、帝国主義とスターリン主義の一部または全部を巻き込んだ国際戦争―世界戦争は不可避であると言わなければならない」(1976 年『前進』新年号無署名論文)

 一読して分かるが、当時、ありうべき戦争を羅列しただけである。 肝心の大国による小国(新植民地主義諸国、従属国)への侵略戦争には重点が置かれていない。すべての戦争は帝国主義とスターリン主義の関与の下に起こるという一種の体制間矛盾論である。ベトナム戦争の終了前後に登場した「ポスト・ベトナム論」の1変種というべきである。このような「世界認識」から、ソ連が崩壊したとき、その要因を「米ソ軍拡競争でのソ連の劣敗」に求めるような内在的分析ゼロの「認識」が出てくる。
 2001年の革共同第6回大会では、「核心的まとめ」として、新たな「現代戦争テーゼ」が出された。

「二九年型世界大恐慌の現実化が始まり、世界経済のブロック化がいよいよ進行してくるなかで、崩壊したスターリン主義圏と残存スターリン主義圏のとりこみをめぐって争いが具体的に激化していくとき、帝国主義対帝国主義の対立は、帝国主義であるかぎり第三次世界大戦へとつきすすむしかない」(「革命的共産主義者同盟第六回全国大会報告・決定集上」p206)

 スターリン主義圏への侵略戦争、ないしスターリン主義間の戦争、 新植民地主義諸国への侵略戦争をすべて捨象し、帝国主義間戦争にすべてを集約している。「侵略戦争ない」論はもっとひどくなっている。
 以上、新旧の「現代戦争テーゼ」は、現代世界の認識としても、「侵略を内乱へ」の反戦闘争を組織するうえでも、問題がありすぎる。なによりも自国帝国主義の侵略戦争と闘う路線とスピリット(精神、情熱)がない。当時このことを党内で問題にしえなかったこと、および問題にできないような党にしてしまったことにたいする、私自身の反省を明らかにしておきたい。
 新自由主義の下での現在の戦争を把握するうえで、現代戦争テーゼが帝国主義間戦争を強調していることを批判するとして、帝国主義間戦争、国家間戦争を否定する逆の誤りが生まれている。国家間戦争がなくなったという理解は、米帝を先頭とする帝国主義が、治安問題として「解決」すべき問題を、戦争問題として扱っていることにたいする屈服がある(「対テロ戦争」論)。その結果として、現に展開されている戦争と真の戦争の危機に目が向かないのである。


