(お断り:長文のため3分割し、今回は【上】を掲載します。なお、※印は原筆者によるもの、【 】は当サイト管理者によるものです。)

全党回覧(改訂版)

3・14労働者蜂起の経緯
〜フェニックスとしての報告と総活【上】

06・07・15:文責・毛利

[T]はじめに

(1)3・14蜂起の意義について。

(i)3・14蜂起の核心は、まず何よりも、財政的不正・腐敗(※与田は、党とその事業から10年間で1億5000万円を略取・収奪した! しかもこれは、関西財政査察調査委員会の「中間報告」の段階のものにすぎない!!)と党破壊の限りを尽くし、党を権力と闘えない党、権力を暴力革命をもって打倒する立場をなくした党へと変質させんとした関西における党の最高権力者に怒りを大爆発させ、実力でこれを打倒した労働者蜂起であった。  すなわち、3・14蜂起は、プロレタリア暴力革命の本質を徹頭徹尾つらぬき通して実現された革命的蜂起であった。

(A)それは同時に、労働者党員がみずから党の指導部となり、自らの力で労働者階級の党をつくるという、プロレタリア革命への激しい熱情と命がけの決断のもとに闘われた蜂起であった。これは、労働者党員同志が新指導路線の実践をめぐる必死の苦闘と前進のなかでその最大の敵対物・妨害物どもとくり返し激突し、分断と団結破壊から労働者の階級的・党的団結と党内民主主義とを奪回するための苦闘を営々と積み重ねることをとうして、与田、遠山の不正・腐敗を革命的に暴き出した早瀬同志のサザンクロス【「与田不正問題」。原筆者注あり、後出】提起のなかに階級的真実を一瞬にしてつかみとり、決起していった巨大な労働者蜂起であった。
 すなわち、3・14蜂起は労働者自己解放闘争の本質を徹頭徹尾つらぬき通して実現された革命的蜂起であった。

(B)さらに3・14蜂起は、新指導路線にたいする根底的敵対物を打倒することを通して〈党の革命〉の歴史的突破口をきり開いた闘いであった。それゆえに、日本プロレタリア革命にとっての当面の最大の課題である改憲阻止闘争の階級決戦的爆発の道筋をひらいた闘いであった。3・14革命と、民営化と戦争をめぐる4大産別の階級決戦的攻防を軸とした労働運動・労働組合運動を土台とした改憲阻止決戦とが相互規定的・相乗的に発展してゆく階級闘争の革命的推進構造を主体的にたたかいとったということである。
 全同志はともにこの地平を踏み固め、3・14革命をさらに徹底的に推し進めつつ、4大産別を軸とした産別・職場闘争とそれを土台とした11月労働者集会1万人結集、06年〜07年改憲決戦の階級決戦的爆発を断固切り開いてゆこうではないか。

(2)3・14蜂起は、労働者党員同志の5月テーゼ以来の、また特に新指導路綿の提起以来の、港合同における労働運動の階級的発展と労働者細胞建設をめぐる苦闘、それを基礎とした3組合共闘の前進を切り開いてきた闘い、国鉄闘争をはじめとした4大産別と民間職場におけるたたかい、そして被災地における労働組合づくり、不安定雇用労働者の組織化のたたかいをはじめとした労働運動・労働組合運動の実践をめぐる苦闘と不屈の前進がやむことなく続けられてきたことがその一切の基底にある。

(@)90年代を通しての遠山の分断と抑圧のもとでの大阪府委員会の労働者同志の苦闘、とりわけ2001年以降の与田・遠山による党の私党化体制としての関西地方委員会指導部体制以降一挙に激化した超高圧の支配と抑圧のもとでの労働者ヘゲの奪回と確立のための橘同志を先頭とした国鉄産別、「自由主義」「現場主義」なるレッテル貼りのもとに新指導路線の実践にたいする制動と抑圧の攻撃を加えつづけた遠山「指導」をはねのけて日の君・教科書闘争・改憲阻止闘争と産別委員会建設の闘いを不屈に闘い続けてきた大谷同志をはじめとした教労産別、教労と並ぶ改憲攻撃をめぐる巨大な戦略的攻防の焦点である自治労戦線の最先頭で豊中を軸に闘ってきた有田同志をはじめとした自治労産別、6回大会路線に敵対する遠山にたいし不屈に闘い、2年間にわたって解任要求を突きつけて対決し続けてきた土橋同志を先頭とした全逓産別におけるたたかい、さらに与田・遠山による反中央私党政治のもとでの分断と団結破壊の攻撃との最前線で不屈に闘いつづけてきた岩城・長崎同志を先頭とするB細胞、民間職場における資本との闘いを通した組合の戦闘的強化、あるいは組合づくりのために闘い続けてきた労働者同志をはじめとした大阪府委員会労働者の苦闘と不屈の前進は3・14蜂起の最大の土台をなした。

(A)さらに、4・16首都圏党員集会での椿同志発言(※後述)が示す兵庫県委員会労働者のたたかい、京都府委員会・奈良県委員会労働者の闘いの3・14労働者蜂起にしめる大きな位置もしっかりと確認されなくてはならない。

(B)こうした労働者同志の闘いは、すでに3・14蜂起に先立つ2年〜5年(〜10数年)も前から分断と孤立を強いられつつも、しかしこれに断じて屈することなく、あるいは与田・遠山への徹底批判を貫いて、あるいは断固とした解任要求を公然とかかげて不屈に闘われてきた。
 関西地方委員会指導部内部からの決起は、このような労働者党員同志の闘いに突き動かされる中で生み出されたが、われわれはみずからの決起の立ち後れにたいする痛苦な自己批判を実践的に貫徹し、何としても労働者同志の闘いと連帯しともに勝利を目指して闘う立場から、与田・遠山の〈打倒〉とそのための蜂起指導部の形成を決断し死力を尽くして蜂起を準備し、すべての労働者党員同志に蜂起的決起を呼びかけていったのである。

(3)さらに、3・14蜂起の諸契機において、与田が1995年以来手を染め、深めてきた不正(サザンクロス問題)を隠蔽するために仕組んだロザリオ問題(※当時A細胞〔※A職場〕事務局長であった志賀同志が佐田同志に300万円横領という事実無根の罪をデッチあげ、粛清・追放した事件。かつ、与田がみずからの不正・腐敗の秘密を握る志賀同志を5年間にわたって擁護し、籠絡・懐柔したすえA細胞から追放した事件)をめぐって苦闘してきたA細胞の労働者の不屈のたたかい、また全党に先駆けて与田への批判と打倒を呼びかけて決起した部落青年戦闘同志会【以下、同志会】の革命的同志たちの闘い、「血債主義」イデオロギーと属人主義的組織論にもとづく高山同志による組織破壊とその後を襲った与田らの私党化のもとでの学生戦線の同志たちの苦闘をはじめとした全戦線の同志達のたたかいがもった重要な位置をしっかり確認しなければならない。

(4)労働者階級の解放は労働者自身の事業である。労働者がみずからそのために創造した最大の武器である党を、まさに「利権」というべき膨大な私的利益を略取、収奪するための組織、したがって権力と闘えない組織へと変質させ、党を乗っ取り、牛耳らんとした腐敗した権力者をみずからの力で打倒し、労働者の党をみずからの力で闘いとらんと決起した闘いが3・14労働者蜂起であった。
 フェニックスは、上述したような労働者党員同志の営々たる苦闘の中からうみだされた存在であった。それは、そうした労働者自己解放の闘いの必然的産物であるとともに、それゆえにこそ労働者の闘いの勝利のために蜂起を計画として、技術として徹底的に扱い、貫徹する立場でたたかうことができたのである。同時に、労働者が勝利するためには、それを抜きにはありえないことを深く自覚し闘ったのである。
 フェニックスの立場と存在意義は、労働者の闘いの勝利にとって、以上のような意味において、ただそれだけにすぎないものであったということができるとともに、しかしやはりどうしても必要不可欠な武器であった。それは今では、蜂起の実際の経験によって明らかであろう。与田による「兵庫県委員会、京都府委員会=分派」規定問題をめぐるたたかいとサザンクロス問題を告発した早瀬同志の革命的決起との結合・合流の過程をとうして形成された蜂起指導部が、それを生み出した。以上に見たような労働者同志をはじめとした全党の同志のたたかいと結びついていったとき、3・14労働者蜂起の勝利の現実的道筋が画然と切りひらかれていったのである。

 この文書は、冒頭の注で触れたように中央への報告の必要から書いたものであるが、3月14日以前の労働者の闘いがどのようなものであったかは〜とくに関西を除く他地方の同志においては〜ほとんど知られていないという事情から、全党の同志に3・14労働者蜂起の全体像とそこにおける核心問題をより正確につかんでもらうために、中央への報告に若下の手を加えたものを全党回覧としていただくこととなった。
 3・14蜂起は、内戦期以来の、5月テーゼ路線以来の、第6回大会と新指導路線以来のたたかいの根底的総活と21世紀のプロレクリア世界革命―日本革命、それに向かっての06〜07年改憲阻止闘争の階級決戦的爆発を切り開く労働者階級の党の建設の課題は何かを根本から問うている。
 現在、いわゆる「非公然部・公然部」関係の正置化、中央と労働者細胞との関係の実践的・理論的再確立、労働者党員の細胞活動の復活、地区党論の原則的再確立、地方委員会などの中間機関の組織論的明確化、共産主義の単一の党建設論の実践的・理論的再確立、革命的部落解放闘争をはじめとした諸戦線のたたかいの路線的確立・再確立と組織論的整序、理論・イデオロギー活動の復権的強化、党規約問題の根本的再検討、財政問題の抜本的解決とそのための財政思想の再確立、常任(職革)論の再確立、etc.etc.の党の全領域にわたる根本的総活と再確立の闘いが全力で推し進められている。
 3・14蜂起は、与田・遠山らによる党の私党化、それによる党の権力と闘えない党への変質の危機に直画し、与田・遠山らとの根底的対決とその打倒の闘いに向かい合った瞬間からすでにプロレタリア革命党における党常任、職業革命家の任務は何かを鋭く突きつけ続けた。それは、いまなおわれわれを問い続けている根本的課題である。3・14は、その蜂起の準備の過程において、こうした常任論、職革論はもとより、上記した党の諸領域との格闘を具体的・実践的レベルにせよ、問題意識的レベルにせよ、その内にはらみつつ闘われてきた。
 この報告書は、事実を事実としてできるだけ正確に叙述することをもっとも大切にすることを心がけたが、如上のようなわが党が直面する党的総括と解決すべき諸課題をめぐる議論の一助となればと願って書いたものである。

 なおこの報告書は、当然とはいえ労働者同志をはじめとした諸同志の闘いの豊かな現実を生き生きと、あるいはその思いの機微を描き出すには遠くおよばず、また闘いの諸事実に関する叙述の誤りも少なからずあろうことを懼れているものですが、上述したような目的と趣旨から、あくまで3・14蜂起を計画、準備、遂行したもののひとりとしての立場から「フェニックス」としてのたたかい及び3・14にいたる経緯について報告させてもらうものです。

〔U〕3・14蜂起
〜与田・遠山打倒闘争とその蜂起戦的発展の戦略的諸段階について。

(1)フェニックスが持久戦略をとっていた段階。
〜05年10・18関西地方委指導部会議の「兵庫県委員会、京都府委員会=分派」規定直後から、早瀬同志によるサザンクロス問題の革命的告発(※05・12・14)を受けた12・15フェニックス前まで。
★与田打倒を最終的軍事目標とする。ただし、彼我の現実的力関係に踏まえ、当面2年内外をかけて遠山打倒を実現し遠山問題として現れた与田による党の私党化にたいする徹底断罪と追求→与田打倒を戦取する。
★与田・遠山の政治的本質についてわれわれは、10・18「分派規定」後の比較的早い段階から(私党〉という規定を与えていた。
★この段階のフェニックスは、4人(※塩川、西坂、芹【吉岡】、毛利)で構成された。

(2)戦略的対峙・総反攻への転換の早期戦取を目指してたたかう段階。
 〜12・20第5回フェニックス。
 それ以降、2月中旬までは「転換の戦取」のためのたたかいの過程であった。
★軍事目標を「当面は遠山打倒メイン」から与田そのものの打倒に転換した。
★可能な限り早い時期に革命的蜂起を決行することを決断し、確認した。
〜何よりもサザンクロス問題をめぐる権力の弾圧の切迫、さらに与田・遠山による党の不正・腐敗、私党化にもとづく党指導部の最後的変質の危機の深まり、改憲決戦の急迫、泉佐野選挙の正念場情勢などから「可能な限り早期の断行」を強く確認した。
★12・20フェニックスから2月中旬までは、上記の戦略的立場に立った蜂起にむかってのあらゆる準備としてたたかわれた。
★フェニックスは06年1月8日、7名体制(上記に加え、神山、椿、早瀬同志)で完成した。