1978年1・1アピール

 70年代、80年代にわれわれ全体が陥っていた問題を端的に示す論文である。たんに筆者であるN政治局員だけの問題とせず、われわれ全体が陥っていた問題として総括して、教訓化する必要がある。
 第1の問題は対カクマル闘争を「革命と反革命」「党対党」の「戦争」と規定していることである。これは悪く言えば、人民大衆は関係がない「戦争」、せいぜい「応援団」、「兵站」という位置づけになる。カクマルを「反革命」と規定するなら、対カクマル闘争を労働者人民自身 の闘いと規定しないとおかしい。逆に言えば、カクマルを本当に反革命としてとらえきっていないことになる。
 その対カクマル「戦争」について、「計画性を間断なき攻勢として実現する」「百戦して百勝する軍の武徳」なるものを提起している。「押せ、押せ」一辺倒で、政治的勝利や階級関係全体の変革を課題としない安易な絶対戦争規定である。
 対カクマル「戦争」の位置づけとして次に2点を挙げる。
  (1)「先制的内戦戦略の突破口をなす戦争」
  (2)「権力との戦略的対峙段階を戦取する戦争」
 ここで、(1)と(2)は矛盾する。対カクマル闘争が対権力の闘争であると論点をすり替えている。実際は、対カクマル「戦争」を戦うことが先制的内戦戦略の実現過程という位置づけであった。逆に言えば、対カクマル「戦争」の戦争目的や決着点をあいまいにするものであった。事実、PIからPUへの移行、転換が総括も位置づけもできないものになった。
 さらに対カクマル「戦争」を「個人対個人、党対党、人民対人民の食うか食われるか、殺すか殺されるか、生か死かの、赤色テロリズムと白色テロリズムとの相互絶滅戦争としての絶対戦争」と規定する。権力との対峙関係が完全に吹っ飛び、自立的自己完結的な対カクマル絶対戦争論になってしまった。
「人民革命軍・武装遊撃隊の3つの契機」論で「恒常的武装勢力」の必要性を強調し、「人民革命軍・武装遊撃隊」は、「党の軍隊であり、政治的軍隊である」とする。ここでは、武装を党の軍隊建設に集約する結果、政治的課題をそのための水路にしてしまい、労働者人民は単なる動員対象になってしまう。
 3大任務の第3の「党のための闘い」について、「武装せる党建設でなければならない」として、その基軸は「革命的軍隊のための闘争」とする。そして、「軍における党のための闘争」、そのための「人づくり =組織づくり」とし、しかもその基軸(「切り口」)は、「戦闘と作戦、建軍、防衛戦争……」とする。これは機能主義きわまる党建設論である。党建設と軍建設を一体としてとらえている。その結果、党建設論が機能主義的なものになる。また、「中央、上級指導部の決定を主体的に把握し……」と、上意下達そのものになっている。「貫徹=人づくり、 組織づくり」などという言い方そのものが、労働者自己解放の思想とはほど遠い。カクマルの黒田寛一は組織づくりに関する考え方とし て、「報・連・相(ほう・れん・そう)」などと言っていた。これは1982年 に山種証券の山崎富治社長が言い出したことで、「報告・連絡・相談」をちゃんとすることが会社を強くするというブルジョア経営の機能主義丸出しの発想である。しかも90年代以降、このような考えは、企業としても成果が出ないだけでなく、「人の成長の芽を摘む」として顧みられなくなった。そのころから黒田が自慢げに使い出したことに、われわれは驚いたものである。運動や組織が行き詰りだすと、ブ ルジョア経営(学)から学ぶ(というより、剽窃、乗り移り)の発想が生まれる。その典型が黒田「報・連・相」論である。78年1・1アピールの 「貫徹=人づくり、組織づくり」論はそれと同根の問題をはらんでいたと言わざるをえない。
 これが典型的に表れたのが、「党の目的が組織的に貫徹されるためには、党は、中央集権的であること、職業的革命家を骨格的基軸にすることがなくてはならない」とする他方で、支持者、同調者については、「党・軍の内戦的、政治的基盤」の強化に生かすとする提起である。これは、レーニンの「何をなすべきか」の歪小化であり、労働者人民の党と軍による引き回し、「使い捨て思想」である。
 同じく、「分散化、専門化、分節化」「強力な中央集権制、集中制、結節化」という表現も、いっさいが中央集権制の強化の観点から言われている。分散化や分節化は「党にたいして責任を負う点」からのみいわれ、「部分の全体(中央を媒介した)にたいする責任」の強調もその観点から出ている。
 また指導について、「1人ひとりが党の立場にたちきり、全体性を体現し、党と自己を一体化させる」「党中央の決定を一身に体現して任務を遂行しなければならない」「党組織、指導部、責任者は、戦争のいっそうの激化を促進する装置として存在している」「一般に、手段の目的化は官僚主義であるが、それは目的ときりはなされたからで あり、手段それ自身は徹底して対象化されなくてはならない」。ここには、中央の絶対化、批判や指令に返上や異議を唱えることを認めない。そのうえあらゆる党組織、指導(責任)者が「装置」となるとは!
 とんでもない組織論である。スターリンの「伝動ベルト論」と変わらない。党組織論において、「未来社会の萌芽形態」なる黒田・カクマルの規定より、機能主義に純化しているだけに、救いがたい。「唯一で無謬の党」という党物神化を生み出す。指導部絶対化、非合法・非公然指導部の無謬性神話などはその最たるものである。
 また「通報の権利」についても、「権利」と言っているが、実は義務。中央にたいする報告だけをやって、あとは、上意下達的に命令に無条件に従えということになっていた。中央にたいして意見を言う、あるいは異議を唱えるということはそもそも予定もしていなければ、 認めもしない。このことを今日、痛苦の念をもって総括するものである。


90年天皇決戦と「5月テーゼ」をめぐって

 90年天皇決戦をわれわれは、満身創痍で闘いぬいた。しかし階級闘争にたいする閉塞状況は強まり、軍中心の体制が限界に達した。 そこで大衆運動と党建設に党活動の比重を移すという「5月テーゼ」が出された。清水丈夫政治局員はこれを、「生体反応」と称したが、総括なき便宜主義的転換であった。
 私は、非合法・非公然体制と逮捕・獄中の20年間を通して、この5月テーゼを数年間も呑み込めずに苦悶した。当時考えたのは、対権力、対カクマルでいずれも決着がついてない中で、成立するのかという疑問であった。2006年3.14以降の中央○○会議で、この疑問を率直にだしたところ、猛烈な反論を食らった。そのすべてが詰まるところ、「中央の提起に従わないのか」ということである。私の疑問は、確かに古い意識、従来の路線の延長上のものであった。しかし大衆運動や「戦争」の現場で、実践的に現場で私のような疑問を持たない方がむしろオカシかったのである。
 5月テーゼ下の停滞について、清水丈夫政治局員はその原因を次のように指摘している。
  (1)指導部間の不一致
  (2)大衆運動能力の驚くべき衰退
  (3)労働者党員の困難(孤立、高齢化)
  (4)常任、専従の官僚化、手配師化、サラリーマン化
 私はこのような指摘にたいして当時も、今も、言いたい。一番歪んできたのは清水丈夫本人ではないか、と。そもそもP1、P2下の党の歪みを対象化していない典型が清水丈夫自身ではないか、と。


第4章 2006年3・14決起と再出発のために


3・14決起の意義

 2006年の3月14日、関西の労働者党員と専従メンバーは、闘わない、闘えない党の変革を求めて決起した。「党内クーデター」などという卑劣なレッテル貼りは不当である。また「党の革命」などという体裁のいい修辞は断固拒否する。1人ひとりの党員が自らのイスト性(共産主義者性)にかけてやむにやまれず決起したのである。
 関西担当の政治局員・与田を中心とする一部幹部の財政的腐敗と党内の暴力支配が限度に達していた。党中央に訴えても、会議に提起しても何も変わらない。最後の手段として、関西の過半の党員が、 与田をはじめとする政治局員と関西地方委員の何人かの龍免を要求する署名を突きつけた。1人ひとりが処分も暴力的制裁も覚悟した「血判状」であった。
 関西の党員が本当に怒ったのは、スパイ問題もある。属人的関係を使って中枢に入り込んだスパイ高杉を、与田は党員には隠ペいし、逃がした。財政的腐敗もすさまじいものがあった。1週間のうち3日しか活動に充てない「3日・4日生活」の一方で、過大な党財政を私消していることも明らかになった。しかし与田は生まれた時から腐敗していたのではない。革共同が生み出したのである。現に、与田的幹部党員はいっぱいいた。党中央の権威を振りかざすだけで、自ら考える習慣を失った幹部を抱える党ほど革命の妨害物はない。
 私は革共同の党員として3度の党内闘争を経験している。1度目は、68年、10・8の衝撃を受けて実力闘争に「職場からの闘い」を対置して脱落分裂したグループとの闘いであった。2度目は、73年の杉進也問題である。革命的共産主義運動と部落解放運動を対立、分裂させる言動には怒りがわいた。3回目が今回の2006年3・14決起であった。今までの党内闘争と今回の一番の違いは、今までは路線問題として論議することが可能であったが、今回はそうはいかなかったことである。さらに今までは関西内部の闘いに中央をどちらが獲得するかという次元の闘いであったが、今回は中央そのものの変質にたいし1地方から闘いを起こすという性格であったことである。今までの党内闘争を振り返って、今回が一番困難であったのは、党内で異論や中央批判、分派の存在を許さない組織「風土」をどう克服するかという問題があったからである。3度の「党内闘争」で私はつねに共産主義者として正しい選択をしたと確信するが、上のような組織「風土」をどう克服するかは未完の闘いである。それとともに、このような「党内闘争」を通じて、今でも尊敬する先輩や有為の活動家を多く失ったことである。そもそも意見の違いを「党内闘争」で「解決」するというやり方そのものに問題があったし、そこに私自身の責任もあると思う。私が対立したほとんどの人が、その後も何らかの社会運動や革命運動に関与していることは、幸いとするところであるが、私の責任が消えたわけではない。党を去った人々の考えや営為からも学ぶというスタンスが必要である。革命運動の帰趨を決める問題で峻厳である必要が時にはあることを押さえつつ、改めてそう感じる ところがある。