(3)3・14蜂起への最後的吶喊過程〜2月下旬から当日まで。
★蜂起の政治綱領、軍事戦術の検討・練り上げ。
★連判状をとうした労働者党員同志の決起、大阪府委員会、A細胞労働者の決起集会、…3・14前夜。

(V) 3・14労働者蜂起の当日のたたかい。

(1)当初われわれは、与田・遠山実力打倒の闘いを、前日から前進社関西支社を占拠し、与田・遠山を迎え入れる形でやるか、それとも当日時間を決めて乗り込むんでやるかの2案を検討した。
 結論は、当日関西支社に乗り込む、そしてその数十分後に労働者同志が結集する方針を決定した。理由は、関西支社の在社常任のオルグが完全にはできておらず、社の制圧をめぐる不安定性が問題となったからであった。2人を確実に仕留めることが最大の課題であるという確認を再度行って方針決定したが、状況によっては変更はあり得るとした。

(2)ところで実際には、われわれは3月6日から事実上の蜂起体制にはいったのである。
 3・5の部落解放同盟全国連合会【以下、全国連】大会1日目での与田らによるわれわれに対する異常な監視体制と「書記長による塩川、毛利呼び出し」(※「午後4時20分に小会議室に来い」というものであったが、戦局的判断から結局応じなかった)、その数日前の宗像同志宅での文書窃盗事件(3月2日)、さらに2月末から3月はじめにかけての遠山のセンター(※東大阪・荒本の解放センター)での「塩川、毛利を早くやるべきだ」発言、西島による塩川同志の水紙文書トレイの盗み見スパイ事件(※2月28日深夜、社細胞の佐々木同志が目撃し、直ちに塩川同志に通報した)などの重大な動向が連続したからである。
 そのため、あるいは芹【吉岡】同志は京都前進社に姿を隠す、あるいは塩川同志、毛利はフライングするなどして1週間前後居場所を特定されないよう最大の注意を払いつつフェニックス会議を開き、メンバー間の連絡を取り合い、また労働者同志へ決起を呼びかけ、行動隊の編成と意思統一を行い、その日の準備をつづけた。
 そうして蜂起の直前には、与田・遠山打倒の行動隊の部隊は京部、兵庫に集結し、当日の行動を待つだけとなっていた。また、斉藤同志と、3・5大阪府委員会労働者決起集会に参加し軍事行動への決起の決意を固めた金治同志は個別に蜂起のときを待っていた。あとは、関西支社への結集時刻を部隊に携帯電話で確認するだけであった。
 しかし、ここから情勢はさらに急転したのである。
 センターにいた堂本同志からの情報で連中の新たな動きの異様さが判明したからであった。それは、13日夕方、津田同志(※当時、与田のA細胞への私党支配において中心的役割を担っていた。与田によるA細胞支配のための私設機関「ロゴス」のメンバー)がセンターに飛び込み、2時間にわたって与田と論議したという情報が入ってきた。さらに、21時過ぎ天田書記長がセンターに入ったという情報が堂本同志からもたらされた。ここに、14日が文字通り完全な決戦となることが確定したのである。
 この事態を受けて、直ちに当初方針を変更し、13日深夜からの蜂起への決起という方針が決定された。そして「14日0時30分関西支社へ結集」の最終方針のもとに、部隊は関西支社への集結を開始したのである。

(3)その少し前、センターでは恐るべき謀議がめぐらされていた。
 与田は、新庄同志の全国連大会での与田打倒を訴える文書の配布や前原同志の同志会メンバーへの与田打倒オルグに関する当該からの通報、さらに津田同志からの情報にもとづき、「塩川、毛利らの反党的分裂策動の開始」(与田 0313)なる文書を作成し、「事態は完全に公然たる分裂策動との闘いに入ったという認識」(※同文書中の文言)のもとで、われわれの与田・遠山打倒の闘いを「反革命蜂起」(※同)と規定した上で、遠山、阿倍、種田らと、翌日の3・14関西地方委員会指導部会議でわれわれをクーデター的に処分、粛正・追放するための策謀を練っていたのである。
 そのことは、3・14当日、与田から奪取した「SONATA【関西地方委員会指導部会議】 0314」が疑問の余地なく物語っている。曰く「アーチェリー【原筆者注あり、後出】決定は、この間の関西地方委討議の革共同中央による集大成決定であると両時に、『判決』としての意味をもつものである。したがって、アーチェリー決定を受けての関西地方委討議はいっさい行わない。もうさんざん議論した。『判決』が下されたのだ。あとは党員としてこの決定に従うかどうかだけである。本日以降、自己批判の拒絶、ホッケー【05年に行われた清水丈夫氏主宰の関西地方委指導部会議】討議の蹂躙や否定の言動、関西地方委の細胞的団結の破壊の言動はすべて、統制事案の対象とみなすものとする。統制処分は革共同規約にもとづいて厳格に行われる」。  与田は、本社から天田書記長をペテンにかけて呼び寄せた上で、この「SONATA 0314」は書記長にはいっさい隠したまま、当日書記長の権威を利用して処分の強行とその正当化を画策したのである。
※「アーチェリー」は、2月中旬に開かれた首都圏の中央指導部の会議であり、当然にも関西の組織問題に関する議題自体が存在せず、従っていかなる決定も行われなかった。

(4)われわれは、全部隊の関西支社集結を確認した後、2Fにいた西島を401号室に呼び出し、「全関西の革共同の同志への緊急アピール」「早瀬文書」、労働者同志の意見書、連判状などを読ませた。同時に車両部の諸同志をオルグ、関西支社全館の占拠体制に突入した。
 西島は与田の不正・腐敗問題の突きつけと糾弾に「関西地方委指導部会議で議論すればハッキリすることや。そこで決着つけたらええことや」と怒りのかけらもなく傲然と開き直り、塩川同志の文書盗み見問題の追求には「オレは夜でも昼でも見ている」と言い放った。同志たちには、西島の長年のデタラメな財政運営への激しい怒りがあった。また、「岡田意見書」問題では、ホッケーに先立って出した「西島レポート」(※05年9月17日)で「レーニンの『クレード』ではないが、よくぞ書いてくれた、というのが一読した感想である。この間、関西地方委指導部会議で討論してきた兵庫県委員会についての問題のいくつかが凝縮して表現されているからである」と言った上で、岡田意見書の核心は「経済主義」「民主主義の党への変質の要求」「新指導路線と4大産別決戦の否定」とねじ曲げ、与田の「分派規定」攻撃の先兵として以降一貫して反動的役割を果たしたことへの強い怒りがあった。
 同志たちは当然の怒りの鉄拳制裁を加え、自室に軟禁した。西島にたいしては、○○と○〇同志が徹夜で朝まで監視する任務をやりぬいた。
※西島の階級的犯罪性は、本社に送りつけてきた「関西の現状について(2006年4月3日 西島)」においてさらに明らかとなった。
 西島は、この文書で、3・14蜂起にたいして「クーデター」と敵対し、これを中野、天田同志が支持したことを非難、さらに「芹【吉岡】=スパイ」規定を明示に表明、また奈良県党や学生戦線、A細胞、同志会などにたいする公然たる党分裂策動に手を染めていると公言している!

(5)与田・遠山実力打倒の歴史的瞬間が刻一刻迫っていた。
 行動隊は、9時20分位に与田・遠山を待ち受ける態勢に入った。少しして、5名が社前に到着した。
 ○○同志を指揮官とした行動隊が監視カメラで与田がドアを入ったのを確認、待ち受ける。2Fには芹【吉岡】同志と社防司令の江崎同志、田辺同志だけが連中から見えるところにおり、他はカーテンの裏に待機している。
 天田書記長を先頭に入ってくる。書記長が「よおー、吉岡(※芹同志)」と声をかける。遠山が「吉岡、お前こんなところにおったんか」といいながら入ってくる。つづいて、久保田同志と与田が入ってきた。その瞬間、○○同志が椅子からたちあがり、与田の胸ぐらをつかむ、同時に部隊がドッと与田・遠山に殺到する。行動隊の編成は、与田に対しては○○、○○、○○の3同志、遠山に対しては○○、○○、○○の3同志であり、全員強力な軍事部隊として戦いを完遂した。さらに横やり排除部隊として○○、○○、○○、○○の諸同志が決起し、他の一切の介入を許さず任務をやりぬいた。一定の混戦的状況は生じたものの、全員が軍事目標をしっかりと定めていたから臨機応変に行動し、作戦を全面的に貫徹した。行動隊はすさまじい怒りを胸に、しかし終始冷静に無言のうちにたたかいを断固として貫徹した。一瞬で勝負はついた。与田・遠山は即座にガムテープで両手両足を縛りあげられ、マグロ状態で横たわった。

 久保田同志は、与田とほぼ同時に入ってき、与田をかばおうとしたため2発鉄拳制裁をうけた。広山同志は、401号室に行くことに抵抗したが説得に従った。遅れてきた武藤同志には、○○同志が学生戦線を「分派規定のための党内スパイ行為」に組織したことについて徹底弾劾し、数発の鉄拳制裁を加えたのち、401号室に同行した。また、加藤同志も説得に従い401号室に向かった。さらに、与田車の運転手、沢田が来た。芹【吉岡】同志の「お前は、そこに座ってろ」「一部始終を見ておけ」の声が飛んだ。

(6) 天田書記長は「やめろ、やめろ」「吉岡、やめてくれ」と叫んだが、私が「これにはちゃんとした訳があります。私がこれからきちんとお話します。聞いてください」と3Fにあがってくれるよううながした。3Fへの階段をあがる間、また306号室の椅子に腰をおちつけてからもしばらく書記長は、「これは何だ。どういうことだ。やめさせろよ」「毛利さん、やめさせなさい、すぐやめさせなさいよ」とくり返し訴えた。これにたいする若干の説得と応答ののち、私からサザンクロス問題、「分派規定」問題などについての事実を説明したうえで、この党の存亡の危機にたいする労働者の怒りと決起として与田・遼山打倒が敢行されたことを提起し、「全関西の革共同の同志への緊急アピール」「早瀬文書」「労働者の意見書、決議・連判状」などを渡し、読んで考えてもらいたい旨話した。さらに、中西同志からも丁寧で説得的な話しが行われた。書記長は、私たち2人のあわせて小一時間の説得ののち文書を読みはじめた。
 その間にも、労働者同志をはじめとした諸同志による与田・遠山実力打倒直後からも労働者が続々と結集してきて、2人に対して徹底的な鉄拳を加えた。与田・遠山は新たに労働者が来るたびに怒りの制裁をうけた。すさまじい怒りの大爆発であった。
 「遠山、金かえせ」「与田どれだけ組織を私物化したら気がすむんや。労働者をなめんなよ」「遠山、オマエにどれだけメンバーがつぶされたか。今日こそはゆるさんぞ」「何人苦しめたら気がすむんや。おまえら、人間やない」「どれだけのメンバーがオマエらに抑圧されてきたか、教えてやる」「与田、オマエは守銭奴じゃ」「自己批判じゃない。打倒だ。殲滅だ」etc.
 与田は、労働者同志たちの嵐のような鉄拳制裁の前に徹底的に打ちのめされ、さながらパーレビやマルコスやチャウシェスクのように腐敗した権力者の醜悪な弁解と命乞いの文句を力なくつぶやくのみであった。遠山は、労働者同志の怒りの鉄拳を満身に受ける中で、身体を折り曲げ「除名を受け入れます」とか細く言った。
 書記長が文書を読み終えた時点で、受けとめと意見を出してもらった。書記長は率直に「これが事実だとしたらとんでもないことだ。これは事実だと思う。許されないことだ。君たちが言っていることはその通りだと思う」と述べた。この空前絶後と言って言い過ぎではない党の存亡にかかわる重大事態のただ中に予想だにせぬまま投げ込まれながらも、これに正しく向さ合って下した重大かつ立派な決断であった。書記長はわれわれとの討論ののち、2人が労働者の怒りの制裁をたたきつけられる現場をつぶさに見て、「この労働者の決起に大義がある」ことをハッキリと表明した。そして、われわれは、書記長に翌日の拡大地方委指導部会議にきてもらうことを確認して、午後1時過ぎに帰途についてもらった。

(7)午後4時過ぎ、与田・遠山にたいする「逃がすな、徹底殲滅だ」の声をはじめとした労働者の怒りの爆発のなかで、しかし同日の法政大学弾圧をはじめとした権力の大弾圧攻撃をうち破って与田・遠山を実力打倒したという決定的勝利を確認して、2人を西島とともに関西支社から叩き出した。その際、与田は「除名決定を受け入れる」と芹【吉岡】同志に表明した。

(8)久保田同志は15日01時40分、芹【吉岡】同志が「与田よりあなたとの方が半年つきあいが長い、『全学連大会の九州の学生A君』として知って以来、一緒に闘ってきたではないか。オレも与田を切った。あなたもこの際、与田の私党化問題を認めて与田を断固切れ」と言うと、「わかった。新庄同志にも自己批判する」と言って社を後にした。
 広山同志は、芹【吉岡】同志や私との討論のなかで「4項目の要求は認める。『分派規定』は間違っていた。申し訳ない。自己批判する」と言いながら「俺は、このやり方は認められない」ということに固執し続けた。芹【吉岡】同志が「とにかく、体を治せ、休養せよ」と声をかけ、出社した。
 武藤同志は、高山同志の「私党的」ありかたの一角を占めていた自己のこれまでの現実が「与田指導」によって変革されたという倒錯した受けとめから、率直に言って大混乱しているという現状であった。討論の最中、○〇同志の怒りの鉄拳を受け、さらに混迷を深めたが、その夜の討論で「与田の腐敗については、自分は絶対に認めることができない。この点は、関西地方委指導部として自己批判します」と表明した。加藤同志は、「緊急アピール」の4頂目要求について受け入れ、自己批判を提出した。

(9)3・14蜂起は、労働者党員同志の決起を圧倒的・実体的柱としつつ、これと一体で地区、戦線、機関の常任・専従の諸同志が決起し、さらに▽▽▽▽▽・メンバーの諸同志が戦う団結のもと総決起してからとられた、高度に軍事性をもった政治的蜂起戦であった。

(10)歴史的蜂起の勝利にわきかえる中、直ちに臨時拡大地方委指導部会議が開催され、与田・遠山打倒の労働者蜂起の革命的意義を確認し、労働者による新たな階級の党の建設にかかわる諸決定を全体からとった。
 勤務を終え、さらに続々と結集した労働者同志たちは、地区・戦線ごとに会議を開き、3・14の意義を深夜まで討論して尽きなかった。この日、総計150人をこえる労働者同志が決起した。関西支社はかつてない解放感にあふれ、労働者同志たちからは「これまで社には行きたくなかった。これからは自分たちのものだ、社建設以来の快挙だ」などの歓声があがった。

 ここに、労働者のもつ労働者階級自己解放の根源的力そのものによる歴史的な〈党の革命〉がはじまったのだ。

[V]フェニックスについて。

(1)与田・遠山の打倒と、彼ら反中央私党集団によって歪曲され、換骨奪胎された第6回大会の綱領路線・新指導路線の再確立、労働者の党的団結の奪回とを目的とした革命的分派として05年10月29日、塩川、西坂、芹【吉岡】、毛利の4名で結成した。
 革命的情勢の急接近とこれにたいする労働者同志の新指導路線をめぐる実践的苦闘、その対極における与田・遠山による「分派規定」に鋭く現れた党の変質の危機の決定的深まりにたいする危機感、与田・遠山がプロレタリア自己解放に立脚する党とその綱領路線にとって実践的・思想的・理論的の全面的・根底的敵対物であるという認識と、これらの〈打倒〉の立場を共有する革命家として命がけで勝利まで徹底的に闘うことを盟約して発足した。  12月20日に神山・早瀬両同志が、さらに06年1月8日に椿同志が加わり、フェニックスの「7人委員会」体制が最後的に整った。

(2)フェニックスは、徹底的な軍事原則に立った対私党集団、対権力の秘密活動を、その結成時から3・14午前9時半の与田・遠山実力打倒の瞬間まで完全につらぬいてたたかった。
 「分派規定」とそれと一体の政治処分のもとでの政治的・組織的活動の発覚は、それ自体で与田・遠山らによるフェニックス構成員自体にたいする粛清、××【せん滅】のみならず、これと接触する組織・同志すべてにたいする政治的・組織的処分、粛清となることは疑う余地のないことであった。まして、それが与田・遠山打倒を目的とした活動であれば、いわんやをやということであった。
 また、サザンクロス問題の決着点を与田・遠山の実力打倒として闘うことは、フェニックスとそれによる労働者蜂起の組織化の一切を最後の瞬間まで完全に秘匿しぬくことなしには、蜂起に決起した労働者同志を血の海に沈める事態を引き起こしかねない事柄としてあった。あるいは、党の深刻な分裂を生み出しかねないこととしてあった。
 こうした極めて重い責任を厳しく自覚して、われわれは「蜂起をもてあそんではならない」「中途半端は死である」ことを肝に銘じてたたかうとともに、またそれゆえにこそ「大胆に、大胆に、大胆に」を精神としてたたかった。  しかし同時に、われわれは、この闘いが並大抵ではない敵を相手にした蜂起戦であり、したがって本質的に血みどろの戦争である限り、「あらかじめ勝利が保証されているわけでもなんでもないということを自覚していた。死力を尽くして闘ってなお、厳しい敗北、その結果としての粛清・追放、除名処分から××にいたるまであらゆる結果がありうることを覚悟して闘った。昨年秋、与田が「分派規定」と処分攻撃に突っ込んできて間もなくの頃であった。椿同志は、私に言った。
 「与田が分派を組織したと言って、僕を追放して誰かを県党のキャップにすえると言うのなら、それはそれでいいじゃないですか。僕は、一党員として県党に再登録してもらって、恫喝だろうが××【せん滅】だろうが県党の労働者の同志と団結してはねかえして、何年かかっても勝つまでやります。毛利さんも、粛清・追放になったらときには兵庫に来たらどうですか。一緒にやりましょうよ」と。わが革共同の結党以来の革命家精神がそこにあった。我々はみな、そうした革命家精神と覚悟をもってたたかった。たとえ、この蜂起においてわれわれが一敗地にまみれることがあっても、労働者革命家たちはかならずこの闘いを引きついで決起し、自らの力で与田・遠山らを打倒し、プロレタリア自己解放の勝利を切り開いてゆくことを絶対的に確信したからである。  そして、われわれはこうした決意と確信をもって、徹底的に蜂起の原則にたったたたかいを基礎にすえ、新指導路線の実践をめぐって苦闘する労働者同志との結合を推し進め、そこに根ざした階級的大義と目的を鮮明に表す政治綱領を掲げ、そしてそのもとに労働者党員同志たちはあらゆる形の創造的闘いを繰りひろげ、与田・遠山実力打倒の3・14労働者蜂起に登りつめ、全党の〈党の革命〉の歴史的突破口を切り開いていったのである。

(3)われわれは、フェニックスを〈与田・遠山打倒〉を掲げて結成した。与田・遠山の私党とそれによる支配と抑圧にたいする単なる抵抗組織ではなく、その〈打倒〉を最大の直接的目標としたのである。
 なぜなら、「分派規定」は誤りではなく、与田による特珠な政治的意図にもとづく党の変質の始まりであったからである。やがてわれわれは、その政治的本質が党の私党化であることをつかんだ。私党は獲得や変革の対象ではなく、打倒の対象である。
 そして、早瀬同志によってサザンクロス問題が提起された。これは誤りではなく、犯罪である。階級的大犯罪である。百回革命的○○【処刑】に処してなお到底あがなうことが不可能な罪業である。
 以上のような諸段階に対応してわれわれは、与田・遠山打倒の階級的意義の大きさ、重大性をより深くつかんでいった。すなわち連中が、わが革共同を権力と闘うことができない党へと変質させるものとして登場していること、労働者同志の新指導路線をめぐる必死の実践にたいする最大の抑圧物、敵対物となっていることをつかみ取っていったということである。

(4)ここで与田・遠山にたいする〈打倒〉の立場の意義についてあらためて明確にしておかねばならない。
 それは、これを抜きには新指導路線の党の本格的建設は実際には空論でしかなかったことから明らかである。労働者同志はみな、3・14の前からこのことを完全に経験でつかんでいた。
 さらに、3・14が与田らへの政治的包囲・追放といったものにとどまることなく、労働者自身の革命的暴力による実力打倒として貫徹されたことである。つまり、労働者がみずからの力によって腐敗した権力者の革命的暴力的打倒の闘いを貫徹したことを決定的媒介として、労働者が自己の革命的能力を無限に解き放っていったことが、労働者自身による労働者党建設の闘いの歴史的開始にとって どれほど決定的意義を持つものとなったかということからも〈打倒〉の立場の意義は明白なのである。

(5)〈打倒〉の立場なくしては、与田・遠山とは闘えなかった。
 与田の反労働者的な政治的・組織的特質は、単に本社の一部官僚化した指導部同志に見るような恫喝と強権政治にあるのではない。権謀術数、奸策と陰謀、ペテンとデマゴギー、恫喝と懐柔、強権と籠絡、大衆操作と人心収攬術などファシスト的手法を駆使することにけた外れに長(た)けた策略家であることこそがその決定的な特質である。そして、その階級的本質は、反スタ・革命的共産主義運動の内部から発生、登場し、その極北に階級移行し果てた途方もない反労働者的疎外態である。
 「内田(※医師)同志の言動に関する与田の批判」(05年2月)なる文書を見てみよ。与田は、16ページにも及ぶこの文書の中で、一方では内田同志にたいし「小ブル」「スターリニスト」「卑劣漢」など最大級の罵倒を浴びせ、他方では内田同志の言動をタレこんで、与田への忠勤に励む種田(※ヘルスケアAで収奪した資金、A職場の医師などからまきあげた金を与田に流していた)をほめたたえている。しかも、与田は種田に読ませたこの文書を当の内田同志には見せも討論もしなかったのだ。与田は、このようなとてつもない非同志的態度をとりながら、娘が車(※ローバー・ミニ)が欲しいと言っているからと内田同志から160万円をまきあげたのである。
 また、2月14日の関西地方委指導部会議には「ホッケー議事録の公開にあたって」など4種類、計数十ページに及ぶ文書をわずか2日間で書き上げてきた(※革命をやる気概の一片もないにかかわらず、党の路線とマルクス主義の言葉をちりばめた膨大な文章は何の苦もなく書いてのける! まさに、「L紙【カクマル機関紙『解放』】、「エセ・イスト【カクマル機関誌『共産主義者』】」を読んでいるのではないかと錯覚するほどだ!)。
 これらは一見すると、「強力な路線的展開」とレトリックによって「ベルリン・ホッケーへの背教者=毛利」が精緻に立証されているかに読むものをして思わしめるほどのものである。実際、政治局から地区の常任に至る諸同志のほとんどは、同志的信頼に極めて巧妙につけこむこの「ファシスト的策略のモンスター」の言説のインチキとその背後の意図を見破れず、結局は与田と真に対決することができなかったと言わざるをえないのである。それどころか、「与田指導」に「心酔していた」とか「心服していた」とかいう指導的同志さえ生み出されたのである。
 与田の一見、人に本当らしく、もっともらしく思わせる言説は、所詮巧言令色というたぐいのものにすぎない。どこまでいっても簿っぺらな空疎な代物でしかない。労働者同志の資本との日々のたたかいと、その中でとぎすまされ、打ち鍛えられた階級的感性、その対象的・行動的表現である労働者的な〈打倒〉の立場だけが、与田の恫喝と脅迫を背景にした、どんな巧妙な詐術も「強力かつイデオロギッシュな路線展開」も、そのカラクリと空疎さをあやまたず見抜き、うち砕く力であったということである。逆に言えば、労働者の階級性、革命性を髪の毛一筋も信頼しない、そしてどんな恫喝にも白色ゲバルトにも屈せずたたかう革命家の存在を信じることができない与田のような輩の頭上に3・14の革命的鉄槌がうち下ろされることは必然だったのである。

(6)フェニックスの会議は、05・10・29(結成会議)から06・03・11(最終回)まで計16回開かれた。議長は塩川同志が全回をつうじて担った。毎回「フェニックス・メモ」にもとづく戦局分析、オルグと調査・研究の報告と総括、方針討論などをおこなった。会議場所の確保は難題であったが、工夫して解決した。社内外のフェニックス・メンバー間の討議・連絡は数え切れないが、全員秘匿・防衛をパーフェクトにはたした。