江戸川に本社を置く革共同自称集団との決別

 3・14決起から約1年、問題の発端は、『共産主義者』152号(2007年3月刊)の木崎冴子論文であった。一言で言えば、カクマルの「ハイカラ帝国主義」論と同様の「朝鮮侵略戦争ない」論、「帝国主義戦争ない」論を満展開したのである。朝鮮戦争が起こるとすれば、日・米帝国主 義が原因ではなく、金正日体制の崩壊が原因となるという典型的な「日帝巻き込まれ」論であった。しかも「朝鮮は単一の国家として成立しようがない国家として歴史的にありました」と、抑圧民族の大国主義的奢りに満ち満ちた展開を行っており、7・7思想を放棄さえしていた。
 その上で、「労働者の究極の団結の拡大が革命」と経済主義的革命論を吹きまくった。経済危機からの革命の自動的到来論であり、暴力革命の否定も甚だしい。戦争と恐慌、スターリン主義の崩壊の中に、ただ客観主義的に革命の条件を見るだけで、現代帝国主義の新自由主義的再編と戦争と革命の新しい主客の条件をまったく見ない代物であった。
 結論として、「階級的労働運動路線」の名のもと、狭い意味での労働運動だけをやっていればいいと、動労千葉と11月集会への囲い込みを唯一の路線にした。「体制内労働運動の打倒」をスローガンに掲げる一方で、原文である首都圏活動家集会の基調報告にあった「職場・生産点における資本攻勢との闘い」は削っている。闘わない党派的囲い込み運動への純化である。
 このような論点をめぐって真剣な論争を始めた途端、彼らは処分をちらつかせて、関西地方委員会の分裂を図った。しかし彼らの分裂策動は、関西地方委員会で、9:6:2で否決され、2007年11月に関西地方委員会が招集した党員総会には党員の過半数が出席して新しい執行体制を決めたのにたいし、彼らが規約を無視し、権限もなくその年の12月に招集した「総会」は委任状を含めても過半数に遠く及ばなかった。


江戸川集団のセクト主義的純化

 自動崩壊論的「革命論」に加え、偏狭極まる労働組合主義をとった彼らは、差別主義集団への変質を極めることになる。労働者階級をプロレタリア独裁の担い手という観点でのみ評価する一方で、被差別・被抑圧の自己解放性をまったく評価せず、プロレタリアートによる解放の客体として扱っている。階級的解放が、即、あらゆる抑圧・差別からの解放であるという7月テーゼをそのまま踏襲している。三里塚反対同盟にたいし、「階級性を刻印する」とか、「土地は取り上げられていい」といった、農民および被差別人民への敵対と差別集団化は、スターリン主義の農民強制集団化とクラーク絶滅運動に等しい。
 また統一戦線の破壊、セクト的分断が極端になっている。「党と階級の一体」論に至ってはスターリン主義にたいするなんの反省もなく、労農同盟論や、革命的議会主義、統一戦線などすべての領域にわたって上から組織する観点に満ちている。今の彼らはスターリン主義ともはや区別がない。しかもスターリン主義と違って彼らは、権力も取っていないのに、スターリンが10年かかってやったことをわずか1年足らずでやっている。統一戦線、大衆運動のセクト的分断は、30年代のスターリン主義の「社会ファシズム」論に酷似する。
 スパイ問題にたいする態度が最もひどい。分裂の時に、「与田がスパイに入り込まれたのは関西の責任」、「関西の○○拠点はスパイの巣窟」、「戦線にはスパイが入り込んでいる」などとデマを言い募っていた。今や彼らは、党内の意見の相違や、組織的敗北、ないし運動がうまくいかない原因をすべて、党や大衆運動内部のスパイや挑発者のせいにする「警察御用史観」に陥っている。その姿は、50年分裂の時に日本共産党の所感派が国際派をスパイと決めつけて査問したことや、70年代〜80年代のカクマルの「水本謀略」論に近い。
 荒川問題において彼らのこのようなやり方は完全に破産した。誰が組織し、何をスパイしたのか事実をまったく明らかにできていない。なによりも革命党としての反省がなく、逆に党内闘争の「ネタ」にしている。スパイとの闘いを労働者人民自身の闘いとまったく位置づけていない。荒川問題は、安田派の握造であり、荒川碩哉さんは 「シロ」であることが明らかになった。私は、彼の名誉回復の闘いを断固支持する。


再出発のために

 共産主義運動の再生のためには、現代世界認識と安倍政権との闘いの方針を打ち立て、大展望としての憲法闘争と革命的反戦闘争(侵略を内乱へ) を闘いぬく指針を打ち立てなければならない。そのためには以下のようなテーマが重要となる。60年、70年闘争の総括と70年代、80年代の闘いの総括をすべてのテーマの核心を貫くものとする必要がある。そのうえで打ち立てるべき世界革命・日本革命のテーマの枠取りは以下のものであろう。
 @新自由主義論―――グローバリゼーションや金融化のような現象論ではなく「略奪的蓄積」を軸とした新たな世界体制論として
 A現代国家と現代戦争論――「国家間戦争ない」論ではなく、国民国家が新自由主義のもとで果たす新しい役割
 B日米安保体制論と沖縄の差別軍事支配にたいする闘いの指針
 C安倍政権論――改憲攻撃と天皇制の現代的意義、日帝の原発と核政策
 D格差・貧困問題――分配論に偏った分析でなく、現代の階級構成を究明する
 E差別・抑圧問題、民族問題、農民農業問題
 F歴史認識問題
 G組織論――党組織論と運動組織論の両面
 などが必要であろう。