[W]3・14労働者蜂起とフェニックスのたたかい

(1)フェニックスの立ち上げまで(フェニックスの萌芽的形成期)。

(@)10月下旬半ば、塩川同志との与田・遠山打倒闘争にかんする最初の討議を社外で行い、以下のことを確認し、一致した。
@与田・遠山は党とその綱領路線、とりわけ労働者党員同志の新指導路線の実践的苦闘にたいする完全な敵対物である。
A「分派規定」はそのことを鮮明にした。
B与田・遠山打倒をハッキリさせる。打倒は軍事問題としてたてなければならない。
C敵の強さと弱さ、味方の強さと弱さを明確にし、打倒の戦略を形成する。 ★敵の強さについて。
◎与田が中央政治局員であり、政治局内部での影響力自体もかなり大きい。ベルリン・ホッケー討議の状況から議長らの信任も厚いと判断される。また、関西唯一の政治局員である。関西を最大の実体とし、全国にわたる同志会と全国連を基盤としてもっている。与田は現実には、関西ではほとんど独裁者といって過言ではない一個の権力となっている。
◎遠山は、与田のもっとも忠実な私兵であり、大阪府委員会の委員長である。西島は、一貫して与田・遠山の側に与して来、ホッケーとその前後の過程での役割は一層反動的である。
 さらに、10・18「分派規定」にたいする関西地方委指導部会議の議論における態度から判断して、久保田同志(与田に次ぐBOB【革共同中央部落解放組織委員会】指導部、全国連事務局長)、広山同志(労対部長、与田が関西地方委指導部化した)、武藤同志(関西S0B【革共同関西学生組織委員会】議長、与田の高山同志問題への介入などを契機に与田との関係が深く、与田は次代の地方委員会議長と公言していた)、加藤同志(A細胞キャップ。与田がA細胞から追放した志賀同志に代えて関西地方委指導部とした)などは本来基本的に獲得の対象であるが、さしあたりは与田との関係が相当強い人たちである。当面の力関係は、関西地方委指導部内部においてさえ中西同志(社キャップ)を含めても3対7であり、さらに実際の総体的な政治的・組織的力関係は一対数十であると考えなければならない。
★敵の弱さについて
◎「分派規定」をはじめ、連中のあり方における階級的大義の欠如。
◎従って、労働者党員の支持を絶対に得られないこと。
★われわれの強さと弱さ〜敵のそれとは相反関係にある。
★以上の点に踏まえて、持久戦略をとる(時間を味方にする)。遠山打倒とそれを通して与田打倒を切りひらく具体的戦略・戦術を練りあげる。そのために、与田・遠山に関する基礎的な情報収集と研究から開始する。
★打倒闘争にかかわるわれわれ2人の行動については、社内外で完全に秘匿する。
 このテーマに関する討議はすべて社外で行い、社内での交信、伝達はすべてメモ、レターで直接相手に渡す(※以降、3・14まで百数十回を数えたと思われる社内交信は西島をはじめ誰も察知することはなかった)。

(A)われわれはなぜ、10・18「分派規定」の段階で与田・遠山の〈打倒〉の立場をとったのか?
 与田の「分派規定」が、双方の問での路線上の不一致や、兵庫県委員会、京都府委員会の闘いの政治的評価をめぐる誤認識などから生じたものでは全くなく、これが特殊な政治的・組織的意図にもとづくもの以外の何ものでもないという判断に立ったこと、そしてその判断に誤りがないこと、また兵庫県委員会・京都府委員会の闘いが仮に路線上のある程度のブレを持つものであったとしても、断じていわゆる〈分派〉とされるようなものではないことを確信していたことがその根拠であった。
 それは、「分派規定」がホッケーの討議・決定にも明らかに背反するものであること、さらに何よりも、ホッケーに先立つ2年近く(※ベルリン会議【04年、清水氏主宰の関西地方委指導部会議】終了日の夜から始まった〜与田・遠山の「二つの西山【高山】論文」をタテにした「毛利=血債主義」のデッチあげによるゴリ糾。この攻撃は、05年2月、「毛利=血債主義=プロレタリアートへの敵意と絶望=共産主義とは無縁」という定式に仕上げられたが、与田は、これを粛清・追放に際しての思想上の最大の罪状にしようと考えていたことは間違いないと思われる)にわたる与田・遠山による兵庫県委員会・京都府委員会・毛利攻撃がくりかえし行われてきたことから、兵庫県委員会、京都府委員会を「分派規定」したことはその打倒・解体を最後的に宣言したに等しい事態であり、まさにここに党の重大な変質の危機を激しく感じたからである。またこの事態が、連中が毛利の排除・打倒に最後的に踏み切ってきたことを意味するものであることもまた、疑う余地がなかったからである。
※ホッケー終了後、散前の待機時に与田が私の部屋(※岩城同志と同室であった)に来て、次のように通告してきた。「昨日の会議で、議長はあんたに再入党の決意を書けと言った。自己批判は党員が書くもんや。再入党の決意書を書くというのは覚員でさえないということや。次の関西地方委指導部会議に出してくれ」。すでに、完全に新たな事態が始まったことが明らかであった。  以上からも明白なように、生起した事態がここに至る経緯から見て断じて一過的なものではないこと、この党内闘争が兵庫県委員会・京都府委員会・毛利と与田・遠山との倒すか倒されるかの、党の重大な変質を許してしまうのかどうかの最後的段階に突入したという基本認識にもとづいて〈打倒〉以外のどんな道もありえないことを確認したのである。

(B)ホッケー前に与田が出した「フーガ【原筆者注あり、後出】の諸同志へ」「ホッケーの討議課題について」における兵庫県委員会攻撃の異様さへの危機感からホッケーへの往路、塩川同志と討論した。それは、ベルリン直前(04年5月)に塩川同志が意見書(※後述)で出した、与田のありかたと地方委員会指導の問題性について批判した4項目提起を強く支持していたからであった。ここでの討論では、塩川同志からのちの「与田・遠山=私党」認識の端緒が示された。これはその後、ホッケー直後の与田らによる「分派規定」とのたたかいを間をおかず開始してゆくうえで、また全党の与田・遠山への怒りを打倒にむかって結集してゆくうえで、きわめて重要な実践的意義を持つものとなった。

※「フーガ」〜在社関西地方委指導部(塩川、中西、西島、毛利)の会議。週一回、月曜日に開催。

(2)05年10月29日〜第一回フェニックスを開催。

(i)10月下旬、西坂、芹両同志の参加を確認し、第一回フェニックスを4名でスタートした。

(A)与田・遠山打倒の基本的考え方、方針について上述の塩川×毛利討論の内容で討議、基本的に一致した。コードを与田=伊藤、遠山=後藤とすることを確認した。

(B)「与田の『毛利が分派意思を持っている』論」への反論(10・29毛利報告書)を踏まえ、年末年始までの2ヶ月余りを打倒に向かって連中のすべてを一から研究し、情報収集するための「時間稼ぎ」の期間とすることを確認した。

(C)与田がホッケー後「兵庫県委員会、京都府委員会は分派」と言い出したのは何故か?
 フェニックスにおけるこのころの議論は、次のようなものであった。
 与田の党指導、特に労戦指導において行き詰まり、破産してきたことが大きな問題としてあるのではないか? 関西地方委指導部会議のはじめの2年位は3組合論や国鉄など産別論の路線的展開を与田なりに行おうというものがあったが、最近はそうした領域は「政治組織局・メモ」にほとんど下駄を預け、国鉄、3組合、合同労組などの指導は全部広山同志に丸投げという状態だ。これに対応するような形で、部落解放運動の経験を直接無媒介に労戦の領域に持ち込んで指導の行き詰まりを糊塗するようなことをやってきた。「キーパーソン」論、「ペンとノート」論、「権利、要求、…」論、「運動」論などがそうである。しかもこれらは、地区委員長・労対会議の論議では、現場の指導部からことごとく総スカンをくらった。そこから与田は、この1年余り西坂・椿・神山・毛利への批判に踏み出してきたということではないのか。要するに、自らの指導の破産をごまかして乗り切るために「分派規定」をしてきたという構造ではないのか。また、ベルリンまでの与田・遠山は一貫した反中央だったが、これも与田の指導問題として大きい。
〜これらは、西坂同志や私が、地区委員長・労対会議(関西地方委指導部会議)で感じてきたことを述べたものだったが、当時のわれわれは「分派規定」問題の根拠については、もっぱら与田の労戦指導の破産問題から接近しようとしていた。

(3)11月中旬から12月第一週〜計2回のフェニックス開催(この頃は、2週に1回の頻度)。

(@)この期間の討論で闘いとった重悪な事柄は次の2点であった。

@「与田・遠山=私党」規定を確立したこと。
「デマゴギー政治」や「排除の論理」など連中の反動的手法については与田らによる党の私党化という目的との関係における手段として整理した。この規定を確立したことは、与田・遠山が批判の対象ではなく打倒対象であることを簡潔な一語で鮮明にし、かつ全党総決起を訴えてゆく軸となる論理を基本的に確立したという意義をもった。

Aフェニックスの政治目的を「党の私物化、党破壊と私党化と闘い、鉄の規律をもつ厳格な中央集権的な革命党を、労働者的基礎のうえに、上からと下からの双方から再建する」と規定した。
※「上からと下からの」は、中央と労働者細胞との、またすべての同志間における同格性、同質性という本来的党組織論の復権をたたかいとりつつある今日的地点から見れば、問題性を明らかにもつものであった。当時のわれわれの組織論・組織思想における限界性を示しているものである。その上で、その後の現場の指導的諸同志を加えたフェニックスの討議のつみかさね、さらに労働者同志たちとの討論をとおして、この限界性をとらえかえしのりこえるたたかいを進めてきたが、「3・14緊急アピール」などに示される内容を過渡的到達点として確認しつつも、今後さらに深めてゆかなければならない重要な組織論的課題である。

(A)関西地方委指導部会議・地区委員長・労対会議・諸戦線・支社常任会議、その他のあらゆる場面での与田・遠山の言動を「党の私党化」の観点から分析・研究をおこなった。そのなかで与田・遠山の労戦指導の行き詰まりと破産が「分派規定」に踏み切った背景にあるという認識、何よりもベルリン・ホッケーの問題性を分析することが「私党化」の解明にとって重要であるという問題意識が共有されはじめた。

(B)この過程は、上述したように「時間稼ぎ」のための重要な期間であった。
 すでに見たように、「圧倒的に優勢な敵の攻撃にたいしてわれわれは時間を味方にする」必要があった。実際、持久戦略にたって敵味方の強点、弱点を一から正確につかみとることから始めるのであるから、与田・遠山打倒のための時間稼ぎは必要不可欠だったのである。
 従って、与田らが「分派規定」にもとづく攻撃をいかにエンエンとやろうとも、およそこれに対応するようなものではない「自己批判」をこれまたエンエンとつづけつつ、一方で「時間稼ぎ」、他方で敵に関する調査・研究をもっぱらの任務としてこの過程を位置づけ、たたかったのである。  関西地方委指導部会議における「分派規定」をめぐる与田らの議論は、日を追ってある種の凶暴性を帯びつつ進んでいたが、上述したような立場から、たとえば与田が「宝塚請願書問題、岡田意見書問題、地区委員長・労対会議指導問題の3点を自己批判せよ」 と言ったことを格好の口実として、毎回の関西地方委指導部会議ではそのひとつだけを「自己批判」し、これにたいしほぼ全員が非難と罵倒の言葉を投げつけて終わるという状況がくりかえされた。しかし、われわれはこれを「重要な前進」と総括したのであった。塩川同志は、以上のような「時間稼ぎ」という目的の達成と、2人が革命的分派であることを敵から秘匿するため、私への非難・罵倒攻撃の先頭にたって「たたかった」。

 「分派規定」はもともと、与田・遠山ら私党集団が、あるいは連中のありかたを批判し、あるいはこれに従おうとしない同志を屈服させるための手段である。またこれは、そのデタラメ性、何よりも労働者の階級的・党的団結の破壊を本質とするその反労働者性から労働者党員同志を獲得できるものではまったくなく、逆にかならずその怒りの標的となることは間違いないものである。したがってわれわれは、われわれが断じてこれに屈することなく、労働者の怒りと結びついて闘うならば「分派規定」はかならず敵の致命傷に転化できるものであることを確信してたたかった。あえて言えば、一定の情勢の到来までは敵に「分派規定」を振りかざしつづけさせ、これを労働者の怒りの決起で粉砕するという構図をつくりあげることができればそれが最上だと考えていた(逆に言えば、与田に簡単には「分派規定」を「撤回させない」ようにたたかうことがむしろ得策だと考えていた)。

(4)第4回フェニックス〜12月15日。

(@)12月14日、塩川同志のところに早瀬同志が「一緒に死んでください」と言ってサザンクロス告発文書を携えて駆け込んできた。早瀬同志は、告発文書が与田らに発覚し自らが××【せん滅】された場合には、彼と血盟を誓う2人の同志が即座に全党の同志に告発文を配布してたたかう態勢をとって決起したのである。まさに、革命家としてのみずからの全存在をかけた命がけの決断と決起であった。

「革共同中央及び清水議長宛 05・12 関西入管 早瀬」 最高指導部としての権限と権力を不正に行使し、党とその事業を私物化して私服を肥やす与田らの反党的・反階級的犯罪行為を徹底的に断罪し、処断を求める意見書」

 この26ページに及ぶサザンクロス告発文書は、まさに反スタ・革命的共産主義運動とプロレタリア世界革命=労働者自己解放を切り開かんとたたかうわが革共同の労働者党員同志をはじめとした全党員一人ひとりにプロレタリア暴力革命への今日的決起を根底から問うものであった。

(A)翌日の12・15フェニックスでは、直ちにサザンクロス文書(早瀬同志の26ページにのぼる第一次文書)を回覧し、討議した。
@暴露されている与田の不正・腐敗の事実について、全員その場で即座に疑う余地のないものであるという認識に立った。
A戦略問題について〜「遠山→与田打倒」の持久戦略から与田打倒を直接に目指す段階に急速に移行することを目標とすべきであるという基本認識について最初の討議をおこなった。
B与田・遠山打倒の戦術問題を論議した。
 ここで出た主要な意見の要旨は、以下のようであった。
・20人の部隊をつくって『関西地方委指導部会議』の場で与田・遠山を拘束、○○○【簀巻き】にし、早瀬文書を読み上げ関西地方委全員に自己批判を要求、全員携帯電話を取り上げ禁足のうえ、翌日の拡大地方委指導部会議に与田・遠山、その他の関西地方委全員をひきずりだし、徹底的に断罪する。その場で与田除名の中央への要求、遠山除名を決議する。
・本社政治局会議開始直前に本社で与田を拘束し、本社政治局全員に与田の犯罪を突きつけ暴露し、除名を要求する。次の関西地方委指導部会議で遠山を拘束・○○○【簀巻き】にし、関西地方委全員とともに拡大地方委指導部会議に引きずり出し除名を決議する(※作戦遂行上、与田、遠山の物理的分断が得策との判断も関連している〉。
・早瀬文書を中央に送りつけ、同時に・全党員にばらまく。etc.etc.

〜この日の戦術議論は、弾圧問題、対中央問題などをどのようにクリアするかも含め、次のフェニックスで継続討議することで終えた。
C早瀬文書については、サザンクロスの事実問題についてより正確な確定に全力をあげることを確認した。その直後から、早瀬文書に関して毛利がリストアップした100項目ほどの疑問・質問をも含め、塩川同志が早瀬同志を介して志賀同志と直接会うなどして、徹底的な事実確認の作業を推し進めた。

(5)第5回フェニックス〜12月20日。

(@)「分派規定」問題で開始した2ヶ月間の与田・遠山打倒闘争は、早瀬同志のサザンクロス問題の革命的暴露による〈与田・遠山問題の核心=財政的不正・腐敗〉のつかみとりを媒介に新たな段階に突入した。
 それは、われわれがサザンクロスという与田・遠山打倒の決定的武器を手にしたということにとどまらない。与田・遠山打倒への労働者党員同志をはじめとした全党の総決起の論理が浮かび上がってきたということであった。誰の目にも「与田不正」問題を基軸にロザリオ問題、「分派規定」問題、「芹【吉岡】同志=スパイ規定」問題(※05・12・12関西地方委指導部会議で与田が「芹【吉岡】は、組織をまたいでいろいろなところに出没している。学生を年1回、KSF〔=関西入管交流集会〕の時何人か呑みに連れ出している。そのカネはどこから出ているんか。おかしい。革共同集会の晩、オレの部屋に黙って入ってきてオレが「何や」というと「おるんか」といって出ていった。怪しい。スパイとしかおもえん」と言ったこと)、大阪府委員会・A細胞をはじめとした労働者同志にたいする様々な分断と抑圧の問題etc.が結合し、これがひとつの全体としてとらえられ、打倒闘争への全党的・主体的決起の実践的論理形成されたということである。
※「芹【吉岡】=スパイ」規定問題について〜与田がスパイとしてデッチあげるために芹【吉岡】同志の財政状況について調査をするよう指示していたことが2月下旬、津山同志(※芹【吉岡】同志と同じく労対〕の証言で判明した(※※この件に関する津山同志のレポートが出されています)。
12・20フェニックスは、そうした新たな情勢のなかで、与田・遠山打倒闘争の政治目的の明確化、基本戦略の確立、本格的な戦術的検討の開始、etc.あらゆる意味で3・14労働者蜂起へいたる出発点、かつ土台をつくる会議としてかちとられた。

(A)「与田不正」問題の提起に対応した戦略上の根本的見直しについて本格的討議をおこない、以下のことを確認した。
@遠山打倒→与田打倒戦略から与田そのものの打倒(与田・遠山の同時的打倒)へ戦略的に転換する。
A長期持久戦略から戦略的対峙・総反攻へ急速に移行すべきことを確認した。
B戦略問題の討議においては、神山同志から「これまでの塩川・毛利らの『遠山→与田打倒』の持久戦略は日和見主義である」という批判が出された。
 つまり、われわれが、兵庫県委員会・京都府委員会の闘いとの一定の結びつき、「分派規定」問題との対決の開始、関西地方委指導部会議〜拡大地方委指導部会議における若干の攻防の経験など限られた視野にもとづいて彼我の力関係を判断し持久戦略を採ることをリアルなものとしたことにたいして、神山同志は、被災地労働運動と兵庫県委員会における新指導路線の実践をめぐる与田・遠山によるその「決定的過小評価→敵対」との闘い、ロザリオ問題をめぐる格闘を通しての与田の問題性のつかみとり、労働学校での経験などによって、労働者党員同志のたたかいの現実の中にすでに与田打倒の主体的条件の成熟が存在していると主張したのであった。それは、一定の正しさを含む意見であった。
 その上でしかし重要なことは、与田・遠山の支配と抑圧のもとにある大阪府委員会の労働者党員同志の怒りとたたかい、ロザリオ問題をめぐるA細胞の労働者の苦闘、全戦線にわたる党員同志の怒りと苦闘と兵庫県委員会・京都府委員会の労働者の闘いとを結びつけ、与田・遠山打倒という目的のもとに糾合してゆくことであった。したがって、しっかり確認されなければならないことは、フェニックス派の当初方針が日和見主義的であったかどうかというようなことではなく、それが与田・遠山の実力打倒を決断し、それを具体的目標の決着点として掲げたこと、そのための革命的分派を組織的に結成し、彼我の強点・弱点を一から徹底的にリアルに研究・調査し、与田・遠山によって分断されている諸組織と諸同志を、〈与田・遠山打倒〉と新指導路線の党の建設という階級的大義と目的のもとに結集し、蜂起の政治的・軍事的準備を徹底的に具体的に推し進めてきたことであった。
 そして、このようにして闘ってきたからこそわれわれは、早瀬同志による「与田不正」問題の提起にもとづく如上のような戦略的転換のうちにのうちに神山同志の提起をも吸収・包摂しつつ、上記のようなそれまでの双方の「限界性」をともに実践的に止揚していったのである。

(B)この闘いの政治目的について〜第3回フェニックスの確認(※前述)を断固堅持することを確認した。

(C)戦術問題の検討。
@中央への直訴方針について。
〜はじめて真剣に検討したが、全員反対意見を表明した。討議の要旨は以下のようであった。
・この方針は組織原則的にはより妥当であるかに見えるが、今回の問題が一般的組繊問題ではなく、政治局の一員であり、かつそこに一定の人脈を形成し、とくに議長・書紀長らの相当厚い支持を受けていると判断される現状では、単純に直訴方針をとることは運命を他にゆだねるものであり、本質的に他力本願的である。この問題を解決する立場は、あくまでも自らの力に頼み、すべてを自力できりひらくべきである。
・与田の「分派規定」問題を知らないはずはないのに、中央では誰も問題にしている様子がない。これでは信用しようがない。
・ホッケーの討議、あれはなんだ。中央のやることか。全然信用できない。 ・本社政治局会議の日に本社で与田を拘束し、本社政治局・メンバーに訴える路線も軍事戦術的難点だけでなく、岸同志らが先頭になって「中央が預かる。中央の責任で解決する」とか「調査委員会を設けて真相究明する」とかでごまかすに決まっている。これと対決する、信用できる人物はサッカーにいるのか etc.
A〇〇方式【軍事方式】〜対権力関係が読み切れない。またリスクも少なくない。
Bサザンクロス文書の全党ばらまき方針。
 〜具体的決着点をどこにすえるか、それをどう実現するかについて、不確定要素に左右される面が多いため、無理と結論した。また、組織原則的にも難点があると判断し却下した。

(v)以上のような議論の上で、あくまでも組織原則的に闘うが、しかし軍事性を高度に含む方式を徹底的に編み出すための討議を開始したことが重要であった。
 なお、この「軍事性を高度に含む方式」についての検討の討議は、蜂起に対する党内外でまきおこると予想される「軍事クーデター」論をどうやって粉砕するかの問題と一体でその後ずっと激しく論議された。

(vi)この時点での戦術的イメージは概要、以下のようであった。
 サザンクロス+ロザリオ問題、「分派規定」問題、「芹【吉岡】同志=スパイ」規定問題をめぐる階級的大義を真正面から掲げ、2日間の関西地方委指導部会議−拡大地方委指導部会議を通して、「与田の政治局はじめ全役職からの解任と除名要求決議、遠山の全役職からの解任と除名決議、サザンクロス文書の全党配布の決定」の3点の獲得目標を貫徹する。そのために、関西地方委指導部会議には20人の行動隊が突入、塩川・毛利と合流し、与田・遠山を拘束・捕縛する。他の関西地方委指導部会議メンバーにたいしては真剣で丁寧な説得を最後までやり抜くが、なおこれに応じず反動的抵抗・敵対によって決議が成立しない場合、全員を拘束したまま翌日の拡大地方委指導部会議になだれ込み、関西地方委指導部について全メンバーの罷免、機関としての解体を貫徹したうえで、上記3点の決議を実現する。
 この戦術を実現するために、まず兵庫県委員会、京都府委員会、WOB【関西労働者組織委員会】、社、戦線etc.の常任を軸とした20人の行動隊を蜂起当日に組織できるかどうかが具体的に検討された。

(F)決起の時期をいつにするか。
〜年末年始返上で準備し、年明けの関西地方委指導部会議−拡大地方委指導部会議での決起を目指すことを確認した。
 それは、サザンクロスをめぐる権力の先制的弾圧が差し迫っている、これを許した場合に権力、ブルジョア・マスコミ、カクマルらが展開する空前の反NC【NCは革共同全国委員会の略称】キャンペインをも含めて、党の受ける政治的・組職的打撃は計り知れないものとなるという激しい危機感からであった。
 実際、12月上旬には「243万(=170万十73万)」問題をめぐる府の監督官庁の調査が入り、中旬には与田がそれへの対応に激しく動いているという情報がもたらされていた。また全国情勢としても、12月4日にはJR総連に4日間にわたるガサ、8日には関生・戸田議員弾圧など「カネの流れ」を口実にした革命運運動・労働運動への弾圧が一挙に激化していた。

(G)さらに、討議の中で与田・遠山打倒闘争の全党総決起を切り開くうえで、何点かの重要な認識上の深化がはかられた。
@サザンクロス問題とロザリオ問題とを完全に一体的に把握することが重要であることを明確にした。与田にとってロザリオ問題とは何であったかということが、サザンクロス問題という恐るべき不正・腐敗の卑劣きわまる隠蔽策動に他ならなかったものとしてハッキリつかみとられたのである。
A与田による「分派規定」もまた、まさに財政的不正・腐敗の隠蔽・継続・増殖という目的のための私党化の手段であることが明確となった。
B与田が12月中旬の関西地方委指導部会議で冗談半分を装いながら「芹【吉岡】の挙動は不審、スパイや」といったことを「あれは冗談ではなく本気で言ったものである。与田が『芹【吉岡】=スパイ』規定をしたもの」であることを確認し、今後サザンクロス、ロザリオ、「分派規定」の諸問題と並ぶ重大な対決課題としてゆくことで一致したことも重要であった。
 与田は、一方ではホッケー討議における諸事実が示したように清水議長をはじめ政治局の諸同志をさえデマとペテンでたぶらかすことを何の躊躇もなくやってのける。他方では自己に対立的・批判的意見をもつ同志とその行動にたいして「スパイ」「フラク」「解党主義」などのレッテルを、軽い、あるいは冗談っぽい言い方にくるんで貼り付けながら、実はそこに当該同志を排除・打倒してゆくおぞましい策略、意図をひそませ、かつその実現のために全力をあげる。そういう徹頭徹尾腐敗した、しかし決して甘く見てはならない反動的策略家である。
 このことをもっとも鮮明かつ典型的に示したものこそ与田によるロザリオの犯罪であるが、「芹【吉岡】=スパイ」規定問題をめぐる論議の時点で、このことをしっかりと対象化し、これと対決することを確認した意義も大きかった。