 ここではGの組織論について、まとめとして論じておきたい。
 新しい党の考え方――まず共産主義にとって党とは何か、本当に必要か。ここに総括と今後の生き(行き)方の重要な点がある。「レーニンは全てを革命した。しかしながら党を革命できなかった」(埴谷雄高)と言われる。この点からすれば、党が自己止揚の論理をもつかどうかが決定的である。革命が終わったら将来、国家とともに党も消滅するというだけではダメである。現在的場所的に自己止揚の論理をもつことが必要である。指導―被指導関係や、上部―下部関係、職業革命家―労働者党員の関係すべてにおいてそれが問われる。
 同時に党の手段性の確認が重要である。党のための党、支配のための党といった党の自己目的化はダメである。
 そのうえで、最初に党があるのではない。基本的な要因は個々の人間である。党はそれを基盤にすえなければならない。1人ひとりの主体(性)を大事にする。民主主義は党内民主主義としてもっともシビアに問われる。自己決定、自己組織化としての民主主義をここで貫かなければならない。
 詰まるところ、私は党の本質的役割は「触媒」としての役割にあると思う。こういうと、以前にある同志から、自分が変わらずに相手 (大衆)を変えるという批判を受けたことがある。しかし革命における主体が労働者被抑圧人民であることを押さえたうえで、党の役割はその自己解放的決起を援助する、そのために必要な忍耐と自己犠性をいとわないことではないか。レーニン『共産主義の左翼病』にいう共産主義者の党の3条件のうち、「革命的英雄精神」は独りよがりの指導者意識を生むものであるから要らない。 結局、われわれの党のイメージは、階級に内在しながら、階級とともに歩む「共産党宣言」第2章冒頭の「共産主義者(複数)」像に尽きる。
 そのために、代行主義に陥らず、しかし突出した闘いを抑圧しないで包摂して進むあり方が求められる。対権力の防衛を考えない行動はありえないが、闘いの根底性(真のラデイカリズム)や、大地性、政治的奇襲性を抜きに、防衛を自立的に強調するのは間違っている。 組織至上主義は、党についてはもちろん、労働組合や大衆運動団体においても採るべきではない。組織いじりや戦術論は問題外である。
 結論としては、次のようなあり方となろう。
 (1)自立した共産主義者、むしろ個人を据える。
 (2)その上で、資本からの自立、権力との攻防に耐えることがカギ。
 (3)この点を抜きにした「近代的組織」論=自立だけでは成立しない。
 (4)党的結集・統合を大衆的英知と努力の結晶として実現する。
 (5)協議の方法・手順についても党的・大衆的信任を大事にする。

 最後に、本稿で論じきれなかった課題について、今後の展開を期して挙げておきたい。
 第1に、とくにブント系諸君の70年闘争の総括には共鳴し学ぶところがある。榎原均、高原浩之、松平直彦など、赤軍やRGなどで同時代を担った諸君の総括と格闘して、ともに新たな共産主義を生み出したい。評価も批判もあるが他日に譲らざるをえない。
 第2に、江戸川集団が、差別・抑圧の課題と闘う7・7思想、共産主義の立場そのものを放棄し、戦線解消論と差別主義集団に陥った内在的批判とわれわれ自身の責任を明らかにすることも他日を期せざるをえない。
 第3に、私自身の自己総括の課題として、10数回の逮捕、延べ10年の獄中生活、10回に及ぶ裁判闘争(うち3回の勝利、無罪判決)の教訓と反省がある。これについても別途機会を得てぜひ論じておきたい。


【付】

編集後記(関連部分)
▼最後に50年以上にわたる革命的共産主義運動の総括と展望をかけて、「革共同私史」を掲載する。左翼運動における「◯◯年史」は、ほとんどが自己正当化の「官製年史」である。誤謬を対象化することも真剣な総括もなしに、路線的乗り移りをしてきたのはひとり日本共産党だけではなく、革命的共産主義者同盟も同じである。その問題性を直ちに全面的に総括することは困難だが、一定の責任部署にあった人間が自己総括をすることは重大であると思う。成功しているかどうかは読者の判断に求めるが、賛否含めて意見をお寄せいただきたい。(Q)

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