(H)なお、今日振りかえると、10・18「分派規定」にたいして、その時点で与田・遠山〈打倒〉を明確にし、連中の政治的・組織的本質が〈私党〉であることをつかみとり、〈蜂起指導部〉を結成して闘ってきたことは、重要な意義があった。早瀬同志によってサザンクロス問題が提起されたとき、即座にこれに戦路的・戦術的対応をおこない、その後さまざまな曲折を経つつも3・14蜂起に向かって揺るぎなくたたかうことができたのもそのおかげであった。

(x)この回から、神山、早瀬同志がフェニックスに加わった。また、椿同志のフェニックス参加をめぐる討論が始まっていた。

(6)第6回フェニックス〜12月28日。

(i)労働者党員同志の決起を組織するためにどうたたかうかをめぐる討議を開始した。とくに、FC(大阪府委員会)の労働者の組織化がほとんど手つかずという危機的状況をどう突破するかは重大な課題であった。フェニックスにおいて、このテーマの重大性、死活性についての認識は明白であった。  そこでまず、大阪府委員会の構成と実体および組織現状、A〜Gの7地区の指導部的構成と実体、4大産別委員会の構成と実体、港合同はじめ大阪府委員会の労働運動拠点の実体と現状などを一から正確に掌握することから始めた。われわれの大阪府委員会についての実体的・実態的認識は、4大産別委員会はともかく地区党については、恥ずかしいレベルと言って言いすぎではないような現状だったからである。

(A)蜂起の時期の設定をめぐってフェニックス内部で論争が開始され、それは2月中旬まで続いた。瞬時に、これは蜂起の時期の問題と結びつきながらさまざまな重要な諸問題をめぐる論争として展開された。
@蜂起の時期設定の問題と大阪府委員会労働者の決起の組織化の危機的現実との矛盾的関係をどう解決するのかをめぐる論争について。
 フェニックスにおいて、何よりも権力のサザンクロス問題を口実とした弾圧の切迫、さらに党の中枢からのすさまじい腐敗と党破壊による党の変質の急速な進行、改憲決戦の危機的立ち後れなどにたいして、蜂起の時期問題に待機主義的に構えることであっては断じてならないということは前提であった。その上で、大阪府委員会については4大産別を軸とした一定の中心的労働者が兵庫県委員会、京都府委員会、奈良県委員会の労働者とともに決起する条件が形成できた時点で即座に蜂起を敢行すべきであるという主張と、ギリギリ可能な限り多数の決起を実現するためにこの主張を時期尚早として蜂起を数ヶ月先とすべきであるとする意見とがくり返し対立した。
 この問題は実際には、一方では2月中旬までの相当数の中心的大阪府委員会労働者同志の決起の組織化、2・11以降の連判状方針のもとでのその着実な拡大と発展、他方における兵庫県委員会労働者同志による「与田レター」を焦点とした与田弾劾のたたかい、その関西地方委指導部会議−拡大地方委指導部会議の全体を巻き込むたたかいへの発展etc.そしてこれに追いつめられた与田・遠山の反動的あがきの一挙的激化などの主客の情勢の煮詰まりをとうして、決戦の日程が3・14に絞り上げられたことによって実践的に解決されていったのである。
A与田・遠山打倒闘争の労働者蜂起における党常任の死活的位置と役割の評価についての意見の相違が浮かび上がった。
 フェニックスにおいて、蜂起の核心的主体として労働者党員同志を措定することでは完全に共通の認識に立っていたが、蜂起戦における常任あるいは職革の役割をめぐる評価、位置づけについては厳しい意見対立がつづいた。端的に言えば、常任あるいは職革を軸とした秘密の蜂起指導部の存在とその役割の必須不可欠性、死活性について積極的に承認する立場に立つのかどうかという対立であった。
 これは、単に戦術上の意見の相違ではなく、明らかにある種の組織論的・思想的対立の性格をもつものであった。また、これは第6回大会路線〜新指導路線における軍事の問題をどのように考えるかという事柄への接近の方法や角度の相違にもかかわるシビアな対立であったということができる。そうした同床異夢と言ってもいいすぎではないほどの意見の厳しい相違、対立をはらみつつ、しかし労働者党員同志が3・14蜂起に総決起し、その決定的瞬間まで常任が蜂起戦指導において他に置き換えることのできない決定的役割を実際に果たし、そうして労働者党員同志とともに労働者蜂起の勝利をたたかいとったことで、この問題は実践的・現実的に解決されていったのだと総括することができる。
 そして、何よりもこうした意見対立の困難をのりこえてゆくことができたのは、相互の同志的信頼とそれにもとづく一致のための真剣なねばり強い討論をうむことなくつづけたからであった。
B与田の実力打倒がもたらす同志会、全国連との厳しい緊張関係をどう考えるかはフェニックスの議論においても最初から最後まで一貫した深刻なテーマであった。
 この間題の厳しさを解決せんがための苦悩から、断固たる○○【簀巻】を貫徹することについて回避する意見も一時出された。
 早瀬、神山同志がセンターでサザンクロス、ロザリオ問題の告発・糾弾を与田にたたきつけ、座り込み、与田とその私兵にボコボコにされることでサザンクロス文書の全党配布の権利をいわば倫理的に獲得するという方針がその一例であった。また、関西地方委指導部会議の場に押しかけて告発・弾劾をおこない全党に暴露するが、与田・遠山の身柄は拘束せず帰すという案も出された。

 しかし、与田・遠山のやっていることは単なる誤りではない。革共同の「処分問題」に関わる規約条項にも想定されていないような途方もない階級的犯罪である。ただ怒りの革命的鉄槌あるのみである。プロレタリア革命の党としてとるべき態度としてそれいがいには断じてありえない。勿論、同志会の同志たちが抱くであろう感情というものは決して軽んじてはならない。しかしこの問題は、どこまでも党の問題である。党中央政治局員・与田によるすさまじい不正・腐敗、そのための党の私党化によって党が権力と闘えない党へと最後的に変質し果てかねない事態を許すのかどうかという問題である。百回××【せん滅】してもなお足りない階級的大犯罪であることを真っ正面から打ち出さなければならない。そして、長年にわたって日常的に与田の直接的指導下にあった同志会の同志たちこそが彼奴の正体をつかみ、暴き出し、このプロレタリア革命と革命的部落解放闘争の最大の敵にたいし誰よりも怒りを大爆発させて総決起し、労働者同志たちとともに与田打倒に立ち上がるべきであったのだと断固提起しなければならない。そのうえで、同志会の同志たちのイストたらんとするものとしての戦闘性を固く信頼し、与田・遠山打倒闘争への支持と決起を訴えてゆかなければならない。与田打倒の階級的大義のもとに、どのような曲折があろうと同志会の同志達はかならず結集することに深い確信を持ってたたかうべきであるetc.etc.
〜こうした討論をくり返し重ねて、○○【簀巻】貫徹での一致をたたかいとっていったのである。
〜この討論はまた、労働者の革命的暴力の圧倒的正義性・当然性をあらためてしっかりつかみ直し、確認する点でも重要なものであった。実際、3・14蜂起直後から起こった少なからぬ「テロ・リンチ」論の非難は予想を超えるものであったが、これにたじろいだ労働者党員は誰一人いなかった。いやそれどころか労働者同志たちは、労働者階級がその階級敵にたいしては、みずから革命的暴力の行使によってこれを打倒することを通して自己の革命的能力を無限に解き放ってゆく真に革命的存在であることを身をもって示したのである。 C「サザンクロス問題はいつでも使える」論。
 これは簡単化して言えば、大阪府委員会・A細胞などの労働者同志の大多数の決起を保証するために、それに必要な時間をかけるべきである、「サザンクロス問題はいつでも使える」のだから、という主張であった。労働者同志の可能な限り多数の決起をどうしたら実現できるかという積極的立場からの意見であるが、やはり権力のサザンクロス弾圧、改憲決戦etcの諸問題がはらむギリギリのタイムリミットをみすえながらたたかうことが大切であることをしっかりと再確認していった。
D蜂起に対して予想される「クーデター」「宮廷革命」という反動的党内キャンペインとどうたたかうか。
 この問題に対処する論理として、フェニックス討論では一時、「緊急避難」論が出された。その内容は概要、与田・遠山の腐敗と指導の破産の現状にストップをかけなければ党は腐ってしまう、こうしたやむにやまれぬ思いから、もはや彼らにたいしては断を下さざるをえない、何よりも関西の党は彼等にかわる新たな指導部をつくらないことには新指導路線を前にすすめようにも一歩も進めることができなくなっているのだ、かくなる上はもはや彼らに実力で退陣を迫る以外にないといった論理である。
 これは、「やむにやまれぬ決起」論とも通ずるものといえるが、また説得の論理として一定のリアリティをもつものだが、やはり防衛的論理に終始しているという限界性をもつものであった。「クーデター」論、「宮廷革命」論にたいしては、現実には労働者同志自身が蜂起へ実体的・大量的に決起することで実践的に粉砕した。また「緊急避難」論の限界性も、この労働者同志たちによる腐敗した権力者にたいする革命的暴力の行使の貫徹、それを通しての労働者自己解放の爆発的発揚のうちに吸収され、止揚されていったのである。 Eその他、「政治的・組織的にはまだ敵が優勢、一定期間政治戦に力を投入する必要あり」の重要な意見が出されたが、これも上述のような情勢展開の中で現実的には基本的に解決されていったといえる。
Fなお、11月前半段階である同志から「上からのたたかい」にたいする消極的評価のうえで「現場に徹底的に依拠してがんばれば負けない」とする意見が出された。
 この意見には、われわれを含む党の指導部の現状への厳しい批判が含まれている。このことをまずしっかりと受けとめなければならない。その上で、「現場に徹底的に依拠する」こと自体は正しいが、しかし、この同志の主張のままでは事実上、蜂起指導部の果たすべき役割を否定し、指導機関におけるたたかいと労働者同志の現場のたたかいとの双方から党内闘争を統一的に推し進めてゆくということを実践的には否定するものになってしまいかねなかった。この意見は、与田・遠山の不正・腐敗、党の私党化にたいして、またそれをめぐる権力の弾圧にたいしてやはり受動的であり、結局は連中によって「合法的」に粛正・追放されるという敗北主義につながると言わざるをえないものであった。
 しかし、その同志は3・14蜂起に断固決起しまさに今3・14革命の最先頭でたたかっている。このように、われわれは皆、ここで触れたような過去の「限界性」を実際のたたかいの経験をとうして圧倒的にのりこえていったのである。   (B)与田問題の核心中の核心がサザンクロス問題であること、ここからすべての事象を徹底的にとらえかえしてゆくことを強く確認した。
@与田による一切の党の私党化、私物化、私兵化の根底には、サザンクロス問題がある。それを隠蔽、擁護、合理化する努力が与田のすべての行動を規定しているという認識を確立した。不正・腐敗の隠蔽・継続・拡大(目的)と党の私党化(手段)との関係をつかみ取ったということである。
 そのことを押さえた上で、フェニックスとして与田による党の私党化という問題領域の解明作業を開始した。12・28フェニックスでは私党化の過程とその実体について基礎的把握のための討議をおこなった。
Aまずサザンクロス問題について
〜第一に、01年春の早瀬、志賀両同志による与田、高山同志への意見書提出と握りつぶし。第二に、01年8月、与田が「高山は実質的処分、これまでのアマデウス(※『EAGLE=関西地方委員会』のLC【指導機関】という位置づけであった)は与田対策会議」と言って、与田の不正・腐敗を知る高山同志を追放して、みずからが関西地方委キャップとして登場したこと。第三に、03年9月の「ボート」という会議で塩川同志が高木同志に「A細胞は与田の利権の場となっている」と指摘したこと、etc.
B次に、関西の指導体制の私党的再編について、塩川同志がベルリン直前(04年5月)に高木(→清水)同志に提出した意見書に沿って討議した。
 意見書は、与田の01年8月の「関西地方委員会議長」着任以降の「関西の組織再編」の問題性を以下の4点において批判したものであった(※当時、与田のありかたを徹底的に批判したものであったが故に、与田はこれにたいし具体的解答を一切回避したうえで、「塩川は『旧態依然とした貫徹=人づくり』論にたっている」などというペテン的すりかえ的批判を行い、あまつさえ塩川同志に自己批判を要求した)。
 その批判の内容は、次のようであった。
 第1に、アマデウスを拡充してSONATA【関西地方委指導部会議】とし、これを執行権のある地方委員会とした。そして、EAGLE【地区委員長・労対・諸戦線・支社常任会議】は拡大地方委員会とし、議決権、執行権のないものとした。
 第2に、EAGLEを2つに分割して、単一の意思形成ができない機関とした。
 第3に、そのうえでどちらのEAGLE(BACH【諸戦線・支社常任会議】、SCHUBERT【地区委員長・労対会議】)にも与田が責任をとらない体制にしたこと。
 第4に、前進社関西支社に全く座らず、地方委員会の中枢としての責任をとらない体制としたこと。
〜これは、与田とそのもとでの「S0NATA−EAGLE」の組織論的問題性を批判したものであるが(※ここではすでに、与田の私党化が直観的につかまれている)、今回サザンクロス問題からこれを〈関西の指導体制の私党的再編〉という事態そのものとして明確にとらえかえしたのである。またこれは、与田打倒を同時に〈SONATA解体=EAGLEの関西地方委員会としての本来的正置化と再確立〉としてたたかいとる(※全同志への緊急アピールの4つの要求のひとつ)という、3・14革命における重要な実践的指針となった。
※塩川同志は、05年10・28報告書で再度、EAGLEの組織形態の問題性について、「@EAGLEをSCHUIBERTとBACHに分割したこと、AEAGLEが地方委員会ではなく、拡大地方委員会であるとしたこと、BEAGLEの直接の責任者が与田同志ではないこと、C中枢が関西支社でなくセンターであること」を挙げて与田を批判した。
 しかし、与田は11・1関西地方委指導部会議で「現在のような体制になっていることにはいろいろな歴史的経過と事情があることだ」などという屁理屈で言い逃れの末、これを暴力的に却下したのである。
※※EAGLEとその2分割体制について。
・一方が、BACH〜責任者・西島、中西、小田、松井、住田、堀尾、夏木、水口の社及び戦線の同志で構成。
・他方が、SCHUBERT〜責任者・毛利、遠山、岩城、牧瀬、西坂、椿、神山、津山の地区党、労対の同志で構成。
・10・18関西地方委指導部会議での解任処分以後は、EAGLEの全体的統括及びSCIIUBERT責任者は毛利から塩川同志に代わった。 Cさらに、ベルリン、ホッケーの問題点を与田の〈私党化の観点〉から批判的に解明する作業を開始した。これは、その後の与田打倒闘争論の形成にとって極めて重要なたたかいとなった。

(C)年末年始のオルグ計画(全員)、さらに簡潔なサザンクロス告発状の作成(早瀬)、私党化問題の年表作成(毛利)などの任務を決定・確認した。

 

(7)第7回フェニックス〜06年1月8日。

(@)椿同志が加わり、フェニックスの「7人委員会」の体制が最終的に確立した。

(A)蜂起の時期についての討議の継続
 遅くとも1月中(※一月の関西地方委指導部会議は17日と31日であった)に実行すべきという意見(※権力のサザンクロス弾圧の切迫、改憲決戦の立ち後れへの危機感から)と時期尚早論(※「1月中では大阪府委員会労働者の決起の組織化が限られる」「このままの状態で実行すれば『宮廷革命』『クーデター』キャンペインに勝てない」etc.)との間で激しい議論となったが、結論的には「早くとも2月中旬か下旬を一応の目安とする(※2月の関西地方委指導部会議は14日と28日であった)」ことを確認した。

(B)戦術問題、蜂起の性格規定に関する討議。
@神山同志から神山・早瀬両同志による関西地方委指導部会議への突入、与田・遠山徹底弾劾、関西地方委指導部メンバーへの自己批判要求という蜂起戦術案が出された。これは、05年12月28日の拡大地方委指導部会議における神山・椿同志の決起(※12・7与田レター、12・12椿返信、岡田意見書の3文書の拡大地方委指導部会議への公然たる持ち込みと討議、とりわけ与田レターへの徹底批判の展開)とそれが切り開いた情勢を引き継ぎ、発展させようとする問題意識から提起されたものであった。
 これはまた、与田〇〇【簀巻】戦術が党と同志会、全国連との間に激烈な対立を引き起こす危険、とくに〇〇【簀巻】戦術を採った場合に予想される「部落差別襲撃」というキャンペーンにたいする闘いの困難性をどのように突破、あるいは回避するかということを真剣に考えて出されたものであった。与田打倒闘争が避けて通ることのできない問題が戦術問題として問われたのであった。
 この日の論議では、この戦術では不正・腐敗問題についての「調査委員会の設置」(※その場合、西島が調査委員長に名乗り出る公算が大であると考えられた)などでのすりぬけ、「不正・腐敗はデッチあげ」などの反動的キャンペインの大々的展開、さらに逆自己批判要求etc.となる可能性が高いという判断をおこなった。
Aこの戦術論議は、与田・遠山打倒闘争をどのような組織的形態で闘うのか、またこの蜂起の基本的性格をどのように考えるかという討議と表裏一体でおこなわれたことが重要であった。
 この日の討論を通して確認した事柄は、概要以下のようであった。  フェニックス・メンバーの蜂起的決起を前提としつつ、全党の総蜂起をかちとり、血を流しても、逮捕も辞さず勝利を切り開かなければならない。中央にゲタを預ける立場は断じてとらないが、しかし中央も、全党も絶対に獲得するというスタンスを貫き通さなくては勝利することはできない。
 与田・遠山打倒闘争の政治目的が、党の私党化、私物化を粉砕し、労働者党員の生き生きとした細胞活動の革命的再生をかちとり、レーニン主義的な党を労働者的基礎の上に再建することにこそあることを踏まえたとき、この蜂起は地区党をはじめとした全党の政治的蜂起として闘いとられなくてはならない。両同志の闘いだけにゲタを預けるようなありかたはありえない。神山・早瀬同志のサザンクロス・ロザリオ決起、兵庫県委員会・京都府委員会の労働者の「分派××【せん滅】」恫喝への怒りの決起、大阪府委員会労働者の遠山支配にたいする怒り、芹【吉岡】同志の「スパイ規定」にたいする断罪のたたかいをしっかりと結合し、その全体性をもったアピールが全党の怒りの総蜂起を呼び起こし、牽引するように闘われなければならない。こうした労働者党員の決起を軸とした全党的総蜂起を実現することこそ、同志会・全国連問題の原則的解決の道を開く鍵である。
 この蜂起戦の基本的性格は、従って高度の軍事性をはらんだ政治的蜂起戦であると規定することができる。

(C)05・12・28拡大地方委指導部会議における神山・椿両同志の決起の意義についての評価と○○○ら3人の同志の形勢観望的態度、とくに○○同志の「党維持派」メンシェビキ的態度の問題を厳しく見すえて闘うことが必要であることを確認した。

※神山・椿同志の12・28決起について。
▽椿同志発言(『前進』新年号討論のなかで、与田レターの概要を紹介したうえで)
・根本的不一致と言われながら内容が明らかにされない。文書の公開を含めてやってほしい。10月からずっと要求している。
・与田は、兵庫県委員会メンバーのつれあいのA職場のフラウを「操り人形」だと考えているのではないか。彼女たちにたいする侮辱と考えざるをえない。
・このような非同志的やり方について、拡大地方委指導部会議としての見解を出してほしい。
▽神山同志(椿発言に関連して)
・この問題は、拡大地方委指導部会議で徹底討論すべきだ。そもそもEAGLEが地方委員会のはずなのに、SONATAといったものをつくって、このような問題を拡大地方委指導部会議でなぜ討論させないのか? 討論を全党公開してくれ。
・「現場第1主義=解党主義」という拡大地方委指導部会議レジュメにあった内容について、これは、労働学校を中止させようとするためではないかと、岩城同志に言ったら、翌日か翌々日に、与田から、「あの現場第1主義とは土橋や大谷のことだ」と電話がかかってきた。一体なんでこういうことになるのか、拡大地方委指導部会議は監視されているのか?

(v)この日の討論の中で、神山同志から「昨年の毎回の関西地方委指導部会議に提出した『毛利自己批判』は、偽装転向のような文章だ」という批判が出された。
 これは、11月上旬に決定した10・18「分派規定」から年末年始までの「時間稼ぎ」方針とそのための「自己批判ならざる自己批判」方針が、神山同志に十分伝えられていなかったために起こった批判であり、無理からぬものであった。
 実際、その「自己批判」なるものは、その姿勢だけは真剣だと敵をして思わせる、また中味も結構きわどく書く、しかし敵の要求するものは一切拒否するというものであった。われわれが目的をなしとげるためには、与田のような半端ではないブルジョア的策略家を相手にしては、敵を欺くためにはまず味方を欺くくらいの手段を必死で考え、実行しなければならなかった。だから、与田に勝つためには「韓信の股くぐり」もいとわず、「狸と狐の化かし合い」のような議論もまさに「化かしきる」ために本当に血道をあげたのだ。

(E)フェニックスの重要な課題のひとつは、中央路線にたいする与田・遠山の背反の革命的暴露とともに、これをのりこえる路線的深化、4大産別決戦と改憲決戦の方針を労働者党員同志にたいして提起することであった。
 そのための闘い第一歩として岡田意見書をめぐる討議、路線問題の観点からする与田・遠山の反中央性の内容的解明と批判の討論を開始した。
 後者については、与田・遠山がベルリンまでのみならずベルリン後〜ホッケー〜現在をつらぬいて、国鉄・全逓・教労・自治労の4大産別、百万人署名運動、諸戦線、反弾圧闘争などの全領域にわたって反中央の立場とそれにもとづく路線的背反を続けてきたことを具体的事実において明らかにした。これらの領域における革命的批判の討議において西坂同志、さらに椿、神山同志の果たした役割は大きかった。
 この闘いは、与田がサザンクロス問題の隠蔽・防衛のために振りかざす「路線問題」なるもののデタラメで空疎な反中央的正体とその反労働者的目的を暴き出し、新指導路線の実践をめぐって苦闘する労働者同志の3・14決起に大きな力をもたらすものとなった。

(F)1月10日前後、A細胞・森村同志によってロザリオ問題に関する膨大な資料が芹【吉岡】同志に提出された。
 与田がその不正・腐敗とそのための私党支配の最大の対象としてきたA細胞という最も困難な戦場において佐田同志とともに、孤立の中で一貫して不屈に与田と対決し、ロザリオ問題の犯罪を糾弾しつづけてきた同志のあらたな決起の決断であり、労働者蜂起への合流の開始であった。森村同志の決起は、それに続く森同志(※A職場労組委員長、現A細胞委員会委員長)をはじめとしたA細胞のたたかう労働者同志達の決起と結びつき、与田の私党支配の牙城を根底から転覆するという巨大な戦略的意義を担うたたかいへの発展をきりひらく真に先進・先駆的たたかいであった。
 また、森同志がもたらしたロザリオ問題に関する資料は、神山同志(※佐田同志のつれあい)をはじめとした諸同志によるロザリオ問題における与田の階級的犯罪の解明・分析と革命的暴露のたたかいにとって決定的な役割をはたした。

(G)このころまでに、中西(※社キャップ)、住田(※救対キャップ)、藤崎(※救対)をはじめ在社の中心的な同志のなかばが決起を決断していた。

(H)05年一年間の与田・遠山らの言動とそれとの攻防に関する対象認識のための文書リストの作成。
 関西地方委指導部会議−拡大地方委指導部会議関係文書一覧を3部作成し年末年始、フェニックスの全員回覧とした。「分派規定」問題を中心とした関西地方委指導部会議レジュメ、関西地方委指導部会議議事録、関西地方委指導部会議メンバーの報告書、ホッケー議事録、与田のホッケーに向けての2つの文書、塩川同志の地区委員長・労対会議レジュメ、与田の05年2月の「西坂・椿・毛利はフラク的解党主義」規定の文書、遠山の北川・大久保同志にたいするデマによる教労戦線からの追放を扇動した05・3・4報告書(※「北川は『労働組合=ダメ』論を主張している」など)etc.etc.などである。

 これらは、フェニックスにおける共通の戦局認識、与田・遠山批判の実践的方針形成etc.の議論の基礎的ベースとなった。

(x)関西地方委指導部会議における攻防情勢、現下の戦局、拡大地方委指導部会議での闘争方針、オルグ報告などについてのフェニックス諸同志への伝達・連絡と討議・意志統一の体制について
★05年12月までは、大きな節目に椿同志と討論していた。06年1月からは毎関西地方委指導部会議終了後、その日の内に、関西地方委指導部会議レジュメ、関西地方委指導部会議メンバーの報告書をコピー作成し、神戸で神山・椿同志とTALK、関西地方委指導部会議論議を報告し、戦局討論と翌日の拡大地方委指導部会議でのたたかいの方針討議、オルグの相互報告などを行った。これは、2・28の最後の関西地方委指導部会議まで続いた。
★西坂同志とは、塩川同志が京都社(※支局)で随時討論をおこなった。  また、2月以降の情勢の急速な煮詰まりのなかで、迅速な意思統一が不可欠となり、2・14、2・28の関西地方委指導部会議直後にはその日のうちに、上記の文書を関西地方委指導部会議論議のコメントとともに社の大山同志に持っていってもらう体制をとった。
★さらに、芹【吉岡】同志とは、12月中旬以降、拡大地方委指導部会議討議の状況について塩川同志から提起・報告を受けた上で、関係文書を渡し関西地方委指導部会議・拡大地方委指導部会議の討議状況の報告、戦局討論、オルグの相互報告などを行った。
★また、早瀬同志とは塩川同志が随時討論した。

(8)第8回フェニックス〜1月20日。

(@)12月〜年末年始〜1・17関西地方委指導部会議‐1・18拡大地方委指導部会議の過程の攻防の中間的総括をおこなった。
@戦局認識について。
★防御的反撃の形式をもってたたかい、「敵の伸びすぎた爪」を的確にたたくことに基本的に成功した。
★われわれは、05年10・18関西地方委指導部会議での「分派規定」以来の年末年始を含む3ヶ月を「時間稼ぎ」の期間として位置づけてたたかった。与田・遠山にたいする間断のない小さいジャブと隠忍自重の態度の貫徹の一方で、これに対していらだつ与田・遠山らの関西地方委指導部会議内外での不規則な言辞言動を引き出し、情報を集積・分析し、旧関西地方委指導部会議発足以来のベルリン―ホッケー―現在までを〈私党化の過程〉として対象化し、蜂起を準備してきた。
◎そのうえで、06年1・15毛利報告書で「分派規定」と与田の反マルクス主義的組織論・組織思想・同志観・労働者観にたいする全面的批判と「分派規定」の即時無条件撤回要求に踏み込んだ。これにたいして与田は、1・17関西地方委指導部会議で「分派規定を撤回する」と表明した(※この「撤回」は、「新指導路線が思うように進まない焦りと苛立ちから『分派規定』に走ってしまった」なるデタラメな責任逃れと開き直りの言辞に終始し、かつ何よりも「分派規定→その破産→撤回」に至ったみずからの「指導」の思想的・組織論的問題性について一切明らかにしないという徹頭徹尾反動的な代物であった)。
 さらに、今ひとつ与田が「撤回」に追い込まれた重要な要因として、次のことが確認されなければならない。すなわち、おごりと焦り、苛立ちから出してしまった12・7「与田レター」にたいして、椿同志が兵庫県委員会の討議に踏まえて、与田の狙いとその破産を完膚無きまでに暴き出す12・12「椿返信」を即座にたたきつけたことである。「与田レター」は、何の根拠もなく「兵庫県委員会は中央とは明確に異なった路線を論議している」「兵庫県委員会は中央と違う路線を組織横断的にA細胞に持ち込んでいる」と事実上「兵庫県委員会=分派」の断定を行い、兵庫県委員会の労働者同志と椿同志に恫喝を加え、屈服をせまるものであった。兵庫県委員会の労働者同志達のこれにたいする怒りの徹底討議に踏まえ、椿同志はその邪悪な意図を完全に爆砕する「返信」を突きつけたのである。与田はこれに本質的にはグラグラになってしまったのである。そのことは、12月13日の関西地方委指導部会議(※与田が主催した05年最後の関西地方委指導部会議)において与田がそれまでと一変して「分派規定」問題について一切言及できなかったことが示している。与田はここで、「椿返信」のみを議題にとりあげ、一方で「兵庫県委員会は新指導路線からズレているが、討議すれば一致できる。ベルリン決定からズリ落ちていることが問題だ」、他方で「椿は兵庫県委員会を固めている。自信を持っている」と言ったのである。つまり与田は、兵庫県委員会という一定の組織と運動の実体を持ち、与田との対決の決意を固めている労働者の基本組織を敵に回して、さらには京都府委員会、それに呼応してたちあがるであろう大阪府委員会・奈良県委員会という労働者組織を相手に全面戦争をすることになることに心底恐怖したのである。
◎3・14労働者蜂起における大阪府委員会、さらにはA細胞の労働者同志の総決起は、与田・遠山の足下からその支配と抑圧を根底から実力で粉砕・打倒し、みずから階級の党をたたかいとる歴史的な道筋をきりひらいたという点で、比類のない巨大な意義を持つものであった。
 そうした点をしっかりと押さえた上で、3・14蜂起において兵庫県委員会・京都府委員会の労働者同志たちの闘いが占めた極めて重要な位置と意義について強く確認しなければならない。
「…昨年の暮れの段階で与田が私に対し、『兵庫のやっていることは新指導路線にまったく敵対する、屈服しろ』という手紙を送りつけてきた。この手紙に対してどうするのかと県委員会でも討論しました。そして翌年に、関西地方委員会に対して『与田の出した手紙は何だ』ということで、『全面的に撤回しろ』『地方委員会全員が自己批判しろ』という文書(※2・13の「与田同志およびSONATAの諸同志に謝罪と自己批判を要求します」という県委員会声明〉を出して、地方委員会を打倒する闘いに入ることを決定しました。これは、実際に始めるとなった時は、兵庫県委員会は小さな組織ですから、関西地方委員会を相手にはっきり言えば戦争を始めるということで、全体に討論を図ったけれども、兵庫県委員会の同志たちは一人残らず『断固やるべし』ということでこの闘いに決起してきました。そして、兵庫県委員会単独でも地方委員会に乗り込んで徹底糾弾をやるんだと決意してこの闘いに臨んできました。この過程で大阪の同志を組織したり京都の同志を組織する。京都も基本会議でガンガン討議して方針を決めていましたけれども、ただ与田・遠山の分断支配の中で、兵庫のメンバーは大阪でどんなことが起こっているのかほとんど分からないわけです。ですから、自分ら単独でもこの蜂起をやりぬくという決意をもって、兵庫の同志達は全員が立ちあがりました。そうした県委員会の討論の中で、現場の労働者からの意見の方が激しいわけです。『絶対引くな』という意見がガンガン出てきて、それが決定的な今回の闘いの土台になったと確信しています。その意味では、『常任のデマに踊らされた』とか言っていますが、兵庫県委員会はデマ問題とかを伏せている段階で決起していますから、後で聞いて『やっぱりそうだったのか』とさらに怒りを爆発させましたが、その前の段階から、連中のデタラメなやり方、そういう思想的あり方は断固許さないという闘いが始まったいうことです。これは最初に関西の諸同志が発言したように2年も3年も前から闘いが始まっています。…」

(4・16首都圏党員総会、椿同志の発言から)

◎さらに、こうした労働者同志のたたかいに呼応して、一方では塩川同志が「与田レター」の黒田的本質(※みずからの私党的利害を貫くため、私信で「分派規定」の踏み絵を踏ませようとしたもの)の革命的暴露と根底的内容的批判を関西地方委指導部会議及び拡大地方委指導部会議(地区委員長・労対会議)で強力に展開した。
 また他方では、それと一体となって神山・椿・西坂同志が12月〜1月、「与田レター」を徹底批判する論議を巻き起こし、遠山を追いつめつつ、ホッケー議事録公開の要求、関西地方委指導部−拡大地方委指導部合同会議開催の要求などを与田に突きつける闘いを展開した。そして、2・15、3・1には、拡大地方委指導部合同会議(地区委員長・労対会議+諸戦線・支社指導部会議)を実現し、諸戦線・支社常任会議メンバーを一挙にまきこむ論議を組織し、与田・遠山を追いつめるたたかいの新たな発展をかちとっていったのである。

 このように蜂起に至る緒戦において、「分派規定」をめぐって焦りと苛立ちにかられた与田が出してきた「伸びすぎた爪」をたたくことにひとまず成功したということであった。
◎この勝利をしっかり確認すると同時に、しかしこれが闘いのほんの始まりにすぎないものであることも明らかであった。本当の勝負はこれからである、気を緩めることなく目的の完全な達成と勝利へ決意を新たに闘おうということを強く確認したのである。
A「分派規定」撤回の成果と意義について。
 みずからの実際の闘いによって与田をして「分派規定」の破産を事実上認めさせ「撤回」に追い込んだことはやはり大きな政治的成果であった。
★この成果は、与田の「分派規定→破産→撤回」そのものの重大な指導責任、およびその全過程を当該である兵庫県委員会・京都府委員会、さらに拡大地方委指導部会議にも中央(政治局)にも一切明らかにしないという極めて重大な党破壊行為をめぐる謝罪と自己批判要求の土台となった。
 これはその後の「分派問題は終わった。これからはホッケーにたいする毛利の自己批判が一切だ」として「分派規定」問題をめぐる破産をゴマかし、延命しようとする与田との関西地方委指導部会議における激烈な攻防と、兵庫県委員会の労働者たちによる「与田レター」をめぐる2・13「与田同志および関西地方委指導部会議の諸同志に謝罪と自己批判を要求します」、2・20「与田同志及び関西地方委指導部会議の諸同志へ」の突きつけによる関西の全組織を巻き込む闘いとして発展してゆく重要な起点となった。
★われわれは1・17関西地方委指導部会議直後の時点では「撤回」について、戦略的には大きい成果だが、戦術的には「撤回しなかったほうがむしろ闘いやすい」という意見であった。しかし、その後の討議で、12月以来の闘いの発展の全体像のなかに「撤回」をとらえかえしたとき、これはやはり極めて大きな勝利であったことを確認していった。
 まず、中央指導部が兵庫県委員会、京都府委員会という基本組織を分派と規定して党の分裂を組織したという事実をめぐる自己批判要求が闘いの中心に座ったことの大きさは決定的であった。
 さらに、「分派規定→その破産→撤回」問題は、与田の反労働者性とその破産を突きつけつづける、もはや絶対に消し去ることのできない決定的事実として与田の額に刻印されてしまったのである。与田はこれをめぐる攻防の中で決定的に乱調化、凶暴化を深め、ついには3・13陰謀会議(※与田が天田書記長を呼び寄せ、センターで遠山らとともに3・14クーデターの謀議を行った会議)〜3・14関西地方委指導部会議での「アーチェリー決定」なるもののデッチあげにもとづく、天田書記長立ち会いのもとでの毛利・塩川処分策動に、絶望的にのめり込んでいったのである。
★なお、この過程において、フェニックス内部では「分派規定→撤回」を関西地方委指導部会議の密室で処理しようという与田らの策動に対して「関西地方委指導部会議メンバーが与田らに公表を一方的に宣言した上で、拡大地方委指導部会議への暴露に踏み切ることが決定的だ」という意見をめぐって激論が行われた。しかし、この時点では、労働者同志の決起の組織化のための時間の確保に全力をあげ、「一方的暴露」方針による情勢の不均衡な過激化は自重した。

(A)大阪府委員会、A細胞の労働者への工作の本格的開始
    〜名簿を作成し、オルグ分担をおこなった。
 A細胞にたいする指導方針としては、与田がロザリオ問題の「関西地方委員会自己批判」で表明したにもかかわらず、カナリアなど指導部的会議から完全に労働者党員が排除されている現実を批判し、労働者を指導部会議に入れろという要求を組織することを確認した。

(B)路線的批判の深化の闘いとして、与田・遠山の反中央性について具体的事実の確定作業を強化すること、私党化の過程をサザンクロスとロザリオ問題との時系列に沿ったクロス対照でさらに正確に解明すること、新指導路線・労働組合の革命論的解明・4大産別決戦論・改憲決戦と4大産別決戦との関係論・党組織論などの再把握などをテーマとしてフェニックスで毎回討議をつみあげてゆくことを確認し、報告者の分担をおこなった。

(つづく)

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